真っ暗だった。
目に写るものは、黒一色。その中に、ほんの少しだけ、光が見えた。
いや、違う。光と見えたものは、本来視界いっぱいに広がるはずの光景。それが、はるか遠い。
体が、地面と溶け合って一体化したような感覚。意識が、闇に沈みこむ快楽。そんな中で。
「――!」
清深の悲鳴が、耳を打った。
思い出す。
友の死を。
鹿島茂が塩の柱となったことを。宝琳院庵が地面で塩の山と化したことを。神代良を、中野一馬を殺したことを。
憤怒、絶望、悔恨、あらゆる陰惨な感情を舐め尽したことを。
皆は、忘れた。
だが、直樹は、忘れない――忘れられない。
ずっと抱え続ける。その事実があったことを。人が死んだことを、人を殺したことを。
だからこそ、鍋島直樹は悲劇を許容しない。
――これ以上、殺させてたまるか!
直樹は手放しかけていた意識に活を叩き込む。
意識が、体の枠にぴたりと収まった。同時に、後頭部に鈍痛。ゆがむ視界の中で、かまわず背後を窺う。
そこにいたのは――横岳聡史。
聡里の兄だった。
「……なん、で」
直樹は訊いたつもりだったが、声にはならなかった。
なぜ、横岳聡史が自分を殺そうとするのか。直樹には理解できない。意識の半ばは、いまだ亡羊としたものに支配されていた。
「お前も――オレの――邪魔する――」
「人殺し! ――さん殺す気なん!?」
うねる音が、波のように耳を打つ。
頭の中で何かが閃いた。事態の根底にあるものと、その大要が、直樹の頭の中で急速に組み上げられていく。
だが、今は。この絶望的な状況をどうにかしなくてはならない。
直樹は、渾身の力を込め、両足を地につける。
しかし、すぐに膝が抜けた。頭を強打されたせいだろう。バランス感覚が駄目になっている。
そこへ、直樹の腹に足が突き刺さる。
体が二つ折りになったところを二発、三発。バットか角材か、それすらもわからない。ただ、衝撃に腹筋が引きつる。
死の足音が、確実に近づいてくる。直樹はそれを肌で感じた。
――死ねない。
直樹は、手探りで聡史の足を探し出す。
背中に、衝撃。もはや痛みも麻痺している。
――こんなところで、死ねない。
ゆっくりと、這いずるように、直樹は聡史にしがみつくように立ち上がった。
力を振り絞り、聡史の襟首をつかむ。
それで何かできるわけではない。正直それが、直樹の限界だった。
だけど、倒れない。倒れるわけにはいかない。いま、意識を手放しては。また、人が死ぬことになる。その思いだけが、直樹を支える。
しかし、直樹の渾身の力は、聡史にたやすく振り払われる。
左右によたって、直樹は地面に尻餅をついた。
そこへ聡史が振りかぶる。フルスイングの構え。構える手が間に合わない。直樹は、死を間近に見た。
――だが。
「――がっ!?」
攻撃は、直樹に届かなかった。矢のように飛んできた何かが、得物を掴む暴漢に突き刺さったのだ。
直樹の目の前で、自転車が倒される。
革靴が、間近でアスファルトを打つ。
「――直樹を、殴ったな」
その声は。
「――直樹を殺そうとしたな」
耳慣れたものながら。
「――お前は、私の敵だ」
とても、頼もしく、耳に響いた。
「お前は、私の敵だ」
そう言い放った長身の少女は、恐れ気もなく武器を持った少年に相対した。
その背が、暴力の烈風をさえぎる。
不意に凪いだ悪意に、揺り返すように、痛みが蘇ってきた。
「なんだ、てめえは!」
怒気もあらわに、暴漢が得物を向けてくる。金属バット。今まで自分を打ち据えていたものの正体を、初めて知った。
怒りも悪意もすべて受け止め、それでも龍造寺円は超然と佇む。
「くそくそくそ、何で邪魔ばっかりするんだよぉ!」
聡史の声からは、明らかに自制が失われていた。
怒声と同時に凶器をも叩きつけようとバットを振りかざす聡史。その鈍重な動きをあざ笑うように、瞬きした次の瞬間には、少女は聡史の懐にもぐりこんでいる。
それを追う聡史の目の動きすら追い抜いて、掌が狂人の顎を打ち抜いた。
一瞬にして目の焦点を失った暴漢に、一片の躊躇も無く逆手の肘が打ち込まれた。
ゆっくりと、少年が崩れ落ちる。
それを振り返りもせず、ようやく少女の眼が直樹に向いた。
淡色の感情に鉄の意志。その姿に、直樹は体の芯から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「大丈夫か、直樹」
「な、んとか」
心配かけまいと、やせ我慢して見せる。
正直なところ、骨にヒビ位は入っているかもしれないが。
「――まったく」
冷えた手の感触が、直樹の頬を撫でる。
「あまり一人で無茶しないでくれ」
円の言葉に、直樹は苦笑した。
円を巻き込みたくない? 円が心配?
