今月は二月。
この世界ではこの言い方はせず、もう少し長ったらしい名前を使っているので正確には違う。
おまけに僕の言う二月、僕の命日がある二月四日と言うのもこの世界と元の世界とでは暦に差があるため、もう何時が僕の命日なのか分からない。
まあいい。とにかく二月だ。
中旬には妹と母親及び女性多数からチョコレートなどの菓子を寄越せと押し寄せてくる、余り良くない恒例行事のある月。
この頃になると冬の気配と言うのにどこか衰えを感じるようになって、春が待ち遠しくなる。
だが、それでもまだ冬。
朝方は非常に寒く、夜の帳は昼より長い。
そんなある日の、昼下がり。
用事というほどの事でもないが、僕は少し遠くにある廃墟に出かけた。
実際は廃墟でなくても人気のない場所であるならどこでも良い。
ただその廃墟、廃棄されて長い年月の経った教会の静けさが心地よく感じられる。
あることのため僕はあの廃墟に少し、足を運んだ。
到着して早々無事な長椅子に積もった雪を払い、腰に下げている物騒な物を背もたれにかけて仰向けになる。
穴のあいた天井からはちょうど良く空が見える。
――……皆、元気にしているかなぁ……
置いてきた人々は数え上げればきりがない。
もう会えないと分っている存在も多い。
個人的な事情により会ってはならない人も星の数以上にいる。
彼らは無事に過ごしているだろうか。
心残りは、そのぐらい。
ふと、視線を横にずらす。
そこには壊された、歴史に出てくるある英雄の石像がある。
彼女は多くの人々を救い、多くの敵を殺して来たのだろう。
歴史や逸話はそれを美化して話すため、どうしても話半分にしか見れないものの、だがそれでも分かる事実はある。
ただ思うのは彼女は、最後にはちゃんと笑えたのだろうかということだった。
良く分からない。
僕はその時その場にいなかった。当然だ。
だから分からない。
壊れた石像は何も答えてはくれない。
――……ああ、嫌だな。本当に嫌だな。
置いてきぼりにするのも、置いてきぼりになるのも嫌だ。
失うのも嫌だ。
どちらにせよ悲しい思いをするから、僕は嫌いだ。
視線を空に戻す。
今まで様々な人々にあった。そしてこれからも、ずっと。
少々変わった人ばかりだが、それでもいつも楽しい。
笑いながら「死ね」という言葉を望み、それを人の義務だと言った連中がいた。
結果を理解した上でその人は彼らの望みを叶えた。
失いたくないから失うことを選んだ人が居た。
辛さを理解しているからその人は仕方がないと笑った。
重すぎる期待を小さな背中で背負い、それを叶えようと必死な少女が居た。
とりあえず、出会い頭にぶん殴った。
近頃よく夢を見る。
知らない場所で知らない人との記憶だけど僕はそれが、どうしても他人の物とは感じられない。
――痛むのは、この心ばかり。どうせならその傷も夢のように消えてくれれば……
夢の中の幸せな日常は突然の不幸と共に終わる。
常に自分だけが早く、常に自分だけが先に、常に周りの人を置き去りにして。
ああ、本当に嫌だ。
自分が泣かせたくない人を泣かせてしまうなんて、本当に嫌だ。
――また、会えたら良いのに。
ああ、叶わないことなど分かっている。
叶ってはならないことも分かっている。
死者が生者に逢うことは死の冒涜だ。
それは他の、他の悲しい思いを乗り越えた人たちに失礼だ。
