誤解による期待に満ちた、家族の視線に送りだされ、直樹たちは家を出た。
クリスマス会が始まるのは夜七時。場所が城東新町の駅前なので、それほど急ぐ必要はない。
自転車で駅まで行き、六時三十六分の電車に乗れば、じゅうぶん間に合う計算だ。
「直樹さん」
駅前で自転車を止めていると、独特のイントネーションが直樹の耳を打った。
思わず振り返ると、顔見知りが立っていた。先日の事件のおり、知り合った少女、姉川清深である。
「その節はお世話になりました」
その京なまりよりも、造形的な美しさのほうに、誰もが意識を奪われることだろう。
とはいえ、まだ中学一年生でしかない少女の顔立ちは、まだ幼さが勝っている。直樹としても、同じ事件で知り合った石井陽花や深堀純とセットでしか認識していない状態である。
無論、二、三年も経てば意見も変わってくるのだろうが。
「いや。結局俺は何もできなかったし。それより、こんな時間にこんなところでどうしたんだ?」
直樹の問いに、喜びを宿した含み笑いが返ってきた。
「クリスマスパーティーです――四人で」
嬉しさがこぼれおちそうな清美の声だった。
かつて、孤独なエリートの集まりと評された彼女たちも、少し変わったらしい。
「そっか」
直樹はつぶやいた。その一言に、いろいろな感傷を込めて。
彼女たちが歩いてきた道。歩いていく道。けっして平坦ではない。いまなお、彼女らと、その周りには複雑な感情が残っていることは、想像に難くない。
それでも、いま。姉川清深がこんな表情で話せることこそ、尊い。
「直樹さんは、と――」
そこで、ようやく直樹の後ろに立つ存在に気づいたのだろう。清深の視線は直樹を通り過ぎて円に固定された。
まずいものでも見たかのような表情で、彼女の視線は吐息とともに下に落ちた。
「陽花もむくわれへんなあ」
そのつぶやきは、直樹の耳には届かなかった。
「どうした?」
「いえなんでも。彼女さんにもお世話になりました」
まっすぐ円に向いたその礼に、直樹はにがりきった表情になる。
「幼馴染だ」
「さいですか。失礼」
そうですか、と、清深はおじぎしてみせた。
どこか安心した表情は、何に向けられたものか。その表情すら見逃した直樹にわかるはずがない。
「ほな、気張らんと。メリークリスマスや」
「おう。石井たちにもよろしくな」
手を振りながら自転車を駆る清深に、直樹は手を振りかえした。
彼女の影が見えなくなって、感慨の余韻と共に、直樹はようやく手をおろした。
「直樹」
円が、声をかけてきた。
「なんだ?」
「なぜ彼女に思われたんだろうな」
「こっちが聞きてえよ」
真剣に考える様子の円に、直樹は髪を掻きながら応えた。
レオンといい、清深といい、今日はそんな話ばかりで、どうも面白くない。
「ま、クリスマスだしな。二人で歩いてりゃ、勘違いもされるだろ」
「そんなものかな」
どうも円は承服しかねているようだった。
「さ、急ぐぞ。電車まで時間ないぞ」
首をひねる円の手をとって、直樹は駅に向かってかけだした。
駅前はクリスマスムード一色で、アレンジの利いた軽快なクリスマスソングが流れている。ライトアップされた某有名芸術家の巨大オブジェは、イルミネーションの照り返しを受け、妙なまだら模様になっていた。
その真下に等間隔に並ぶ男女の合間に意外な顔を見つけ、直樹は目を瞬いた。
どうも今日は知り合いと顔を合わす巡りあわせになっているらしい。
宵闇に溶け込みそうな黒髪と、対照的にしろい肌。どこかオヒメサマを連想させる少女。
と、ここまでの描写は、直樹のクラスメイト、宝琳院庵とまったく変わらない。容姿改革髪型服の趣味まで似通っている。
宝琳院白音。宝琳院庵の妹である。直樹とも、縁あって親しい。
向こうも直樹たちに気がついたようで、白音はこちらに向けて手を振ってきた。
「よう、どうしたんだ」
「外食です」
歩み寄って声をかけると、端的な答えが返ってきた。
あいかわらずの無表情で、ここだけは姉と違う。
「家族揃って外食です」
「そっか」
直樹は頷いた。どうも彼女との会話に慣れたらしく、自然と次の言葉を待ってしまう。
「姉が心配ですので、家族揃って新町で外食です」
「心配されてんのかよ、宝琳院!」
「まあ、姉ですので」
「姉だからってのが理由になるってどんだけ頼りないんだよ宝琳院!」
「あの通り、見目麗しい姉ですので」
「同じ顔だろ! 自画自賛かよ!」
「あの通り、見目麗しい姉ですので、心配になるのも無理はないかと……完膚なきまでにへこまされた男の将来とか」
「心配してるの、ひっかかった男のほうかよ! むしろ信頼しすぎだろ!」
「まあ、冗談ですが」
「冗談かよ!」
ここまで瞬息の答応である。言い終えたあと、直樹は不思議な充足感に包まれた。なんだか癖になってしまいそうだった。
