・Scene 51-1・
コンと、ハヴォニワ檜を削り出して作られたチェスボードに、漆塗りの駒が叩きつけられる音が響く。
「一つ、確認したいんだけどさ」
向かいからも手が伸ばされ、今度はニスだけが塗られた駒―――つまり、白駒が持ち上げられ、一つ前へと前進させられた。無論、木の盤と木の駒を打ち合わせたところで、普通は周りに聞こえるほどの大きな音は立たない。
「何も答えんぞ」
不機嫌さを微塵も隠そうとはしない言葉と共に、カン、と乾いた音が響く。
漆塗りの黒駒が、一つ移動して白い駒を盤上からはじき出した。
「―――ダグマイア君はアレ? 頬に紅葉作って人前に出て自慢げに振舞う趣味でもあるの?」
「何も答えんと言っているだろうが!」
だがん、とテーブルに叩きつけられた握りこぶしの余波で、足つきのチェス盤の上の駒が震えた。
「いやぁ、でもそんなにあけっぴろにされてるとさぁ」
苦笑を浮かべながら、凛音は白駒を動かして黒駒を盤外へ弾く。忌々しげに睨んでくるダグマイアの視線に、欠片も物怖じしない。
「―――なりたくて、こんな風になっているのではない!」
片方だけが真っ赤に―――紅葉のような形で腫れあがった頬をなで摩りながら、ダグマイアは呻いた。
「だけどホラ、回復亜法で簡単に消せるのに、わざわざ残してあるんだもの。―――やっぱり、ちょっとは記念にでもなるかなとか思ってるんじゃないの?」
「せめて自戒として残していると思えんのか貴様は!」
口調の強気さとは裏腹に、キングを一つ遠ざけている辺り、相変わらず堅実な打ち回しだった。
怒りに肩を震わせるダグマイアを、凛音は面白そうに眺める。
「へぇ、自戒なんて覚えたんだ」
「―――……っ!」
嘲笑とも侮蔑とも違う、心底面白がるだけの笑みだったから、ダグマイアとしては唸るより他無い。
「キャイアさんも報われるんじゃない?」
「黙れ!」
凛音が動かしたばかりの白駒を、返しの一手で叩き落しながら喚く。
盤上の経過はさて置いて、心理戦では明らかにダグマイアが敗北していた。
その様子を聖地学院の一般生徒が見ていたとすれば、”ああ、何時ものヤツか”と揃って頷いたことだろう、極有り触れた光景といえる。
「んでも実際、一方的に一発貰ってあげるなんて、どういう心変わりなのさ」
「……あくまでその話を振り続ける気か」
「いやね、何時も何時も言われる側にばかり回されるからさ、たまには聞く側に回ってみたいという男心が燻っていてさ」
「この場で貴様に一撃くれてやろうか……!?」
護身用に常から備えている懐刀を抜こうか抜くまいか、ダグマイアは本気で考え出していた。
流石に凛音も、同性の誼として申し訳ないと思ったのか、苦笑交じりに肩を竦めて言葉の調子を変える。
「―――キャイアさんがね、妙に気合入ってる訳ですよ」
手をひらひらと振って、軽薄な態度とは裏腹にその瞳は万物を探りつくすかのように深いものだった。
否、初めから、何時ものように凛音は目だけは笑っておらず、感情赴くままに制御し切れていないダグマイアが、それを思い出すのは何時も遅れたタイミングなだけの事。
その事実に改めて気付き、それを恥辱と感じて唇をかみ締めるダグマイアの様子を薄く笑いながら、凛音は続ける。
「あの人、割り合い切り替えが苦手なタイプだからさ、ああも突然前向きにテンション上げている姿見ると、妙に不安でね。ウチの連中に探らせてみると、何故かホラ。どこぞの倅君の頬が腫れていましたとさ」
「……仮にそこに因果関係があったとして、お前が何を気にする必要がある」
そこまで口にした後で、ダグマイアは一瞬言葉に詰まった。
自分がこれから言おうとしているその言葉の、余りの俗っぽさに愕然としたのだ。
