「ダンナサマ?」
直樹は頓狂な声をあげた。
それはそうだろう。見ず知らずの少女から、「あなたがわたしのだんな様?」などと聞かれたのだ。素直に受け入れられるほうが、どうかしている。
「……え? なにかの遊び? ごっこ?」
「ごっこじゃないもん」
とまどいながら直樹が尋ねると、少女は頬を膨らませた。
「これが証拠」
引っ付いてしまった右手を差し上げて、彼女は主張する。
まるでそれがシンデレラのガラスの靴だと言わんばかりだ。
「なあ、きみはこれについてなにか心当たりがあるのか?」
ふと気づいて、直樹は尋ねてみた。
彼女が異常を受け入れているのは、その原因を理解しているからではないか。そう思われたのだ
直樹の質問にこくりとうなずいて、少女は左手で器用に携帯をとりだした。
「こんなメールが来てたから」
突き出しされた携帯の画面には、ごく短い文章が映し出されていた。
"小指は重なり、比翼となる”
比翼とは空想上の鳥の名である。一翼一眼を持ち、つねに雌雄一体となってたがいに支え合う。連理と併せて、男女の契りが深いことのたとえに使われる言葉だ。
結婚式で、そんな無駄知識を披露していた話好きの叔父を思い出しながら、直後に直樹は凍りついた。
差出人の名が眼に入ったのだ。
「横岳、聡里……」
忘れられない名だった。
五本指の“親指”だった彼女は、直樹が関わることになった“ユビオリ”の事件に先立って死んでいる。
事件のおり、“中指”深堀純は彼女を装って不吉な予言メールを送っていた。
他の五本指を助けるため、“本物”が送ったメッセージも紛れていたのではないか。宝琳院庵はそう言っていた。
このメールは間違いなくその類だった。
「そう。こんなメールが来て、こうなっちゃったのなら、あなたがだんな様だって思うしかないでしょ?」
それで。
彼女が何者か、直樹は理解した。
このメールを受け取ることができる人間のうち、直樹が顔を知らない人間はひとりしかいない。
「きみは"五本指”の小指だな? 交通事故で入院してた」
「やっと気づいた? 鍋島直樹さん」
少女はふわりと笑った。彼女のほうは、すでに気づいていたらしい。
「石井たちから俺のことを聞いてたんだな?」
「うん。写メまであるからすぐにわかったし」
微笑んで、少女はやおら居住まいを正した。
「あらためて自己紹介します。あたしは倉町時江。ご存知のとおり"五本指”の小指です」
急にかしこまって自己紹介する少女に、直樹は妹が彼女を評した言葉を思い出した。
小さいが、しっかりもの。
なるほど、小さい。他の“五本指”と同学年だから、中学一年生のはずである。しかし、想像の中で彼女たちの横に配置してみても、倉町時江はとびぬけて小さい。顔立ちが幼いから、余計にそう思える。長身の深堀純などと比べれば大人と子供だった。
「鍋島直樹だ。妙なことに巻き込んじゃったみたいだけど、まあ、なんとかするから任せてくれ」
直樹の言葉に、時江はなぜか一瞬ためらい。
「はい。だけど、あたしにできることがあったら、させてください」
意を決したように、そう言ってきた。
「よろしくな、倉町」
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「いやいやいや、その挨拶はなんか違うから」
直樹はあわてて手を横に振った。
陽気に似合わず、道行く人の視線は、直樹につめたかった。
「俺に任せてくれ」
とは言ったものの、直樹になんとか出来るあてがあるわけではない。
ただし、なんとかできる人間については、たっぷりとあてがあった。たとえばそれは佐賀野高校三階図書室にいる、いつも無言で本を読んでいる少女だったり、最近ちょっと人外めいてきた幼馴染だったりする。
今回の場合は佐賀野駅前にある喫茶店“RATS”で爆睡している自称おねーさんだった。
むろん直樹とて、行きずりの彼女に助けてもらおうとは思っていなかった。
なぜ彼女を頼るはめになったのかといえば話は単純で、向こうから首を突っ込んできたのだ。
起こっている事態について、まずは倉町時江に理解してもらう必要があった。
とはいえ、足が不自由な彼女と立ち話するわけにもいかない。そこでふたりは喫茶店“RATS”に入った。
距離が近かったのと、行きつけの気安さから選んだだけで、他意はない。だから窓側席で寝息をたてていた彼女を避け、奥の席を選んだのだが。
「ちょいと、素通りなんてつれないじゃない」
いつの間に目を覚ましたのか、腕枕の隙間から顔を覗かせ、声をかけてきたのだ。
「おねーさんの予想は当たったろう?」
