――【 新暦77年/地球暦11月 】――おや?と、あゆが声を上げたのは、月1回の定期健診のあと、主治医であるシャマルとお茶をしている最中のことだ。「どうしたの?」シャマルは機動六課で勤務しているから、少なくとも月1回、あゆはその隊舎を訪れることになる。あゆが口元から取り出したのは、乳白色の小さな塊であった。「は が、ぬけたようなのです」「はって、歯?」ええ。と、あゆが掌の上で転がしている歯を、シャマルがどれどれと手に取る。「乳歯、ね」下顎乳犬歯であろう。 「はえかわり でしょうか?」あ~んして。と、あゆに口を開けさせたシャマルが、その口腔を覗き込む。「……微妙かも」**どうも自分は、成長を止められていたわけではなく、成長できない体にされていたらしいとあゆが気付いたのはずいぶんと昔のことであった。スバルやアリシアに背丈を抜かれ始めた頃だから、新暦で67年あたりか。しかし、どうしようもないこととして当の本人は気にしないことにしたようである。だが、そのことをあゆよりも早く知り、気にしていた人物がいた。八神家の健康管理を一手に引き受けている湖の騎士、シャマルだ。【闇の書】の影響から抜けて、あゆに対するヘルスメーターの施術は月1回ほどとなっていたが、1年もデータが蓄積すれば疑いを持つに充分。念のため月村忍と連絡を取ったシャマルは、施設出身の子供たちの追跡データを入手して、あゆが成長できない体になっていることを確信した。あゆの同期たちのうち約3分の1も、同様に成長の跡が見受けられなかったのだ。シャマルは、その事実を秘した。治療法も打開策もない状態で知らしめるには、残酷すぎると思ったのだろう。あゆが成長しないことに疑問を持って、シャマルに打診して来た者にだけ事実を明かすようにして、年月が過ぎた。***「あゆちゃん。背、伸びたくない?」夕食後にシャマルがそう切り出したのは、新暦にして76年も暮れのこと。八神家の中にあゆの状態に気付かぬ者など居なくなって暗黙の了解と化してから、何年も後のことである。「せ?……ですか?」小首をかしげたあゆが、シャマルの表情を伺った。いまいち真意が伝わらなかったのだろう。固唾を呑んで見守る一堂の前で、シャマルはこほんと咳払いをする。「あなたの脳下垂体前葉を治療できる、目処が立ったの」その言葉が沁みこむのに、時間がかかったようだ。あゆは、しばらく身じろぎもしなかった。「嬉しゅう、ないんか?」「……よく、わかりません」これが何年か前なら、あゆは歓んだかもしれない。いま通っている聖祥大学付属高等学校の制服もそうだが、中学校の時の制服も、あゆは特注になったのだ。大が小を兼ねないことも在って当然だから、服を縫い縮めるにも限度はある。既製品でもっとも小さい140サイズですら、あゆの背丈に合わせるには無理があった。制服を一から仕立て上げるのに幾らかかったか、はやては教えてくれないが、いずれもけっこうな金額だったであろうと推測できる。中学に進学した時も、高校へ進学した時も、だから人並みの背丈が欲しかったのは事実だった。しかし、仮に聖祥大学に進学する――させられる――にしても、もう制服はない。今更の話なのだ。それに。と、あゆが盗み見たのはヴィータである。あゆと同様に、ヴォルケンリッターにも肉体的な成長はない。ならば、このままでいいのではないかと、いつまでもヴォルケンリッターの妹でいいのではないかと、あゆが作り笑いを浮かべようとした時だ。だん!と、さながらグラーフアイゼンの一撃のごとくヴィータのこぶしがテーブルを打ちつけたのは。「……くだんねぇコト、考えてんじゃねぇだろうな?」けして厳しい口調ではない。むしろ、優しかっただろう。「びぃーたおねぇちゃん」「あたいを姉貴呼ばわりするときに、お前ぇは言ったよな。強ぇえんだから姉貴になってくれ。ってよ。 なんでも、戦闘機人を一体倒したことがあるらしいが。お前ぇは、ちょっと背が伸びるくらいのことで、あたいより強くなれるなんて思い上がってんじゃねぇだろうな?」ふるふると頭を振って、そのままあゆは視線を落とした。10年も前に諦めて、その必要もなくなった今になって「成長できるようなる」と言われても、実感が湧かないだけなのだ。自分が成長した姿なぞ、想像もつくまい。「……」ふう。と吐いた溜息が誰のものだったかも気付いていないだろう。「あゆ」呼びかけてきたヴィータの声に違和感を覚えて、あゆは視線を上げた。妙に、低かったのだ。声音ではなく、声、そのものが。「……びぃーた、……おねぇちゃん?」あゆが途惑ったのも無理はない。「おうよ」ヴィータの指定席に今座っているのは、年の頃にして20歳前後の、妙齢の女性だったのだ。黒をメインに紅をあしらった騎士服は、色こそ違え、見慣れたヴィータのものに似てはいる。しかし、すらりと伸びた脚線美を見せびらかすかのようにボトムスはタイトミニで、精悍さを加えた顔立ちに合わせてか頭に載せているのは特殊部隊めいたベレー帽だ。