番外 ツバキ
椿麗は自分の名前が大嫌いだ。
ウララという響きが嫌だ。椿という縁起の悪い花の苗字が嫌いだ。
女じゃないのに、十二歳まで自分を女として育てた母親が大嫌いだ。
母親と別れることができたのは、隣に引っ越してきた男のおかげだった。チンピラにしか見えない男は、鉢合わせたエレベーターで真っ赤なランドセルを背負った姿を見て爆笑した。それから、「イジメられてんのか」と今でも思い出せる声音で言ったのだ。
今思えば、母が狂った感覚を持ってくれて良かったと思える。いつまでたってもピカピカで真っ赤なランドセルを背負わされる小学六年の気持ちを誰が分かるだろうか。
いつか母親を殺そうと思っていた。
ある日、ふりふりのスカートで学校にいった帰り、またしてもエレベーターで隣家の男と鉢合わせた。やはり、彼はチンピラじみた格好をしていた。男らしいようにも見えて、少し羨ましい。
男は「いいもんやるよ」と言って、ツバキには大きすぎるスカジャンをくれた。リバーシブルの、ピカピカのサテン地は赤と緑。赤色には竜が、緑には虎が。男の温もりの残ったスカジャンに初めて袖を通した時、心臓がびくびく動くのを感じた。
スカジャンを持ち帰って隠していたけど、サテン生地は目立ちすぎた。ジョキジョキ鋏を入れながら、隣の男を訴えると母は息巻いていた。
しばらくして、会ったことも無かった実の父が現れて、半年ほど続いた裁判の後で椿の親権は父の下へ移った。
隣の男は探偵だった。無許可の不良探偵が父を捜してくれた。頼んでもいないのに。
父は驚くぐらいの金持ちだった。あんな女と何を考えて付き合ったのか。今となっては聞くことができない。
「ツバキ、仕事が入ったぞ」
過去の追憶が終わりを迎える。ぼんやりと半分眠るようにしていたのに、ツバキは現実に引き戻された。
独立都市カダスの『迷い猫亭』は、プアーエルフと外国人が逗留できる数少ない居心地のいいモーテルだ。
「ごめん、勃ってて立てない」
安楽椅子から立ち上がろうとしないツバキに、カワノは呆れたような顔をして気取った仕草で肩をすくめてみせた。
生き残ったヴァルチャーはガタスにも数少ない。ツバキとカワノは立場で言えば完全に中立を保ち続けている。
王宮に陣取って善政という名の支配を強いる聖女派、ダークエルフのゲリラ組織に肩入れした今は亡き人であるリベレーター・キクチ派、そして、金と情勢に流されるカワノとツバキのような日和見連中。
カダスに関わるヴァルチャーといえばこの辺りしか残っていない。もともと、カダスにインしていたプレイヤーは二十名名足らずだ。自力でレベルを30以上に上げた廃人と抽選に当たったラッキーガイだけがカダスに招かれた初日、それがあの日だった。
一年ほど前の転移、カダスではそう認知されているあの日である。
カワノと早い段階で出会ったのはツバキの幸運である。レベル7、抽選に当たってカダスへインしたラッキー組は、ほとんどがごく初期にエルフ共によって処刑された。カワノは相当運が良くて、やり手で口先の悪魔に魅入られたような男であった。
ツバキは十五歳の少年である。
濡れたような黒髪、女顔、言い方は色々あるけれど、気持ち悪いくらいの美少年である。陰のあるどこか普通ではない凄絶な雰囲気がある。人を遠ざける魅力に溢れた少年だ。屈折した十二年がツバキに与えたのは、そんな危うい魅力である。
勃起が収まるのを待って、ツバキはサテン地の単衣という姿で安楽椅子から立ち上がった。艶やかな黒髪に、どこか退廃的な色彩の単衣がよく映えた。
「服のセンス、どうにかならんのか?」
タイトなエルフ用の礼服でキメているカワノは、服装がスーツならやり手の営業マンにでも見えるはずだ。レベル7の戦士なんていう弱キャラのくせに、カダスの金の一割はこの男が握っている。
「うるさいな。このかっこよさは大人には分からないんだよ」
仕事の報酬で今度はスカジャンを作ろう。髑髏と竜なんていいかもしれない。
「……ま、いいか。ほら、顔を洗って、すぐに出かけるぞ」
仕事モードに入らないと。
僕は凄腕のボディガード。
召喚術と言えば、バハムートにリバイアサン、なんてものを思い浮かべる人がほとんどだろう。オカルト趣味なら喚起なんて言葉を使うかもしれない。
