――【 新暦66年/地球暦4月 】――はやては、学校生活を愉しんでいた。なのはやフェイトとは今年もクラスメイトになれたし、遅れ気味だった学習範囲も取り戻せた。松葉杖での登下校は楽とはいえないが、通えなかった頃のことを思えば何ほどのこともない。下宿中のフェイトが付き添ってくれるし、なのはも途中から一緒だ。すずかやアリサは車で送ってくれようとするが、これもリハビリの一環だと断っている。「ただいまやぁ」「おねぇちゃん、おかえりなさい。なのです」玄関まで出迎えてくれたのはあゆだ。この春に入学したこの新一年生さんは、授業がほぼ午前中だけなので先に帰宅していた。「あれ?ふぇいとおねぇちゃんは、ごいっしょではないのですか?」「今日は美化委員会があるらしいから、ちょぅ遅うなるみたいや」そういえば。と、あゆは思い出す。進級して学校に慣れたフェイトが、美化委員に立候補したと聞いていたことを。「おねぇちゃん。あせ、びっしょりですよ」跪いたあゆは、まず右の松葉杖の石突を雑巾で拭う。「今日は結構、暖かかったからなぁ」次に右足のローファーを脱がし、左の石突も拭った。「おふろを わかしましょうか?」最後に左足のローファーを脱がすと、はやてが框を上がり終えてるという寸法だ。「……そうやなぁ」最初は自分独りでやっていた作業なのだが、これが意外と手間取る。車椅子はおろか松葉杖もあっという間に卒業してしまったあゆは、この作業にリハビリ効果がないことをシャマルに確認したうえで世話を焼く。「つうがくでじゅうぶんつかれているのに、このうえむだにつかれてもいみがないのです」と、はやての意向は無視。抗いようもなくて、今はされるがままになっていた。 「あゆ、炭素の生成が過剰」「しまった。なのです」奥から聞こえてきたリィンフォースの声に振り返るものの、あゆの表情に緊迫感はない。「ほっとけーきが、だいなしなのです」「焼け焦げさん食べたら、あかんえ」音も無く廊下を歩いていくあゆを、苦笑しながら追いかけていく。碌な育ち方をしていないこの子は、ほっとくと炭だろうが生煮えだろうが口にする。「たべものさんを、そまつにはできないのです」言ってることは正しいし、そう教えたが、それがダブルスタンダードであることをはやてはよく知っていた。「ほうか。なら、うちも戴かんとな」「だめです!こんなもの、おねぇちゃんにたべさせられないのです」一足先にキッチンに辿り着いたあゆがフライパンを一振り、ホットケーキを裏返す。実に見事な焦げ具合。シャマル直伝でもあるまいに。「ザフィーラも、なんか言うてやって」リビングで鎮座していた蒼き狼は「ふむ」と首を傾げる。「では、とりあえずその物体は我が戴こう」胃壁に防御を張る方法が、完成でもしたか。いや、そやなくてな。との言葉を呑み込んで、はやてはそっと溜息を捨てた。**「ごちそうさま」あっという間に自分の分を平らげたアルフが、くるりと丸くなる。あいかわらず仔犬フォームのアルフがザフィーラの傍に寄り添っていると、なんだか微笑ましい。目を眇めて眺めていたはやてが、ホットケーキを頬張った。口の中がしゃりしゃりする。結局、焦げた部分を出来るだけ削ぎ落とした1枚は4人で分けた。なぜか、リィンフォースまで食べたがったのだ。メイプルシロップを多めにかければ味はまあ何とでもなるし、あゆはけっこう小器用で――失敗する可能性の高いうちは手を出さないし――こうした失敗は多くないから、はやてはなんだか却って嬉しくなってしまう。「学校のほうはどないや?」「いがいと たのしいです」嘘ではない。以前にシグナムの教え子たちと戯れたことがあるが、あゆはいくらでも人格を偽れる。自分に悪い評判が付けばはやてをも貶めることになると知っているから、おとなしく目立たず、しかしある程度の社交性は維持している。幼いクラスメイトたちは気付いてないだろうが、あゆを招くなり誘おうとするなり望んで話しかけると、楽しく会話しているうちに本来の目的を忘れてしまっていることが多い。クラスメイトたちにさほど興味の持てないあゆは、学校以外で時間を取られることを厭うからだ。