幽気さえ伴って、彼女は現れた。
光すら拒絶するような漆黒の髪。眩いまでにしろい肌。
すべてをあざ哂うかのような笑みを面に浮かべて、少女は立花雪の病室に入ってきた。
「やあ、立花くん。直接に会うのははじめてではあるのだが、同じ学び舎に学んだ者として、ここは久しぶりだね、とでも言っておこうか」
話しかけてくる彼女には敵意など微塵もなく。だからこそ、雪は警戒した。
「……他人とは話さないと聞きましたよ。宝琳院先輩」
宝琳院庵の様子を伺うように、雪は鷹の目を鋭く向ける。
一見してただの人にみえる。
だが、その瞳の奥に潜むかすかな違和。その底にあるものは、周囲を支配する魔の香りと、おそらく同質のもの。
「それは誤解だよ。ボクはただ、必要な場合しか話さないだけだ。必要があるのなら、言葉を惜しむつもりはないよ」
そう、話しかけて、無造作に。宝琳院庵はベッドに腰を下ろしてきた。
雪の腕が、彼女の腰に触れる。
雪は動けない。腰から下が、ギブスで固められているのだ。校舎から落ちたときの負傷は、彼女から身動きする術を奪っていた。
「なにを――」
――しにきたんだ。
と。そう言いかけて。
雪の歯が、がちりと音を立てた。
歯の根があっていない。
はじめて。雪はおのれが畏れを抱いているのだと、気づいた。
「ふむ。なにをおびえているんだい?」
宝琳院庵が、弄うような調子で問いかけてくる。
ぎり、と。
歯を思い切り、食いしばる。惰弱な己に対する怒りが、恐怖をねじ伏せた。
「それだけ凶悪な匂いをふりまいて、なにを言ってるんだ。化け物」
枕に頭を預けたまま、雪は言い放つ。
鷹の目に、つよい光が宿っていた。
「ふむ? わかるのかい?」
化け物、と、そう呼ばれて怒ることもなく。
宝琳院庵は平然としたものだ。
「察しの通り、わたしは尋常な存在ではない。キミの頭の中にあるくくりで言えば、まあ化け物で正しいのだろうね」
にやりと笑う宝琳院庵。
雪の背を、ひやりとしたものが這った。
「だが、それがわかるキミも尋常ではあるまい。人の腹から生まれ、人という鋳型からひとつもはみ出していないこのボクを、そう断じるのだから」
その言葉に、雪は目を丸くした。
「……マジか?」
「大マジだよ。こんなところで嘘をつく意味など、ボクにはとても思いつかないね」
嘘をついているようには見えない。雪はまじまじと、宝琳院庵を眺める。
「なら、怪異を起こしたり、瘴気で人を狂わせたりは……」
「それができたら人間じゃないだろう?」
雪はため息をついた。
「馬鹿だろ、あんた」
「ボクの趣味の問題だ。ほうっておいてもらおうか」
さすがに宝琳院庵も、むっとした様子で口を引き結んだ。
「しかし、それだけ鼻が効いて、“寝子の呪い”を解決できなかったは、なぜなんだい? キミならばもっと早く解決できたはずだよ」
その問いに対し、雪は口をへの字に曲げた。
「あいにくと買いかぶりだ。たしかにわたしは魔の気配に敏感だけど、その感覚は嗅覚に近い。発生源を特定できるほど精密じゃないんだよ。学校とここ、二ヶ所で同じ匂いがしなかったら、とても気づけなかったろうよ」
「なるほどね」
雪の説明に宝琳院庵がうなずく。
「そのあたりが、キミが小城元子に後れを取った要因かな?」
なに気なしに、本題に導かれ。
ふう、と、雪はため息をついた。
「匂いの発生源を特定できなかったから負けた、なんて言いわけなんかする気はない。わたしはあいつの背後にいた化生に、手も足も出なかった」
思い返すにはまだ、痛みが生々しすぎる出来事だ。