このざまで良く言えたものだ。
「助かった。円」
直樹は、揺らぐ頭を清深に向ける。
「姉川。教えてくれ」
「はい」
姉川清深は、おぞましいものを見るように、聡史に目を向ける。
「この人のことですやろ」
「ちがう」
直樹は、言下に否定する。
「メールの内容だ」
「え?」
要領を得ないなりにも、直樹の焦燥を感じ取ったのだろう。慌てすぎてお手玉しつつ、携帯は何とか清美の手に収まった。
「多分、一緒にいる石井がマズイ」
清深の顔が青ざめる。携帯が、手から零れ落ちた。
それが、直樹の目の前で画面を映す。
メールの内容はただの一言。
“人差しが危険”
そのメールに、直樹は眉も動かさない。
「犯人は深堀純だ」
必死に身を起こしながら、直樹はその名を告げた。
五本指。選ばれたエリートの集まり。五人の仲間たち。
所詮、上辺だけの関係だ。
ただ、なんとなく集まっただけで、普通の人間から見ればその関係は友達ですらない。
そんなことは分かっている。
だが、それでも。
――深堀純にとっては、例えようもなく暖かいものだった。
朱をさしたような夕焼けの校舎。その屋上で、純は空を仰ぐ。
足元に、同じ制服を着た少女が転がされている。
石井陽花、だと、彼女を良く知る者でも分からないかもしれない。束ねていた髪は乱暴に乱され、顔も涙と腫れでぐちゃぐちゃになっている。
だが、純は、気にも止めずに空を仰いだ。
思い返すのは、昔のことだった。
父は、娘の成績にしか興味はなく、それ以外の個性を、純に求めなかった。
母は、純に興味がなく、ただ、冷たかった。
それが当たり前だったからか、それとも、それを当たり前と思う純の感性ゆえか、彼女の周りに友達と呼べる存在は見出せなかった。
学校でも、どこでも、ずば抜けた長身と、身体能力と、頭脳をもった少女は、孤独だった。
少女は一人、高みに立って、誰も近づけなかった。中学でもそうだと、確信していた。
だが、その予想は、あっさりと裏切られた。
自分がどれほど努力しても、肩を並べてくる人間が、五人もいたのだ。
「キミが深堀さん? 城南のトップだったっていう」
自分の胸元までしかないくせに、やたらと肩幅がある少女の不躾な質問に、純は、ただ頷いた。
「わたしは横岳聡里。佐賀小のトップなのです」
その名は知っていた。体力測定や、テストの成績上位者の常連として、だったが。
「他にも、城東とか城北のトップもいるんだけど……あなたも来ない?」
そういって、彼女は手を差し出してきた。
その暖かい手に触れ、初めて、純は自分が冷え切っていたと自覚した。
その手は、もうない。
温もりの残滓を求めるように純は手を見つめる。
奇妙なメールが飛び交うようになって、聡里は変わった。心労からだろう。数キロも痩せたし、いつもぴりぴりしていた。それでいて、考え込むのをやめなかった。
事故に遭ったのだって、そのせいなのだ。
純は、拳を握り締める。
メールを出していたのが、陽花たちだとわかって、純は復讐を決めた。
同じ恐怖を味わわせてやらねば、気が済まなかった。
倉町時江の時は、失敗した。
メールの件を切り出したとたん、逃げられたのだ。
その挙句、勝手に事故に遭った。
ただ、逃げるときに、情報を残してくれたのは、幸いだった。
「わたしじゃない。陽花さんが――」
それだけで充分だった。犯人を確信するには充分すぎる情報だった。
「う……う」
陽花のうめき声に、純の夢想は破られた。
意識を取り戻しかけているようだ。