それでも、それでも。
痛む心に嘘は付けない。
――寒いな。
立春が過ぎたとはいえ、季節はまだ冬だ。
流石に隙間風の入る廃墟では体が冷える。
帰るべきかと考えながらもまだ帰る気は怒らず、僕はまだここにいることにした。
ふと、この身について考える。
死後、僕はこの世界に迷い込んだ。
実際のところはその表現は正しくなく、考えてみると転生の方が正しい。
だが転生、これすらも的を射ておらず、憑依と言った方が間違っていない。
異世界迷い込み、転生、憑依。
この三つのどれにも当てはまらずにかつ、それらの一部を満たしている。
さて本当に、どうしたものか。
ああ、そう言えば去年の暮れに旅に行ったな。
面倒な奴らに出会ってなければ良い。
とはいってもこれば希望的観測、裏切られるのが世の常人の常。
さてはて、未来は一体誰の手の上で踊っているのやら。
――……考えていても始まらない、か。
何とかなるとは世迷言だが、何とかしないといけないことがあるのも事実。
とにかく何事も問題が見えなければどのような対処も出来ない。
いるはずの無い敵に怯えて手当たりしだいに何でも行うのは愚策だ。
そろそろ家に戻り、開店準備をしなければならない。
そう思い、コートに付着した雪を払う。
ティアさんから貰った純白のコートは何やら手直しするらしく、正月を終えた時に一時返却した。
元々あのコートは彼女の物であるから、名残惜しくても返却を迫られたのなら当然返さなければならない。
今身に着けているのはコートを貰う前に買った茶色のコートだ。
ジャンバーなんて便利な者は存在しないため、防寒着は必然的にそう言った化学繊維を使わないものになる。
布の間に綿を詰めた防寒着もあることにはあるんだが、僕はアレは好きじゃないんで却下しているだけだけど。
――…………
扉の役割も失ってしまった入り口で振り返って教会を見渡す。
二百年ほど前に起こった宗教内の革命で聖書の解釈、信仰の対象などが変わったために出来た廃墟。
朽ちた木材や穴の他には壊れた石像が目に映る。
――だから英雄なんて下らない。成る者じゃないと、忠告したのに。
声は木霊し、やがて消える。
そして僕はその場所を後に店へと戻った。
帰って早々温かいホットショコラを作った。
実を言うと鍋や熱燗が美味しくなり、風情ある雪が美しいので冬は好きだが、寒いのは苦手だ。
こういうわがままは人が普段から持っているものだと思う。
――はぁ、やれやれ。
定時頃に店を開けたのだが、本日もやはり客が来ない。
特に冬になると家から出るのが億劫になるのか、客入りが非常に悪くなる。
むしろ春夏秋冬お構いなしに行動する人間の方が異常なのだ。
やはり季節に合わせた行動が自然に優しいだと思う。
良し決めた。
いつか必ずスローライフを実現してみせる。
ふと、ローズの姿が脳裏をよぎる。
いつか、スローライフを実現してみせる。
ティアさんのコート、温かいよな。
スローライフを実現できたら、良いな。
ああそうだ。赤ワインを用意しておかないと。
どうやら夢への道のりは恐ろしく険しく果てしなく遠いようです。どっとはらい。
――やあ、いらっしゃい。
――久し振りじゃな、マスター。
――そうだね。お爺さんが一人で来るのは久し振りだ。注文は何にする? いつものコーヒー?
