「なぁ、宝琳院」
屋台群を隠すように出現した闇を眺めながら、直樹は声をかける。
「なんだね、直樹くん」
「偶然なのか?」
直樹は端的に尋ねた。
この夢の核たる部分を占めていた四人。中野一馬、鹿島茂、神代良、千葉連。彼らは全て、前夜の悪夢のような出来事に関わっていた人物である。
果たして、これは偶然なのか。
「何のことか、想像はつくよ。疑惑はあるが、それはそれで筋を通して推し量れそうだが――いかんせん証拠がない。決め付けるのは危険だろうね」
「そりゃあ、そうだけどな」
直樹は頷いてみせる。だが、やはり昨日の今日でこの共通点というのは気になる。
「でも――」
言いさして。
いきなり地が揺れた。とっさのことで、地に膝をつく。
一瞬のことだったが、確実に揺れた。
だが。直樹は呆けたように辺りをみることになる。
回りの人間は、いまの地震にも平然としていた。まるで何事もなかったかのように。
そんななか、ひとりで青ざめていては、己の正気を疑いたくもなる。
「地震ではないよ」
平然としたようすで、宝琳院庵は見下ろしてくる。
「夢が、不安定になっているようだ。まあ、構内のそこらじゅうこんなものがあるんだ。現実感も何も、あったものじゃないだろう。鋭い者は、これが夢だと気づくかも知れないね」
宝琳院庵の言葉どおり、構内の数箇所で、波紋がみえた。
だが、それでも夢は醒めない。
不意に、じくりと指が痛んだ。
何気なく小指を見て、直樹は言葉を失った。小指の付け根の傷が、深くなっていた。骨すらみえるほどに。
「どうかしたのかい?」
息をのむ直樹に、宝琳院庵が心配げに顔を覗かせてくる。
「いや、指が、なんか切れてる」
そう言って宝琳院庵に見せると、彼女は目を見開いた。
「これは……直樹くん。何でこんなになるまで放って置いたんだい!?」
珍しく彼女の語調が荒い。
あまりの剣幕に、直樹は不安を覚えた。
「何か、マズいのか?」
「ああ、拙いね。決定的に拙い。指が切れる、しかも小指だ。これはまさに指きりだよ」
「いや、つまんないぞ」
指が切れてユビキリ、とは、とんだブラックユーモアである。しかも当事者としては、まったく笑えない。
「シャレじゃない。指きりの語源は、遊女が客に愛情の不変を誓う証として、小指を切断していたことに由来するんだ。そこから約束を必ず守るといった意味になったのだがね」
「でも、ここは夢の中だぞ?」
「だからやばいんだよ(。精神だけの世界で、概念というものがどれほど力を持つか。わかってないようだから言ってやるが、その指が切断されれば、直樹くんは、悪魔の下僕になってしまう。そう言う類(の呪いなんだ」
「な!?」
直樹は絶句した。珍しく深刻な宝琳院庵の形相をみれば、戯言などでないことは明白だ。
「自由に動かせておいて、こんな仕掛けをしておいて、本命はこれか? そういうことなのか(」
拳を地へ投げ、宝琳院庵は直樹に目を向けてくる。
「――急ごう。時間は、それほど残されていない」
宝琳院庵がきびすを返す。
その面に明らかな焦りをみて。直樹はあらためて、背筋が冷たくなるのを感じた。
「急ぐって、どこへ!?」
「多久美咲だ。そういうこと(ならば、彼女が最後のパーツだ」
「お、おい。どういう――」
聞こうとして、宝琳院庵の指が、直樹の目の前に据えられる。
「重ねて言うぞ。急ぐんだ。ボクは君が悪魔の手先になるさまなど見たくはないんだ」
激し過ぎている。と、直樹は感じた。表面こそ取り繕っていはいる。だが、これは彼女の、宝琳院庵の歩みようでは、決してない。
けれど、止まれとはいえない。鍋島直樹のためを思って、彼女は焦っている。憤っている。
そんな彼女に、どんな言葉をかければよいというのか。喉もとまでのぼらせかけた言葉も、形をつくる力を持たなかった。
宝琳院庵の言う、最後のパーツを思う。
「多久美咲」
その名の主は、かつて、悪魔だった。
悪魔に、取って代わられていた。なりすまされていた。騙られていた。彼女の命は、悪魔に奪われていた。
ならば。中野一馬、鹿島茂、神代良、千葉連に続く名として、その最後の名として、彼女はふさわしい。
だが、宝琳院庵の焦りは、そんな理解からくるものか。より深いものがあるように、直樹には思えた。
