「地獄のなかの《真》《善》《美》」第1話
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《真》とはなんぞ
《善》とはなんぞ
《美》とはなんぞ
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彼女は垢でてらてら光ったシュミーズを着て、藁布団のなか、膝をかかえて真っ暗のなか目を見開いていた。階段下の物置のようなこの部屋は家具ひとつなく、窓さえなく、夜になると寒さと暗闇が襲ってきた。今も、彼女は腹ペコのお腹をぎゅうぎゅう抑えながら、寒さにふるえて、すこしでも体温をあげるべく体に力を入れていた。
「空(くう)なるかな、空なるかな、空なるかな……」
と不意に呟いて彼女は体を起こした。極まった空腹のせいか、いろんなことを考えすぎてどうしても眠れないのだった。
彼女は暗闇のなかじっと目を凝らした。そして長い黒髪のかかった細い首をぐるぐる回してあたりを見やった。どこかに食べ物はなかったかなあ――。
しかしあたりにはうず高く積もった埃と、寝る前に脱ぎ捨てた一張羅のワンピース、それに踵のつぶれた小さな靴しか見当たらなかった。それらはまさにいつもと同じ光景で――ネズミがいない分まだましだった。
「どうしてかなあ。どうして私は」
彼女はがっくりしたように肩を落とすと、ぼうっと暗闇に浮かび上がらせていた痩せた蒼白い顔をうつむかせた。
どうして。どうして私の体はまだ死なないのだろう。もうそろそろ死んでもおかしくない状態だぞ、貧乏ってなかなか人を殺さないのかなあ。ああお腹減ったよ、ああ、お腹減った、神様のいじわる!
彼女の剥き出しの肩をふと寒気が襲った。彼女はひとつぶるりと大きく震えると、わびしくて悲しくて、そういうのには慣れているはずなのに泣きたくなった。
ああ、死にたい!
死んで幸せになりたい!
そこで、彼女は元気を出すためにまたあれこれ考え始めた。
「《生》ってなんだろう……。弱者の生きる意思は、やっぱり怒りなのかな。怒り、怒り、怒り……。怒れ! 怒って、自分を罰せよ、私を罰せよ! そして自分以外の全てを許しなさい!!」
いつもの元気の出る呪文だった。彼女はそう自分に命令することで、なぜか顔が真っ赤になり、恥ずかしくなって、しかし体の奥のほうからふつふつと熱いものがわきあがるのだった。
「そろそろ寝なきゃ」と彼女が明日のことを考え、また藁に華奢な肩をうずめて天井の汚い階段裏の模様を眺めはじめたとき、三畳くらいの薄汚れた部屋の入口がそっと開き、ガス燈のオレンジ色の光が彼女を照らし出した。そして「テレーズ、生きてる?」と男の子の恐々としたか細い声が彼女の耳に聞こえた。
ドアの隙間からみえる男の子の顔は逆光でよくみえなかったが、背は低かった。
「まさか死んじゃいないよね」と男の子は呟いて、さっと部屋のなかに身を入れた。
部屋はまた真っ暗になった。彼女は体をもう起こしていて、男の子のほうを見ていた。
「ドスト、こんな時間に来るなんて、見つかったら先生に怒られちゃうよ?」
テレーズはたしなめるようにいい、続けて「誰かに後をつけられてたら……」と両手を上げて脅かすように笑った。
「大丈夫、誰もみてないよ。そるよりさ、ほら」
ドストは急いでポケットのなかからパンを出すと、テレーズに手渡した。「今日の夕飯の残りだよ! イチゴのジャムももってきた」
「あ、ありがとう……」
テレーズは自分が犬のように食べ物をめぐんでもらっている事実がすこし気恥ずかしかった。しかし空腹には耐えられず、いちごのジャムを震える手でドストからそっと受けとると、ぎこちない不細工な動作でパンにぬりはじめた。そして一口小さく、ジャムをたっぷり塗ったパンを噛みちぎり、甘いいちごの味が口のなかいっぱいに広がるともう止まらず、ドストの存在も忘れて一心不乱にむさぼり食った。
「テレーズが食べると、なんでもおいしそうに見えるなあ」とドストは感心したように、見栄も外聞もなく、ひとかけらのパンを生きるために食すというその本能の行為を、頬を紅潮させながら凝視した。
僕たち貴族は、こうやって平民の、労働者の、それこそまったき底辺のひとたちを救済しなきゃいけない! 見ろ、じっと見ているんだ! この彼女の動物のような有様を!
彼は幼い容姿に似合わぬ後ろぐらい微笑みを口元に浮かべ、慈愛と同情のこもった視線を彼女に送った。
「おいしい……」
パンを食べつづけるテレーズの、そのジャムで赤く汚れた口から出たというより、魂から出た言葉だった。本当に、本当に、本当においしい!