これは、私とキャイアだけの個人的な問題だ―――等と。誰が聞いたところで痴情の縺れとしか思えない言葉だった。
だが会話の流れからして何もおかしな事は―――いや、それを考えると、そもそも目の前のこの男とこんな会話に興じている事実こそが、ダグマイアにとっては最大の狂気とも感じられた。
シュリフォンでガイアに立ち向かった―――人によっては、錯乱して突っ込んだだけにしか見えなかったろうが―――折りに負った傷を癒すために、暫く療養していた訳だが、問題無しと完治し、しかしいつの間にか到着していたハヴォニワの旧城に於いてダグマイアに与えられる仕事の一つもある筈も無い。
手持ち無沙汰にしていてみれば、余り好きとは評せない少女から、一方的にまくし立てられた挙句、頬に一発きついものをお見舞いされてしまう始末。
労しげにその後を見る従者の視線こそが一番耐え難いもので、停泊中だったスワンを降りてハヴォニワ旧城内の庭園区画をうろついていれば、仇敵とも言える男から、チェスに誘われる。
そして今、何故か異世界風の豪華な庭園の中心にある東屋で、盤を挟んで向かい合っていた。
―――思えば、遠くへと来てしまったなと、らしくも無く思ってしまう。
あらゆる俗事から目をそむけて、理想にのみ邁進する事が出来た自分が―――否。ひょっとすると、いや、確実に。当時の自分を、今の自分が見れば、それこそ滑稽に見えてしまうだろう。
変わってしまったのだ、ダグマイアは。望む、望まざるに関わらず。外圧によって―――外圧に、耐え切れずに。
「気にする必要? 当然あるさ。あの人アレで、貴重な戦力には違いないからね。これから厳しい場面に出張ってもらう予定なのに、それまでにガス欠にでもなられたら周りにも迷惑だ」
ダグマイアの内心を知ってか、知らずか。
凛音は言葉に詰まるダグマイアを放ったまま、身勝手で一方的な意見を述べた。
耳にするに不快極まりない。
女性の気持ちを何だと心得ているのかと―――考えてしまった自分に、ダグマイアは、絶望的な敗北感を覚えた。
「―――そうするべきだと、思っただけだ。犬畜生にも劣る慮外漢には、なりたくない」
だから、こうして。
張られた頬に宿った熱を思い起こしながら、知れず、呟いてしまう。
一方的に好きだ、嫌いだと重ねられて、返す言葉も無いままに叩かれてしまって、責める事すらしなかった自分。
情けない事この上なく―――その情けなさが、今は必要な気がしていたのだ。
広上げた黒い駒を弄びながら呟かれたその言葉を聞いた凛音は、暫くダグマイアを眺めていた後で、おもむろに肩を竦めた。
「つまりアレは、一つ気持ちの整理が付いて、つき物が落ちた様な感じだって思っておけば良い訳ね」
「私は知らん。本人に聞け」
誰、と最後まで固有名詞を出す事を拒絶するダグマイアに、凛音はやれやれと頷いた。
「良いけどさ。―――でも、何か浸っちゃってる今のダグマイア君も、それはそれで滑稽に見えたりもするよ?」
「―――黙れ」
冗談以上の意味を持たない言葉に、冗談以上の価値に至らない怒りで返す。
目の前のこの男と、そんなやり取りが出来てしまった事実に気付かされ、本当にもう、かつての自分には戻れないのだなと、胸の奥に寂寞感が湧き上がるのだった。
「それで結局貴様は、何故こんな所で私とチェスに何ぞ興じているんだ。―――そんな暇もあるまい」
私と違ってと、投げやりに吐き捨てながら、ダグマイアは強引に話題を変更した。
「まぁ、ね。思惑がてんでバラバラの多国籍軍なんか任されても、ホント面倒以外の何ものでもないよ」
「それは、位人臣を極めたものとして、書生に等しい私へのあてつけか何かか?」
