『異世界の龍機師物語』
・Scene1-1・
結局のところ、彼がその無謀に至った経緯を一言で説明してしまえば、ようするに”それ”が何であるかを、根本的に理解していなかったからだという事になる。
その日その時、森は彼が知る普段の静謐さとは程遠く、遠く何処かで鳴り響く遠雷のような音と、時折地を揺らし砂埃を巻き上げる騒音とが時を置かず鳴り響いていた。
彼自身が何かをしたという訳ではない。断じてそうではない。
彼はただ、何時ものように一人山小屋を出て、その日の糧を求めて森の中をさまよっていただけだ。
ただ、そろそろ冬が近くなってきた、防寒具が必要だな、程度の事だけを頭の片隅において、仕掛けておいた罠の場所まで歩いていた。
今日の獲物は、鹿か、猪か。コロだったら、怪我を治療して逃がしてやろうか。
そんな事を考えながら、深い森の中を抜ける。
「……大物だ」
誰が聞いていることも無いだろうが、彼はただ呆然とそんな事を呟いていた。
それを、見上げたまま。
轟音が鳴り響き、突然の突風と粉塵が彼の視界を覆った先に、木々の隙間、本来ならばちょっとした広場になっているはずの空間には、何かとてつもないものが鎮座していた。
巨大、余りにも巨大な、歪曲した壁面。始め彼はそう認識して、それから数歩たたらを踏んであとずさった後に、気づいた。
玉だ。森の木々よりもさらに頭一つ大きい、それは巨大な巨大な球体、卵のような半透明の球体だった。
卵状の巨大な物体。彼の記憶にも、知識にも無いような。
半透明の球体の内側には、原始生物の化石を思わせるような何かとてつもなく巨大な物体が蹲っているのが解る。
それが巨人だと理解した段階で、かれは理解する事を放棄した。
解らないものがあったら、無理に考えずに直感に従って行動すればいいのよ。
そんな風に、昔誰かに言われた記憶があったから。
とりあえず、今日の狩は中止だなと、彼は纏まらない思考でそんな事を考えていた。
遠雷。鋼と鋼がぶつかり軋む音。
頭の片隅でそれが戦争音楽であると理解しているそれは、未だに鳴り響いたままだ。
一つ山の向こうで、恐らく、何か巨大なものがぶつかり合っている。
だがそれは彼にとっては、日々の糧を山から貰い、ただ一人細々と日を生きる彼にしてみれば他人事に過ぎない。
今すぐに目の前のこれを視界から遠ざけ、踵を返し山を駆け下り、小屋に飛び込み錠を掛けて布団にもぐりこめば、それは次の日には全て遠ざけられているはずだった。
何も、彼の理解の及ばぬままに。
そしてそれが、正しい選択のはずだった。
だが人は、時に自ら進んで間違いを犯す。
その場で彼がしたことはそれら全てとは真逆の行為で、つまりゆらりと手をさし伸ばしながら、巨大な卵状の何かに向かって一歩を踏み出すという行為だった。
当然だが、その行為の意味を彼は理解していない。ただただ、直感に身を任せただけのこと。
目の前のそれが何かを、彼に背を向けたまま蹲る骨の巨人を、両腕に供えられた亜法動力炉も、背部に備えられた余剰動力排出路も、ジェル上の形状記憶装甲も、いずれも彼の記憶に在りながら理解の出来ないものばかりだった。
解らない、知らない、理解不能。そうと”解って”いながらも、彼はそれへと向けて踏み出す足を止める事は出来なかった。
胸の奥が疼く。
いつもそうだ。
何かいつもと違うことがあるとき、胸の奥で、自分ではない何かの鼓動が、疼くのだ。
その意味は解らぬけれど、踏み出す一歩に意味はあるのだと、そう囁いている気がした。
だから。
彼はその球状の威容を見上げて、ゆっくりと。
それに、手を触れた。
「か、活動停止していた敵聖機人から強大な亜法波を感知! 照合不明の波形です!」
それは唐突だった。
大型装甲車内の戦闘指揮所の中で、ゆったりとした態度を崩さずに戦況を眺めていたフローラ・ナナダンの耳に、オペレーターの一人から焦ったような報告が届いた。
壁面全域にはめ込まれたモニターに映し出された戦況図の片隅、戦闘開始早々に撃破し放置されていた筈の敵戦力に属する聖機人が、膨大な亜法振動波を撒き散らしているのが映し出されていた。
人が放つ亜法波の波形には個々人により全て決まった波紋が存在しており、その波紋は指紋、声紋と同じで一つとして同じものは無い。
