――【 新暦68年/地球暦8月 】――後背に控える山麓と、朝陽に開けた海は、風に乗せて何を語らっているのだろう。駆け降りる颪と吹き寄せる潮風が暑気を払って、海鳴市の夏は涼しい。今日は心なしか日差しもやさしくて、まるで桜のころに戻ったかのようだ。「療養中のところをすまない。失礼する」大人形態のアルフの後に続いて、リビングに現れたのはクロノである。「あらかじめ子供たちの居ない時を尋ねた上で、アポをとってのこと、気にすることは無いわ」陽だまりの中、安楽椅子に体を預けきったプレシアの微笑みは、最近になってようやく板につきだしてきたようだ。見るものが視れば、ぎこちなさを見出せるかもしれないが。指し示されたソファに腰を下ろして、「それは当然のことだ」と、クロノ。手土産に持ってきたらしい紙箱をアルフに渡して、「つまらないものですが。と、こちらでは言うらしいな」などと口にするが、間違いである。「お口に合えば宜しいのですが」と言うのが、正しかろう。「ずいぶんと、こちらの流儀に慣れているみたいね」「妹分が、結構細かくてね。何かと手土産を欠かさないんだ。 どうも、母やアコース査察官と共々、僕を砂糖漬けにするつもりらしい」実際には、はやての薫陶の結果であるが、それは此処ではどうでもよいこと。妹分という言い方に引っかかっていたプレシアは、しかし、すぐにあゆのことだと気づく。クロノに弟子入りしていたことを、聞いたことがあったのだ。おそらく本人の前では決して「妹分」などとは言わないだろうと、なんとなくそう思いながら、プレシアはアルフにお茶を淹れてくれるよう頼む。「ん」と、言葉少なにキッチンに引っ込んだフェイトの使い魔は、特に不機嫌そうでも、反抗的でもなさそうだった。「さっそくで悪いが、この前に保護した子供たちの件だ」「プロジェクトFの、落とし子たちね」ああ。とクロノが立ち上げたのは空間モニター。映し出されたのは、子供の顔写真入りのリストだ。「保護したはいいが、あまりにも扱いが酷かったらしく、健康維持に問題が出ているらしい」逸らしがちになる視線を叱咤するように、プレシアがスクロールを追う。この違法研究に資金を出した親たちの気持ちを、彼女ほど知るものは居ないだろう。その過ちへの、罪悪感もまた。「扱いと言うよりは……」それでもなお、厳しく目尻を上げて、プレシアが口を開いた。「資金不足。いえ、技量不足かしら」プレシアが言うには、そもそものクローニングに問題があるという。幹細胞の全能性回復やテロメアの処置の精度などに、ばらつきがありすぎるらしい。例えばこの子とこの子。と、スクロールを止めさせて指差す。「同じ遺伝子提供者からの、同時期のクローン体だけど、DNA複写の精度が2桁違うわ」それは、プレシアの経験からすれば、カネに糸目をつけなければ達成できるレベル。そして、作成者の技量次第では乗り越えられる差なのだとか。「おそらく複数体作成して、一番いいものをクライアントに提供していたんでしょうけれど、そんなやり方をしている時点で高が知れるわ」クローン技術は、ノウハウの蓄積が肝だ。トライ&エラーの繰り返しで得た細かなデータが、その基礎精度を左右する。最先端技術というものは、机上の計算よりも実験の積み重ねがモノを言う。そういうところがあるのだ。例えば、ロケットエンジン。火薬に火を点けるだけの固体燃料ロケットと、2種の薬液を混合させながら燃焼させる液体燃料ロケット。実用レベルで実現が難しかったのは、固体燃料ロケットの方なのだ。「クローニング時点で、と言うことは、……治療は無理か?」向けられた視線を、プレシアは天井に逸らした。そこには、アリシアが魔法の練習に失敗して作った焼け焦げがある。慌てて結界を張ろうとしたプレシアよりも早く、フェイトが魔法を打ち消してくれたことを、今でもよく憶えている。「主治医と、医療体制は?」「ん?ああ……。 湖の騎士シャマルが主任になって、一室を与えられている。彼女自身も何か目標があるようでね、主導的な役目を買って出てくれた。 他にも優秀な医者に心当たりがあるし、協会の伝手で聖王医療院でのバックアップも確約がある」クロノがこうして独力で動いているのは、もちろん理由があってのこと。3ヶ月前の例に限らず、違法研究に管理局が、その上層部が関わっていることは明白だ。個人的な、信頼できる筋を辿らねば、どこで横槍が入るか判ったものではない。「……そう」視線を落としたプレシアが「あの騎士なら、無駄にはしないわね」と展開したのは、データ受け渡し用の魔法陣。「これは?」「私が行った、プロジェクトFのデータよ。失敗とやり直しを繰り返した、その積み重ねの記録。 遺伝子治療の基礎資料としてなら、充分だと思うわ」待機状態のデュランダルを取り出そうとしていたクロノが、「いいのか?」と動きを止めた。「期待してなかったなんて、言わないでしょう?」