ヴァルチャー・オンラインでの召喚術は恐ろしく使えない無駄スキルであった。理由は至ってシンプルで、呼び出せる初期のクリーチャーはゴブリンで、しかも頭が悪い。こいつが傍らにいるせいでザコが山ほど寄ってきてタコ殴りにされる。それを我慢してレベルを上げたとしても、次に召喚できるのは色違いのホブゴブリン、移動速度と攻撃力が増したホブゴブリンは『バーサーク』という特殊能力のおかげでほぼ毎回プレイヤーに襲い掛かってくる。さらにレベルを上げたら浮遊する鬼火を召喚できる。小さなファイアーボールを放つ鬼火は、制御判定に失敗すると敵になる。味方でいたとしても、誤射のおかげで呼び出さない方がよほど安全な迷惑アシストを連発する。
公式サイトでの情報公開により、召喚できるクリーチャーがレベル30まで画像つきで公開されたことも不人気に拍車をかけた。ほとんどのプレイヤーはゴブリン、トロル、スケルトンに興味は無い。
レベル30という大台に乗って初めて召喚できるフライングポリープに至っては、クトゥルフ神話のマニアでも喜ばない代物だった。運営は何を考えてこんな職業を造ったのだろうか。
こんな状態だからこそ、召喚術師という職業クラスの真のプレイスタイルはあまり知られていなかった。もし知られていても、ほとんどのプレイヤーは嫌がるような代物なのだけれども。
貴婦人は、はじめにツバキに好色な視線をなげかけてから、心底羨ましいといった様子の後に稚児趣味をあざ笑うように好奇の視線をカワノに向ける。
独立都市カダスの庭園区画にあるレストランで、彼らは同じテーブルについていた。
相当の金が無いと入店すらできないレストランには、客個人個人の護衛とレストランの用心棒たちのおかげで相当安全な場所になっている。
カダスでは、人種問題から起こる暗殺は日常の一部である。地位が高い者、肌の色に意味などないと説く者、対立を利用して富を得る者、色んな者が死んだり殺されたり殺したり、やったらやり返してやり返したらやられて、エルフも人間も似たようなものだ。
ホテル・ルワンダという映画を思い出す。人間性は極限の時に試される、アメリカ風の正義と現地の正義は相容れない。それでも、現代人が共感するのはアメリカ風味だ。
「この子がボディガードなの?」
エルフの女は信じられないという顔で、フォークでツバキを指した。その先端にはパスタによく似た食い物が巻きつけられていた。
「ええ、皆さん驚かれますよ」
「今まで一度も失敗したことがない?」
「はい、一度も」
ツバキは黙って女を見ている。
よかった、母親には似ていない。このエルフの女、三十代に見えるがきっと四十を過ぎている女は夢に逃げ込むようなタマではない。こういうヤツなら、命がけで守ってやるのにためらいが無い。
「ふうん、男芸者か陰間にしか見えないんだけど。まあいいわ、カワノさんはこんな時に嘘をつくほど馬鹿じゃないだろうし」
「お褒めに預かり光栄です、閣下」
閣下、本気で言ってんのか。露出過多のドレスを来た遊女みたいなババアエルフにそん敬称をつけるか。
「ええと、あんた名前は?」
「ツバキでいいよ」
「カワノさん。彼に口の利き方、教えてあげなさいよ」
と、呆れたように言って今度はフォークでカワノを指す。なんという無礼な女だろう。くるくるの綺麗な金髪巻き髪をアップにしてFカップ推定の垂れてない乳房がはみ出しそうなドレス、どこか蓮っ葉な態度は姉御肌で、ヤクザの女のようにも見えた。
「ミスフォルン、彼は自由にさせるのが一番いいのですよ」
「ふん、ヴァルチャーは酔狂なのが多いね。あの悪魔にも困ってるんだけどなんとか言っといてくれない?」
悪魔、か。
去年の騒乱の際に、あの悪魔めいたヴァルチャーを見かけた。聖誕祭で暗殺されたアレクリア王妃の一件に関わっていた悪魔。あの時、敵ではないというだけで素通りさせた。アメリカ風に言えば許されないことだろう。
「ああ、例の暗殺者で英雄ですか」
「ラシャンは今朝方くたばったよ。嫌いなタイプだったけど、あいつがいなくなったらなったで次の人選に困るの」
悪名高いラシャン・ドゥーリはダークエルフとハーフエルフを事務的に処理できる男だった。悪名はあてにならない。さしたる思想も理想も持たずに職務を遂行していたのだ。彼の後釜は、ダークエルフ根絶を掲げる頭のイカレた主義者でもいけないし、金で転ぶ普通のヤツでもいけない。
