「ひとよりも おおきなねこの おなかにねころがって、ほんをよむほど、ここちよいことは ありません」ひとよりもおおきい……。と呟きながら、あゆは絵本を本棚に戻す。「とらでしょうか?らいおんでしょうか?」図書館の児童書・絵本コーナーはこの時間、見かけ的にはあゆと同じ頃か、それ以下の子供たちであふれていてかしましいことこの上ない。あゆの音読や呟き程度を咎める人も居ないだろう。「どうぶつずかん、どうぶつずかん。 ねこのずかんがあれば、それに こしたことはないのですが」図鑑の棚に近づきながら、しかしあゆの目的は図鑑などではない。横目にはやての居所を確認しながら、先ほどの棚に置いてきた本と、自分との間に司書の女性が来るように位置を調整する。はやてと本を結ぶ光の帯を自身で遮り、身代わりになれることを確認したあゆは、それを他者でも可能か、検証しているのだ。結果は思わしくないらしいが、あゆに落胆した様子はない。光の帯を多少遮る程度なら居ないこともなかったようだが、代わりに提供するとなるとあゆとて努力が必要だったのだ。無自覚の他人に出来なくて当然、とは思っていたのだろう。「けーぶらいおん。なかなかのおおきさ、なのです」何の気なしに手にした図鑑には、偶然にも史上最大のネコ科動物が記載されていた。「すみろどん、では、ちょっとちいさいでしょうか? まかいろどぅす、は、どうでしょう? けーぷらいおん、も、わるくないのです」それに、他者の犠牲の上に自身の幸福を築いたとして、それをはやてが喜ぶとは思えなかった。もちろん、そんなことを訊いたわけではない。しかし、スーパーや図書館でのはやての挙動を見ていれば、あゆでなくとも気付こうというものだろう。可能な限り端を移動し、発進はおろか停止にも注意を払う。方向転換するときなど、首振り機能の壊れた扇風機かと見紛うばかりだ。一度、「ここのパン屋さん、おいしゅうて評判らしいで」と話してくれたことがあるが、その店に入ったことはないのだ。通路が狭い上に客が引きも切らないから遠慮しているのだと、あゆは見ている。自宅での自由自在さ、闊達さとは較ぶるべくもない。車イスの大きさを考慮したにしても、はやての気遣いぶりがわかろう。人に迷惑をかけることを、とても厭うのだ。先ほどの本棚に戻って本を回収したあゆは、カムフラージュで読んで見せたに過ぎなかった絵本を再び手にした。「ひとよりもおおきい、ねこ。なのですか」「読みたい本が有ったんか?」はやての膝の上には、本が1冊だけ載っている。この図書館は5冊まで貸し出し可能なのだが。「はい、おねぇちゃん。 この ごほんが、よみたい。なのです」ほぅか。と、はやては頬をほころばせる。これまで何度か図書館に連れてきたけれど、あゆは本に興味を示さなかったのだ。せいぜいインターネット検索コーナーでトピックスをいくつか拾う程度。「そしたら、カウンタ行こか」「はい」あゆから受けとった絵本を膝の上に重ね、題名を確認する。「読み終わったら、うちにも読ませてな」読んだことのない絵本だったようだ。「はい。なのです」その傍らをあやめ色した髪の女の子が通り過ぎたが、絵本に視線を落としたままのはやては気付かず、その車イスを押すあゆは気にしなかった。 ****「最近、顔色が悪いんとちゃうか」「そんなことはないのです」車イスからベッドに移るはやてを手伝いながら、あゆはしれっと嘘をつく。両手をついて、ベッドの端からはみ出している両足ごと体を引き寄せたはやてが、あゆの手首を掴む。「うちの目ぇは誤魔化されへんで」引っ張られてつんのめった今の挙動も、なにかおかしい。訓練されてきたらしいこの子は、運動神経も身体能力も見た目以上のものがあるのに。「ごまかしてなど、ないのです」手首を掴んだ手を優しく引き剥がすことに注視しているように見せかけて、あゆははやての目を見なかった。嘘をつくことも騙すことも隠すことも慣れているはずなのに、いま見るべき相手の目を見ることができない。「よるに ちょっとねむれないだけ。なのです」ちょっと。どころではなく、あゆはここしばらくほとんど寝ていなかった。寝ると、本への光の供給が止まってしまうのだ。強く暗示することで、寝入ってしばらくは維持できるようになったが、それもせいぜい最初のノンレム睡眠まで。さらには、足の指先から麻痺が這い上がってくるようになった。今は足の甲あたりから先に感覚がない。「……」明らかに嘘をついているし、身体も調子悪そうだ。有無を言わさず病院に連れて行きたいところだが、この子には保険証どころか住民票もない。なんとか頼み込んで、詮索なしで診てもらうか、いっそ石田先生に事情を話すか。と、はやてが考えた時だった。 ≪ Ich entferne eine Versiegelung ≫「手で持ち運ぶの、しんどいやろ」と、はやてが作ってやったブックバンドを引き千切って、今はあゆのものとなった革装丁の本が宙に浮かび上がる。十文字に縛めた鎖を弾き飛ばし、めくられていく頁。叩きつけるような音をたてて表紙が閉じると、その剣十字が光り輝いた。 ≪ Anfang ≫引きずられるように仰向けにされたあゆは見ただろう。