目を覚ましてしばらく、あゆはぼーっとしていた。自分がどれだけ寝ていたのか、見当もつかない。ゆっくりと上半身を起こすと、傍らに【闇の書】があった。こころなしか、一時よりも光の帯が細く見える。かすみがかった意識のまま引き寄せ、いつものように遮断・代理供給をはじめた。「ああ、やっぱり」扉が開いてハニーブロンドの頭髪が揺れるが、あゆの認識には届かない。「はやてちゃ~ん、あゆちゃんが目を覚ましましたよ~」うぐいす色のスカートを翻して入室してきたシャマルが、まずあゆの額に手をやる。続いて手首の脈を取り、まぶたを押し上げて瞳を覗き込むが、あゆはされるがまま。念のために魔法での精査をかけようとしたシャマルは、しかしあゆの膝の上の【闇の書】を見て思い止まった。「どないやぁ?」「問題はなさそうです。まだ半分、寝てるみたいですけど」苦笑に彩られたシャマルの返事を受けながら、はやてが寝室の中へ。シグナムの押す車イスに乗る姉の姿を見ても反応しなかったあゆは、その額を指先で弾かれてようやく現状を把握した。「……おはよう、なのです。おねぇちゃん」「丸2日も寝とって、おはようや あらへん。 聞いたで、やっぱり無理しとったんやな」もう一度その額に中指の一撃を見舞って、はやては腕を組んだ。脚が動いたなら仁王立ちしていたことだろう。ここのところあゆが身代わりをしていたとはいえ、長い間の魔力搾取にはやてのリンカーコアは変歪している。立てるほどに回復するには、まだまだ時間が要った。「その本、返しぃ。 二度とそんな無理は許さん」「いやなのです」【闇の書】を胸に抱きかかえ、隠すように身をよじる。「このほんはもう、わたしのものなのです」「あゆがそないに無理しとって、うちが喜ぶと思とんか?」はやてが【闇の書】に手をかけるが、あゆの抵抗はしぶとい。「それでも、なのです。 このままおねぇちゃんのまひがすすめば、とおくないうちに いのちにかかわるのです。 それを すこしでもさきにのばすのです」「それが嬉しない、言うとんねや。 シグナム、ちょお手伝おて」が、しかし、烈火の将は動かない。「あるじはやて。 私はあるじはやてに仕える者として、あゆ殿のお気持ちが解かりますし、感謝もしています。 あるじはやてのご命令でも、力ずくは承服いたしかねます」「じゃあ、シャマル」はやてを見、あゆを見た湖の騎士は静かにかぶりを振る。「ヴィータ、ヴィータ」「ごめんな、はやてぇ」戸口から顔だけ覗かせていた紅の鉄騎は、ウサギのぬいぐるみをきつく抱きしめた。昨日はやてに買ってもらったばかりのノロイウサギは、既にヴィータにとって無くてはならない宝物になっていた。「今なら、そいつの気持ち。解かってしまうんだ」蒼き狼は、この場に姿を現してもいない。「なんで誰も味方してくれへんのや」ぱたり。と、はやての手が力なく落ちる。「かんたんな おはなしなのです。 だれも、おねぇちゃんのことが だいすきなのです」「せやかて……」「はやてちゃん。 あゆちゃんの言うとおりなんですよ」はやての手を取ったシャマルが、包み込むように握りしめた。「守護騎士の誰でも、あゆちゃんのような特殊能力があったら同じことをしたでしょう」わたしたちの、優しいあるじのために。と、はやてを引き寄せ抱きしめる。「それはうちかて同じなんやで」「それも解かっております。 だからこそです。あるじはやて」ベッドサイドまで歩み寄ってきて、シグナムが跪く。入るべきかどうかためらってたヴィータは、狼形態のザフィーラに背中を押されてつんのめっている。「皆、できることをしたいと願っているのです」はやては、シグナムが何を言いたいか悟ったのだろう。シャマルの腕の中からそっと抜けでた。「あかん。あかんで、シグナム。 うちのために他所様に迷惑はかけられん」そこでふと【闇の書】を抱きしめたままのあゆを見やり、視線を落とす。「身内はええと思うんや。ちょっとくらい迷惑かけてもな。 それが家族っていうもんやろうし、だからこその家族やろうしな。 うちも、家族のためやったら少しくらいの迷惑、苦ぅにならん。 でも、うちのために、大いなる力なんかのために他所様に迷惑はかけとぉない」「あるじはやてが、そうおっしゃるなら」こうべを垂れながらしかし、ヴォルケンリッターの将はその眉根を開けずに居た。