「なり手はいませんか?」
カワノはまたしても儲け話を見つけた顔になる。
「まあね、最悪あたしがやるけどさ。ま、あの部署自体が変わるかもしれないけど」
「こんな場所で、……良いのですか」
「いいわよ、そっちの彼にしても身元は割れてるしね」
ヴァルチャーは無敵ではない。睡眠も必要だし女も欲しい。無防備な時間はいくらでもある。十人以上でこられたら、レベル40オーバーでも生き残るのは難しい。それに、相手方にもヴァルチャーはいる。特に、カダスでは高レベルという条件も必然的についてまわるのだ。
「なあ、フォルンさん?」
ツバキが珍しく自分から口を開いた。カワノは少しだけ驚いた顔だ。
「なにかしら」
「世の中やっちゃいけないことってあるのかな」
フォルンは真面目に考える顔をした。海千山千の大狸がそんなフリをしているだけなのかもしれないが、答えはどうなのだろう。
「ないわよ。何してもいいけど、何やり返されても文句言えないってだけじゃないかしら」
「おばさん、いい人だね」
「ありがとう。みんな気づいてくれないけど、私はいい人よ」
本気で言っているのだろう。こんなヤツはだいたい人でなしだ。
カワノとミセスフォルンはエルフの好む仰々しいくらいの遠まわしな言い回しを多用する打ち合わせを終えて、カワノが先に席を立った。去り際に「頼むぞ」と珍しくそんなことを言った。でかい仕事なのだろうけど、ツバキにとってはいつもと同じことをするだけだ。
「ねえ、あの悪魔が来ても私を守れる?」
「大丈夫だよ」
悪魔に狙われるほどの偉いおばさん。こんなのが母親だったらよかったのに。ここに来て縁を切れているのだから、今更な話だ。
フォルンは自身の立場を語らないし、ツバキも力を見せる気はなかった。サテン地に蝶の刺繍が入った妙な服を着た少年は目立つ。男芸者にも見えるのに、フォルンは彼を引き連れて歩くことにためらいはない様子だった。
ネズリルとかち合うこともなく、徒歩で庭園区画を抜けて行政区に入った。
高い高いゴシック建築で溢れるビジネス街。
「ねえ、ツバキくん」
「なに?」
「多分、悪魔がくるわ。頼んだわよ」
そんな気がしてた。楽な仕事があるのなら、一度でいいからお目にかかりたい。
カダスの下水道は相当に古くから存在している。古過ぎて行政にもその全景はつかみきれていない。
ハイエルフの造った独立都市は今まで幾多の危機に見舞われていた。下水道が迷宮のようになってしまったのも、はるか昔に起こったドゥベルグ進攻のためだ。
ドゥベルグとは邪悪な地底人類の一種で、ドワーフから人間らしさを抜いたような連中である。彼らはドワーフと同じく様々な技術を持っている。中でも、地底トンネルについては驚嘆すべきものがあった。そして、その最高の完成例こそがカダスの下水道である。
地下深くよりハイエルフの住まうカダスを乗っ取ろうとしたドゥベルグは、激戦の末に地下に追い返された。
古い骨や巨大な鼠や名も知れぬ蟲の楽園の一画で、恒例のサバトが開かれている。
繋がる男と女、老いも若いも。焚き染められた麻薬、酒、食い物、血。
悪魔は、ヤナギは暗がりでじっとうずくまっている。
隠密基本技能、その中に含まれる毒物への耐性で麻薬にも意識は乱されない。
乱痴気騒ぎの中心には、炎と祭壇があった。今宵の生贄はいつものごとく参加者の一人だった。別に興味は無い。炎にゆらめく異形の神像も、初めて見た時のような感動は与えてくれなかった。あれは石の塊だ。あれに魅入られる連中は、己の中に邪神を飼っているにすぎない。
「見つけた」
ヤナギは顔を上げない。
「混ざらないの?」
ヤナギは答えない。
「そっか、こういうの嫌いだったよね」
ヤナギは応えない。
「聞いてんのかよ化物」
ヤナギが顔を上げた。マスクのスコープは有事に備えて目の位置にあった。キリキリと鉄の筒に見えるスコープが倍率を変えて伸び縮みする。
「……なによ、文句があるの」
首をつかむ。
片手でもひねり殺せる。
手の中に命がある。動脈の動きを温かな血管から感じた。
「は、な、せ」
放した。
女はうずくまって咳き込んでいる。やりすぎたかもしれない。
「お前、何をする」
ヤナギから返答はない。ただ、倍率をめぐるましく変えるスコープの高さが変化するだけだ。
「昔はもう少し喋ったのに」
