目の前に出現したのは、見慣れた光景だった。
林立する本棚。綺麗に並べられた机と、宝琳院庵の占有物になっている大机。 間違いない。佐賀野高校の図書室だ。
「図書室、だよな」
「そのようだね」
二人は思わず顔を見合わせた。どんな奇妙な世界が待っているのかと身構えていただけに、戸惑いを隠せない。
だが、完全にいつも通りの環境と言うわけではなかった。
なんだか外が騒がしい。
それも、部活動や休み時間の騒がしさとは、また違う。お祭り騒ぎに近い。
「いったいどうなってるんだ」
直樹は思わず肩に乗る黒猫に目を向ける。
その疑問に答えようと彼女が口を開きかけたとき、急に扉が開いた。
二人の視線が、扉に向かう。
姿を現したのは、よく見知った顔――親友の中野一馬だった。
「おまえら、学園祭中は図書館閉鎖だろう。どうやって入り込んだ」
「学園祭?」
意外な言葉に、直樹は思わず問い返す。
返ってきたのは、一馬の怪訝な表情だった。
「寝ぼけているのか? まあ、昨日も遅かったのだ。無理もないと言えばないのだが……お前たち二人が、そろって姿を消せば、何かと支障も出るだろう。龍造寺も探していたぞ、あまり心配させるな」
それだけ言いおいて、一馬は去っていった。
その背中を呆然と見つめて、直樹と黒猫はふたたび顔を見合わせる。
「……どういうことだ?」
「彼の言葉を信じれば、ここでは学園祭真っ只中らしいね」
直樹の肩から飛び降りて、黒猫は直樹に向き直った。
四肢を伸ばし、首を上げる彼女だが、いかんせん身長が違う。いつもの大机に乗ってなお、直樹が見下ろす形になるのだから、彼女もやりにくそうだ。
「というか、一馬、猫姿のお前みて何にも言わなかったな」
「猫の姿は、宝琳院庵という個性からイメージされたものだ。ボクとして認識するのに差し支えないということだろう」
「じゃあ、一馬にはいつもの宝琳院にみえたってことか?」
「そういうことだね」
納得して、その事項を脇に置きかけ――慌てて引き戻した。
「――っていまお前肩に乗ってたじゃないか! あいつ普通に流してたぞ!?」
さすがの一馬も、肩に女子高生を乗せた親友を、スルーはできないだろう。
「乗っていたといっても、肩からぶら下がった状態だったからね。せいぜい君の肩に手を置いてる、くらいにみえたんじゃないかな」
平然と答える黒猫に、直樹は想像してみた。人気のない図書室。いきなり開く扉。うろたえる直樹と、自分の後ろに隠れ、その肩に両手を置く宝琳院庵。
えらく問題のありそうな絵面である。
一馬が妙に歯切れが悪かったことを思い出し、直樹は机に突っ伏した。思い切り誤解されている。
「ま、夢の中だしね。気にすることはないよ」
後頭部に、黒猫の前足が乗せられた。
肉球の感触をもってしても、直樹の心は癒やされなかったが。
「……にしても、よりによって学園祭かよ」
後悔を振り払うように首を振り、直樹は立ち上がった。
窓の外を見れば、否応なしに実感できる。
校門に据えられた巨大なアーチに、その脇から校舎まで続く屋台、普段は見られない私服姿の人間も多い。窓からみえる木々も、本来なら葉を落としていたはずである。
「夢の材料はクラスのみんなだからね。学校は造りやすい舞台だった、という理由が考えられるね。学園祭という非日常を舞台に選んだのは、夢の中にいるみんなに、これが夢だと気づかれにくくするためじゃないかな」
「何でわざわざ?」
「夢というのは基本的に無意識の領域だ。だけど、ごくまれに、夢の中で、自分が夢をみていると気づくことがある。そうなると、夢は思考によって、強烈な干渉をうけるんだ。だから些細な違和感を感じさせないために、非日常を演出しているんじゃないかな」
宝琳院庵の解説を、直樹は腕を組んで咀嚼する。
「なるほど……なら俺たちがやるべきことも、みえてくるな」
「その通り。呑み込みが早くて助かるよ。そう、造られた舞台が学校だった、というだけで、やるべきことは変わっていない」
尻尾をピンと立て、口の端を上げるさまは、元の宝琳院庵と変わらない。
「ここが夢の中だと気づかせればいいのさ」
言い放つ黒猫に、直樹は頷いた。
「とりあえず、ここを出るか。こんなとこ他に誰も来ないだろうし」
「そうだね」
左肩を出口に向けると、宝琳院庵が肩に飛び乗ってきた。あくまで楽する存念らしい。
ちょうどそのとき。
「直樹」
直樹を呼ぶ声が、扉の向こうから聞こえてきた。
明らかに女性の声である。直樹を名前で呼び捨てる女性は、ひとりしかいない。
「円、大丈夫だった――」
言いかけた口は、開いたまま塞がらなかった。
扉を開けて入ってきたのは、別人だった。円より拳ふたつは低いが、それは未発達を表すものではなく、むしろ成熟した、女性的なラインの持ち主だ。眉にもかからないほどの短髪は、円とは対照的である。
成富やすめ。クラスの女子だ。
「直樹、こんなところにいたのか。探したぞ」
――おかしい。
直樹は、額に冷たい汗がにじむのを感じた。
成富やすめとはそれほど親しくないし、無論下の名で呼ばれたこともない。
それに、鼻にかかるような声こそ彼女のものだが、口調が違う。仕草も違う。違うと言うより、むしろ、非常に見覚えのある口調や仕草だ。
そう。あれではまるで、龍造寺円だ。
「成富、何やってんだ?」
「何を言っているんだ、直樹」