――ああ、それを貰おう。
――分かった。ちょっと待ってね。
考え事を一時中断し、湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
お茶受けはチョコレートで。
毎年チョコレートを、と言うかお菓子を大量に作っていた癖で今年も作ってしまった。
だが、余りの量に全て処分することが出来ずにいる。
いい加減にこの癖を直さなければならないと思う一方で、こうでもしないと金がたまる一方なのだから仕方がないと考えている自分がいる。
しばらくは日持ちする物を作っているつもりなので当分の間は問題ないだろう。
例年の如く十四日の次の日に孤児院にばらまいても良し。
そう言うわけで近頃のつまみ、茶受けは嗜好品であるチョコレートとなります。
あんまりにも品質がばらばらなんで、まともな物を全て嗅ぎ分け、余すことなく大人買いしたわけだが。
聞いた話によるとどういうわけかこの世界にも日本版ヴァレンタインデーらしきものが存在するらしく、特に上流階級の子供たちは嗜好品であるチョコレートを美味しく加工して意中の相手に送るのが流行っているようだ。
さて、発作と昔の習慣と言うダブルラリアットのせいで発狂し、良質のチョコレートの買い占めを行ってしまった今年、彼ら彼女らは大丈夫なのだろうか。
そんなことは僕の知る所ではないので考えない。
――ふー、やはり美味いな。何より落ち着く。
――まあ茶道は基本的にそう言った寛ぎを求めたものだしね。変に凝り固まってやるものじゃない。けど、どうしてか人は礼儀作法に求める。あんなもの、最低限守れば十分なのに。
――全くじゃ。人の心を落ち着かせない茶の場など、茶を飲まずに水を飲めば事足りる。何のための茶なのか、それを人は理解しておらん。
――そうだね。
続いて自分の分のコーヒーも淹れる。
ブルーマウンテンやキリマンジャロ、モカといった銘柄がない分、そう言った他人が作った指標による味の補正もなく、純粋にコーヒーが楽しめる。
やはりおいしい物は美味しいのだから純粋にそれを楽しめばいいのだが。
どうして人はブランドなどと言う下らない物に拘るのだろう。
未だに理解できない。
――また暗い顔しているね。
それにしても、だ。
この人はどうしてこうも問題を抱えてから来るのだろう。
もしくは問題を抱えてばかりいるのだろうか。
どちらにしても迷惑なことだ。
――ああ、済まん。それにしてもマスターは敏い。我は表情に出ぬ方だと自覚しておるのに。
――そうだね。表情には出ていない。でも何となく分かるものだよ。
――そのようじゃな。
肌で感じる空気が良くない。
例えどれだけ表情でだませたとしてもその問題を考えているならば雰囲気に不安や悩みがにじみ出る。
それを完全に抑えることは不可能だから問題を抱えているのだ。
やれやれ、面倒だ。
――どう足掻いたところで物事はなるようにしかならないんだし、出来る範囲で全力を尽くせばそれで良いんじゃないのかな?
――それでも、失敗を恐れるのは当然じゃろうが。
――むしろ失敗を恐れないのは愚行だ。だからといって何でも疑うのもまた愚行だよ。やると決めたなら成功を信じる。そうしたほうが良いさ。少なくとも心にとって。
――所詮一度決めたこと。それに逆らわぬというのなら、疑わん方が良い、か。
――そう言うことだね。だからといってこうしたほうが良いという案があるなら検証したほうが良い。世の中絶対的に正しいことなどないのだから。
――全くじゃ。未来は何が起こるのか分からない。故に面白く在り続ける。そうじゃろう、マスター?
――その通り。
ああ、そろそろコーヒー豆を調達しないと。
ゼノンに頼まないといけないな。
さて、次彼が来るのは一体何時になることか。
――考えることは悪くないけど、たまには休むようにね。考えてばかりいると、無駄なことまで考えてしまうから。
――それでも考えてしまうのは人の性。だが、時に心を落ち着けるのも悪くない。
テストでも良くある。
簡単な問題であるのに難しく考えてしまったために解けなかった。
考えることが悪いとは言わない。
考えないといけないことがあるのも確かだから。
でもやっぱりそういう生き方は疲れやすい。
――分かり切ったことではあるが、マスターは何時もゆっくりしておるな。
――急ぐのは性に合いませんから。
第一急ぐほどの人生じゃないし。特に僕の人生は。
まあ人それぞれ、堪能できればそれでいい。
人生なんてそんなものだ。
チョコレートを一粒口に含む。
ああ、後で商会の人に差し入れで持っていかないといけないのだった。
あそこの女性職員たちのおかげで発作を満足させることが出来たのだから。
こう言った融通が聞くのは米や昆布など珍しい物を回してもらう代わりに時々差し入れしている成果だ。
それにしても女性は、本当に甘いものが好きなようだ。
――何でだろうね?
――「何が」が抜けておるぞ。
――んと、色々とさ。
分からないから楽しく、分からないから恐れ、分からないから不安になる。
何時か別れることを分かっているからこそ人はそれを悲しく感じる。
分かるから、分からないから。
その違いは素晴らしい物でありながらもやはり、理解できない。
ああ、本当に何故だろうか。
何故こうも世界は万華鏡の如くあるのだろうか。
――良く分からんが、悩め若者。考えるのは生きている者の特権だ。
――深く考えるのは好きじゃないんだけどねぇ。
――ほお、理由を聞いても良いか?