「ダグマイア君じゃあるまいし、ただの正直な感想に決まってるだろ? 単純な話だけど、キミと雑談に興じている暇なんて当然無い。―――つまりは、必要が無い限りこんな場を持つはずも無い」
面倒くさそうな態度を隠そうともせずに、凛音は言った。
甘木凛音。
かつてアマギリ・ナナダンと名乗っていた、今はただの異世界人である少年は、対ガイア国際会議を主催した教会の権勢を強引に押さえ込み、それを各国の上に立つ特別な機関ではなく、ただの”少し大きめの一勢力”に過ぎないレベルにまで引きずり落として、自らが各国を指揮する頂点へと立った。
それにより、国際連合軍は教会の指導による一つの意思を持つ組織としてではなく、各国の思惑が複雑に絡み合う呉越同舟極まりない雑多な多国籍軍へとその性質を変貌させた。
当然、上に立つ事が確定した人間には、その利益調整のために奔走せねばならないから、こんな所で呑気に友人―――友人? ―――とボードゲームに興じている暇など無い。
そして当たり前の話だが、ダグマイアが層であるのと同様に、凛音もまた、向かい合っている男の事を毛嫌いしている筈だったから、理由が無ければ一々向かい合う筈が無いという言葉も当然だった。
更に言えば、凛音はダグマイアの能力をまるで信用していなかったので、そんな人間にわざわざ持ち込むような話は、面倒ごと以外の何でもないに違いない。
「―――それで?」
端的な言葉で先を促すダグマイアに、凛音もそれが当然と一つ頷いて口を開いた。
「北部中小国家群と共に、シトレイユへと攻め入って欲しい」
言われた言葉に瞬きする事も一瞬で、その内容を吟味するのはダグマイアには容易い事だった。
平均以上に能力があるためというよりは、単純に昔から、国同士の陣取り合戦にばかり興味があったから、とも言える。
「北部と言うと……ハヴォニワ、シトレイユと国境を面している国々だな。聖地へと入りきらなかった父上―――いや、ババルン・メストの軍は、四割がハヴォニワ、三割がシュリフォンに向かって……なるほど、空き巣狙いをしろと言うことか」
自身の言葉に、ダグマイアは鼻を鳴らして笑った。
「空き巣といっても番兵は居るんだけどね。―――ついでに言えば、ご存知の通り北部の連中は赤貧極まりなく、その軍勢はお粗末極まりない」
「―――なるほど、後詰めとして残されているシトレイユ精兵達を相手に、私に死んで来いと言う訳か」
喉を鳴らして皮肉るダグマイアに、しかし凛音は肩を竦めて既定の事実を告げるのみだった。
「当然だが、金も無ければ欲も無い、ついでに当然力も無い北部の連中にばかり任せる訳は無い。先ごろ結成された国際連合軍から一部を引き抜いてその任に当てる。―――でも、当然主戦力はシュリフォンとハヴォニワに向けることに成る訳だから、聖地への関所へも近づく予定の無い北部ルートからのシトレイユ侵攻は、二線級戦力で行う事にはなる。まぁ、一応数だけは立派だよ? 雑多に集いすぎていて統制が取れるかどうかは知らないけど」
―――纏められるかどうかは、纏めるものの腕次第。
「シトレイユの平定は、連合軍が形を維持している間に始めたほうが、後々抜け駆けとかされたくないから良いと思うんだけど、如何せん他が忙しくてね。ついでに言えば、ダグマイア君が言ったとおりこれは留守を狙う居直り強盗みたいなものだ。やったところで地位や名誉も特に無いだろうから、余り皆やりたがらなくてね。―――そんな訳で、キミ、暇だろ?」
やること無いなら、ちょっと戦争してきてよ。
※ チェス勝負って150話ぶりくらいですか?
何か、学園モノだった頃が若干懐かしくなってきますね。思えば遠くへ来たもんだ……