目を覚ましたら、もう一度同じことを繰り返そう。繰り返して、繰り返して、そのまま死ぬまで続けるのだ。
聡里を殺した女だ。あっさりと死なせてたまるものか。
怒りがわき起こり、陽花の体に蹴りを入れようとして、不意に、扉が開いた。
そこに立っていたのは、ぼろぼろの姿になった、鍋島直樹だった。
扉を開き、間一髪、間に合ったことを知った。
夕焼けの校舎、フェンスを背負って、昂然と佇む深堀純。地に崩れている、殴打の跡も痛々しい石井陽花。
「もうやめろ! 深堀!」
直樹の声に、ぎらぎらと輝く瞳がこちらに向けられる。
「――止める? 何で? せっかく、やっと聡里を殺した犯人がわかったのに何で止めなくちゃいけないんです?」
本当に分かっていないような、その表情は、人を感じさせない。
だからなおさら、放って置けなかった。
「止める!」
直樹は叫ぶ。
「お前はまだ一人だって殺しちゃいない! 地獄のような思いを味わっちゃいない! まだ戻れるんだ!」
向こう側に行ってしまった直樹と違って――深堀純はまだ戻れる。
もう届かないあちらの世界を、彼女に捨てて欲しくなかった。
「戻って何があるんです?」
純の声は、感情の色すら見えない。
「聡里がいない世界で、聡里を殺したやつが生きてるのに、のうのうと普通の人生を送れと? 舐めないでください。そんなの、死んだ方がマシだ!」
世界を呪うような、純の言葉だった。
否定の仕様もない、拒絶だった。
だが――
「違う」
それを否定する言葉が、直樹にはあった。
だが、言ってしまっていいものか。直樹が言葉を迷わす間に、清深が、直樹の脇を抜けて前へ出る。
「違うんや、純ちゃん」
清深が、常にない強い口調で受け継ぐ。
「聡里を殺したのはあのメールやない――聡史さんなんや」
その言葉に、深堀純は凍りついた。
無理もない。予想もしなかったに違いない。だが、それは厳然たる事実なのだ。
「う、そ」
それは、縋りつくような言葉だった。否定を求めるように、純の目が彷徨う。
「本当や」
残酷な肯定だった。
横岳聡史――聡里の兄は、姉川清深に恋愛感情を抱いていた。
だが、それは清深にとって迷惑でしかなく、聡里にとってもそれは嫌悪の対象でしかなかった。
折りしも怪メールの件でフラストレーションがたまっていた聡里は、聡史を強い口調で批難し……殺された。
それが、横岳聡里の死の、真相だった。
「それでも! 半分はお前たちが殺したようなものじゃないか!」
それを聞いて、なお搾り出すような純の言葉。必死に自己を肯定しようとするようだった。
「――ちがう」
か細い声が上がった。皆が、その声の主を探す。
純の足元、倒れ付していた陽花が、顔を上げていた。
「聡里は、わたしたちのことを知っていた。知って――許してくれた」
陽花の眼の焦点は合っていない。それでも、必死で口を開いていた。
「一言、謝って、そしたら許すって、言ってくれた」
途切れ途切れの言葉に、弁解の様子は一片も無い。ただ、事実を述べているとしか思えなかった。
「聡里が死ぬ前の晩。聡里はわたしを呼び出して……すべてを知って、許してくれたの」
直樹は、息をつく。
“親指”横岳聡里。その二つ名に恥じない少女だったのだろう。
「そんな……じゃあ……じゃあ、僕のやってきたことは何だったんだ!?」
純の声が震える。少女の表情は虚ろに墜ちた。
何も無い。
復讐の大義を失った深堀純には、何も残っていなかったのだろう。
そう、連想させる、悲惨な貌だった。
「うわああああああああああああああっ!!」
少女は絶叫した。その意味は知り得ない。