言って相席を進めてきた彼女に、とりあえず相談してみようという気になった直樹だが、意外にも時江がかなり渋った。
「女の人だし、初対面だし、そもそも人の手を借りるのって好きじゃないもん」
時江はそう主張した。
むろん、直樹とて彼女が理想の相談相手だとは思っていない。
信頼関係を築くには、彼女との付き合いはあまりにも浅い。
それでも、いま、ここにいて、必要な知識を持っている。それが、どれほど貴重なことか。
もちろん宝琳院庵とすぐに連絡がつけばそれに越したことはないのだが、あのローテク悪魔は携帯なる文明の利器を所有していない。
龍造寺円は力こそあるものの、知識に関して不安が残る。彼女を頼ることは、最良でなくとも最善の選択だ。
そう信じて、直樹は時江を説得した。
これは異常の法理による出来事であり、解決にはそれに精通した彼女の知識が不可欠だと説明して、なんとか時江を席につかせた。
「倉町時江。あなたは?」
「え?」
ふて腐れながら自己紹介した時江に、なぜか女のほうが言葉に詰まった。
「……ネコ丸ニャン太郎?」
「誰だよそれ」
しばし首をひねった彼女が出した名前に、直樹は瞬息で突っ込んだ。
偽名以外のなにものでもなかった。
「つかなんでそんな意味不明な偽名を名乗るんだよ」
「ネコ丸ニャン太郎さん」
目を眇める直樹に、ネコ丸ニャン太郎(自称)は、拗ねたように指を弄りだした。
「だって、本名を名乗ったら直樹はおねーさんのことをおねーさんと呼んでくれなくなるだろう?」
「もとから呼んでないけどな」
「ネコ丸ニャン太郎さん」
「わたしはきみにおねーさんと呼ばれたいので、名前は名乗りません」
なぜか胸を張って、彼女はそんなことを宣言した。
「なんでだよ」
直樹は頭を抑えた。
意味不明である。
「ネコ丸ニャン太郎さん」
「そこの小娘? いい加減にしないとおねーさん的打っ潰死(リストに、最優先のチェック入れて載せちゃうぞ?」
そしてこんどは時江に向かって、猫なで声で脅し始めた。
むろん、彼女の恥ずかしい偽名を連呼していた時江も悪いのだが、自分で名乗っておいて理不尽極まりない。
ともあれ、そんなことで時間を空費していても仕方がない。
話を引き戻し、直樹は一連の経緯を、なるべく主観をまじえずに説明した。そのほうがより判断しやすいと思ったからだ。
このあたり、さすがに直樹も慣れてきている。はたで聞く時江も、無言で直樹の言葉を咀嚼していた。
「なるほど。わかりやすい説明ありがとう。ときに直樹」
「なんだよ」
「こんな状況になったのに、意外と落ち着いてるんだね。それに手馴れてる。他にもなにか厄介ごとに関わってきたみたいに」
彼女は興味深げだったが、直樹はそれについてはぐらかした。
予言メールに関わる“ユビオリ”の事件は倉町時江にとって、いまだ癒えていない傷だろうし、ことの起こり、“ユビサシ”の悪夢は、直樹にとって忘れられない傷なのだ。
それに、必然的に風変わりな悪魔、宝琳院庵のことを話さずにはいられなくなる。さすがにそれは拙い気がした。
「まあ、すこし気になるけど、いまは置いておくとしようか。まずは直樹たちがいま置かれた状況を、おねーさんが説明してあげよう」
ちょうど、彼女が注文したホットミルクが運ばれてきた。
「まあ、相談料はこれで」
一方的に宣言すると、彼女はグラスを傾け、なかのミルクをぺろりと舐めた。妙に艶めかしい仕草だ。
「きみたちがくっついた原因、これはたぶん直樹も察しているんじゃないかな?」
「おそらく、としか言えないけどな」
直樹は肯定した。解決策となればさっぱりだが、理由について、直樹はある程度推測がついている。
直樹の欠けた小指。倉町時江、五本指の“小指”。このあたりの共通性が鍵に違いない。
直樹の内心を読んだかのように、女は微笑んだ。
「うん、たぶんきみの想像で合ってるよ。欠落の符合。それが起こった現象の大本さ。
きみは小指が欠けている。そっちの幼女は小指の概念を持っている。簡単に言えば、失われた小指を彼女で補完してしまった、と、そういうことさね」
やはり。
直樹はうなずいた。彼女の説明は、直樹の想像からそうは外れていない。
幼女あつかいされた時江はさすがにむっとしていたが、いまは話の腰を折るわけにもいかない。我慢してもらうしかなかった。
「そしてこれから説明するのが、直樹たちにこれから起こりうるであろう問題だ」
そう言って、彼女はゆっくりと語りだした。
鍋島直樹。倉町時江。言うまでもなく、もともとは別個の存在である。
しかし、相互に欠落を埋めたことによって、それに変化が生まれた。精神的にも肉体的にも個別の存在でありながら、概念的にはひとりの人間。そんな奇形が生じてしまったのだ。