だが、相手の機嫌を損ねずに話題を変え、なおかつその目的まで忘れさせるのは難しい。幼稚園児も同然のクラスメイト相手だからなんとかなっているが、はやてやヴォルケンリッター、管理局員たちには当然通用しない。こればかりは人の心を地道に観察していくしかないと肝に据えて、とりあえずはクラスメイトたちを実験材料にくべるあゆであった。ほうか。と、はやては壁掛け時計に視線をやる。「それで、……管理局のほうは、どうや?」「はい。たのしいです」こちらは心の底から。なにしろ、こちらの年季奉公は姉と慕うはやてのために望んで行っていることだ。それに、いま進めている研究はいずれ入局せざるを得ないはやての役に立つだろう。そのために出来ることをする。出来ることがある。その幸せを、どこまで実感していることか。「あゆ、時間だ」「ありがとう、なのです。ざふぃーらにぃさま」使い終わった食器を重ねて立ち上がったあゆが、キッチンへ。「ああ、浸しとくだけでええで、うちが洗とくから」「わかりました。なのです」あゆはパートタイマーである。リンディの意向で学業優先を義務付けられたので、本局で午後3時ごろから7時ぐらいまで勤務している。場合によっては夕食後、日付が変わる頃まで残業することもあるが。シャマルは同じ研究室でフルタイム勤務。シグナムとヴィータは、それぞれ航空武装隊と本局航空隊で活躍中だ。デバイス扱いのリィンフォースは対象外、八神家を空けるのは良くないということでザフィーラは稀に応援に呼ばれる程度であった。「いってきます。なのです」「気ぃつけてなぁ」はぁい。と返事を残したあゆが向かうのは、2階奥の空き部屋である。転送ポートを含め、人目に付きたくない機器を押し込めてあるのだ。「さて、うちも始めるかいな」遠くにドアの閉まる音を確認して、はやてが向き直る。「ザフィーラ、リィン。よろしゅう頼むで」「心得ております」「はい、あるじ」「……」耳だけ動かしたのはアルフだ。手助けが必要なら呼ばれるだろうと丸いまま。「リィンフォース、封鎖領域だ」「解かった。 ≪ Gefangnis der Magie ≫ 」さきほど風呂を入れるかどうか訊かれて迷ったのは、これからの魔法の訓練でまた汗を掻くだろうことが判っていたからだ。あゆ1人を働かせて、よしとするはやてではない。少しでも早く実力をつけて学業と両立が出来ることを認めさせ、時空管理局に入局するのだ。今日は都合がつかなくてただの魔力操作の練習だが、志を同じくするなのはやフェイトと模擬戦をすることも多い。「では、我があるじ。スフィアの複数生成から参りましょう」「了解や」生み出し、浮かべるのは立方体のスフィア。2個、3個と増やすたびに、はやての眉間に皺が寄る。しかし、「リィンフォース、こっそり手伝うんじゃない」「……すまん。つい」あはは。と、はやてが笑うと、せっかく生成したスフィアが消滅した。****「おねぇちゃん、じけんです」「ん?」「ああいえ、こちらのことです」「そうか」今日あゆが訪れたのは、地上本局である。通された応接室で待つこと、しばし、であったのだが。もののふです。もののふがいます。と内心で唱えながら、あゆは相手がソファの対面に座るのを待った。「首都防衛隊、ゼスト・グランガイツだ」「ほんきょくしょくたくの、やがみあゆともうします」「後ろの2人は、クイント・ナカジマとメガーヌ・アルピーノ。部下だ」ゼストの背後に控える2人の女性が会釈。「レジアスから大体の話は聞いているが、……む?どうした」「いえ、たいていのかたは、まずわたしのねんれいを きにされるものですから」「そうか? 君はレジアスからの紹介であるし、年に足りるも足りぬもない。 確かに少々驚きはしたが、その程度でいちいち狼狽していては地上部隊は務まらん」背後に立ち並ぶクイントとメガーヌが苦笑いしているところを見ると、それが地上の常識というわけでもないだろう。「では、たんとうちょくにゅうに。 こちらが じんこうりんかーこあ【いであしーど】です」懐から取り出したのは宝石様の結晶、人工リンカーコア。三つある。うむ。と頷いたゼストを見て、あゆは当初の方針を変えることにした。