――簡単に言うと、己の無力さが悔しくなるから。考えると自分に力があれば、とありもしないもしもを考えてしまうんだよ。それが嫌い。
――なるほど。故に悩み、考えることを止めたのか。
――やめてはない。嫌だと言う理由で逃げたくはないから。ただ、無意味に悩むのが嫌いなだけさ。
――間違ってはいない判断だ。
間違っていない。
正しいというわけでもなく、かといって間違っているわけでもない。
凡庸性はあるものの、正確性がない。
その場においての誤答と言うわけではない。
そんなある意味最悪の判断。
――冬もそろそろ終わるな。
――気が早いね。春はまだ先だよ。
ふと窓の外を見つめるアウルがそうこぼした。
僕も窓の外を見るが、やはり曇っていて良く見えない。
だが雪が積もっていたのは知っている。
まだ春は遠い先だ。待ち遠しい。
――だがもうすぐ終わる。
――そうだね……ねえアウル、春が来たら皆で花見をしようか。
――皆、とは常連の者たちのことか?
――うん、そう。
考えてみれば十分に話の分かる人が集まっていると思う。
花見に誘えば快く乗ってくれるのではないだろうか。
見る花は出来るなら桜が良いが、そこまでの願いは言わない方が良い。
――そう言う息抜きも良いな。分かった。他の者にも伝えておこう。
――皆と連絡取れるの?
――ああ、任せ給え。
――ん、分かった。じゃあ酒とつまみはこちらで用意するよ。日付、決まったら教えてね。
およそ春と言える時まで二カ月。
それまでにどれだけ材料を仕入れることができるのにか。
そして僕はどこまで作ってしまうのだろう。
やれやれ、材料集めのためにも商会の人達への差し入れが増えそうだ。
ところで、このチョコレートとかを露店で売ってみてはと近所のおばさんに言われたのだが、それをやると取り返しのつかない事に成りそうなのはどうしてだろうか。
――それでは、またの。
――うん。皆によろしくね。
やはりアウルは代金を何も出さずに行ってしまった。
別にそのことは気にしていないし、行きすぎるほど払われるよりも気が楽だ。
本当なら適正価格を支払ってほしい所なのだが、それは物価を理解していない僕が悪い。
客に文句を言うべきではない。
だから何も言えない。
――……春、か。
閉店準備をしながらふと、外に眼をやる。
春、花見はきっとその盛りに行われるだろう。
親しき者と飲む酒は格別な味がするに違いない。
ああ、今から本当に楽しみだ。
楽しみだが、本当に。
――保つと良いなあ、僕の身体。
さて、この生は一体いつまで続くのか。続いてくれるのか。
僕が常々考えていることはそれだ。
まあでも春、最悪でも夏の終りまでは続いてくれるだろう。
そこから先のことは知らない。
呟きながら僕は、口元に付着している汚れを拭った。
本当に、未来は分からない。
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彼女、スオウは同志を集めるために他の世界を巡っている。
その間、我はユウキを監視し、もしも体調の悪化などがあれば即時彼女に伝える。
我々に出来ることなどスオウよりも少ない。
むしろ勝手に手を出すよりも入念に情報を集めたスオウの考えを聞いた方が的確だ。
何より彼女は世界に囚われていない。
その自由が我にはとても、羨ましく思える。
さて、そんな問題の渦中で何も知らずに普通に生活しているユウキ。
ついこの前に無縫天衣をティオエンツィアに返却していた。
どうやらティオエンツィアも準備を始めたようだ。
ヴァランディールもしっかりと療養を取り始めている。
ゼノンは我々に知らない所で行動しているようだが、問題ないだろう。
ただ、アリーシャ。それからティオエンツィア。
少しはユウキの体を労わってやってくれ。
そう思う年明けが、今年はあった。
――やあ、いらっしゃい。
――久し振りじゃな、マスター。
思えば年明けから始めてこの店に足を運んだ。
ふと考えてみると彼とこうして対面するのも久し振りだ。
普段は遠くから見守り、迫る害悪を払いのけているため、彼のように久し振りとは感じない。
例えば本日の昼間のように、何の前触れもなく近くの棄てられた街に足を運んだ際、五度越冬の準備が出来なかった魔獣に襲われかけ、その都度我がそ奴らを塵と変えた。
――そうだね。お爺さんが一人で来るのは久し振りだ。注文は何にする? いつものコーヒー?