ともあれ、それを聞く暇はない。
直樹は宝琳院庵に従い、走る。
「宝琳院! 場所は!? 多久がどこにいるか、知っているのか!?」
「知らないよ」
「自信たっぷりに言うなよ! じゃあどこへ走ってんだよ!?」
「侮らないで、欲しいな。 ボクが、何の、考えもなしに、走ってると、思うのかい?」
「息切れてるぞ!」
「放送室、だよ。場所が、わからないなら、呼べばいぃ――」
「――っと!」
足をもつれさせた宝琳院庵の腰を、直樹はとっさに抱えた。
そのまま、走る。
「放送室だな!?」
えらく人目を引いたが、やむをえない。直樹はそのまま校舎一階の放送室に駆け込んだ。
「二年生の多久美咲さん。至急、放送室までお越しください。繰り返します二年生の多久美咲さん。至急、放送室までお越しください」
係の生徒に放送を流してもらい。
放送室の前で待っていると、しばらくして多久美咲が現れた。
「あれー? 鍋島くんに、宝琳院さん。どうしたのー?」
「多久くん。これは夢なんだ。君は夢をみているんだよ」
「ふーん。そっかー。夢なんだー」
美咲の言葉に、慌てて避難しかけたが、何も起こらない。
美咲はボーっと立っているだけである。
「多久くん? これは夢なんだよ? わかっているのかい?」
「夢なんだー」
「……」
言ってるだけで、ぜんぜん自覚していなかった。
「ちょっと来たまえ。そう、玄関から外がみえるだろう? あそこにあるものはなんだい? 夢でなければありえないじゃないか」
「そうだねぇ」
なんだかのほほんとした雰囲気に、直樹まで和んでしまいそうだった。
「だから」
「ああ」
さらに口を継ぐ宝琳院庵に、不意打ちのように、美咲が手を打った。
「これは夢なんだね」
その瞬間。
津波のような波紋が、全てをなぎ払った。
世界を映した鏡が、割れて崩れ落ちるようすを、直樹はみた。
その奥に潜む闇に、全てが落ちていくさまを、直樹はみた。
そして。
気がつくと、あたりは闇だった。
何もない。
無。
夢の残滓すらない、完全な無の中を、直樹は立ち尽くしていた。
近くにいたはずの、宝琳院庵もいない。
じくりと、小指が痛んだ。すでに小指は、骨まで傷つけられている。
ふむ。と、宝琳院庵は鼻を鳴らした。
あたりは完全な闇である。
自分以外を知覚できない、そんな状態にあってなお、心乱されたようすはない。夢が破れたおかげか猫耳も外れ、完全に元の宝琳院庵に戻っている。
「直樹くんとはぐれた――いや」
宝琳院庵は辺りに目を配る。
足場すらない。上下すら定かではない。だがそれも、宝琳院庵にはさして問題でもないようだ。
「そのように強いられたのかな? ふむ。ここならば、はっきりとわかる。まさか君だったとはね。予想していたなかで、最悪のケースだよ――目的はなんなんだい?」
その瞳が、虚空の一点を貫く。
「龍造寺円くん(」
宝琳院庵は、その名を呼んだ。応えるように、虚空から人の姿があらわれた。
龍造寺円である。
女性にしては長身の彼女は、宝琳院庵と比べて頭ひとつ近く高い。そこから降ってきたのは、ただの一言。
「あなたを殺す」
殺気も殺意もない、ただ事実を述べるような口調だった。
「そのために、そのためだけにその力(を? 正気の沙汰とは思えないね、多久くんの有様を見たろうに」
宝琳院庵はため息をついた。
彼女は瞬時に理解していた。龍造寺円がやったことは、かつて多久美咲がしでかした事と同じである。
悪魔を、呼び出したのだ。おそらく、件の本を用いて。
だが事実は、宝琳院庵の予想をはるかに超えていた。
「無色の力。多久が誤って召喚したものを、あなたはそう評した。なら、やりようによっては、力だけ手に入れる――悪魔の力を我が物とすることも、できるはずだ。そう考えた」
冷厳たる円の声に、宝琳院庵は何も応じない。
自覚していないのかもしれないが、龍造寺円はすでに人の領域から外れている。半ば、宝琳院庵の領域にいた。
「この場を用意したのは、人間としてのあなたではなく、悪魔、宝琳院庵を殺すため」
彼女の目論見は、完全に正しかった。
夢の跡地。そこに残るのは、虚無。宝琳院の、悪魔の、本来棲むべき世界。概念の領域。
