リビングのソファで寝ていたはやてとあゆは、床の上に現れた魔法陣の輝きで目を覚ました。この時間帯では珍しいことに、あゆも寝入っていたようだ。朝まだき。カーテンの隙間が、かろうじて明るい。一緒に転移してきたアルフがフェイトを抱きかかえていたので、すわ負傷か。と訊けば、違うと言う。「フェイトちゃん、お母さんに酷いこと言われたの」自分のことのように辛そうな表情で、なのは。「フェイトぉ……」力なく耳を伏せ、今にも泣き出しそうなアルフを、今は誰も慰めてやれない。****「先方の、プレシアさんの願いは、死者蘇生でした」はやての淹れてくれたコーヒーを一口啜って、シャマルはそう語りだした。交渉場所に現れたフェイトとアルフの前に張られた空間モニター。そこに映し出された女性がプレシア・テスタロッサと名乗ったそうだ。「死者蘇生は可能か?」と問うプレシアに「状態に拠る」とシャマルが答えて、その拠点である【時の庭園】に招かれたらしい。見せられた遺体は最高の状態で保存されており、ジュエルシードの力なら蘇生可能。とシャマルは判断した。死者蘇生が難しいのは、死んだ時点から肉体が急速に損なわれていくことと、脳神経系から失われた活動電位などの情報を回復する手段がないからである。生き返らせること自体は可能でも、意識が戻らなかったり理性を無くしたり記憶を失ったりと不如意も甚だしい。人の精神活動が紙に描かれた絵だとすれば、死は、それを拭い去る消しゴムであろう。長期記憶や癖といったものは油性ペンで描かれた線のようなもので消しゴムでも消せないが、それも紙そのものが朽ちる――脳が腐る――までの命だ。ところが、そこにはこの遺体の生前時に録った脳電図と脳磁図および、死亡直後にプレシアが記録した脳電図と脳磁図が揃っていた。もちろん、それだけでは充分ではない。死後に録ったものは痕跡として希薄すぎるし、生前に録ったものは死亡時との脳構造が――成長によって――異なっているためにそのままでは適用できないのだ。そこを補強するためにシャマルが目に付けたのが、魔力の痕跡だった。物理的な干渉を一切封じられた非殺傷設定魔法が生物に影響を与えることを、指向性を与えられた魔力が人体内の魔力と反応して苦痛を与えることを、癒しを本領とするシャマルは熟知している。その遺体に宿る魔力、特に脳神経系に残された魔力を計測・シミュレートすることで、過去と現在に未来からのベクトルを加えることができるはずだ。絵を描いた時の筆圧を頼りに、鉛筆でこすってその筆致を浮き上がらせるようなものか。魔力素を直接視認し解析する才能を間近で見たシャマルの、それが自分なりの応用の仕方。重要なのは、魔法でも、魔力でもない。死亡直前の遺体の――わけても脳波や神経細胞の発火――状態を再現できるか?その構築力であった。シャマルは、18個のジュエルシードを並べる。魔力の操作に長けた2番。治療が得意な5番。計算能力に特化した9番。自己フィードバック機能が持ち前の10番。崩壊と再構築術式を兼ね備えた13番。シミュレーション機能と現実化能力を追い求めた20番。魔力調整と術式精度の補強を特質とする21番。これらを、支配と制御能力を持つ4番と、判断、分配能力が特徴の11番でまとめてネットワークを構成した。残りの9個はそれぞれのバックアップ、動作チェック用だ。それらを、3基のデバイスたち――レイジングハートとグラーフアイゼンの補佐を受けたクラールヴィント――が統括する。ジュエルシードを『祈願型デバイスの原型』と見做し、なかでもその演算能力だけに着目して組み合わせ、巨大なリソースを持つ仮想デバイスとして構築したのだ。シャマルはまず、遺体の脳神経系をスキャンさせ、仮想空間でモデリングする。遺体の保存状態はほぼ完璧だから、死亡直後の脳の状態を再現できただろう。次に、生前時に録った脳電図と脳磁図と死亡直後のそれとの差分を算出して、記録当時の脳構造も再現。