直樹の問いにも、やすめは怪訝な顔をするばかりだ。
「行くぞ、直樹」
ごく自然に、やすめは腕を掴んできた。そのまま腕を組んでくる彼女に、直樹は思いきり取り乱す。
「ち、ちょ、成富! 何でいきなり――て言うか胸、胸当たってるんですけどー!?」
「まだふざけてるのか? 普通に円と呼んでくれ」
拗ねる表情も円と同じで、しかし、直樹はそんなことを考えられる状態ではない。
「宝琳院! 宝琳院! 助けてくれ!」
助けを求める声は、悲鳴に近かった。
「やれやれ」
呆れたような黒猫のため息が、肩に落ちた。
「成富くん」
「なんだ? 宝琳院まで。私の名前は」
「成富やすめだ。成富くん、君の名前は成富やすめだ」
やすめやすめやすめ、と、彼女の名を連呼する黒猫。まるで催眠術師のようだ。
「成富……って、あ、宝琳院さん――わっ」
瞳の焦点が合ったかと思うと、彼女はいきなりのけぞった。
「何で猫? てゆうか夢? なにこれ――」
うろたえるやすめの周りに、波紋が生じた。水鏡に映した姿が、水滴に揺られるように、やすめ自身の姿も揺らぐ。
間近で起こった現象に、直樹は思わず飛び退った。
だが、ごくあっさりと。成富やすめの姿は、図書室に溶け込むように消えていった。
「なんだいきなり!?」
「落ち着きたまえ」
いきなり鼻先に肉球が当てられた。
「ボクが彼女に夢を自覚させたせいだろう。これを造ったものにとって都合が悪かったので意識を隔離されたと言うところか」
「おい、成富は無事なんだろうな?」
宝琳院庵の説明に、直樹は眉をつり上げた。
やすめを心配してのことだったが、彼女の態度が、あまりに情のないものと映ったのだ。
対する黒猫の態度は、落ち着いたものである。
「それに関しては大丈夫だろう。彼女はこの世界の構成要素だからね。それに、今は起きていても、いずれまた眠る。そうなれば、また取り込めばいい。無理にどうこうすることはないだろうよ」
「要するに、一時的に隔離しただけか」
「そういうことだろう」
とりあえず彼女が無事らしいとわかって、直樹は安堵のため息をついた。
「と言うか、何で成富が円になってんだ」
「ひょっとして、円くんもすでに目を覚ましているのかもしれないね。その代役として彼女が龍造寺円を演じている、とか。とにかく、今は判じようがないがね――ところで直樹くん」
「なんだよ」
「ずいぶんと鼻の下が伸びていたようだね」
痛いところを突かれて、直樹の顔が引きつる。
宝琳院庵の口調には獲物をいたぶるような響きがあった。
「いきなりあんなことされりゃびっくりするだろ、ふつう」
「円くんとは普通にやっているじゃないか」
「円と一緒にすんなよ。あいつは家族みたいなもんだし、同じことやられても成富とじゃ話が違う」
「それは主に胸の話かね」
「違うって、つーか、やけに絡むな」
違わなくはないのだが、できればそっとしていて欲しい話題だった。ちなみに、成富やすめはクラスで指折りのバストサイズの持ち主だ。
「ちなみに、胸の数では負けてはいないよ。みてみるかい?」
「そりゃ猫だからだろ。つーか数で勝負すんな」
無論、猫の乳などみせられても嬉しくもなんともない。
そんな馬鹿なやりとりをしていると、再び扉の向こうに人の気配を感じた。
「直樹」
特徴のある野太い声は、同じクラスの斎藤正之助のものだった。
だが。
入ってきた正之助の姿をみて、直樹は固まった。
宝琳院庵が猫になったように、イメージによるものだろう。もともとガタイと筋肉の無駄遣いを絵に描いたような正之助だが、ふた回りも分厚い筋肉に鎧われた姿は、戦国猛将もかくやという威風だった。
だが、そんなことはどうでもいい。
夢の中なのだから、鎧でも何でも着ていればいいのだ。
だが、正之助が着ていたのはセーラー服だった。
セーラー服姿の戦国猛将。
破壊力抜群である。
「直樹、こんなところにいたのか。探したぞ」
そんなことを言いながら駆け寄ってくる肉弾重戦車(セーラー服)に、怖気が振るう。
「正気をとりもどせぇ!」
途方もない危機感に駆られ、直樹は反射的に延髄蹴りを決めていた。
火事場のくそ力だろう。瞬息一動作で行われた蹴りは、正之助に影さえ捉えさせず、彼の意識をかなたに飛ばした。
操り人形の糸が切れたように、正之助が崩れ落ちる。気絶確定の倒れ方だった。
「直樹くん、それはちょっとひどいんじゃないかな」
肩で息をしていると、呆れたような宝琳院庵の声が耳をくすぐった。
「あ、いや、思わず……ってか、こいつ俺の手を握ろうとしたんだぞ? 気色悪い」
「彼も悪気があってやったわけではないだろうに……第一これじゃ成富くんと同じ方法が使えないじゃないか」
「すまん」
言い訳のしようもない。
だが、直樹は後悔していなかった。こんな姿の物体と腕を組むなら、素っ裸で校内をかけ回る方が数段ましである。
「まあ、過ぎた事を悔やんでも仕方ない。いつまでもここにいるわけにもいかないし、外に出ようじゃないか」
指図するように、黒猫は尻尾を背中にたたきつけてきた。
それに答えて戸口に向かい――ふと、不安がよぎった。
その正体は、直樹自身もわからない。ただ漠然と、不安を感じただけである。
直樹はそれを自身の臆病に帰した。
悪魔が絡んでいるせいだと、無造作に振り払った。
小指の傷が、すこし痛んだ。