概念としての宝琳院庵が消滅すれば、人だろうが悪魔だろうが関係ない。彼女には消滅するしか、術は残されていない。
「みなに夢をみせた、あの状況は、全て偽装(か」
「ああ」
「本当に欲しかったのは、この場所、この状況か」
「ああ」
「直樹くんにかけられた呪いすら――誤導(か」
その言葉にのみ、円の顔がわずかに動いた。だが、応えは返ってこない。
「完璧だ。加えることはなにひとつない。削るところはなにひとつない。よくぞ思索し、考察し、思考し、計算し想像し想定し――実践した。その理と知と勇に、敬意を表する」
――だが。と、宝琳院庵は、口を小さく動かす。
「なぜ、と、聞いてもいいかね。これでも君とは仲良くやれているつもりだったのだが」
宝琳院庵は尋ねた。
だが、応えはない。その能力がないかのように、円の面には何も映っていない。
「――意思は問わない。その能力がある。それ自体、脅威だ。それに、あなたがいるから直樹は危険な目に合う」
わずかに開かれた口から漏れた言葉は、それだった。その最後の言葉にのみ、明確な敵意があった。
宝琳院庵は苦笑に近い表情を浮かべた。
彼女自身、常に止める側である。だが、止められたためしがない以上、弁解の言葉はない。
だから、宝琳院庵は前半分にのみ、応じた。
「人のカタチを取っている以上、人のワクを超えた力は使えない、と、言ったと思うがね」
だが、その言葉も、何も生まなかった。
完全に人の姿を映すが故、宝琳院庵は人の持たざる力を使えない。逆を言えば、人ならざる力を使える以上、龍造寺円はすでに人から外れていた。
無言のまま視線を受けながら、なおも宝琳院庵はニヤニヤ哂いを浮かべる。
ここにあっても、彼女はいまだ宝琳院庵だった。
「ここまでやった君に関して、それはを言うのは、失礼と言うものだろうね――だけど」
宝琳院庵の口が、逆月を象る。
「君がなぜ、ボクを消そうとするのか、本当のところは君でも気づいていないんじゃないかい?」
「なに?」
「君は理知的な人物だ。心の底から、ボクが危険だなんて――考えていないんじゃないかな」
と、宝琳院庵は言った。
龍造寺円は、彼女が認めるほど、血の巡りがいい人間である。観察力分析力理解力は群を抜いている。
宝琳院庵を放置しておく危険性と、一部とはいえ悪魔を召喚するリスクと、どちらが大きいか、そんな計算ができない人間では、ありえない。
「君がボクを殺そうとするのは――邪魔だからじゃないかい?」
「なに?」
再び、同じ言葉が返ってきた。その声に、不審の色がある。
宝琳院庵は指差した。龍造寺円に白い指先がのびる。
「ボクが直樹くんといるとき、君はどう感じていたのかな? 焦れたかい? それともボクに怒りを感じたかな? いろいろと理由付けしているが、君のそれは――嫉妬ではないかい?」
断ずるように、宝琳院庵は指を振り下ろした。
円の目が見開かれる。しばし、沈黙。やがて――唇が、笑みの形に歪められた。
「なるほど……この感情は嫉妬なのか」
円の肩が、震える。
「だとしたら存外――心地よい」
言葉をかみ締め、自らを抱く姿は――歪んだ喜びに満ちていた。
「そうだ。私はオマエが気に食わなかった。直樹を独占するオマエが、直樹を動かせるオマエが、直樹の好意を当然のように受けるオマエが!」
自覚したことで、感情が堰を切って溢れたのだろう。怒涛のような、円の独白だった。
澄んだ理性の光は、もはやその目から失せ、代わりに狂の色が爛々たる光を放っていた。
「私の前から消えうせろ!」
悪魔の力を持つ円に、人間のワクに収まった宝琳院庵が対抗できるはずはない。
強大な力の波が、宝琳院庵に襲い掛かる。
諦めるように、彼女は目を閉じた。
宝琳院庵は、満足していた。人が、人の知を振り絞って、人たることをかなぐり捨てて、全身全霊で悪魔(を殺そうとしている。
そして、それが宝琳院庵の全てを凌駕したのだ。望むべくもない“死”だった。
心残りといえば、鍋島直樹のことだが、悪魔が龍造寺円であったなら、口惜しいが許せなくはなかった。
満ち足りた気持ちで、宝琳院庵は最後の時を待った。
――だが、終焉は、いつまで経ってもこなかった。
不審に思い、宝琳院庵は目をあける。
そこに。目の前に。鍋島直樹が、彼女を守るように立ちはだかっていた。