さらに現在の脳神経系に残された魔力を計測して、その強弱・ベクトルを時差補正、そこから死亡当時・生前記録時の推定値をたたき出した。それぞれの情報をそれぞれで補完・フィードバックすることで補強して、得られたのは生前記録時の脳神経系の仮想モデルとその脳波や神経細胞の発火状態のシミュレーションだ。最後に生前記録時と死亡直後の脳組織の差分を取って、生前記録時の脳波と神経細胞の発火状態を死亡直後の脳組織へコンバートしてやれば、死亡直後の脳波と神経細胞の発火状態が再現できる。まるで多色刷りの浮世絵か、それともクロスワードパズルか。赤青緑と光の三原色が照らし合わさって白色光となるような、シミュレーション結果。ここまで終わったところでシャマルは、5番に命じて遺体の心臓に除細動を実施、心室細動の開始を確認した上で心肺機能を監視調整させた。全身に血流が巡り脳への酸素供給が十全になるのを待って、シミュレーション結果を脳組織で現実化する。魔力で擬似的に活動電位や脳波、伝達物質を再現し、意識回復の呼び水、セルモーターとするのだ。 ≪ Einfugen die gehirnnerv ≫本来なら記憶疾患やアルツハイマー、認知症などの治療に使われるこの術式が、今回唯一のジュエルシード固有魔法の行使であった。クラールヴィントに任せて、ヘルスメーターの術式を展開。予後の監視を行う。再現した脳波や神経細胞の発火状態が定着するまでが勝負だった。「その少女の、アリシアちゃんの蘇生は成功しました。短期記憶に欠落はあるでしょうけれど、意識が巧く定着してくれました」魔法の素質が極端に低かったのも成功の要因のひとつでしょう。とシャマルは言う。リンカーコアの能力が低かったおかげで、体内の残留魔力に変化が少なかったからだ。これが魔力保有量が多くて魔法を良く使う魔導師だったら、体内の魔力変移が激しくて、魔力の追跡調査による過去の体内状態の推測などという裏技は成立しなかっただろう。プレシアの娘アリシアの蘇生は成功し、意識も――すぐに眠ってしまったが――取り戻した。問題は、先方が確保していたジュエルシードを引き渡してもらった後のことだ。「「それでは約束どおり、フェイト嬢を預かる」そう言った私に、ヤツはこう言ったのだ。「もう要らないから、好きにしなさい」……と」なんだと?と詰め寄るシグナムに、眠るアリシアを抱いたプレシアはもう一度口を開く。「それは、この子の身代わりの人形。 そっくりなのは見た目だけで、ちっとも使えない役立たず。 そんな出来そこないのガラクタ、欲しければ持っていきなさい」「貴様!」シグナムは殴りかかりたかった。しかし、背後にいる少女の気持ちを考えると、勝手な真似は出来ない。そうして欲しいと頼まれたなら、はやてになんと言われてようと斬り捨てただろうに。「……」思えば、ガラスシリンダーに浮かんだ少女の姿を見たときから、嫌な予感はしていたのだろう。フェイトは、自分をそのまま幼くしたような少女の存在が示すものを、考えないようにしていたのだ。しかし、「母さん……」事実は、他ならぬ母と慕っていた人の口からもたらされた。「私をそう呼んでいいのはこの子、アリシアだけよ」「アンタっ」彫像のごとく固まってしまった主人に代わってプレシアに殴りかかろうとしたアルフは、しかしザフィーラに止められた。「放せよ!アタシゃ、コイツが赦せない!」ザフィーラとて不本意だ。だが、あるじとの約束がある。「どうして……」事情は判らない。経緯も知らない。だからと云って今抱いている感情を棚上げにできるほど、なのはは大人ではなかった。自分だって、家族とうまく行っているとは言い難い。わだかまりがあるし、微妙な距離があると解かっている。幼い頃に放置された記憶が、今も壁となって立ちはだかっていることを自覚している。忙しかった家族に迷惑をかけたくなくて、いい子であることを自彊してきた。