「というのは、うそ。なのです」このゼストという人物はまっすぐな武人で、騙すのは難しくない。一時的に利用するなら、それでもいいだろう。しかし、人工リンカーコアの研究は、あゆにとっても大切なものだ。その試験運用を託す相手を騙し続けるのは労力が莫迦にならないし、できれば積極的に協力して欲しい。「……どういうことだ?」はい。と一礼したあゆは、自らの境遇を話し出す。これまでの経緯を語りだした。自分の目的と、いまの現状も。人工リンカーコアは研究中でまだ形になってないし、持ってきたのはジュエルシードに作らせた代物だ。「……ふむ」ゼスト・グランガイツは、狼であろう。狼を飼い馴らすことは出来ない。できるのは、力を見せ付けて支配することだけか。もちろん、あゆにそんな芸当は無理だ。しかし、別の方法を知っていた。喉を見せ、腹を見せ、恭順する。仲間に入れてもらうのだ。「レジアスに押し切られたか、気の毒にな」驚いたことに、ゼストがくつくつと笑い出した。どうやら珍しいことらしく、背後の女性たちも目を丸くしている。「状況は了解した。 口裏を合わせるから、報告事項の作成はそちらで頼めるか?」「はい。ありがとう、なのです」なに、礼を言うのはこちらだ。とゼストは立ち上がる。「このところいい噂を聞かなかったレジアスだが、俺のところに押しかけて来たときのヤツは10年前の目をしていた。 君の研究のおかげだろう」「そうなのですか?」あゆは首を傾げた。今のレジアスしか知らないのだから当然か。たぶんな。と立ち去りかけたゼストを呼び止め「おもちください」と、あゆが差し出したのはイデアシード。「しかし、それは」「いずれ、まったくおなじものをおわたしするのです。かいはつとじょうのしさくひんも、たくさん。 いまのうちから、なれておいていただきたい。なのです」そうか。とイデアシードを受け取ったゼストは、それ以上何も言わず応接室を後にした。付き従ったのは菖蒲色の髪の女性のみ。「あらためまして、クイント・ナカジマです」藤色の髪をした女性仕官が、ソファの向かい側に座った。「やがみあゆです」あゆが礼を返すと、クイントが電子書類を広げる。「事務的な手続きとか、連絡方法などを詰めておきましょう」あゆは「おや?」と思う。貰っていた資料からするとこの人はフロントアタッカーで、見た目の印象から事務仕事向きではないと判断していたのだが。「よろしくおねがい、するのです」海と陸の垣根を越えて協力することになるのだ。必要な手続き、書類は多い。それに付随する署名も。「てくびがいたい。なのです」電子書類を整理していたクイントは、くすりと笑った。「私もよ」ぷらぷらと手首を振って見せている。先ほどまでに比べて、口調が砕けているのは、こちらが地か。でもまあ。とクイント。「海と陸の架け橋となり。悲願の人工リンカーコア開発に携われるなら、大歓迎ね」あれが完成すれば、戦闘機人なんて……。呟きは、最後までは口にされない。「せんとうきじん?」「ああいえ、こちらのこと」笑って誤魔化して、クイントが立ち上がる。「そうだわ。よかったら今度、我が家に遊びに来てくれないかしら。 下の子、人見知りするから、お友達になってくれる子が欲しかったの」クイントは、まだ幼いあゆの姿に何を見たのだろうか。ただ誤魔化すためだけに、または単なる社交辞令で口にしたようには思われなかった。もしかしたらこれを言いたくて、敢えて残ったのかもしれない。「はい。ちかいうちに」何か感じるものがあったのだろう。社交辞令で返すなら、あゆは「きかいがあれば」と応えたはずだ。退室したクイントを見送って、あゆも電子書類を整理する。たいした権限を持たないあゆの署名は仮のもので、本局に帰って直接の上司であるロウランなり、管掌責任者であるアテンザなりの決裁が必要であった。転送ポートを降りたら直接そちらへ寄るつもりなので、ここで作業させてもらったほうが都合がいい。「これでよし。なのです それでは、かえりましょうか」こうしてあゆの初めてのクラナガン訪問は、地上本部から一歩も出ることなく終わるのであった。