八神家最寄りのスーパーは、ゆとりのある店構えが特徴の外資系チェーン店。その風芽丘店だった。店舗の設計から棚の高さ、動線設定にまでバリアフリーが徹底されていて、車イスでも利用しやすいのがありがたい。「おねぇちゃん」棚の菓子を物色しながら車イスを走らせだしたはやてを、呼び止める。ほば丸1日悩んではやてが決めたのは、「お姉ちゃん」と呼ばれることだった。「はやて」や「はやて姉ちゃん」も捨てがたかったようだが、「お姉ちゃん」と呼ばれたときの独占感にアドバンテージが上がったらしい。3時間に渡って様々な呼び方を実演させられたあゆもお疲れ様である。「呼んだ?」「はい。よびました。なのです」右へ3歩移動して位置を修正、適当に目の前にあった袋菓子を鷲掴みにする。「これがたべたい。なのです」位置関係を崩さぬように近づいて、差し出す。「宇宙お好み焼きシュールストレミングin〆鯖バーガー味チップス?」『悠久すぎた純正タマリンド水使用』『一撃能く熊をも斃す!脅威の8070Au!』とのキャプションが程よく意味不明だ。パッケージをひっくり返して、はやてが呻く。「マルサツ製菓かぁ……」ただしくは「殺劫(シャチェ)食品公司」で、中国系の新興菓子メーカーである。「美味しさのあまり死んでしまう」をキャッチコピーに「熊に襲われた登山者がとっさに喰わせて美味せ殺す」テレビCMで有名だ。ちなみに「美味せ殺す」は昨年度の流行語大賞にノミネートされた。されただけだが。パッケージの裏側にトレードマークの「○の中に殺の字」がでかでかと印刷されているため、ほとんどの人が「マルサツ製菓」か「サツマル製菓」、あるいは「マルシャ製菓」ないし「シャマル製菓」などと勘違いしている。「ごめんやけど、今日は堪忍して」別の製品をいくつか買ったことがあるが、基本的に匂いがすごい。普段ならともかく、体調の安定しない今日は遠慮したかった。「わかりました」あっさりと引き下がったあゆが、袋菓子を棚に戻しに行く。本気で食べたかったわけではない。こんなスナック菓子など食べなくても、はやてが作ってくれる食事だけで充分だった。名前を貰って、着心地のいい服を着せてもらって、温かい食事を食べて。こんな世界があることをあゆは知らなかった。施設時代のことを不幸と感じられなかったあゆには、今が幸せであるとの実感もない。ただ、永劫に続くと思われた施設での生活がたった5年で終わったことを鑑みれば、今の生活がいつまでも続いてくれるとは思えない。それが少し胸元を穿つようで、それを埋めたくて、あゆは「今」を抱きしめた。「なんや、どないしたん?あゆは案外甘えんぼさんやな」****たぬきさん柄のパジャマ姿で、あゆが戸口に立っている。はやてに色々と買い与えられたあゆだが、パジャマだけはこれがいいと譲らなかったのだ。「ええで」「はい。なのです」室内灯のスイッチを消すと、あゆはベッドで待ち構えるはやての横にもぐりこんだ。「あゆはホントに夜目が利くんやなぁ」あゆだけに見えている光。字を読んだり色を見分けたりは出来ないが、物の位置やシルエットを確認するだけなら充分だった。「それだけが じまん。なのです」反論しようとしたはやての言葉は、口をついたあくびに押しやられてしまう。「ぁふ……。今日はちょう夜更かしが過ぎたなぁ。おやすみや、あゆ」「はい。おやすみなのです」まぶたを閉じてみせながら、あゆは眠りに身を任せない。まだ寝る気はないし、睡眠時間を制御するすべは心得ている。施設では、規則正しい生活など許されなかった。様々な状況に適応できるよう睡眠時間は不規則かつ不統一で、24時間寝ることを強制されたかと思ったら3日間徹夜、90分交代で起臥を繰り返したりと様々だった。平均すると1日に5時間ほどだったであろうか。八神家に来てからは、4、5回に分けて5~6時間ほど寝るようにしている。食後にリビングのソファで丸くなって仮眠を取ることが多いので、はやてに「あゆはまるで猫さんやなぁ」と、撫でられたりする。はやての寝息が深くなったのを聞き取って、あゆがまぶたを上げる。夜襲への警戒からもともと夜間の睡眠は短くランダムなのだが、眠るわけにはいかない理由が別にあった。眼球だけ動かしたあゆは、部屋を横切る光の帯を睨みつける。はやての胸元から発した光が、本棚へと伸びていた。封じ込めるかのように鎖で縛られた本。それが終着点。蠱毒房最後の日以来、周囲に正体不明の光を見るようになったあゆだが、このように指向性を持って流れるのを見たのは初めてだ。はやての脚の麻痺が原因不明だと聞いて、これが関係しているのでは?と、あゆは推測した。人殺しの訓練をさせられてきたあゆは、その対象である人体に対して多少の理解がある。