ゲートボールの練習に向かうヴィータを送りがてらに他のメンバーが赴いたのは、その運動公園で催されていた朝市であった。漬物や一夜干しなどの食品から、生花、衣類など、さまざまな露天商が荷台を連ねている。はやては料理上手な娘であるが、さすがにヌカ床を設えるほどではない。この朝市に来るお婆さんのヌカ漬けが美味しいとの井戸端会議情報をシャマル経由で聞いて、一度来て見たかったのだ。試食させてもらったのは山芋のヌカ漬けで、その美味しさと珍しい食感に思わず買い込んでしまったはやてはご満悦であった。あゆの姿を見つけるまでは。なにやら熱心に見つめていたから、欲しい物でもあったのかと思ったが、どうにも様子が違う。あまりにも無表情に見下ろしているのは羊羹の試食コーナーの、傍らのゴミ箱か。露店のおばさんが熱心に試食を勧めているが、耳を貸す様子はない。ただゴミ箱を、じっと。「……あゆ」今もまた一人、羊羹を試食して、使い終わった爪楊枝をゴミ箱に捨てたところだった。****ダイニングのテーブルで、はやてが教科書を広げている。ヴォルケンリッターが現れて以来、リビングが見渡せるこの場所で勉強するようになったのだ。「つまんねぇ。はやてぇ、勉強なんて止めてゲームしねぇ?」テーブルの反対側にあごを乗せたヴィータの隣りに、ノロイウサギ。こいこい。と、ぬいぐるみの耳に手招きさせるヴィータに、はやては苦笑い。「ごめんな、ヴィータ。 あした訪問学級でセンセが来るさかい、この宿題はやっとかなあかんのや」通学できる範囲に、車イスを受け容れられる学校がなかった。この家から離れることをよしとしなかったはやての意向で、就学猶予と特別支援学校の教員による訪問学級、通信教育などで学力を維持している。「昼間の内に終わらせとくつもりやったんやけど、シャマルがパン屋さんでなぁ……」「あっ、あれは……。 だって、サンライズがメロンパンのことだって知らなかったんですもの」たまたま通りがかったシャマルが、途端に顔を真っ赤に。朝市の後は、そのほかの用事を手分けするべく解散した。はやてとシグナムは病院へ、あゆとザフィーラはスーパーへ。問題は、パン屋を担当したシャマルが、なかなか戻ってこなかったことだ。「あゆが気付いて救援に赴かねば、帰還すら覚束なかったであろう」リビングのソファで、シグナムが夕刊をめくった。呼ばれたと思ったのか、ザフィーラの横で夕食後の仮眠を取っていたあゆが身を起こす。ふぁさふぁさとザフィーラが尻尾で撫でてくれたが、あくびをしながら伸びをしている。どうやら起きることにしたらしい。「おかげで、スーパー前で繋がれている時間が長かった」もう、ザフィーラまで。と、そっぽを向きかけたシャマルはしかし、天を振り仰いだ。「なに!?」一応の警戒のために、シャマルはいくつかの検知魔法を常時展開している。受動感知で精度の低いものだが、それに反応するということは近いか、遠くても強い。ということだ。「どうした、シャマル」振り返った烈火の将は、シャマルの表情を確認するなり背もたれを飛び越えた。「次元震……、みたいだけど」「こんな世界でか?」大質量が集中する恒星系内の空間は安定していて、次元震の自然発生は考えにくい。となると残るは人為的なそれなのだが、この世界には魔導師も居ないし、管理局の手も及んでない筈なのだ。「シャマル。 探査魔法を頼む。できるだけ広く」でも……。とシャマルは【闇の書】を、それを抱えているあゆを見る。シグナムが要求しているのは、隣接する世界まで含めた多次元立体的な大規模な探査だ。もちろん大量の魔力を必要とし、それは最終的に、あゆへの負担となるだろう。今も平気な顔で立ち上がったが、その麻痺は足首の少し上まで進行している。「なんで歩けんのか解かんねぇ」とはヴィータの問いで、「よわみをみせぬように、くんれんされてたのです」が、あゆの回答だ。「でも、しょうでいほは、にがてなのです」とも言う。よく見ていれば、あゆが「へいきへいらく、へいきへいらく」と唱えながら歩いていることに気付くかもしれない。「しゃまるねぇさま。 しぐなむねぇさまが そうおっしゃる いじょう、ひつようなことなのでしょう?」ええ……。と、しかし気乗りしなさそうにシャマルは右手の指輪を目覚めさせる。立ち伸びた2本の振り子水晶が輝くと、シャマルの足元に魔法陣が展開した。「……この世界じゃない。 次元空間だわ。通りがかった船が事故でも起こしたのかしら?」眉間に皺を寄せたシャマルが、淡々と探査結果を読み上げる。ところが、「空間転移!物体移入」なんだと!と荒げかけたシグナムの声は、「続いて空間転移!」と、他ならぬシャマルの続報に遮られた。「こちらは魔導師? 魔力行使の反応が……」「術式が判るか?」シグナムの言葉に眉間の皺を深くしたシャマルは、静かにかぶりを振る。「ここからでは、そこまでは……、あっ! 最初の転移物体が分裂!落下予想位置は……」いったん口を閉じたシャマルが、のどを鳴らして固唾を呑んだ。「ここ、海鳴市周辺です」****「ここの周囲、半径5キロ以内に落ちてきた3個を回収してきました」シグナムが差し出した掌の上に、光を放つ宝石のようなものが浮かんでいる。「紡錘形が同心重複して見えますから、便宜上【瞳】と、シャマルが名付けました」落下地点が海鳴市周辺であることが判った直後、シグナムはシャマルに落下予想地点への精密探査へ切り替えさせた。