小城元子の背後に、確かに居た存在。それが触れた瞬間、雪の自我は霧散した。
つぎに気づいたのは、病院のベッドの上。
雪はなにもできないまま、負けたのだ。
「あの、化け物」
「――神だよ」
いきなりそう言われて、雪は理解できなかった。
「んあ?」
「神というものを、信仰により生じた“現象”の集合体だとするなら、小城元子の背後にいたものはまさにそれだと言ったんだ」
淡々とした宝琳院庵の説明に、雪は眉をひそめる。
「あれが神だと?」
「そのとおり。“ヒゼンさま”という名の、小城元子が信仰する――カミサマだよ」
そう言って、彼女は雪を見下ろしてくる。
化け物を退治る古い家で育った雪にとって、あまりにも噛み砕きすぎたその言いようは不遜に聞こえた。
むろん、噛み砕いただけで、ことわり自体は雪の知識にも適う。
「たしかに。あんたの理屈で言えば、あれは神なんだろう。だけどたった一人の信仰が生み出す神に、あれほどの力があるはずが、ない」
雪は断言した。
“ヒゼンさま”が宝琳院庵の言うような存在であるなら、雪が後れを取るはずがなかった。
雪の言葉に、宝琳院庵もうなずく。
「むろん。キミを負かすほど力を持つに至ったのには、理由がある」
そう言って、宝琳院庵は指を一本、突き出してきた。
「寝子の飛び降り。あれを覚えているだろう?」
その問いに、雪は首を上下させた。
学校中の生徒が見ている前で起こったあの惨劇は、まだ、記憶に新しい。
「小城元子の信仰を深めたのは、間違いなくあの一件だが、それはなにも彼女一人に限ったことではない。学校と言う小さなコミュニティーであんな事件が起こればみな不安になる。畏れる。なにをか?」
宝琳院庵の口が、三日月をかたどる。
「……彼女を飛び降りさせた、目に見えぬ、理解できぬなにか――ではないかな?」
「つまり、あの事故に対する恐れに、小城元子が“ヒゼンさま”というカタチを与えたってこと、なのか?」
そのとおり、と肯定の言葉が返ってきた。
「さらに漠然とした恐怖は“寝子の呪い”として、より具体的な恐怖の対象となり、“ヒゼンさま”は格段に力をつけた。キミが太刀打ちできないほどに」
「……なるほどな」
仏頂面のまま、しばらく唸って。
雪は深いため息をついた。
「で、なんの魂胆があってそれを教えるんだ? またあいつと噛み合わせるつもりか?」
「ふむ? そういえば言っていなかったかな」
にやりと。宝琳院庵が哂う。
「この件に関しては、すでに白音が解決した」
皮肉な笑みは、どこか誇らしそうだった。
「……白音。あの娘が?」
「その通り」
「どうみても一般人の、あの娘が? どうやって」
呆然と、雪は尋ねる。
立花雪は若年とはいえ専門家である。その彼女が手も足も出なかった相手だ。宝琳院白音が勝てる道理はなかった。
「信じていないから……だろうね」
そう答えた宝琳院庵の表情からは、毒が抜けていた。
「あの娘は神も悪魔も信じていない。怪力乱神を語らずと言うかね、徹底した論理思考の持ち主だ。一連の事件。その因果を徹頭撤尾、理で解き明かしてみせただろうよ。
信仰の大本である小城元子の狂信がわずかでもほつれれば、それによって編まれた神も影響力を失う――まあ、白音のことだからそんなに生易しい真似はすまい。完膚なきまでに元子の信仰を分解したのではないかな?」
雪はしばし、絶句し。
「化け物か。あんたの妹は」
かろうじて、それだけもらす。
「化け物じゃない。とことんまで人間なのさ。あいつは」
そう言って、妖しは哂う。
「だからこそ(、神も悪魔も敵うわけがないんだ(」
神がかり 了