宝琳院庵は悪魔である。
声に出せば正気を疑われそうな話は、しかし、紛れも無い事実だ。
艶のある豊かな黒髪も、どこか浮世ばなれした、オヒメサマ(・・・・・)のような容貌も、生来の寡黙さと相まって、神秘的と評されることが多い。
一部の男子からは、信仰に近い人気を集めているようである。
直樹から見れば、齢を重ねた猫又が、うまく人を化かしているようにしか見えないが。
その悪魔は、直樹にとってクラスメイトであり、そればかりか親友でもある。
もっとも、彼女が悪魔だと知ったのは、最近のことであるが……
ともあれ、怪奇現象に関して、彼女は言うなれば専門家である。直樹としても大いに当てにしたいところなのだ。
「――ふむ、で、直樹くんは、ボクに何を聞きたいんだい?」
昼休み、いつも通り、閑散とした図書室。昨日の出来事を一通り話すと、彼女はそう尋ねてきた。
そうしながら、なぜか机の上に腰を移し、こちらを見下ろしてくる。
直樹はもはや理由を尋ねる気にもならない。
おおかた説明時には見下ろさないと気が済まないとか、そんなくだらない理由だろう。
「そういう怪奇現象とかに心当たりはないか?」
「……ふむ」
宝琳院庵の手が、顎に当てられる。
その仕草を見ていると、直樹はどうしても毛繕いしてる猫を連想してしまう。
「直樹くん。“スクエア”という降霊術を知っているかい?」
「スクエア?」
耳慣れない単語だった。
「怪談としてなら聞いているかもしれないね。吹雪の中山小屋に避難した4人の人間が、睡魔と闘うため、部屋の四隅に立ってバトンリレーのように回っていくというあれだよ。
ネタばらしすれば、本来5人いなければこのリレーは成り立たない。4人の他に5人目の何かが居た、という話なんだが、それに近いと思わないかい?」
「えーと、ちょっと考えさせてくれ」
宝琳院庵の言葉を反芻する。
携帯電話でのメール回し。欠けたメンバー。居なくなったはずの5人目から届くメール。
山小屋でのリレー。足りない人手。それを埋める5人目の何か。
「欠けたものを何かが埋める。共通点をあげるとすれば、それか?」
直樹の回答に、宝琳院庵は満足げにうなずいて見せた。
「ご明察。相変わらず鋭いね。欠落を埋める概念、これさ」
及第点をもらって胸をなでおろしていると、宝琳院庵の指先が伸びてきて、直樹の目の前で止められた。
「直樹君」
宝琳院庵の視線は、ぴたりと直樹に合わせられる。
「人間、何が一番怖いと思う?」
ここで彼女が答えを必要としていないことは、経験上理解していた。
直樹は、彼女の言葉をじっと待つ。
「――何もない。無こそ、あるいは不可知こそ、人のもっとも恐れるところだよ。だから、説明できない自然現象に神を見出した。大空を、宇宙を概念で埋め尽くした。なぜなら、空隙には、必ず恐怖が、魔が入り込むものだからね」
魔、その響きには、直樹の背筋を冷たくさせるものがあった。
関わった者にとって、それは悪夢以外の何者でもない。
「だったら、メール回しのメンバーが急に欠けて、そういったものが入り込んだ。そういうことなのか?」
「おいおい直樹君。ボクは全能の神ではないし、ましてや今のボクはヒトの鋳型にはめられて魔的な部分を残らず削ぎ落とされているんだ。君が持ってきた程度の情報では判断できないよ。あまり人を万能だと思ってもらっても困る。早合点しないでくれよ。君の言葉から、そういう可能性が探れると言っただけだ」
あきれが多分に混じった、宝琳院庵の言葉だった。
「そうか……」
「それに、事件に関わることを、ボクはお勧めしないよ。いまの君にはチャンネルができてしまっているからね」
「チャンネル?」
「ボクが勝手につけた言葉さ。一度体験した者は、同じことを体験しやすい。なぜなら、そういうものが在ると認識してしまったから。
脳が存在を認識し、いままで見過ごしていた事象を知覚してしまう。結果、そういったものに出会いやすくなるということだよ」
その言葉に、直樹は息を飲む。
道を歩いて、ふと横を見れば、悪魔が哂っている。それは、ぞっとしない話だった。
「チャンネルができてしまった君が、そういうつもりで、そんな事件に関わる。これは、君が思っているより、はるかに危険なことなのだよ」
しつこいくらいの忠告に、危険の深刻さを自覚させられる。
確かに、危険かも知れない。
だけど――直樹は、決意を瞳に込め、視線を宝琳院庵に送り返す。