いまさら本当の自分など晒せないほどに心を鎧ってしまってることすら、おぼろげながらも理解している。だからこそ家族たちが、自分を扱いあぐねていることも。それでも、家族の間であんな言い方はしない。されない。本当の家族じゃないらしいはやて達だって、あんなに仲良くやっている。それなのにこの人は、フェイトを否定するのだ。「フェイトちゃんは、お母さんのために頑張ってたのに!」「それがなに? アリシアはもっと優しく笑ってくれたわ。 時々わがままも言ったけど、私の言う事をとても良く聞いてくれた。 アリシアは、いつでも私に優しかった」フェイトの助けになってあげたいのに、どうしていいか判らない。「やっぱりそれは、アリシアのニセモノよ。 せっかくあげたアリシアの記憶も、それじゃ駄目だった」なのはの視界の端で、シャマルが何か反論しようとしたようだった。けれど、その口は閉ざされてしまう。シャマルに向けた視線をフェイトに戻して、プレシアは酷薄に口の端を吊り上げた。「未練があるようだから、良い事を教えてあげる。 貴女を作り出してからずっとね、私は貴女が大嫌いだったのよ」****「ごめんね。お願いされてたのに、フェイトちゃんを守れなかった」ソファに座らされているフェイトの隣りで、なのはが涙をこらえていた。「せいしんてきなこうげきまでは、そうていがいでした。 それに、あやまるようなことではないのです」自分も行けばよかったかと考えたあゆは、しかしすぐにそれを振り払う。その場に居たところで、とっさにいい方法など思いつくはずがない。「なあ、なのはちゃん?」車イスをフェイトの前に持っていきながら、はやてが、なのはに声をかけた。「?」視線ももらえずに名前を呼ばれて、なのはは首をかしげる。「なのはちゃんのお母さんって、どんな人?」えぇと……。と、なのはは一旦フェイトを横目に見て、はやてに視線を戻す。しかし、はやてはフェイトを見つめたまま。その……。と、フェイトとはやての間で視線を往復させるが、一向に視線をもらえない。「話せへんのやったら」と口を開こうとしたはやてを「待って」、なのははなぜ止めてしまったのだろう。 「……」自分でも判らないまま、なのははうつむいた。「……私のお母さんは、」ぽつりと、搾り出すように。しかしはっきりと。「私の大好きなお母さんは、 料理が得意で、 パティシエで、 だからお菓子作りはもっと得意で、 なかでもシュークリームは絶品で、」なぜだろう。話し出すと、堰を切ったかのように母親のことが口を付いて出てくるのは。止まらないのは。もっともっと、母だけでなく、父のことも、兄のことも姉のことも話したくなるのは。「お店の切り盛りをしていて、 いつもお父さんと仲がよくて、 お姉さんと間違われるくらい若くて、」なのはちゃん。と、フェイトから視線を外さないままはやてが呼んだ。「なに?」なのはも、視線を上げない。「お母さんは優しい?」「……うん」「お母さんは厳しい?」「ちょっとだけ」「お母さんは、いつもなのはちゃんのこと心配しとる?」「たぶん」答えるたびに、なのはの声が震えを増す。「でも、それを口に出したりはしないんかな?」「そうだね」「それは少し寂しい?」「少し、……じゃないかな?」「そぉか。 きっとお母さんもそない思ぅとるよ」「そうかな?」「訊いてみんと、話してみんと、解からんことは多いんやで」「そう……だね。 訊いてみたことなかった。話したことなかった。 話しを聞かせてって言ったこともないのに、話してくれない。って、私すねてたんだね」シャマルからハンカチを奪い取ったヴィータが、そっぽ向きながらユーノに渡した。受けとったものの、ユーノとてとても差し出せない。「うちは、両親を早ぅに亡くしたからよぉ解からんけど、いいお母さんやな」……うん。と声にならず、なのははただ頷いた。「フェイトちゃんのお母さんは、どぅや?」息を呑んだのは、いったい誰か。しかし、「 かあ さん は……、」焦点は定まらず視線はさまよって、フェイトの声は口の中から出て来ない。