計20個。あと1個あったようだが、こちらは後から転移してきた魔導師によって確保されたらしい。シャマルの探査でも正体のはっきりしない落下物に危惧を覚えたシグナムは、その確認――場合によっては確保――をはやてに意見。許可されてシャマルと共に赴いたのだった。「一見魔力反応も何もないのですが、精密探査してみると莫大な魔力の塊であることが判ります」「探査しようとした魔力に反応して、連鎖臨界を起こすほどのな」シャマルの声が震えている理由を説明するように、シグナム。「んなもん3つも集めてきちまって、大丈夫なのかよ」爆弾の形を見定めようと懐中電灯で照らしたら、それだけで導火線に火がついた。と言ってるようなものだ。ヴィータの懸念も当然だろう。「幸い、普通の魔力封印で収まってくれたから。今は大丈夫よ」自身の言葉で落ち着きを取り戻したのか、答え終えたときには、シャマルの声から怯えが取れていた。「ばくだいな、まりょく。なのですか」見上げるあゆの視線を受けて、頷いたシグナムがシャマルに向き直る。考えることは皆、同じなのだろう。「この魔力を使って、【闇の書】を完成させることは可能か?」「シグナム!?」「いま、たいせつな おはなしのさいちゅうなのです。 おねぇちゃんは だまっているのです」シグナムに目配せを送ったあゆが、「しー、なのです」と伸ばした人差し指をはやての唇に押し付けた。「【闇の書】のことなら、うちも無関係やないで」「けんさくまえの、いけんこうかんのだんかい。なのです。たとえあるじでも……、いいえ、あるじだからこそ、くちだしげんきん。なのですよ」「そやかて、うちは……」「ききわけのないおねぇちゃんは、きらいなのです」「おい、あゆ!そいつは言いすぎだぞ、はやてに謝れ」「がーん。あゆが、あゆが反抗期や……」と、突如勃発した姉妹ゲンカを横目に、シグナムがシャマルをうながす。「……可能だと、思います」「いくつあれば、完成するのだ?」いつのまにか人間形態をとったザフィーラが、【瞳】のひとつを手にした。「正確な魔力量は怖くて量れませんが、精密探査と封印処理の時の手応えからすると、魔力だけなら1個もあれば」「そんなにか!」ええ。と頷いたシャマルは、「でも」と続ける。「魔力量だけあっても、術式がなければページは埋まらない」インクだけあっても、書き連ねる言葉を持たねば執筆できない。「蒐集は一人一回」というのは、そういうことでもある。「見たところ、いくらか術式を内包しているようですから、全く埋まらないということはないでしょう」「しかし、いくつ必要かは読めない。か……」シャマルの言葉を引き取って、シグナムが溜息混じりに吐き出した。それでも、見交わした視線に惑いはない。うむ。と口元を引き締めたシグナムが向き直った先では、「ごめんなさい。おねぇちゃんをきらいになることなんて ぜったいにありえないのです。わたしは じぶんこそ きらいなのです」「あかん、あかんよ。あゆ。自分を好いとらな、ヒトのことも好いとられんのやで。さっきのことはええんよ。うちも少し頑なすぎたし」「あたいも言い過ぎた。ごめんな」と、姉妹ゲンカが終息しつつあった。まるで、狙い済ましたように。「あるじはやて」ヴォルケンリッターが一斉に跪く。ヴィータは一拍遅れたが。抱き寄せたあゆの頭をなでていたはやてが、手を止めてシグナムを見る。「この【瞳】は、大変危険な代物です。 たった一つでも、この惑星を消し去れるでしょう」【闇の書】完成に必要な魔力を1個で賄えるということを、シグナムはそう表現した。その不安定さを鑑みれば、けして誇張ではない。「これを放置することはできません。 我々はこれを回収封印し、この地の安寧を守りたく存じます」「うん、うちからも頼むで」反対する理由はない。むしろ、はやては頭を下げた。「その上で、回収した【瞳】の魔力で、【闇の書】を完成させられないか、試したい」あるじへの献策ではなく、自身の希望としてシグナムは「試したい」と気持ちを込める。「さばいばるくんれんで、ほりだしたじらいで、さかなをとったことが……」はやてが、さっきのお返しとばかりに人差し指であゆの唇を押す。「大いなる力なんて要らへんけど、うちの脚が治るかもしらんのやな?」疑問形でありながら、訊いたわけではないのだろう。はやての視線は、あらぬかたへ。いや、胸元に抱いたあゆ、その足か。「誰かに迷惑をかけるようやあらへんし、ここまで言われてはな……」姿勢を正したはやてが、正面からシグナムを見据える。「【闇の書】完成の件、許可します。 ただし、危険なことはせェへん。それだけは約束やで」はっ。と、これはヴォルケンリッターの全員が揃って。「誓います。 騎士の、剣にかけて」深々と頭を下げたシグナムは、「危険なことをしない」という約束を即座に拡大解釈した。先ほど転移してきた魔導師と、接触しないことを決めたのだ。念話で、ヴォルケンリッターの面々にも念を押す。それが何者であれ、不用意な接触は危険を伴う。悪人は論外だが、そうでなくても【闇の書】の存在を吹聴されれば、八神はやての平穏は乱されるだろう。 『 誰か……、…の声を聞…て。 ちか……貸して。 …ほ……、力を…… 』そう考えてシグナムは、先ほどから聞こえはじめた念話を黙殺した。 『聴…えま…か、 …の声…』 『 ……救けて 』