状況はわからなかった。
闇の中に、一人、取り残されていた。
ただ、聞こえた。虚空に響く、宝琳院庵と――円の声が。
だから。直樹は走った。
地もない空間を、必死に駆けた。直樹は本能的に理解していた。この空間がどのようなものかを。
ただ概念が、全てを支配する。強い意志が、全てを凌駕する。ならば、そう望めば。彼女がどこにいようと、直樹はそこにたどり着けるのは、自明だった。
「何やってるんだ、円」
宝琳院庵を背にかばい、直樹は龍造寺円をにらみつける。氷のような円の瞳が、わずかに揺れた。。
「直樹、じゃまをするな」
円の言葉に、直樹は口を引き結ぶ。
宝琳院庵(を殺す。円はそう言った。
鍋島直樹が、それを承知できるはずがない。
二人は対峙する。絶対に譲れぬものをかけて。奇しくもそれは学園祭前夜の巻きなおしだった。
「直樹くん……その、指は」
宝琳院庵が、沈黙を破った。その声には多分の驚きを含まれていた。
当然だろう。直樹の左手小指は、すでに持ち主の手から離れていたのだ。
それは、呪いが成就した証。
だったら、直樹は、悪魔の――その力を手に入れた円に服従していなくてはならないはずだ。
だが、直樹は平然と立っていた。何に抗うわけでもなく、ただ相対していた。
「ああ、これか」
直樹はこともなげに答える。
「切れそうだったんで、噛み切った(」
直樹の言葉に、円と宝琳院庵、双方が絶句した。
理屈は単純である。呪いで切れれば終わり――であれば。それより前に、切ってしまえばいいのだ。自分の意思で、自分の力で。
理屈ではそうだ。
だといって、自分の指を切れるものだろうか。
だが、直樹はやった。
ただ、時間を得るために。宝琳院庵を助けるためだけに、直樹は己の指を食いちぎったのだ。
「なぜだ。直樹」
円が、問う。
「なぜ、そこまでする? そんなやつのために、なぜ」
「友達(だからだ」
直樹は、円に目を据える。
「それ以外に、理由がいるか?」
「なら――私はなんだ?」
問いかける円の顔色は、焦燥と困惑がない交ぜになっている。
「私は、直樹にとって、なんなんだ」
「幼馴染だよ」
直樹は、ポケットから取り出した手を、拳の形に握り固める。
「幼馴染で、友達(だ。そんで、悪いことしたお前は、いまから俺にぶん殴られるわけだ。オーケー?」
拳を突き出す直樹に、円の瞳が怒りに燃える。
「ふざけるな!」
怒声が、物理的な威力を持って放射された。
矢面に立たされた直樹は、たたらをふむ。
「直樹には私がいればいいんだ! 私には直樹がいればいいんだ! 私と直樹だけでいい。他は何もいらないんだ――直樹」
感情というものが存在しなかったころの円を、直樹は知らない。生きている実感のなかったころの円を、直樹は知らない。独りだったころの円を――直樹は知らない。
それでも、察するに余りある、言葉だった。
それでも、決して頷いてはいけない、言葉だった。。
「いやだね」
直樹は、視線を円から離さない。
「俺はそんなんじゃ足りない。そんなんじゃあ寂しくて仕方ない。俺はみんなが欲しいんだ。宝琳院も、お前も、一馬も茂も良くんも諫早も、クラスのみんなも母さんや父さんや澄香や忠や、レオン兄さんも。白音や石井や姉川や深堀や、今まで出合った、今まで世話になったみんなが――欲しいんだ」
直樹は、歩を進める。圧されるように円が退る。
「わからない」
円が言う。惑うように。
「わからないわからないわからないわからないわからない――そんなこと、聞けるものか。そんなこと容れられるものか!」
感情の爆発とともに、異様な気配が飛んできた。
悪魔の力。直撃を受ければ、たとえ加減されたとしても、直樹に成す術はない。
はずだった。
何も起こらない。
直樹が突き出した拳の前で、異様な気配は霧消した。
「なぜ、力が効かない」
円の声には焦りの色が色濃く落ちていた。
「ガキだな、円。そんな力なんかに頼らなくったって、人間その気になればなんだってできるんだよ!」
胸を張って、直樹は立つ。
「いつか、言ったよな。もう二度と、ひとりで無茶すんなって。約束を破って、しかもそれが、悪さするためだ。これは――お仕置きが必要だろ」