テレーズは、ふとした拍子でパンから顔を上げ、暗闇のなかで立ちっぱなしのドストを振り仰ぐとにっこり笑った。そして彼の顔の闇に溶けた輪郭を見ながら、なんて感謝の言葉を送ろうか少ししゅんじゅんし、それで結局ありがとうともう一度言おうとした。
「ありがとう」
体全体で感謝の意をあらわそうと、ぺこりと勢いよく頭を下げたとき、ぽろりと手からパンが転がり落ちた。彼女はパンがころころと彼の足下に流れていくのを冷静に見送った。そしてパンがその動きを止めてしばらくしたとき、彼女は顔を蒼白にし彼の顔をみやった。
ドストは彼女の表情の、天使のような微笑をたたえた瞳から不意に打たれたコジキのような驚愕と恐怖にかられた瞳への、とっさの変化に胸を打たれた。ドストの背筋にも、なにかとてつもなく悪いことをしたかのような悔悟の思いが、ある種の悪感のように走った。ドストはそっとゆっくりしゃがむと、足元のパンを手に取り、埃にまみれた皮をはぎとって、
「はい、テレーズ、これでまだ食べれるよ」
と無邪気に笑った。
テレーズは驚愕に固まった表情をすこしも変えず、ドストの老成したような、子どもにのみ許された純粋な微笑と、ドストの掌に置かれた、闇のなかまるでワタアメのように白くふわふわ浮かび上がったパンとをじっと不気味なまでに慎重に見比べていた。
――自由。
瞬間、ぐわっと目を見開いたかと思うと、テレーズはドストの手を思いきり叩いた。
パンはもう一度、掃除されたことのない汚い床の上を転がり、今度は勢いよく壁にぶつかった。音はなかった。しかしパンは人間のようにもんどりうって、じたばたもがいたかと思うと、やがてその動きを止めた。
静寂が、耳の痛むような沈黙が降りた。
テレーズの呼吸は荒く、頬は赤く上気していた。ドストは「どうして?」と問いたげな、儚げな微笑を浮かべ、転がり落ちた虫の死骸のようなパンを見守っていた。
――自由。
テレーズは今にも泣きそうだった。
あまりにも悲しかった。
訳がわからなかった。
ドストが今その胸に感じているだろう激しい痛みを感じ、また自分の生命の象徴でもあるパンをないがしろにした自身の軽挙に絶望し、そしてそうしなければならなかった悲劇を思った。泣いてしまいそうだった。
ああ、私は、私はなんのためにこんなことをしなきゃならないんだろう!
でも私はコジキじゃない!
犬でもない!
人間のように生きたい、あなたと同じ人間のように生きたい!
テレーズはこみあがる涙に喉が塞がれて、もう何も言えなかった。言ったら負けちゃう、言ったら泣いちゃうと思った。だから沈黙のまま、ドストの顔を無表情を装って眺めていた。
「あ~あ、もったいないよ、テレーズ!」
ドストは明るく苦笑して立ち上がると、パンに近寄り
「君が食べないなら、ボクが食べちゃうよ?」
とテレーズに振り返り、いたずらをするようにヒョウキンに言った。
「……」
しかし、かたくなに、それでいて困惑したように無言をつらぬくテレーズの、暗がりにきらきら情熱に輝く両の瞳をみて、ドストははっと緊張した。それで何かにつき動かされるように、埃を払いもせずパンを口のなかに放り込んだ。なにか、罪悪という観念を食べているかのような、不思議なコウコツと気味悪さを舌の上に感じ、またとろけていった。
じゃり、じゃり、と深夜の清澄な空気に、まるで神聖な儀式に耳を傾けるときのように、砂だらけのパンを咀嚼する音のみが彼ら二人の耳だを厳粛にうった。……
「じゃあね、また明日、テレーズ」
そう言って、パンを頬張ったままドストはそっと部屋を出た。廊下をガス燈の暖かみのある色がぼうっと照らしている。辺りはひっそりと静まりかえり、自分の足下から立ち上る板のきしむ音が悲しく響いている。
「被治者の自由……幸福の追求……怒りと破壊!」
ドストはパンを飲み込むと、うつろな目でぼんやり呟いた。
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ただ子供のみがあなたの御名を、汚すことなく口にすることができるのです――
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あとがき
こんにちは、emi-ruといいます。
この話は(といってもまだプロローグ的なものしか書いていませんが)、一応魔法学園的ノリで行こうと思っています。しかし基本的にはシリアス傾向を帯びそうです。
テレーズは貧苦に喘いでいますが、その心は野心と情熱でいっぱい。成り上がったら色々な搾取と衝動の精神に突き動かされる感じの設定で、ドストはキリスト教的な価値観をもった、しかしそういった価値観の偽善っぷりをよく理解した貴族の少年という設定です。
遅筆ですが、今後ともよろしくお願いします。