――【 新暦68年/地球暦12月 】――「おれいがおそくなって、もうしわけありません。なのです」「いえ、なかなか時間が取れなくて、こちらこそごめんなさい」あゆが訪れているのは聖王教会本部である。貸してもらった資料のお礼に、カリムとの面会を求めてから3ヵ月が経っていた。教会騎士としてかなりの高位であるカリムは多忙であるし、地球との自転周期差の関係もあって、なかなか時間が合わなかったのだ。「こちらが、その融合騎さん?」「はい、なのです。 もうしわけありません。このとおり、まだ1にちじゅう ねてることがおおいのです」テーブルの上に置いたリュックの中で、エスタが寝息を立てていた。ここに着くまでは起きていたのだが、眠気に耐えられなかったらしい。「かわいい寝顔を見せて戴けただけで、充分です」それにしても。とカリムは続ける。「融合騎を生み出してしまうなんて、本当に優秀なデバイスマイスターさんなんですね。 クロノ執務官が自慢されるはずです」いえ…あの。と、なぜかあゆはしどろもどろになってしまう。なにやら、ほんのりと頬が赤い。実は、正面からこうもまっすぐに褒められたのは、知る中で初めてだったのだ。はやてもリンディも無条件であゆを全肯定――いけないことは、たしなめるが――してくれるから、案外そういった機会がなかったのである。「その……」わたわたするあゆに、ますます目を眇めるカリム。「……あぅ」自分でもよく解からない動揺に、カリムの笑顔を直視できない。「……りぃんねぇさまがいましたし、たくさんのかたが てつだってくださいましたから」【蒼天の魔導書】とリィンフォースという見本があり、教会から資料も借りられた。なにより、マリエルを筆頭にさまざまな人が力を貸してくれたのだ。あゆ1人では、たとえ生み出せたにしても、もっと時間がかかったであろう。あれ?と、あゆは首をかしげる。「くろのせんせぇ、……ですか?」カリムとヴェロッサが義姉弟であることは聞いていたから、クロノと知り合いでもおかしくはない。しかし、あのクロノ・ハラオウンがそうそう人を褒めるとは思えなかった。「ええ、そもそも教会の方に資料の提供を求めてきたのは、クロノ執務官だったんですよ。 将来有望なデバイスマイスターに、恩を売るチャンスだと」初耳である。なんでも管理局と教会はその協調路線を強化しつつあって、その一環になるだろうとクロノが提案してきたのだとか。教会は人工リンカーコアに興味を持っているし、管理局はカートリッジシステムについての本格的な技術供与を打診している。将来の技術提携を見据えての布石に、あゆが適任ではあったのだろう。「融合騎は古代ベルカの技術ですから、それを復活させられるなら教会としても願ったりでしたし」恩、売れましたか?と微笑むカリムに思わず「はい」と答えてしまって、内心であゆは諸手を上げた。教会そのものはともかく、どうにもこの人には敵わないような、そんな気がしたのだ。**「そんなわけには、いきませんよ」「ざんねん、なのです」苦笑であゆを見下ろしているのは、シャッハ・ヌエラである。カリムの好意でシャッハが送ってくれることになって、あゆはその移動魔法が体験できるかと期待したのだ。陸戦AAAランクが扱う術式が使いこなせるわけもないが、参考にはなるだろう。空戦適性の低いあゆにとって、移動魔法に長けるシャッハは、一つの理想形であった。なんでもカリムが時空管理局の理事官に就いてから両者の交流は活発化しだしているらしく、それは現場レベルで顕著なのだとか。その一環でシャッハと模擬戦をしたシグナムからその戦いぶりを聴いていたあゆは、ぜひともお近づきになりたいと思っていたのだ。とはいえ、前線部隊に居るわけでもないあゆから模擬戦を申し込むことはできないし、教会の騎士であるシャッハたちのデバイスを蒐集させて欲しいとも、あゆの立場では言い出せない。