宣言するように。直樹は、拳を円に向けた。
「グーだ。女相手でも手加減しないぞ」
宣言通り。直樹は円に向かって飛ぶ。
迎え撃つ円の力、そのことごとくを弾いて。
円の顔に焦りが浮かび。
直樹の拳が円の頬を貫いた。
拳を受け、宙に舞うなかで、円は、天を仰ぐ。
円にとって、直樹はかけがえのない存在だった。彼がいなければ、円は感情というものを持てない。直樹を通してしか、円は感情を抱き得ない。
直樹は彼女を人間にしてくれる無二の存在だった。
だが、気づいてしまった。
洗いざらいぶちまけて。毒を吐き出して。それが、その感情が己のものであると。
そして、直樹に対する感情の揺れの正体も――気づいてしまった。
それで。円の心の奥底にある、直樹に対する切迫した感情が溶けた。
円は、いまやっと直樹のくびきから解き放たれる。正真正銘、一個の人間になるのだ。
「直樹」
「なんだ?」
つぶやくように口に出した言葉に、返事が返ってきた。円は、迷わす一番聞きたかった事を尋ねた。
「私は、馬鹿な事をしたか?」
「ああ。大馬鹿だ」
くつくつと、円は哂う。
いま、こみ上げてくる感情が、己のものだと思えば、余計に可笑しかった。
狂おしい歓喜とともに――龍造寺円は、いま、生まれた。
目を覚ますと、元の離れだった。
直樹は半身を起こした。
直樹の背にかぶさっていた宝琳院庵が畳に落ち、うめき声か聞こえた。
辺りを見回す。
広間には、クラスのみんながそこらじゅうで寝転んでいた。眠りはだいぶ浅いようで、何人かは、すぐにも目を覚ましそうだ。
顔を地面にぶつけた宝琳院庵が、恨みがましい瞳を向けてきた。
「おはよう」
「……ああ、お早う」
恨み言が口から発せられる前に、言葉をねじ込んでやると、宝琳院庵も不承不承と言った風に、挨拶を返してきた。
互いに身を起こす。
肩を並べて座る形になった。逆側で身を横たえている円の目は、まだ閉じられている。
「直樹くん、今回は助かったよ。だがまさか正面突破とはね」
宝琳院庵の、ひそやかなため息がもれ聞こえた。
「だけど、龍造寺くんの力が効かなかったのは、どんなカラクリなんだい?」
「これだ」
尋ねてきた彼女に、直樹は拳を開いてみせた。
そこにあるのは十字架。直樹がレオンから借りた、古びた十字架だった。
「悪魔の力を跳ね返したのは十字架。シンプルだろう?」
自信たっぷりに言う直樹に、宝琳院庵の口がぽかんと開かれる。
「……鰯の頭も――いや、コケの一念、まさにそれか。そんなもので、あれに正面から立ち向かうなんて。まったく、君は」
宝琳院庵からため息がもれた。
無論、古びた十字架などで、悪魔の力を跳ね返せるはずはない。だが、直樹は信じた。呆れるほどまっすぐに、信仰した。
一転の曇りもない信頼こそが、一徹の信念こそが、円の力を跳ね返したのだ。宝琳院庵が呆れるのも、無理はない。
「あきれたか?」
顔を覗きこむ直樹に、宝琳院庵の――素直な笑顔が向けられた。
「――いや、惚れ直した」
「ナニ?」
完全に予想外の言葉だった。あまりのことに、直樹の思考が停止する。
「どうだ、直樹くん、ボクと番わないか?」
「つがう――ってなななななにいってんだいきなり!?」
いきなりの爆弾発言に、直樹は声が裏返る。
「なに、君ほどの男は、この人生で得がたい。そう確信したのだ。どうかね?」
宝琳院庵は、いつものニヤニヤ哂いで擦り寄ってくる。光すら映さない漆黒の瞳に、吸い込まれそうだった。
「いきなりそんなこと言われて答えられるか!」
悲鳴に近い直樹の言葉である。
「無論、恋人からで結構だ――なんなら過程をすっ飛ばしてもいいよ」
さらに爆弾を投げ込む宝琳院庵に、手も足も出ない。
直樹は心中の焦りを手足で表現するばかりである。
その腕が、急に引っ張られた。
みれば、円が訴えるような目でこちらを見つめていた。
脂汗が流れる。
直樹はポケットに収まっている十字架を思った。
恋愛成就のご利益があると言う十字架。
「効きすぎ――つーかもはや呪いだ」
十字架に一方的な恨みをぶつけて、助けを求めるように、直樹は辺りに目を流した。まだ、誰も起きてこない。
「メリークリスマスだコン畜生みんな起きやがれぇ!」
直樹の叫び声が、広間に響き渡った。
ユビキリ 了