――ああ、それを貰おう。
――分かった。ちょっと待ってね。
注文を受けたユウキは慣れた手つきでコーヒーを淹れる。
しばらくすると店内にコーヒーの良い香りが漂い始めた。
他の者は独特な香りと苦みを嫌ってこれを飲まんが、我はこれが好きだ。
特に甘いチョコレートとの相性が良い。
ユウキが静かにチョコレートを差し出す。
これは、非常にありがたい。
――ふー、やはり美味いな。何より落ち着く。
――まあサドウは基本的にそう言った寛ぎを求めたものだしね。変に凝り固まってやるものじゃない。けど、どうしてか人は礼儀作法に求める。あんなもの、最低限守れば十分なのに。
サドウ、スオウによれば茶の道と書くのだったか。
ああ、確かにあの時に呑んだ抹茶は周りの剣呑な雰囲気を物ともせずに我の心を落ち着かせた。
ユウキのことだから自分の都合のよいように曲解しておるだろう。
それでも、やはり良い物は良い。
――全くじゃ。人の心を落ち着かせない茶の場など、茶を飲まずに水を飲めば事足りる。何のための茶なのか、それを人は理解しておらん。
――そうだね。
笑いながら答える。
年明け早々あれだけのことをしておきながら何も変わらない彼に心の中で称賛の拍手を送ろう。
いや、むしろこの程度当然か。
普段から神格化の拒否反応に押し殺し、耐えておる。
たかが数人と褥を重ねた程度で雰囲気が変わるわけもない。
――また暗い顔しているね。
今後の事を考えていた時、ユウキが声をかけてきた。
雰囲気の些細な変化を敏感に感じ取ったか。
隠すこと、悟ることには妙に長けおって。
もう少し人にまじめに心配させてくれ。
そうもうまく隠されてはこちらは裏に隠れて様子をうかがうことしかできん。
時々真剣にそう願う。
――ああ、済まん。それにしてもマスターは敏い。我は表情に出ぬ方だと自覚しておるのに。
――そうだね。表情には出ていない。でも何となく分かるものだよ。
――そのようじゃな。
これ以上ユウキを心配させないためにも一時考え事を止める。
考え続ける限り、彼はこちらを気にする。
自分の事を顧みずにひたすらに。
それしか出来ないからというのは理解するが、だがそれでも少しは自分のことを考えてほしい。
本人は声を大にしてそんなことはないと言いそうだ。
――どう足掻いたところで物事はなるようにしかならないんだし、出来る範囲で全力を尽くせばそれで良いんじゃないのかな?
――それでも、失敗を恐れるのは当然じゃろうが。
――むしろ失敗を恐れないのは愚行だ。だからといって何でも疑うのもまた愚行だよ。やると決めたなら成功を信じる。そうしたほうが良いさ。少なくとも心にとって。
確かにユウキの言うとおりだ。
何でも疑ってしまっては身動きが取れなくなる。
かといって猪の如く突っ走ることは論外。
全ては程よく、そのさじ加減がかなり難しい。
――所詮一度決めたこと。それに逆らわぬというのなら、疑わん方が良い、か。
――そう言うことだね。だからといってこうしたほうが良いという案があるなら検証したほうが良い。世の中絶対的に正しいことなどないのだから。
――全くじゃ。未来は何が起こるのか分からない。故に面白く在り続ける。そうじゃろう、マスター?