まずは個人的に友誼を結んでおくしかない。と結論付けたあゆが、シャッハの手配してくれた乗用車に乗り込もうとしたその時だった。「八神さんは、デバイスのデータを集めていらっしゃるとか。 私のヴィンデルシャフトで宜しかったら、お貸し致しますが?」差し出されたその手に載っているのは、2枚の小さなプレート。待機状態のヴィンデルシャフトだろう。「よろしいのですか?」「はい、騎士カリムから、私に否やがなければと御下問いただいておりまして。 将来有望なデバイスマイスターに恩を売っておけば、ヴィンデルシャフトも安泰でしょう?」そのショートカットを揺らしながら、ウインク。職務中もあってか硬い物言いが目立つ人だが、根はぐっと柔らかそうだ。「ありがとうございます。なのです」エスタを優しく起こしながら、あゆは思う。カリムといいシャッハといい、恩を売るなんて下卑た言葉を、どうしてこうも恵み深く言い換えてしまえるのだろうかと。そうして受けた借りが、スカリエッティの時などとぜんぜん違って、まったく負担に感じずに済んでいるのは何故だろうかと。人間関係を含め、冷徹に計算することを教育されたあゆには、まだまだ理解しがたいだろう。どうにもやりづらい。けれど不快に思っているわけではないと、あゆは知らなかった自分の姿をひとつ見出すのであった。なお、こうして手に入れたシャッハの移動魔法の数々であったが、残念なことにどれも彼女の天稟に拠るところが多くて、あゆには使いこなせなかった。移動魔法はその速度が増すごとに魔力消費が急増していくので、シャッハの使うレベルではあっという間にエンプティになってしまうのだ。それでもいくらか参考になる点はあって、あゆはフェアーテなど元々所有していた移動魔法の魔力消費を抑えることに成功したらしい。****「おや、ぷれしあではないですか」「出会い方が悪かったから文句は言えないけれど、なんでも親代わりの人の前のようだし、躾ておこうかしら」立ち上がるなりムチを取り出すプレシアに、あゆはホールドアップ。ピシっと鳴らされた音からして、実に痛そうだ。「どうして、こちらに? ぷれしあ・てすたろっささん」今月のお小遣いを貰うべく、リンディの執務室を訪れたところである。最近は何かと要り用で、財政が逼迫しているあゆであった。そういうのを慇懃無礼というのよ。と、プレシアはソファに座りなおす。「ファミリーネームは要らないわ」では、ぷれしあさん。と言いなおしたあゆに、しかし応えたのはリンディだ。「ご病状が回復されてね。本格的に管理局で働いて下さることになったの」「その、ご挨拶にね」なるほど。と、あゆがソファに座ると、いそいそとリンディがお茶を淹れ始める。「私の専門は次元航行エネルギー駆動炉だから、局の次世代艦艇の設計に携わることになったわ」魔力素は次元世界のあらゆる場所に遍在するが、質量の高いところに集中するので、物質のない次元空間では希薄だ。反動推進で移動するには広大すぎるし、魔導炉の効率も良くない。まったく風の吹かない、波もなければ、潮流もない、鏡のような海。それが次元空間である。近隣世界への直接魔法転移を除けば、渡ること能わざる海であった。その不渡海に、大航海時代をもたらしたのが次元航行エネルギー駆動炉だ。 ――偏向擬似質量創出という技術が、魔法にある。殺傷設定と非殺傷設定を高度に組み合わせた、主にデバイスの変形や巨大化に使われる技術だ。この技術で生み出された質量は、術者の意図に従って物理法則への干渉方法を取捨選択することができる。