・Sceane 17-1・
「このナイトをこうで……チェックメイトで良いのかな?」
コン、と。クリスタルガラスで作られた駒を大理石の盤面の上で動かした後、アマギリは首をかしげながら言った。
パン、パン、パンと。その言葉に合わせて向かい合わせに座っていた人物―――即ち、チェスの対戦相手であったダグマイア・メストが拍手をしながら言った。
「お見事。―――チェスは初めてと仰られていましたが、御見それしました殿下」
アマギリの勝利を祝福するダグマイアのその顔は、心底感心していると言う表情で満ちており、それ故にこの場は友人同士が昼下がりの一時に盤上遊戯に興じているとしか見えなかったであろう。
当然であるが、平静を装っているダグマイアは当然気が気ではない。
目の前でチェスは初めてだと嘯く少年は、先日自らが暗殺しようとして失敗―――したのは、部下だ―――した張本人。凄まじく拙い事に、ダグマイアは必殺を確信して自身の口で追悼の言葉をアマギリに送ってしまっている。
その状況から生還したのであれば、普通常識的に考えて暗殺を試みたものに報復を考えるだろう。
だと言うのに、アマギリはこの一ヶ月近くダグマイアに対して何も仕掛けてこない。
教室で会う時は二言三言、当たり障りの無い会話をするだけだし、戦闘技術系の授業で組み合わさった時も、何か”不慮の事故”を起こそうと言う気配もまるで見えない。
自分がやった事は、相手も当然やる可能性がある。
犯罪を試みたもの特有の当たり前の発想でそう考えるダグマイアにとって、暗殺の主犯と考える他無いであろう自身を前に、何もしようとしないアマギリの態度は不可解だった。
まさか、突然自壊し始めた聖機人に混乱して、言葉を聞き逃していたのだろうかと、そう自分に都合の良い発想すらしてしまいそうになる。
そんな事は有り得ない。そう感じたからこそ、必殺の一撃を撃ち込んだというのに。
そして、ダグマイアが警戒を解かぬまま神経をすり減らして生活する事一ヶ月、遂にアマギリから直接的なアプローチがあった。
何時ぞやの約束の通り、昼食でも一緒しないだろうか。
立場上目上の人間から誘われて、断るわけにも行かず―――遂に来るものが来たかと心を引き締めてダグマイアはアマギリの誘いに応じたのだが、そこで待っていたのはごく当たり前の一対一の会食だった。
全面窓の眺めの良い、学院の食堂の専用個室での昼食会。
最近の授業の事や国際情勢に関する当たり障りの無い程度の意見交換。聖機師としての戦闘技術に関する会話。
そういった所謂学生の友人同士がするとしか思えないような会話に終始しながら昼食を終えた後、アマギリはダグマイアにこんな事を言った。
時に、ダグマイア君はチェスが強いらしいじゃないか。生憎と僕にはこういったゲームは経験が無くてね、良ければご教授願えないか?
否とは、言えなかった。
そして、アマギリの考えている事も理解できなかった。
それ故にダグマイアに出来た事は、極真っ当に、目上の人間を立てるように一局を終える事だけだった。
「……なるほどね、勉強になったよ」
駒を元の位置に配置しなおしながら、アマギリは楽しそうに何度も頷く。駒を持つ手つきはあからさまに慣れていないもののそれだった。
「勉強になったのは私の方です。駒の動かし方をお教えしただけで、後は真剣勝負だったのですから。井の中の蛙に過ぎなかった自身を恥じるばかりですよ」
自分の駒を元の位置に戻しながら、ダグマイアはアマギリの言葉に追従するように言った。
自身に指導をした強者からそんな風に返されて、気分の良くならない人間は居ないだろう。
「いやいや、そう言う事じゃなくてさ」
だと言うのに―――アマギリは何故か首を横に振った。親しい友人と、楽しくチェスを打っていた、そんなただの学生の筈の表情が、いつの間にか変化していた。
細めた目、釣りあがった口の端。吐く息は皮肉気なそれだ。
気配の変わったアマギリに気づき、食後の穏やかな空気に弛緩しかけていたダグマイアの背筋に、冷たいものが走った。
「どういう、事でしょうか……?」
自身の声は、震えなかった。ダグマイアはそうであったと信じたかった。
そんなダグマイアの態度に、アマギリは何てことも無い風に頷いた後で、さらりと言った。
「相手にさ、気づかれないようにギリギリで上手く負けてやるその手腕―――いやさ、実に勉強になるよ」
「――――――っ!?」
胃が引きつり、悲鳴を上げそうになる自身を、ダグマイアは叱咤した。
落ち着け、と。目の前にいるのは自身が最大限警戒して掛かっているアマギリ・ナナダンなのだから、と。