「だからって、見えない崖のそばをうろついてるやつを見て、無視するなんて真似は、もっと出来ない」
心に誓った。
石井陽花を、あの少女を助けると。その覚悟は、偽物であってはならない。
視線が絡み合い――降参するように、宝琳院庵からため息が漏れた。
「――なら、老婆心ながら龍造寺くんと同行することをお勧めするよ」
彼女なら、頼りになるからね、と、彼女は付け加えた。
暗に頼りにならないと言われたことに、直樹は気づきもしなかった。
放課後を待って、直樹は石井陽花に電話をかけた。
宝琳院庵の話から得たものは多くは無かったが、それが情報不足に起因することは分かっていたので、話を聞いておきたかったのだ。
メールを送ってもよかったが、彼女が置かれている状況を考えれば、嫌がらせでしかない。
鞄を片手に、校舎裏の駐輪所に向かっていた直樹の足が、止まった。
――この電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が切れています
機械的なメッセージ。
ふと、不安がよぎる。
泰盛学園は基本、授業中携帯電話の電源OFFだ。優等生の石井陽花はそれを遵守しているのかもしれない。
だが、すでに放課後である。ひとつのメールが命を左右するかもしれない今の状況で、電源の付け忘れなど考えられない。
「澄香や忠は部活があるから繋がるはずが無いし……仕方ない」
ものすごく気は進まなかったが、泰盛学園にいるもう一人の後輩に頼るしかなかった。
「もしもし」
「白音、鍋島直樹だけど」
きっちり3コールで出た相手に、直樹は声をかける。
「もしもし、白音です」
「聞こえてないのか? 直樹だ」
直樹は心持ち大きな声で名乗った。
「もしもし、白音です。ただいま電話に出ることが出来ません」
「嘘つけ」
どう聞いても肉声だった。
「入浴中です」
「嘘つけ!」
「冗談です。まあ格好は入浴中と同じですが」
「本気か!?」
「――冗談です。反応しすぎです、直樹さん。欲求不満ですか?」
信じる方も信じる方だけど……直樹は思う。この悪魔の妹は、何の悪意があってこうも自分を弄るのか。
「お前……年上からかって楽しいか?」
「それは是、ですが……直樹さん。火急の用とお察しします。用件を承りましょう」
声色から直樹の焦りを察したのだろうが、それでも言葉遊びを止めないあたりが、宝琳院白音の宝琳院白音たる所以だろう。
直樹は息を深く吐いて、気を取り直す。
「白音はそっちの一年の、石井陽花って知ってるか?」
「承知しています」
「今どうしてるかわかるか?」
直樹は、調べるのに時間がかかることを覚悟していたが、一息も待たずに答えは返ってきた。
「病院に行っております」
「病院?」
「友人の方が入院したとかで」
病院に行ったと聞いて、一瞬肝が冷えたが、当人は無事らしい。直樹は胸をなでおろした。
「そうか。本人に何かあったわけじゃないんだな」
「ええ……時に直樹さん」
「なんだ?」
「今日、少し、お時間をいただけませんか? いつもの喫茶店なのですが」
白音にしては珍しい、急な話だった。
だが、石井陽花が見舞いで連絡が取れないのなら、どの道時間をつぶさなくてはならない。それにRATSなら、場所的にも動きやすい位置だ。
そこまで考えて、直樹は白音の誘いを受けた。
「やれやれ」
携帯を閉じて、直樹はため息をついた。陽花の無事は確認できた。とりあえずはそれで充分だった。
「――直樹、どうかしたのか」
いきなり背後から投げかけられた声に、一瞬、心臓が跳ね上がる。
声の主は、確認するまでもない。
「……円、いきなり後ろに居るのやめろ。心臓に悪い」
「何の話なんだ?」
誰からの電話だ、と、聞かないあたり、やりにくい。
「いや……何でもない」
直樹はそう答えた。
悪魔が関わる事件に、円を巻き込みたくはない。
自分は自ら関わっておいて勝手な言い草かもしれないが、それが直樹の本音だった。
「あやしい」
半眼になった円の目が、直樹に向けられる。
「いや、なんでもないって」
直樹は、それでも誤魔化す。
円の瞳が、一瞬だけ、寂しげな色彩を帯びた。
「――そうか」
そう、呟いて。後は、何も詮索してこない。
何か言ってやりたかった。だが、どう取り繕おうとこの明敏な幼馴染は察してしまうだろう。
――すまん、円。
直樹は、心の中で頭を下げた。実行に移せないことが、歯がゆかった。