例えばグラーフアイゼンのギガントフォルムは、それを振り回すヴィータには重量も慣性も感じさせず、打撃の対象にのみ質量と慣性による影響を行使するのだ――次元航行エネルギー駆動炉は、作り出した擬似質量に引き寄せられる魔力素の流れを一瞬だけ殺傷設定に変換することで推進力とする。さらには、その魔力素を魔導炉へ蓄積してしまう。帆船が、帆に受けた風をそのまま風力発電に回してしまうようなものであった。「【じげん こうこう えねるぎー くどうろ】ですか、【へんこう ぎじしつりょう】の せっていひについて おはなしをうかがえると うれしいのですが」「貴女の研究は、人工リンカーコアだったわね」こくん。と頷くあゆである。現存技術でもっとも人工リンカーコアに近いのは魔導炉なので、その資料を集めたことはあった。次元航行エネルギー駆動炉も然りである。しかし、あゆの研究する人工リンカーコアとはあまりにもスケールレベルが違って、なかなか応用し切れなかったのだ。まさか、こんな身近に専門家が居たとは。「エリオの件では世話になったみたいだから、やぶさかではないけれど」ふむ。と、ばかりに人差し指を鼻筋にあてたプレシアが、わずかばかりの黙考。一方あゆはというと、母親というものの基準をリンディに置きつつあったので、そういう意味でプレシアをまったく評価していなかった。エスタが起きていたら「ダメダメですぅ」と付け加えただろう。当然そのことが貸しになるとは思っていなかったので、プレシアの態度を意外に感じたようだ。「基礎的なことから教えてあげられるほど、私も暇ではないわ」少し前まで暇だらけだったけれど。と展開されたのは、データ受け渡し用の魔法陣である。「これは、私が初めて実用化させた【ギドラ】の、開発時の覚え書きよ。 貴女みたいな実践派には、下手な理論書よりも解かりやすいと思うわ」「ありがとう、なのです」開発資料そのものは無限書庫にあるだろう。併せて読めば理解も進むに違いない。「質問は受け付けるけれど、疑問点は明確に、要点を絞りなさい」「はい。ありがとうございます。なのです」心からの感謝と敬意を込めて、あゆが頭を下げた。プレシアは新暦73年に、管理局の次世代大型次元航行船に採用される次元航行エネルギー駆動炉【テュポーン】を完成させる。その研究に、特遮二課からの技術フィードバックがあったことを知る者は、少ない。****私立聖祥大付属小学校は、なにかとイベントが多い。遠足なども含めると、少なくとも2ヶ月に1回は何かしらの催し物がある。今日はその一環。最近できたばっかりの海鳴臨海水族館へ、学年合同での課外授業であった。おお。と、意外にも愉しそうな声を上げたのはあゆである。「ドクターフィッシュ【ガラ・ルファ】」と掲げられた看板の下に、公園の噴水のような親水空間が設えてあった。そこに手を入れると、小さな魚が指先を突付いてくれるのだ。「ありしあちゃん、ありしあちゃん。これ、と……」言葉を呑みこんだのは、受けとってくれる相手が傍に居なかったから。はやて伝てに聞くところによると、エリオはずいぶんと心を開いてきているらしい。特に、フェイトに対して。それは当然お姉ちゃんっ子であるアリシアにとっては不本意な事態で、その原因たるあゆとも微妙に距離をとっているのだ。「……」手先をハンカチで拭いながら、あゆはあてどなく歩き出した。人の流れに身を任せて、館内を半周ほどもしただろうか。目の前の水槽には、シロイルカ。アクリルパネルの向こうから、つぶらな瞳をあゆに向けてくる。理屈に合わない。と、あゆは思う。自分はそもそも、学校になど行きたくなかったはずだ。はやてたちとの交換条件で仕方なく通うことになって、必要だからいい子を演じているに過ぎない。来年にはやてたちが進学してしまえば、その演技に割り振る労力も減らせられるかと期待しているぐらいだ。はやてとリンディさえ許してくれるなら、すぐに辞めてしまいたいと、研究のために時間を費やしたいと、今でも思っていた。