アマギリであれば、ダグマイアが手を抜いて一局を終えた事など、当然気づいてしかるべきだ。
ならば自身が考えるべきは、アマギリがそれを指摘したのか―――まずは、それを判断するのが先決。
「―――、お気づきに、なられるとは。申し訳……」
「ああ、良い良い」
さしあたっての謝罪の言葉を持とうとしたダグマイアを、しかしアマギリは手をひらひらと振りながらさえぎった。手を抜いた、その事実に激昂していると言う事も無いことが、まず解った。
「お互い、立場と言うものがあるからね。大方、お父上―――ババルン卿から言われているんじゃないかい? ハヴォニワの新しい王子と仲良くしておけ、とかさ」
しかし続けていわれた言葉は、ダグマイアにとって非常に判断に困るものだった。
父ババルンの名がこんなにもあっさりと自分との会話で持ち上がってくるとは、想像も出来なかったからだ。
アマギリの表情は隙の無い―――考えの読みにくい薄い笑みが張り付いたもので、ダグマイアには全く解らない。
どうする、どう答えるべきなのか。
これを取っ掛かりとして先日の件への追及が始まると言う事も、無い事もないか――ーそう考えて、ダグマイアは思わず視線を入り口のドアへと走らせてしまった。
部屋の中には給仕の影さえ存在せず、お互いの従者もまた、隣室で待機している。
食堂塔最上階の見晴らしの良い一室であるこの部屋は、外部からの介入も難しい。そう考えれば、この場で直接的な行動に移る事も、有り得るのか。いや、戦闘技術ならばアマギリよりも自身のほうが上。メイアが来るまで防ぎきる事など―――いや、ユキネ・メアが隣室でメイアを抑えてしまえば。そもそも、この部屋での昼食会を指定したのはアマギリなのだから、あらかじめ手を回して誰かを潜ませておく事だって―――それ以上に、根回しさえ出来ていれば誰も救助など来ない。
混乱は発想の飛躍を促し、この凪のような一ヶ月で積もりに積もった潜在的な恐怖感が、一気にダグマイアの中に膨れ上がってくる。
殺される。この場で。
その可能性を全く、否定する事が出来ないのだ。
言葉を返せなくなってしまったダグマイアを、アマギリは相変わらず薄い笑いを貼り付けたまま見ていたが、やがて、肩をすくめてこう言った。
「ダンマリ、か。前から思ってたけど、ダグマイア君って腹芸は苦手みたいだよね」
「それ、は―――。私を、侮辱していらっしゃるか?」
何かを観察されていたのだと、それだけは理解できていたダグマイアは、思わずといった風にぶしつけな言葉をかえしてしまっていた。それを拙いと思っても、口にしてしまった以上最早遅い。
「そういうつもりは無いけど、そう取ってしまったのなら悪いね。いや、たださ。始める前に言っていたじゃないか。チェスの打ち回しには打ち手の内面が現れるって。対面に座っている人間からは、存外一手に込められた意味ってのが透けて見えるものだよ」
「―――つまり、私の方が殿下を侮辱してしまっていたという事でしょうか」
やはり、手を抜いた事に謝罪を求められているという事なのだろうか。しかしそれでは先ほどの謝罪をさえぎった事と矛盾してしまう。訳もわからず首をひねるダグマイアに、アマギリは笑みを深めて言った。
「解らないかい? そういう部分が、って僕は言っているんだけど―――良いさ。それじゃあ、次は真剣勝負と行こうじゃない。学院最強の打ち手と名高いダグマイア・メストの一手を、拝ませてくれよ?」
そんな言葉とともに、アマギリは自身の陣地に存在する駒の一つを手に取り、ゆっくりと前へと前進させた。
それは素人とも思えぬ、堂に入った優雅な手つきだった。
揶揄するようなアマギリの言葉は、理解しきれない部分があった。
しかし、ダグマイアには一つだけはっきりと理解できた部分がある。
なぜなら、対局者が込めた一手を、対面に座するものは正確に理解できるからだ。
全力を見せても、僕が勝つけどね。
アマギリの初手は、正しくそう語っていた。
上等―――。ダグマイアは、反発的にそう思ってしまった。
挑発されている。ならば、それを叩き潰してこそのダグマイア・メストだと。そう、考えてしまう。
アマギリ・ナナダンの企みは依然として知れないが、まずは此処で勝利を収めることこそがその一歩を挫く事になるのだろうと、ダグマイアはまずはっきりと理解した。
「お望みとあらば―――」
全霊を持ってお答えしようと、ダグマイアはクリスタルガラスの駒を持ち上げ、大理石の盤上に打ち付けた。
※ まぁ、結果は見えてるとお思いでしょうが……