****ザフィーラはふかふかである。狼形態でいることの多いザフィーラは、大抵リビングでスフィンクスのように鎮座している。あるじはやてのため、その妹分であるあゆのため、魔力の消費を抑えているのだ。【闇の書】から投影され、あるじの魔力で維持されているプログラム体の身とは云え、リンカーコアを持つ存在である以上、自力での魔力収集もできる。事実、彼のみならず守護騎士の全員が自前のリンカーコアでの自然収集に努め、可能な限り魔力の供給を受けないよう気を払っていた。―― 一ヶ所にとどまると効率が落ちるので――剣道場に非常勤講師として赴く者、ゲートボール場で老人たちのアイドルになっている者、ご近所での井戸端会議に熱心な者などとバラエティ豊かなのだが、盾の守護獣たるザフィーラは此処から動くことがない。その上でなおかつ魔力の消費を抑えようと彼は、リビングでストーンのごとく居鎮まるのである。さて、その蒼き狼が困惑するのが、最近できた妹分とでも呼ぶべき少女であった。「ざふぃーらにぃさま。おとなり、よろしいですか?」「構わん」ありがとう、なのです。と腰を下ろしたあゆは、ザフィーラにもたれかかってまぶたを下ろす。数日前から、昼間の仮眠をザフィーラの傍で行うようになったのだ。「ザフィーラは、あゆに懐かれとんなぁ」食器類をシャマルとの共同作戦で食器洗い機に押しやったはやてが、エプロンで手を拭きながらリビングへ。背もたれ後ろのジョイスティックを倒しているのはヴィータだ。「不可解です。我があるじ。 それに、兄などと呼ばれるとなにやらむず痒い」「まだ慣れねぇのかよ。あたいはもう慣れたぞ」新しい家族をなんと呼べばいいか。と、あゆから提出された議題は、緊急開催された【八神家第1回家族会議】によって協議、決定された。長い迷走ののち、烈火の将が「シグナム姉さま」と決まった後はそのまま「シャマル姉さま」「ザフィーラ兄さま」と、続けて適用。もっとも紛糾するかと思われたヴィータだったが、あゆが「びぃーたねぇさま。で、よろしいですか?」と発言したことですんなりと進行。結局、はやてと同じように呼ばれたいヴィータの意向から「ヴィータお姉ちゃん」となった。はやては「お姉ちゃん」のまま変わらない。「ほなら、うちも」と、2件目に同様の議題を提出しようとしたはやてだったが、これはヴォルケンリッターの拒否権が発動して棄却された。「ヴィータ、おおきになぁ」と車イスのコントロールを受け取ったはやてが、そのまま蒼き狼の傍までやってくる。「ザフィーラはふっかふかで、気持ちよさそうやしなぁ。 今日は温うて、うちも昼寝の気分なんやけど……、 ええか、ザフィーラ?」「ご随意に」「では、私がお運びしましょう」ソファに座っていた筈のシグナムが、いつのまにか車イスの傍に。「あら、フローリングに直だと、冷えますし痛いですよ」キッチンから戻ってきたシャマルが、タオルケットを取り出す。「ザフィーラ、シグナム、シャマル。3人ともおおきに、ありがとうやぁ」それにしても。と、絶賛シグナムに運ばれ中のはやてが、ザフィーラの向こう側を覗き込んだ。「あゆは、何も敷いとらんで寒ぅないんやろか」「何度か言ったんですけど。 あゆちゃん。ザフィーラだけで充分だって聞かないんですよ」タオルケットを設え終えたシャマルが、あゆの頭をなでる。「ほうかぁ。 あゆは言い出したら聞かん子やしな。しゃあないわ」下ろされたはやても、ザフィーラ越しにあゆをなでた。2人分の掌の下で、閉じられた目蓋がいっそう細くなるのであった。****はやてが水に浮かんでいる。ぼー。と、高い天井を見上げている。前々から一度は来たいと思っていた遠見市の屋内型レジャープールに、今日、八神家全員を引き連れて繰り出してきたのだ。白地に黒いパイピングが施されたセパレートの水着姿で、はやてはただ浮かぶ。平日の午前中とあって他に客の姿はない。「ごめんなぁ、シグナム。つきおうてもろて」「いいえ、あるじはやて」付き従う烈火の将が身に纏うのは、スポーティな競泳水着。赤をセンターに、黒をサイドに配したツートンカラー。胸元にあしらわれた炎の意匠が選定の決め手か。レジャープールでそんな必要はないだろうに、律儀にも水泳帽にその鴇色の髪を押し込んでいる。