「それは……、そうなんだが」プロジェクトF.A.T.Eは無論、違法である。【闇の書】を葬った現場にアースラが乗り込んできたとき、プレシアは当然逮捕されることを覚悟しただろう。しかし、なぜかそのことは起訴されずじまいだったのだ。その理由はアースラクルーすら知らないが、上層部に疑いを抱いているクロノには大体の想像がつく。そのうち利用しようと、温存しているだけに違いないと。だからクロノは、慎重に振舞っている。5月に実施した時空管理局の研究施設への強制捜査も、他の流れをたどった偶然の結果としているし、主犯格である所長の「名声と昇進のために、独断で行った」という供述も特に追求していない。「湖の騎士には、ご近所付き合いの橋渡しをしてもらったし、この体のことも併せて借りばかりだから、 質問も相談も、いつでもいくらでも受け付けると伝えておいて」「すまない」プロジェクトFを掘り返すことは、プレシアにその罪と後悔と自己嫌悪を突きつけることになる。実刑判決を食らって服役していたほうが、まだ気が楽であるかもしれなかった。協力に感謝する。と下げかけたクロノの頭をとどめたのは、「それより」と、スクロールを戻したプレシアである。「……この、電気の魔力変換資質を持つ子」「ん?……ああ、確かモンディアル家の」やっぱり。とプレシアは頷いた。モンディアル家はかなり有名な富豪だから、スポンサーに名を連ねていてもおかしくない。「素性が判っていて、帰してやれなかったの?」「遺伝子提供者のほうのエリオ・モンディアルは、魔法の才能も魔力変換資質も無かったそうでね。やはり違うと言って、受け取りを拒否された。 本人のほうも両親に見捨てられた事実から心を閉ざしていて、過剰に接しようとすると暴れだす始末だ」ホンモノとかニセモノといった言葉を慎重に避けてみせるクロノに、プレシアの目尻が和らぐ。「対応に、苦慮しているみたいね?」「ああ。変換資質持ちだからな。 いざというときに、教護士レベルでは太刀打ちできん」ん?とクロノは眉根を寄せた。プレシアが考えていることに思い至ったようだ。「まさか?」「そうね、できるのなら」プレシアは次元跳躍攻撃を行えるほどの大魔導師であるし、フェイトは電気の魔力変換資質を持つ。魔力変換資質を持つ者は、それに対する防御も得意とするので、エリオの保護者としてこれ以上の適任はない。「もちろん、家族の同意を得た上でよ」「それは当然だし、願ってもないが……」テーブルに置いた白銀のカードにデータ取り込みを指示して、クロノは少し、居住まいを正した。「そんなことが贖罪になるとは思ってないし、そもそも自分が家族をしっかり見守れてないのだろうと、嗤ってくれていいわ」自嘲を口元に浮かべたプレシアに、当代随一と言われる大魔導師の威圧感は一片もない。なのにクロノが身じろぎしたのは、幼いころに盗み見たリンディの背中を思い出したからか。「私はまだフェイトに謝れてない、アリシアに真実を話せてない」とてもそんな勇気を持てないの。と、クロノに向けた視線が逸れた。「プレシア……」お茶の支度をトレィに乗せて、アルフがキッチンから出てきたのだ。「貴女も、軽蔑するでしょ」「……」意外にも即答しなかった使い魔は、歩み寄ったテーブルにトレィをそっと置いた。「ワタシ、アンタのことが嫌いだったよ」跪き、ティーポットを手に淡々と茶を注ぎながら、アルフは顔を上げない。「でも、アリシアのことを知ってからは、アンタの気持ちも解かるような気がする」クロノに茶を差し出し、身振りで断られた手土産の焼き菓子はトレィに戻す。代わりにティーカップを手にして、立ち上がる。「ワタシは使い魔だから有り得ないケド。 自分のせいでフェイトを失って、取り残されたとしたら……ね」それがアルフの心の裡だとでも云わんばかりの静かさで、サイドテーブルに置かれたティーカップ。わずかに水面が揺れるのみ。「今でも、好きとは言い切れないよ」だけど。と踵を返したアルフはリビングを横断して、戸口で一度立ち止まった。「軽蔑だけは、しない」廊下を歩いていくアルフの姿を、プレシアは追いかけたりしない。じっと、窓外を向いたまま。しかし、その肩すじが震えだしたことが見てとれるだろう。デュランダルを懐に仕舞ったクロノが、ティーカップを手にする。熱い茶は嫌いではない。これ以上1度でも温度の下がらぬうちにと飲み干して、衣擦れの音も残さずに辞した。 おわり主人公ではあるものの主役ではなかった無印篇とは異なり、「StS?篇」では、あゆが主役でもあるため、あゆ抜きのエピソードは基本的に無しとしていました。そのため、事態としては進行していても、あゆが知らなかったために語られなかった事象がいくつかあります。その代表例ということで今回、エリオが引き取られることになった経緯を書いてみました(オチもないし、微妙に書ききってないような気もしますが、まあオマケということでご寛恕を)。