うん?と優しく、はやては聞き返す。「なのはちゃんに負けとったら、あかんで。 ほら、言うたりぃ。自分のお母さんのこと」「……私の 母 さん は」抱えた膝を、締め付けるように。「花の……冠を、作って くれた」一度止まった視線のぶれはしかし、先に倍して揺れ始め……「……けど、けど、けど、それは、そ れは、そ れ は……、」私の記憶じゃない?と、口からは洩れない。「他には、ないか?フェイトちゃんの、お母さんのこと」「……母さんは、母さんは、かあさんは、かあ さん は、私に笑いか けてくれた」でも、でも、で も……。と、フェイトは声を震わせる。「これは私の記憶?誰の記憶?あの子の記憶?」「うちは、フェイトちゃんのお母さんは、良いお母さんやったんやろうなって、解かっとるんやけど」えっ!!と思いがけない大声をあげたフェイトが、初めてはやてを見た。そんなはず、あるわけない。と呟いたアルフは、はやてから視線を逸らしたが。「自己紹介がまだやったな。うちは八神はやてや」フェイト・テスタロッサ。と、フェイトの名乗りは手短で口早に。「これで友達や。よろしゅうな」差し出された手を掴んだフェイトは、振るのではなく、引き寄せた。はやてが「うちの家族と友達を紹介しような」と言おうとしたのを、そうして止める。「……教え て」握った手の力を強くするフェイトに、「答え、自分で言うとるんやけどな」と、内心で頭を掻き、はやてはその手を握り返してやった。「フェイトちゃんの名前、誰に付けてもろうたん?」「……。…… 母 さん?」知識でなく記憶でなく、推理で辿り着いて。自分に、プレシアから貰ったものが有ったことに驚く。「いい名前やね。 そんなにいい名前をつけてくれた人が、悪い人のはずない」「いい……名前? 私 の、名前 が?」そうや。と、握っていた手を一旦放し、フェイトの掌に「FATE」と書いてやる。「FATEって言ぅんはな、『from all thoughts everywhere』の頭文字なんや」ミッドチルダ語と英語はよく似ているが、フェイトはとっさにその言葉の意味を理解できなかったのだろう。聞いた言葉が心の裡を空回りして、ほどけてしまう。「その意味は、『遍在するすべての思いやりから』」「思いやり……?」命名者にそんな意図はないだろうと思いつつ、はやては頷いてみせた。ちらりと視線をやったサイドボードの上には、元ネタとなった本が置いてある。「うちも腹黒ぉなったなぁ。あゆの影響やろか」と内心で呟いて、しかし微妙に嬉しそうだ。「姉妹なんやから、似てて当然やな」「しかも、世界中のありとあらゆる全ての。やで」思いやり、ありとあらゆる思いやり。と、言葉はフェイトの口の中で消え、それを外へ押し出さんとするかのごとく繰り返される。「いいなまえ、なのです」「せやろ」「わたしのなまえほどでは、ありませんが」はやての耳に届くか届かないかの小さなささやきに、苦笑。フェイトはまた動かなくなってしまったが、視線だけはしっかりと、前を向いて揺るがない。「シグナム。フェイトちゃんとアルフさんを客間に案内してくれるか?」もう大丈夫と判断して、背後に立つシグナムに預ける。「はい。お任せください」フェイトを抱きかかえたアルフがリビングを後にするのを見届けて、「みんなも、少し休もな」と、はやては微笑んだ。*****朝からずっとリビングのソファに座りっぱなしだったフェイトを、あゆは散歩に誘った。八神家に運び込まれてきた時のことを考えればずいぶんマシな状態になってはいるが、まだ、母親から捨てられてしまった衝撃から抜けきれてそうにない。自分が散歩に連れ出してもらったことを思い出して、いささか強引に連れ出してきたのだ。すこしでも気分転換になればと、あゆは願うのである。フェイトに車イスを押してもらって、信号待ちしている時だった。「痛っ!」