そんな時もあったか。
「次が最後の仕事よ」
ヤナギはようやく反応した。あのスコープの下で、声の主を能動的に見つめている。
「ハ、ハハハハハ」
ヤナギが笑った。マスクのせいで声はくぐもっていた。
「薄気味悪い」
年若い女は吐き捨てるように、実際に唾を吐いて背を向けた。
約束は守ってもらう。
たとえ、さきほどの年若い女、リーン・フォルンがそれを忘れていてもだ。
自宅というのは一番危ない。
ボディガードという仕事について初めて知ったことだ。自室に入って気を抜いた時に賊は襲い掛かってくる。よくよく考えれば、人目もないし忍び込むことさえできれば確実で安全に暗殺できる場所なのだ。
人気もなく生活感の無い邸宅の私室に入った瞬間、賊は襲い掛かってきた。
フォルンは驚いた、という顔のまま迫りくる刃に硬直していた。
ゆっくりと近づく刃、実際には数秒の中で、それは固まった血のような色の手甲に弾かれていた。
「下がってて」
病んだ美しさのある少年の声だ。
フォルンが振り向くと、そこには地獄から這い上がってきたかのような騎士の姿があった。全身を包む赤黒い板金鎧と兜。鎧のことを知らない者が作ったかのような重すぎて使い物にならない鎧であった。
「いいから、下がって」
手を引かれて、フォルンは騎士の後ろに尻餅をついた。
赤黒い鎧にはびくびくと血管のようなものが蠢いていた。禍々しい鉤のような突起が全身についたそれは、本能に訴えかける恐怖を放ち、騎士が片手に握る両手剣は人が使えようもない巨大さであった。
顔を隠した賊も浮き足立っている。それは恐ろしいだろう、あんなものが前にいれば。
巨大な剣が凄まじい速度で賊を凪いだ。
騎士は手持ち無沙汰に大きすぎる剣をどうしたものかと一度見やって、そっと床を傷つけないないように置いた。
ごとん、という相当の重量を置いた振動で、硬直していた賊の体がズレた。
短剣を構えたまま、賊は腰とその下が分離した。私室に敷かれた上等な敷物が、みるみるうちに血液で台無しになっていく。
なんという恐るべき一閃であろうか。賊に動く暇も与えず、フォルンの、エルフの眼にも捉えられぬ速度で生きた的を両断せしめたのだ。
「生かしとくべきだった。ごめんなさい」
地獄から這い出した騎士は、ツバキである。
召喚術師。
上級職である。転職前の職業クラスは不問。条件は召喚術の一定以上の使用回数。
召喚術にとってモンスターを呼び出すのはおまけであり、お遊びに過ぎない。本来のプレイスタイルは負、または正の次元界より武具を召喚することにある。召喚された武器はゲームバランスを崩壊させかねない力を秘めているが、時間制限により消滅する。
負の次元界の全身鎧、負の次元界の片手用両手剣、一分間だけ現界に召喚可能。
フォルンが固まっていると、騎士から鎧と剣が消滅した。残るのは、ツバキという男芸者のような少年だけだ。
「掃除、大変じゃないの」
フォルンはどうしてか、そんな言葉を搾り出した。
「ははは、余裕だね」
「驚きすぎてよく分からないだけよ。助かったわ」
「どういたしまして」
さて、システィナ・フォルンはヴァルチャーの非常識な力を目の当たりにして、ようやく悪魔に追われることの恐ろしさも理解できた。王宮に上がったヴァルチャーはもっと上品に、ちょっとした手合わせにしてもこちらに合わせてくれていた。
いつの間にか錯覚していた。
ヴァルチャーの異質さを見誤っていた。彼らは暴力的な奇跡を、その外見からは想像すらできない力を秘めた人の形をした怪物なのである。
「ラシャン・ドゥーリは悪魔の毒で生きながら腐り落ちたわ。あんな目にあうのはごめんなんだけど、イケそう?」
「やってみないとどうにも」
彼女とカダスを救えるのはツバキをおいて他に無い。
カダスの女傑と呼ばれたシスティナ・フォルンは王の腹心の一人であり、ダークエルフとの講和の責任者である。
肌の色の争いを終わらせる使者は、幾多の敵に狙われている。
「あなたに賭けるわ」
彼女は軍を動かせない。軍部は今回の講和そのものを知らない、ということになっている。王の密命により、死地へ赴く定めである。
「そういうの、苦手なんだけどなあ」
闇を切り裂く剣である飛び切りのボディガードは、頼りなくそう答えた。
続けるか分からないのでsage更新です。
続きは時間が取れた時に。