「……直樹」
だが、そんな直樹の耳に、冷水のような声がさし込まれた。無論、呆然とみていた円である。
「楽しいか?」
「……ちょっと楽しかった」
思わず本音が漏れた直樹に、呆れ顔が返ってきた。
「もう行くぞ。時間がない」
「――少々お待ちを」
直樹の腕を引く円に、白音が待ったをかけた。
無論、彼女も無意味に引きとめたわけではないだろう。直樹は片眉を上げてみせ、説明を促す。
「もうすぐ、姉たちが来ますので」
「え? まだ宝琳院、会場にいってないのか? 白音と一緒に来たんじゃないのか?」
「肯定です」
直樹の問いに、明快な応答である。
「肯定ですが、来る途中、母がジュースをこぼして姉の服を汚したのです。いま、着替えを買っているところなのですよ」
母、と言われて、直樹は妙な表情になった。むろん、この姉妹そっくりの母親を想像してのことである。
「そっか。じゃあ、あいつが来るまで待ってようか、円」
直樹は隣に目を向けた。
「いや――」
円の口の端が、わずかに歪む。円が良くやる、不快の表情である。
「先に行っておく。直樹は待っているといい」
声色にはさして変化がなかったので、直樹はそれがごく淡いものだとわかった。
どうもあの文化祭前夜以来、円は宝琳院庵を意識している様子だった。その彼女に待たされるのが不満だったのだろう。
直樹はそう推し量った。
「ん。じゃあちょっと遅れるかもって言っといてくれ」
「わかった」
そう言って歩いていく円の背を見送りながら、直樹はふと、思う。
そういえば、円が自分の提案を断ったのは、久しぶりだな。
無論不快ではない。むしろ、先日若気の至りを思い出してしまった直樹にとって、ああいう態度は好ましくもある。
ふと、円に向けた手を見て、直樹は眉を顰めた。左手の小指。その付け根に巻かれていた、赤い糸を思い出したからである。
とはいえ、それはそれだけの話だった。
事実、白音に目を転じたときには、直樹はそのことを意識から追い払っていた。
「そういや、お前は何でこんなとこにいるんだ?」
直樹の問いに、白音は口の端を上げて見せた。哂いを表現したのだろうが、あいかわらず目は笑っていない。
「ここにいれば、直樹さんが来ると知っていましたので」
「確信犯かよ」
直樹は、ため息をついた。
聡い少女だが、意図が読めないところが最大の難物である。
しばらく白音と雑談していると、本通りの向こうから悠々と歩いてくる宝琳院庵の姿をみつけた。
とすれば、その後ろを歩く中年の男女は、宝琳院庵の両親だろう。
直樹はそう見当をつけた。
人目を引く容貌の娘たちに反して、両親のほうは、むしろ地味すぎる印象が強かった。よく見れば顔立ちは整っているから、原因があるとすれば格好と、まとう雰囲気だろう。
「やあ、直樹くん。よく来てくれたね」
――よく言うよ。脅迫したくせに。
などとは、両親の前で言うわけにもいかない。言葉を押し殺して、かるく手を挙げることで応えた。
「龍造寺くんがいないということは、別々に来たのかね」
「いや。一緒に来たけど先に行ったんだ」
直樹がそう言うと、宝琳院庵はふむ、と考える様子を見せた。
「これは……彼女には悪いことをしたかな? 白音も少しは気を利かせてくれればいいのに」
「気を利かせたつもりですけれど」
直樹には理解できない、姉妹の会話だった。
「ほう」
と、深みのある低い声が直樹の耳を打った。
みれば、声の主は、宝琳院庵が連れてきた男性である。
「庵がこれほど話すとは。話には聞いてはいたが、驚くべきことだ」
耳にいつまでも残る、存在感のある声だった。この存在感が十分の一でも外見に反映されていれば、人目を引くことは疑いない。
「紹介するのも面映いが、父と、母だよ」
「始めまして。庵の父です」
「庵の母です」
宝琳院庵の紹介に、そろって頭を下げられ、直樹も慌てて礼を返す。
母親のほうは、外見と同じく、五分と記憶しておくことも難しそうな声だった。
「どうも、鍋島直樹です」
「直樹くん」
いきなり宝琳院父に手を握られ、直樹は何事かと目を見開く。
「娘を頼んだよ」
いきなりなにを言いだすのか。直樹は頭が真っ白になる。
「父は、姉を心配しているのです。帰りは姉を送っていってください」
白音が付け加えなければ、もっと慌てていただろう。彼の意図がわかって、直樹はひとまず胸を撫で下ろした。
それにしても、言葉が足りなすぎな父親だった。
「わかりました。ちゃんと送ってきますので」
「直樹くん」
一応胸を張ってみせた直樹に、宝琳院庵から声が投げかけられる。
「もう時間だよ。急がなくていいのかね」
その面には、相も変わらないニヤニヤ哂いが張り付いていた。
無論、直樹には知る由もない。
向かう先に待ち構えている、文字どおりの悪夢を。