水の中とあって、はやてもそれほど不自由はない。しかし、万が一のこともあるし、プールの出入りには人手が要る。そういう訳でヴォルケンリッターの年長組が交代で付き添っているのだ。「じきにシャマルが交代に来るでしょうし」そう言いながら、別に1日中付き添うことになっても苦にしないだろう。プールというこの施設はなかなか興味深いが、あるじの警護を置いてまでというわけでもない。「シグナムは固いなぁ」 「おーーーーーーーっ♪」どこからともなく聞こえてくる歓声は、ウォータースライダーに挑戦しに行ったヴィータだ。「ほら、ヴィータみたいに、愉しまな」「ヴィータはヴィータ、私は私です」額に上げていた水中メガネを一旦外し、水でゆすいでいる。しゃあないなぁ。と、嘆息したはやては腕の振りだけで体を反転、一転してプールの底を眺めだす。25メートルの競泳用のはずなのに、なにやら色々とサイケデリックな文様が描かれていて、変。 「シグナムー」くぐもって聞こえてきたのは、剣の騎士を呼ばう声。どうやらシャマルが交代にきたらしい。息の続かなくなったはやてが再び裏返ると、プールサイドで湖の騎士が手を振っていた。「はやてちゃーん♪」翡翠色のビキニは所々に花びらの舞うデザインで、パレオ付き。今は上にパーカーを羽織っていて、色々ともったいないとはやては思う。緩やかに水を掻いてプールサイドへ向かうと、「そろそろ一度、休憩にいたしましょう」とシグナム。「そやな。 … あゆはどないしとった?」シグナムに抱え上げられたはやては、シャマルに受け渡されざまに訊く。「流れるプールやウォータースライダーはなんだか好きじゃない。って言って、今はキッズプールの方に居ましたよ」付き添っているザフィーラの、膝までもない水深だ。イアン・ソープばりの全身スーツ型水着を着込んだザフィーラが、仁王立ちで臑から下だけを水に洗われていた姿を思い出して、シャマルがくすくす笑いだす。「なんやシャマル。思い出し笑いなんかして、やらしいなぁ」いえですね。と説明しようとしたシャマルを遮ったのは、「はやてはやてはやてはやてはやてはやてはやてはやてはやて~!」どこでロケット噴射してるのかと、その愛杖の姿を探したくなるような紅の鉄騎の突進だった。真っ赤なセパレート水着は、アメリカンスリーブレスのトップスとホットパンツタイプのボトムスの組み合わせ。連れてきたノロイウサギは、透明なビニールバッグでビニールパック状態だ。「はやてはやて!」「どないしたんヴィータ」「アイスクリーム屋!アイスクリーム屋がある!」思わず、「は?」と訊き返しそうになったはやてが、しかしここの特徴を思い出す。このレジャープールは各種の外食企業と提携して、その出店を促していた。建屋の外壁部分を店舗として提供し、プールの客はもちろん、街ゆく人々にもサービスを提供できるようになっているのだ。中にも外にも看板が出るから「二枚看板システム」と銘打たれているが、その用法はどうだろう。「ハーケンダックか」そうした参画企業の中に、アイスクリームのチェーン店があった。と、はやての脳裏に。ハーケンダックは、フック付きロープを構えたアヒル【フリードくん】をマスコットキャラとするフランス資本のフランチャイズチェーンである。あそこはなんやらヤな都市伝説があったなぁ。などとはおくびにも出さず、はやては笑顔。「食べてみたいん?」うんうん。と頷くヴィータが微笑ましい。スーパーで買ってきたアイスクリームしか見たことがなかったから、そうしたショップが珍しいのだろう。「アカギ乳業の方が好みなんやけど」とは口に出さず、「ほなら、あゆとザフィーラ呼んでくれるか? みんなで食べようなぁ」と、はやて。「おお!」たちまち駆け出す鉄槌の騎士。念話で済むことを失念するほど興奮しているらしい。「あるじはやて……」その表情で、シグナムが何を言いたいかを察する。「ええやんか。 あないに愉しんでくれて、うちは嬉しいで。 みんなの水着も、よう似おうとるしな」水着は、昨日買いに行った。はやてが見立てた物の中から、各人に選んでもらったのだ。ただし、例外が1人。「おおきくなまえが かけるところが、いいのです」と、スクール水着を買ったあゆである。