「……」いつもなら、シロイルカのこのつぶらな瞳を2人して見ていたことだろう。さきほどのガラ・ルファに一緒に指先を突付かれたことだろう。あゆにとって、アリシアが特別な友達であることは確かである。相手の事情も解かっているし、あゆの事情も大体知っている。他のクラスメイトには言えない秘密を共有する仲であるし、一緒に居て楽しいのも事実であった。何かとフォローしてくれてることにも気付いていて、そのことへの感謝も嘘ではない。けれど、研究時間の確保に勝るほどではない。と、あゆは考えていたのだ。たとえ学校を辞めることになって、会える時間が減っても構わないと、思っていたのだ。授業中、念話で付き合わされるたわいもない話。休憩時間、無理矢理連れ込まれてアリシアを中心としたクラスメイトたちとの、やはりどうでもいい会話。お昼休み、弁当を食べながら繰り返される退屈な話題。アリシアが傍にいない今、授業時間が長く感じる。休憩時間も、時計の針が進まない。お昼休みも、いつ終わるとも知れぬ長さ。「わたしはいつのまに、うしないえるものを、えていたのでしょうか?」今まで意識もしてなかったのに、アリシアという接点を失ってみてはじめて、学校生活というものが自分に与えてくれていたものを知る。アリシアが与えてくれていたものを、感じる。暗殺者とは程遠い世界だったから、気付けないでいた。あゆにとってはやてが幸せの象徴なら、アリシアは平穏な日常の象徴だったのだ。ごん。と響いたのは、あゆがアクリルパネルに額をぶつけた音。そのまま寄りかかるあゆを覗き込むように逆さになったシロイルカの口から、リング状に、泡。アクリルパネルに行き当たって崩壊、浮き上がっていく泡々を追いかけて天井を見上げたあゆは、憶えのある感覚に身震いした。周囲に人が居れば居るほど、際立ってくる。「……わたしは、いま。さびしいのですね」人の感情に理由は要らないとはやてに教わってなければ、むしろあゆは泣き叫んだだろう。自分の知らない、自らの裡からこみ上げてくるものを恐れて。「ひとはきっと、さびしいものなのです」さびしさをしらなかったわたしは、こどくがこわくなかった。さびしさをしって こわくなったわたしは、こわされたものを とりかえしているのでしょうか?「さびしくて、こわいのです」見上げる天井のライトが、滲んで歪む。こんなところで泣いては世間体が悪いと、一般常識を身につけ始めているあゆが、顔を伏せ踵を返そうとしたときだった。「あゆちゃん!」一粒、ぽろりと流れた涙が床に落ちきる前に、抱きしめられたのは。それが誰か、見なくとも、訊かなくとも判る。今ではあゆより頭一つ分背の高いこの友達とは、4年近い付き合いなのだから。「ごめんね。 アリシア、いじわるでごめんね!」大事なお姉ちゃんを、フェイトを奪われて面白くなかったアリシアは、ついその原因たるあゆと距離を置いてしまった。一度そうしてしまうと、引っ込みがつかなくなって、ずるずるとこうして今日まで口もきけなかったのだ。エリオが家に来たのも、フェイトを取られてしまったのも、あゆが悪いわけではないと解かっていた。フェイトに感謝の一つもしないと怒っていたくせに、いざエリオがフェイトに微笑むとそれも気にいらない。そんな身勝手な自分が悪いのだと、解かってはいたのだ。だから、今日も、あゆから目を離せなかった。「ごめんね」と繰り返すばかりのアリシアは、人目もはばからず盛大に泣く。今や色々とあゆに一般常識を教えている少女は、そのくせいざとなれば世間体など気にしない。「ごめんなさい、なのです」「あゆちゃんは悪くないよう」わんわんと泣くアリシアと、実に静かに泣くあゆの水掛け論は、クラスメイトに呼ばれて担当教諭が駆けつけても続けられたそうだ。