ベレー帽のフラッシュが機動六課のもので、それを留めているクレストが何故かノロイウサギであることに気づかなければ、あゆは途惑うどころの話ではなかっただろう。「お前ぇに見せるのは初めてだな。リィンフォースとのユニゾン姿だ」小型サイズの融合騎が、その融合適性の広汎化と緩解、効率化を目指すにあたって手放したもの。それが、融合形態とその割合の選択能力である。例えばエスタは、あゆや、はやてはおろかヴォルケンリッター全員と――果てはリィンフォースとさえ――融合できるが、その代わり外観は融合主から逸脱できない。せいぜいが色彩変化程度。古代ベルカのオリジナルであるアギトなら、騎士服に手を加えるぐらいはしてのけるが。翻って、等身大サイズの融合騎であるリィンフォースは、融合時の外観をかなり自由にデザインできる。融合主寄り、リィンフォース寄り、どちらでも自在。さらには、同一の融合主との間でも、複数種類の外観を適時選択可能だ。とは言え、通常時と体格が異なれば、とうぜん身体感覚も違う。リィンフォースとの融合を前提にしているヴォルケンリッターとは云え――ヴィータは特に――、多用はするまい。どうだ。と、いかにもはやてが揉みたがりそうな胸を張って、ヴィータが脚を組んだ。「お前ぇが今から成長したところで、そうそうは追いつけねぇぞ」もしヴィータが成長したとしたら、そうなるであろう姿でふんぞり返っている。「びぃーたおねぇちゃん……」そうしてあゆは、初めて気付くのだ。成長できないことを思い悩んだことがあったであろう人が、少なくとも1人は目の前に居ることを。だから「くだんねぇコト、考えてんじゃねぇ」と言ってくれたということを。「その、おすがたのときは、びぃーたねぇさまと およびしたほうが よさそうなのです」「好きにしろ」とっくにあゆの背を追い抜いたルーテシアが今でもあゆのことを「あゆお姉ちゃん」と呼んでくれるように、あゆもまたいつまでもヴィータを「びぃーたおねぇちゃん」と呼べばいいだけのことなのだ。ユニゾンを解いて元の姿に戻ったヴィータに向けて、笑顔。「はい。なのです」***あゆに乳歯を返したシャマルは、すこし眉を寄せる。「永久歯が、生えてきてないワケでは無いみたいだけど」脳下垂体前葉治療の効果が出始めてアゴ周りの成長は窺えるが、それよりもなにより、乳歯そのものの限界だったようだ。本来の耐用年数を超えて使ってきたのだから、むしろお疲れさまと労わってやるべきだろう。しかし、歯根のない乳歯をためつすがめつするあゆの様子は、なんだか違う。「な~に考えとるか、バレバレやで」ひょい。と、あゆの背後から伸びてきた手が、乳歯を摘み上げた。足音からはやてとは判っていたであろうが、まさか声もかけずにいきなり乳歯を取り上げられるとは思っていなかったのだろう。空になった指先を見て、あゆが一瞬きょとんと。「研究資料とか、カートリッジの弾芯にしてみようとか、ロクでもないこと考えとったやろ」図星である。「あかんで。 抜けた歯ぁは、きちんと祀ってやらんと」上の歯なら縁の下に、下の歯なら屋根に。小学校でそういう話題が出ることも多かったからあゆも当然知ってはいるが、かと云って、では何処に?なのだ。今すぐというなら機動六課の隊舎の屋上に放置することになるし、海鳴市の家ということなら週明けまで帰る予定がない。第一、これから何本も手に入るだろうにしても、貴重な試料であることには違いがないのだ。もしカートリッジの弾芯にするなら、特に意味もないが【ファングカートリッジ】とでも名付けてみようかと考えるあゆである。「さいごのさいごまで、きっちり つかいたおしてあげることが くようになるとおもうのですが」「一理あるけど、あゆの歯ぁがきっちり生え変わることのほうが大事やからな。 ともかくや、これはうちが預かっとく」何か飲み物でも取りに行ったのだろう。はやてが、カウンターに向かう。乳歯が仕舞いこまれてしまった胸ポケットに、未練がましい視線を送っていたあゆだが、ふっと目尻を落とした。「まったく、【おねぇちゃん】にはかないません」見守っていたシャマルの笑顔のように、嘆息が、やわらかかった。……ちなみに乳歯は幹細胞が豊富なため、骨などの再生医療への利用が期待されているそうだ。このとき抜けた乳歯があゆの手元にあったら、第97管理外世界における再生医療分野が躍進したかもしれなかったのだが、まあ余談である。 おわり**我が家に白ヴィータ様(ガシャポン)が降臨された記念に何かネタをと考えたのですが、エスタとのユニゾン姿として披露済みなので、StS編IFエンド(#79-1)以降の展開があれば使おうと思っていたリィンフォースとのユニゾン姿を描いてみました。では、その理由をということで、あゆの治療話とセットに。タスクフォース召集などでアギトが居る場合の八神家攻撃力最強布陣は、はやて+エスタ、シグナム+アギト、ヴィータ+リィンフォースとしてあったわけです。それにしても、ほのぼので行きたいというのに、油断すると設定に引きずられて暗くなる。