歪みは、じきに精神へ影響を及ぼすだろう。
どうなるのか。
まず、記憶を共有するようになる。
ふたりが共に知っている事柄を接点として、だんだんとそれは広がり、ついにはすべての記憶が入り混じってしまう。
つぎに意識の融合が始まる。
共有する知識、それが誰のものなのか、わからなくなる。それは意識に及び、頭の中で考えている事すら共有するようになってしまう。
最後に、自我の融合。
記憶、意識、経験、個性、すべてが混濁して、鍋島直樹、倉町時江というふたつの人格は消失し、それとはべつに一個の人格が出来上がる。
誰でもない誰かに、なってしまう。
むろん、直樹の指がいずれ回復するように、実質的にはふたりである以上、まったく単一の人格にはなり得ない。
鍋島直樹であった個体と倉町時江であった個体には、おのずから差異が生じる。
だが、それはもとの人格にはなり得ない。
鍋島直樹という、あるいは倉町時江という人格は、永遠に失われてしまうのだ。
とうとうと語る彼女の目は、しだいに獲物をいたぶる猫のような、らんらんたる輝きを帯びてくる。
――こいつ絶対Sだ。
直樹は首筋につめたいものを感じた。時江などはおびえたのか、直樹の指をぎゅっと握っている。
「鍋島さん、この人信じていい人なんですか? なんだかものすごく邪悪な匂いがするんですけど……」
「落ち着け倉町。気持ちは非常によくわかるが当人の前で危険な発言はよせ」
あわてて直樹が言い聞かせるが、言われた本人は平気な顔をしている。
「はっはっは、おねーさんは気前がいいから許しちゃうけどね。だからもっとおびえた顔できゃんきゃん泣いてみろコラ」
「ひっ!?」
嗜虐心丸出しの笑顔に、時江が悲鳴を上げる。
「しっかり怒ってるじゃねえか」
「あ、ウェイトレスのおねいさん。レアチーズケーキとホットミルク追加で」
「しかもしわ寄せが俺に来るのかよ!?」
「ふふふ。どさくさにまぎれて毒吐いてたのに気づかなかったとでも? おねーさんの傷ついた心には栄養が必要なのさ」
しれっと言われ、直樹は達観した気持ちでレシートを受け取った。情報代としては高くないと言い聞かせてみても、レシートに書かれた値段は変わらない。
それにしても、みごとに話の腰が折れた。
「で」
「でってなにさ?」
「俺たちが置かれた状況は理解した。このまま放って置いたらヤバイってのもな。なにか解決策があれば、教えてくれないか」
直樹は真顔を作りなおして尋ねた。
女の顔に苦笑が浮かぶ。口元にミルクとケーキのカスがついている。
「そう言われてもねえ。おねーさんだって万能じゃないんだ。この場合、できるのは助言くらいのものさね」
えへん、と空咳して彼女は居住まいを正した。
「直樹はおのれに欠けたものを、もととは違った形で補ったわけだ。ふたりは相互に補完し合うかたちながら、れっきとした別の人間で、だからその補完の形はいびつだ。
だったら、まったく欠けた形そのままのものが見つかれば、ふたりが一緒にいる必要はなくなるんじゃあ、ないかな?」
その言葉を充分に反芻し、直樹はふと顔をあげた。答えがおぼろげながら見えた気がする。
「つまり、なくした小指を見つければ」
「そうさね。欠落を埋めたことによって、直樹の中で、失われた欠辺は浮いた存在になってしまっている。
となると、わかるものには、案外わかっちゃうんじゃないかな? 特に、どこでなくしたか知っているものには、ね」
直樹は彼女が言わんとしていることに気づいた。
いま、このときならば、龍造寺円――悪魔の力を持つ少女は、直樹がなくした欠辺を見つけることができると。
「ありがとう」
感謝を一言に込め、頭を下げた。時江もあわてて従う。
女の顔に微笑が浮かんだ。
「おねーさんができるのはこれだけだよ。じゃあおやすみ、混ざらないように気をつけて。相手が思ったことが分かりだしたら、もう危ないからね」
忠告を終えると、彼女はひとつ、伸びをしてテーブルに伏した。
「あなた、いったい何者なの?」
最後に、時江が尋ねた。情報を消化することに専念していた彼女が、女に対して唯一発した疑問だ。
「ただの気まぐれさね」
女の答えはごく短いものだった。
そこから言葉が続くのかとおもえば、いくらもたたず、静かな寝息が聞こえてきた。
「まだ寝るのかよ」
直樹はため息をついた。
感謝は、いくらしても足りないほどである。
しかし、それ以上に、彼女に対していろいろなものをあきらめながら、直樹はレシートを手に席を立った。
レジで、自分の勘定分はきっちり払うと主張した時江に対し、直樹は頭を撫でてやりたくなった。