そして、聖機人を動かしうる聖機師の亜法波は全て教会によって登録されているはずだから、本来”正体不明”等という事はありえない筈である。
聖地学園から中途退学して落ち零れた最底辺の”ローニン”ですら照合可能なのだから、今眼前で展開されている正体不明の亜法波の感知というのはどうしようもないほどの異常事態である事が解るだろう。
フローラは、それでも泰然とした態度を崩さずに、ただ眉をひそめるだけだった。
まったく、面白いように状況が混沌としていく。顔に出さず―――何時ものように穏やかな微笑を浮かべたまま―――内心で毒づく。
彼女のようなリベラルな思考の為政者を殿上に頂けば、保守的な封権貴族が反感を持つのも当然といえる。それは良い、フローラは当然と理解していた。
なぜならそれらの阿呆どもを、胸先三寸で躍らせて見せてこその為政者という自負がフローラには在ったから。
だが、正直に言ってここまで馬鹿踊りをして見せるとは思わなかった。
北部駐屯地―――馬鹿の領地に隣接する直轄領だ―――で行われる予定だった大軍事演習にかこつけて山賊共々隣国の兵を招きいれた挙句、それを鎮圧に向かったはずの部隊が回れ右して視察に訪れていた彼女に向かって襲い掛かってくれば最早、笑い話では、済まされない。
まったくもって当然の如く、ハヴォニワ国女王、フローラ・ナナダンは反抗に対して容赦は無かった。
予定されていた規模の反抗より少々大きくなってしまったが、やる事事態は変わらないとばかりに、予め潜めておいた直属の手勢を直卒し、徹底的な鎮圧作戦に移る。
亜法結界炉を埋設したエナの真空状態を発生させて敵勢の戦力を殺いで、その上で新造した列車砲を用いた徹底的な面制圧射撃を行った。
亜法酔いにより次々と行動不能に陥っていり待機状態である球状のコクーンに戻っていく敵聖機人。飛行していたものはエナの真空に嵌り操作不能となって森の中に落下していった。
初手を奪えば、後は、殲滅戦。
埋設した結界炉の放つ人体に有害な亜法振動波を避けるために後方に控えさせておいた自軍の聖機人を起動させ、反撃に打って出る。
作戦は予定通り順調に進み、戦力差2:3の劣勢も跳ね除けてもう四半時もすれば全てが問題なく”当初の予定通り”完結するはずだった。
それ、なのに。
「最後に飛んだサプライズ、といったところかしらねぇ」
ふぅ、と扇子を頬に当てて可愛らしく―――実の娘が言うところの、歳に似合わぬ仕草で、ため息を一つ吐いた。
その態度に、戦闘指揮所に集った人員たちは戦々恐々としていた。
予想外の事態に対して、では無く。
予想外の事態に対して、主君が取るであろう予想外の行動を恐れて。
戦況図、そこに記されている数値は一般配備されている聖機師の放つ亜法波を遥かに超える数値。最低でも”尻尾付き”。
それが牙をむいて来れば、戦闘開始からそろそろ結構な時間が経っている現状では余り嬉しくない状況だ。
この世界、ジェミナーを覆う特殊な粒子”エナ”の海の中で絶対的な戦力とされる聖機人には、その出力に見合った膨大な亜法波の弊害がもたらす決して超える事が出来ない限界稼働時間というものが存在しており、フローラの配下の聖機師たちは交代員も含めて、その何れもがもう限界に近かった。
聖機師としてどれだけ”技”を磨こうとも、亜法動力炉が放つ脳生理を揺らす亜法振動波に対する耐性は、先天的な要素に左右され改善する事は出来ない。
限界稼働時間と呼ばれるそれは、たとえどれだけ聖機人を強化しようとも、亜法動力炉によって活動している限り、改善する事は不可能なのだ。
「コクーンから、復元……、正体不明機、活動開始します!」
オペレーターの声が戦慄を持って場を満たす。
戦況図画モニターの脇により、望遠レンズの捉えた実際の戦況の映像が大写しとなる。
焼け焦げた木々が濛々と煙を立ち上げる戦場となった森の向こう。
ゆらりと、ヒトガタの影が、木々の間から体を起こしているのが見えた。
その姿に、指揮所に集った者たちは、息を呑み、口元を押さえ、あるものは呆然としていた。
微笑のままのフローラとて、それは同様だった。笑顔の仮面のまま、それを崩す方法を失念していた。