長期間放置されたはやての脚の筋肉が、見た目では判らない程度にしか衰えてないことに違和感をおぼえるのだ。普通でないことの原因は、普通でないもの。そう結論付けたあゆは、検証すべく様々なアプローチを試みてきた。まず試したのは、この光を塞き止められないか?ということだ。この光に対して物理的な干渉が行えないことはそれまでの経験で知っていたが、念のため本を抽斗やクローゼットに仕舞ってみたり、陶器の皿やテフロン加工のフライパン、銅のしゃぶしゃぶ鍋に鋳鉄のダッチオーブンで遮ってみたりした。河原で拾ってきた釣り用の鉛製板錘でも効果はなく、金や銀は手に入れようがないので諦めた。次に試したのは人体だ。人が移動した跡など、稀に光が弱くなることを知っていた。そこで光の帯に立ち塞がってみると、若干ながら勢いが弱まる。また、自身の状態によって周囲の光が変化することがあることも知っていたので、集中したり、リラックスしたりと様々に試す。ありもしない3本目の腕で背中を掻こうとするような試行錯誤と努力を重ねて、光の流れを完全に塞き止めることに成功したのが昨夜のこと。そうして今日、意図的に光の流れを遮りながらはやての様子を観察した。「今日はなんや、変な感じやなぁ? いつもより体が軽いかなぁ思たら、いきなり悪ぅなるし、そう思っとったらまた調子ようなるし」石田センセに看てもうたほうがええんかいなぁ。と首をかしげるはやてを見て、あの本が原因だと確信した。問題は、あまり長時間光の流れをとどめていると、いざ遮れなくなったときに、遅れを取り戻そうとするかのように光の流れが速くなることだった。また、流れを遮るたびに流れそのものの幅が太くなっていくように見える。無為無策に干渉を繰り返しては、早晩あゆの小さな体では防ぎきれなくなるだろう。あゆは、音もなくベッドから抜け出した。今晩から、次の段階を模索するのだ。****車イスとそれを押す少女の姿が、公園にあった。はやての膝の上にはビニール袋。買い物の帰りだろうか。昼下がり、周囲に人影はない。たいした遊具も置いてない小さな児童公園だが、片隅に植えられた梅の木だけは見応えがあった。今を盛りと、白い花をほころばせている。「このところ、よう外出するなぁ」と、はやては内心で独り語ちる。あゆが来るまでは可能なかぎり買い溜めしたし、こんな寄り道をすることも稀だった。この公園に、こんな見事な梅の木があるなどとは知らなかったのだ。それが今では、まるで日課のように買い物に出かけている。いままで人通りが多くて避けていた商店街も、行ってみれば人情に厚くて気遣いがさりげなくて店頭で買い物が出来てといいこと尽くめ。「あゆの、おかげやなぁ」「なにが、ですか?」今日は風もなくて陽射しが心地よい。「なにもかも、や」「その おことばは、そのまま おかえしするのです」押してた車イスを梅の木の前で止め、斜め一歩前へ。中途半端な位置に立ったあゆのその向こうに自宅があると、はやては気付かないだろう。「ほうか?」ほうかもな。と呟いたはやては、グレアムに家族ができた旨を報告する手紙を、やはり書かないことにした。グレアムおじさんを信用してないわけではないが、子供を拾った、暗殺者として養成されていた、などと知れ渡ってはどうなるか判らない。最悪、引き離されることだってあるだろう。すこし心苦しいけれど、あゆのことは秘密だ。「お互いさま、なんかなぁ」枝の上で寄り添うメジロの姿に、はやては目を眇めた。****「ちょっ!ちょう待ちぃや、あゆ」一足先に湯船につかっていたはやては、服を脱いで戻ってきたあゆの腕の中にあるものを見て驚いた。「いくら気にいったからて、本を風呂に持ち込んだらあかんで」「このほんは、みずをかけても へいきだったのです。だから、おふろも きっとだいじょうぶ。なのです」「……いや、そうかもしらんけど」あれから3日。あゆが試したのは、代わりのものを差し出せないか?と云うことだった。はやての胸元から、吸い出されるように流れ出す光。それは、もしかしたら自分の胸元からでも吸い出せるのではないかと推量したのだ。結果から言えば、その試みは成功した。今も、はやての胸元から流れてくる光を遮って、代わりに自分の胸元から流れ出す光を本に与えている。流れが速くなる様子もないし、幅が広くなる兆候もない。だが、常に本とはやての間にいることは難しい。そこで今朝、この本を譲り受けることにしたのだ。あゆの初めての「お願い」にKOされかかったはやてがあっさり許可して以来、肌身離さず身につけている。そうして今、お風呂場で。ということなのだが。「しょうがない子ぉやな」と、言葉の内容とは裏腹の笑顔を見せるはやてに、承諾されたものと判断してあゆは本ごとかけ湯を行った。