――【 新暦74年/地球暦8月 】――太陽が地平線の向こうに落ちても、即座に全てが夜闇に落ちるわけではない。散乱光もあるし、惑星は丸いから、その上空はまだ日光に照らされている。そうして夜となった地面の上空に、夕日に灼き染められた雲が残る。それを小焼けと、言うそうだ。海鳴市は後背に山麓を控え、ただでさえ小焼けが見えることは少ない。学校と自宅と本局への往復の日々を送っていたあゆにとっては、なおさらであろう。だからあゆは珍しく、夜空になりきれない空を見上げていた。夕焼け、小焼けの……、残念ながらこの世界にはトンボがいないらしい。「メディーーーック!」管理局に、そういう役職はない。医官は居るし医療部はあるが、軍隊ではないと言う建前上、専任の衛生兵は居ないのだ。あゆが、66式指揮通信車のルーフデッキから降りた。無いなら、とりあえず仮称でいいかと冗談半分で提案した役職名で呼ばれているのだ。本来バックアップスタッフであるあゆが、本局武装隊の強制査察に随行してきたのはワケがある。前線メンバーとして戦うことは無理と、己の能力を見限ったあゆが「アギトを救出した時のような役回りなら?」と考えたからだ。運ばれてきたのは、おそらくフロントアタッカーであろう武装局員。ポップアップした空間モニターに「キョウコ・タイレル」「34th」などとパーソナルデータが表示された。「頼む」「はい、なのです」現場へと引き返す空戦魔導師を見送ることなく、あゆは運ばれてきたフロントアタッカーの様子を診る。目立つのは肩口を掠めるような裂傷だ。かすかに呻いているから意識レベルに問題はあるまい。「だいれくと こんとろーる、はつどう。すべてのじょうほうを【ちゃんねる ぜろ】に、さいゆうせん」続いてあゆが行ったのは、デバイスの指揮権移譲と、それに伴う情報統御と制御移管だ。クラッキングなど受けないよう、武装局員のデバイスには使用者認識などの各種暗号化が施されている。作戦中のデバイスに干渉できるのは本来現場の指揮官だけで、あゆの権限は今回限りのもの。故にチャンネルは番外扱いの0で、委譲ではなく移譲であった。「だめーじぶい しゅうへんの、【たい せんこう ぼうぎょ】かいじょ」フィールドタイプの防御魔法であるバリアジャケットは、本局武装局員レベルならちょっとした宇宙服だ。ダメージを受けて防御力を発揮できなくなった部位でも、最低限の気密性を保持している。下手にバリアジャケットを解除すると感染症の恐れが出るため、損傷部位周辺を光学的に透過させて目視確認できるようにしたのだ。「……ふむ」打撲と熱傷をコンビネーションクロスさせた傷跡は、あきらかに殺傷設定魔法によるダメージである。もしバリアジャケットがなければ、これに細かな裂傷が加わっていただろう。「めっきん、なのです」 ≪ Reinstraum ≫傷口を覆うように展開されたのは、指定範囲内の大気から特定の分子構造以外の物質を弾き出す、云わば魔法式クリーンルームだ。発想元となった術式からすれば、対細菌用AMFと言ってもいい。ミッドチルダに動植物や食品を持ち込んでいたあゆの、防疫関連魔法の粋。馴致用に気圧調整も自在で、止血にも流用可能だ。続いてあゆが白衣の懐から取り出したのは、1本の試験管である。古風にコルク栓で封を施した中身は、ただの蒸留水だが。「【いきち】や【すいぎん】のほうが、まりょくをためやすいのですが」【いめーじ】を かんき することのほうが たいせつですから。と、まるで水晶球越しに相手を覗き込む占い師のように、試験管を傷口にかざした。「はいは、はいに。ちりは、ちりに。かえさるのものは、かえさるに」試験管に映した傷口を、蒸留水に刻み付けるような、ささやき。――物質に魔法を籠める。あるいは、魔力で薬効を増幅する魔法薬という概念は、相当に古い。カートリッジシステムにクラスチェンジした【エーテル】を除けば、古代ベルカ時代ですら失伝しかかっていた、魔法黎明期の手法である。薬効や、魔力の籠めやすさを追求するとキチガイナスビや生き血や水銀に行き着いてしまうから、その研究を迫害されることが多かったのだ――あゆが敢えて薬効のない蒸留水を使うのは、将来の発展性を見据えただけに過ぎないが。「つちは、つちに。 つちは、ひとに。 ひとは、つちに」繰り返すは、詠唱。似て非なるモノを並べ、同一でありながら異なるコトバを連ね、意識の垣根を取り払う。「ひとは、あだまに。 あだまは、あだまに。 あだまは、ひとに」籠めるは、祈り。蒸留水のレンズが、あゆのリンカーコアで虚像を結ぶ。傷口のネガ写真は、心の中ですなわち……「あだまは、あだまに。あだまは、あだまに。あだまは、あだまに」念じろ!「よぉめいしゅ」 ≪ Krauterwein ≫術式として完成しているわけではないから仮称だが、酒と名づけたのは「命の水」を意味する蒸留酒にあやかったから。