本からあふれた光が包み込むようにはやてを襲い、その胸元から輝きの塊を吸い出したのを。握りしめたシーツを基点に身体を起こしたあゆは見なかっただろう。ストロボのような爆光の中、魔法陣が広がる瞬間を。息を呑むはやての瞳の中にその理由を見たあゆは、振り返る。回転する魔法陣を背後に従えて、4人の男女が跪いていた。黒い、簡素な衣服だけを身にまとい、深く頭を垂れて。「【闇の書】の起動を確認しました」鴇色の頭髪をポニーテールにまとめた女性。「我ら、【闇の書】の蒐集を行い、あるじを護る守護騎士にございます」ハニーブロンドの女性はショートヘア。あの本を抱えている。「夜天のあるじの元に集いし雲」青い髪の男性には犬の耳が。「ヴォルケンリッター。何なりとご命令を」赤い髪の少女は、見た目だけならあゆと同年代くらいか。「……」あゆは固唾を呑んだ。跪いているその姿勢、口を開いた時の筋肉の動き。それだけで彼女らが手練れだと判ったのだ。口にした内容からすると敵対するつもりはなさそうだが、いざという時、彼女らを相手にしてはやては護りきれないだろうとあゆは覚悟した。ぎり…。と奥歯が軋む音を聞いてはじめてあゆは、自身が歯を食い縛っていることに気付く。赤髪の少女が顔を上げるのを、あゆは視線を動かさずに注目した。なにやら不思議そうに首をかしげている。「……」残りの3人がいっせいに顔を上げ、「うそっ……」とハニーブロンドの女性が口にした途端、背後でどさりと音がした。****「なるほど、それで一瞬区別ができなかったわけか」腕を組んだシグナムは壁に背を預けている。「魔力素を視認。……レアスキル、でしょうか?」ベッド脇に跪いているシャマルが、横たわるはやての額に掌を乗せたまま顔を上げた。「わからん」ザフィーラは扉の前で仁王立ち。「そん・なんっ、なん・でも・いいじゃ・ねーか!」「ヴィータ。いいかげんにしろ」「なんっで・だよ!」ヴィータはベッドの足元で、あゆと【闇の書】の引っ張り合いをしていた。「【闇の書】のあるじははやてさんで、それは【闇の書】がどこにあろうと変わるものではないでしょう?」「だけどよ!」「ヴィータ!」とうとう声を荒げたヴォルケンリッターの将に舌打ちして、ヴィータは【闇の書】から手を放す。力の遣りどころをすかされたあゆはベッドから転がり落ちかけて、いつのまにか傍に現れたザフィーラに抱きとめられた。「ありがとう。なのです」「気にするな」ベッドの上に戻してもらいながら、あゆは自分の足の甲をつねる。麻痺してなければ無様に体勢を崩すことはなかっただろう。「【やみのしょ】。ですか」あゆは、腕の中の本を見下ろした。そこから伸びる光の帯はやはり、今は失神しているはやての胸元に伸びている。あゆの目には本からさらに4本の光の糸が伸びて、守護騎士と名乗った4人の男女にそれぞれ繋がっているのが見えた。そのぶん、はやてと繋がる光の帯が太くなったように見えて仕方がない。「今、もしかして切り替えました?」シャマルがあゆを見た。「わかるの、ですか」「ええ、【闇の書】から供給されている魔力の感じが微妙に変わりましたから」「けっ!ヴォルケンリッターともあろう者が、あるじ以外の魔力をうけるなんてよ」そっぽを向いたヴィータが、思わず壁をけりつける。「そう言うな、ヴィータ」お前の気持ちは解からんでもないが。とシグナムが頭に置いた手を払いのけようとして、しかし手を下ろしている。「あゆ殿の看立てどおり、あるじはやてのご病気は【闇の書】が原因だろう」「【闇の書】が収奪する魔力が、はやてさんの未熟なリンカーコアを痛めつけているんですね」あゆにしか見えない光の帯を追うように、シャマルがはやてに視線を戻す。「そのことを見抜いただけでなく、こうして魔力を供給してくれている。 事情を存じなかったあるじは無意識に抵抗なされていたようだから、彼女のおかげで我らも早めに顕現できたのだ。 感謝こそすれ、怒る筋合いなぞない」「うっせぇザッフィー」べつに。と口を開いたあゆに、全員の視線が集中した。「かんしゃされたくて しているわけでは、ないのです。 ただ、おねぇちゃんとのじかんを、わたしにいまをくれた おねぇちゃんとのじかんを すこしでもながくできれば。と、ねがっただけなのですから」……そうか。と応えたのは一体誰だったのか。「あなたたちも、あしたになって、おねぇちゃんがめをさましたら しることになるのです。 きっと、おねぇちゃんは あなたたちをかんげいするでしょう。かぞくがふえたと、よろこんでくれるでしょう。 きれいなふくをかってもらって、おいしいしょくじをつくってもらって、あたたかいおふろにはいって、ふかふかのおふとんでねむるのです」そこであゆは視線を上げた。はやての傍にいるシャマルから順に見やる。「ぶぉるけんりったー。 あなたたちは、これまでのあるじのために たたかってきたそうですね。 あしたからあなたたちは、あたらしいあるじのために しあわせになるのです。 それがあるじのしあわせ、ねがい。なのですから」そこまで言ってあゆは、丸まるように崩れ落ちた。疲労と睡魔が、緊張を途切れさせた彼女に襲いかかったのだ。それでも、胸に抱いた【闇の書】を離さない。