――その通り。
我の分に続いて入れた自分の分のコーヒーを飲みながらユウキは答える。
口に含んだチョコレートは絶妙な甘さとほろ苦さの調和を奏でつつ、すぐに溶けて消えた。
曰く、生チョコレートだったか。
もうここまで行くと完全な高級品、一部王族のための食べ物だ。
それを平然と作り、惜しげもなく出すユウキ、少しは場違いさを自覚してもらいたい。
――考えることは悪くないけど、たまには休むようにね。考えてばかりいると、無駄なことまで考えてしまうから。
――それでも考えてしまうのは人の性。だが、時に心を落ち着けるのも悪くない。
差し出したカップに静かにコーヒーが注がれる。
もうじきこの時間を本当に楽しめる日が来るだろう。
その日が非常に待ち遠しく感じる。
ただ問題は、その日が来た時この店に全員が入るかどうか、である。
大切な人のことを真摯に想うユウキのことだ。
例えその記憶に残っていなくとも彼はきっと覚え続けることだろう。
自分にとって大切な人の事を、心のどこかで。
優しい彼のことだ。
忘れるという選択肢は決してなかろう。
もしかしたら逢えば思い出すやもしれん。
――分かり切ったことではあるが、マスターは何時もゆっくりしておるな。
――急ぐのは性に合いませんから。
確かに、急がないからこそ我らは彼に興味を抱いた。
我らと同じように時をゆっくりと歩むのに、何故彼は彼だけは素晴らしい生を歩んでいるのか。
彼のように生きてみたくて近づいた。
そんな彼が急ぐ。
少々おかしな話だ。
――何でだろうね?
――「何が」が抜けておるぞ。
――んと、色々とさ。
不意にユウキが言葉が欠けている疑問を口にする。
疑問文としては成り立っている。
会話の途中であるならばある程度推測は出来よう。
だが、こんな疑問文が文頭に来るのならば理解できない。
彼は一体、何を聞いているのだろうか。
――良く分からんが、悩め若者。考えるのは生きている者の特権だ。
――深く考えるのは好きじゃないんだけどねぇ。
――ほお、理由を聞いても良いか?
――簡単に言うと、己の無力さが悔しくなるから。考えると自分に力があれば、とありもしないもしもを考えてしまうんだよ。それが嫌い。
確かにその仮定は余りに辛い。
過去を振り返る、そのときもしも何をしておけばと言う仮定は良く脳裏をよぎる。
しかしそれらは起こる未来を知っている故に出来る仮定であり、その時その場では取らなかった選択肢の一つだ。
特に彼はどれほど努力を重ねた所で力を手に入れることは出来ない。
伸ばした手が届かないのは良くある。
それでも彼は、残された人のために普段を装う。
道化、心の中でその言葉が響いた。
――なるほど。故に悩み、考えることを止めたのか。
――やめてはない。嫌だと言う理由で逃げたくはないから。ただ、無意味に悩むのが嫌いなだけさ。
――間違ってはいない判断だ。
ああ、なるほど。
過去のことは振り返っても仮定はしない。
ただ振り返り、届かない手を見つめ、決して忘れることなく抱えて歩き続ける。
全く、世界も酷い事をする。
無力なユウキからその記憶すら奪おうとするのだから。
だが、その呪縛ももうしばらくで終わる。
終わらせて見せよう。
――冬もそろそろ終わるな。
――気が早いね。春はまだ先だよ。
――だがもうすぐ終わる。
――そうだね……ねえアウル、春が来たら皆で花見をしようか。
――皆、とは常連の者たちのことか?
――うん、そう。
――そう言う息抜きも良いな。分かった。他の者にも伝えておこう。
――皆と連絡取れるの?
――ああ、任せ給え。
――ん、分かった。じゃあ酒とつまみはこちらで用意するよ。日付、決まったら教えてね。
ああ、スオウに伝えてみるのも悪くないかもしれん。
さて、彼女はどのような反応を示すか。
そもそも来るのかどうか。
非常に楽しみだ。