「だめーじぶい しゅうへん、じゃけっとおふ、なのです」試験管の中身の半分は傷口へ、残りは……。そっと左手を武装局員の首筋に差し込んだあゆは、やさしく持ち上げた頭部の下に自らの膝を滑り込ませた。「のんで」滑り落ちた蒸留水が嚥下されたのを確認して、試験管を仕舞う。自力で飲み下せないようだったら口移しで投与しようと膝枕にしたが、そこまでは必要なかったようだ。食道を通って胃袋に収められたモノに対しては、ヒトの免疫機構が働きにくい。これを経口寛容と云う。こうして潜り込んだ魔力は比較的分解されにくく、特定組成を保持しやすい。つまり、他者の体内に魔法を送り込む最も簡単な手段が、呑ませることである。一方、傷口周辺の肉体組織は、にわかに体外からもたらされた魔力を切り崩し、通常よりは若干早い自然治癒を実現はしていた。ただし、それだけでは全治3週間が、2週間に短縮される程度だ。そこへ、リンカーコアから直に魔力と術式が送り込まれてきた。魔法薬によって、成すべきことを示唆されたのだ。それまで出血を抑えていた血管も弛緩して、血液を傷口全体に滲出させる。そうしてたちまち共同戦線を張るや、細胞を複製しだした。分裂ではない。コピーだ。――体内外に分けられた蒸留水は、元はひとつであったため、同一の存在としてお互いを認識する。そうして前線たる傷口と、大本営たるリンカーコアを結びつけてホットラインを形成したのだ。本来、補給を受けながら前線が細々と積み上げていくようなミクロな自己治癒を、リンカーコア主導の挙国一致体制で一気に治し上げてしまうのである――治療魔法の使い手は少ない。適性と医療知識とデバイス性能が揃って、はじめて役に立つ魔法である。充分な適性がなければ、AAAランクでも難しいという。あゆは辛うじて使えるが、魔力量の関係で連発は無理だ。そこであゆが目指すのは、治療魔法の低廉化である。シャマルやクロノが使う治療魔法は高度すぎて、低ランク魔導師では使いこなせないことが多い。その過程を分解して難易度を落とし、魔法以外で補足して消費魔力を下げようというのだ。かつて、クロノ直伝の射撃魔法をカスタマイズした時のように。魔法薬といった、非効率な概念を試そうとするのもその一環である。まずは低ランク魔導師でも使える治療法を確立して、裾野そのものを拡げるつもりらしい。古い手法を、運用で新しく。あゆなりのローハイミックスであった。もちろん、問題もある。手順が煩雑で、平準化までは長い試行錯誤が必要だろう。さらには傷病者自身の魔力・体力を消費するので、魔導師でないと効果が薄く、即戦線復帰も難しい。「そうなると、やはり【やっこうせいぶん】を かつようするほうこうせいに いきつきますか」あゆが多少なりと理解しているのは、地球の毒物や麻薬である。ミッドチルダの医薬品は知識に無いし、取り扱う資格もない。もちろん地球の劇物を入手できる伝手も……無いとしておこう。「まずは【よもぎ】や【かたばみ】とか【おとぎりそう】などで、ためしてみましょうか」平然とリストカットして、自分で試したりするから怖い。「行かな……っ!」気が付いたらしい武装局員が、体を起こそうとして分厚い表紙の迎撃を受けた。こんなこともあろうかと、その位置に浮遊させておいたのだ。「!」間を置かず追い討ちを喰らって、再びあゆの膝の上に沈む。あゆはどうやら、木工室を通りがかった時に、木槌を2つ持った男子生徒同士の悪ふざけを見ていたらしい。「まだ、あんせいにしてないと だめなのです」あゆが【碧海の図説書】の裏表紙に打ち付けたのは、全く同じ装丁の書籍だった。立ち振る舞いの広範化を求めて試作した【碧海の図説書】のツーハンドモード。あゆ名づけるところの【ダブルブッキングシステム】で実体化させた【劈開の打撃書】である――区別をつけるため奥付には【ミンメイ書房】と書かれているとか、いないとか――。「げんぱくしき ますい、せいこう。なのです」そっちの杉田玄白は、蘭方医ではなくて乱暴医だぞ。 おわりボツネタの救済に、IFで展開するおまけ話。あゆの裏技「番外」篇。その第3弾です。正規プロットでは「人工リンカーコア+フィジカルヒール」だけの全く面白くないエピソードを、ボツネタ「魔法薬」で膨らませて、やはりボツネタ「ツーハンドモード」で無理やりオトしてみたり。ミッドチルダ的な魔法医療はどんなカタチが有り得るかということで、MICUと共に妄想していたのが魔法薬でした。ホメオパシーとかメランジなどでネタを膨らませていたのですが、リリカルなのはの魔法では薬を作っても作り置きが難しいんじゃないだろうか?ということでお蔵入りになっていました。仮称術式名はもちろんここだけの冗談です(苦笑)ツーハンドモードは【超電磁ヨーヨー】ならば本来、2個あるべきだろうということで考えていたネタでした。