振り向けば、母親らしき女性に抱かれた乳飲み子が、その小さな手でフェイトの髪の毛を引っ張っている。「あっ、ごめんなさい。こら、お姉ちゃんの髪の毛、放しなさい」抱き慣れてないのだろう、両手を使って乳飲み子を抱いた女性は、手も出せずにただおたおたしていた。車イスというものに慣れないフェイトは、手にしたグリップを放していいものか判らず、されるがまま。「ふぇいとおねぇちゃんの かみのけは、きれいですからね。 ほしくなっても、しかたないのです」車イスの上で体勢を入れ替え、あゆが手を差し上げる。「でも、むりやりは よくないのですよ」いとけない手を優しく開いて、フェイトの髪を開放した。ごめんなさいね。と頭を下げつつ横断歩道を渡り始めた女性を見て、信号が青になっていたことに気付く。「わたりましょう。そこのこうえんのさくら、まださいてるんですよ」「……うん」押される車イスの挙動が安定しないのは、押してるフェイトの視線が動いているからかと、あゆは推量する。おそらくは、あの女性。そしてあの、乳飲み子。 ……さまざまな種類の桜を植えてあるこの公園には、ザフィーラに何度か連れてきて貰ったことがある。月明かりに見上げる夜桜は幻想的で、無粋なあゆをして美しいと溜息をつかせたのだ。陽光に照らされた桜は、夜闇で見せる妖艶さこそないものの、清々しく生き生きとしていて、それもまたよいとあゆに思わせた。「うらやま……しいな」落ちてきたのは、呟き。何が羨ましいかなどと、訊くまでもない。「うらめに、でましたか」とは口に出さず、敢えてあゆは「なにがですか?」と訊いた。接ぎ穂を探すには、それしかなかった。それがたとえ墓穴でも。「……さっきの、親子」「さっきのおやこ?」わかりきった応えになると知りつつ、さらに水を向ける。「……あんなふうに普通に産んでもらって、普通に生まれてこれたら、 何を求められるでもなく、全てを求められるのかな?」「なぜ、うらやましいのです?」車イスが、止まった。まだ咲き始めの姥桜の前で。「私は……、普通に産んでもらえなかった、普通には生まれてこなかった。 ……求められたことに応えられなかった。求めることを許されなかった」すすり上げる音を頭上に聞きながら、あゆは覚悟した。「そうですか。うらやましいですね」「そ……、え? ……羨ましい?私が?」……最悪、フェイトに嫌われることを。「ええ、うらやましいのです。 わたしは、5ねんよりまえの きおくがありません。 じぶんが だれからうまれたのか、どうやってうまれたのかも、しりません」風に吹かれて舞い落ちてきた花びらを、その掌に受ける。「わたしは、ふつうにうまれてきたのかもしれません。 けれど、もとめられることも、もとめることも、だれも、だれにも、できないのです」それは、本当であり、しかし嘘だ。今のあゆには、はやてが居る。実の親は知らないが、求めてくれて、求めさせてくれる、お姉ちゃんが傍に居るのだ。いまさら実の親などどうでもいい。「ふぇいとおねぇちゃんには、もとめてくれていたひとが、もとめたいひとがいるではないですか。 てをのばせばまだとどくのに、もう あきらめたのですか?」私は!と、フェイトが湿った声を荒げようとしたその時だった。「ああ、居た居た。さっきはごめんねぇ」と、先ほどの女性が現れたのは。「やだ!もしかしてさっきの、やっぱり痛かった?」パタパタと駆け寄ってきた女性は、乳飲み子を連れていなかった。その代わりに、なにやら平べったいバッグのような物を提げている。「ほんとごめんねぇ。痛かったよねぇ」フェイトをぎゅっと抱きしめ、その頭を撫でる。牛乳とはちょっと違う、生臭いミルクの匂いがほんのりと。いえ……その……。とフェイトは離れようとするが、お構いなしだ。「髪の毛、痛んでないかしら?綺麗な髪なのに、ほんとごめんねぇ」フェイトを一旦開放し、先ほど乳飲み子が引っ張った一房を念入りに手繰り始める。「あ……あの、本当に大丈夫、ですから」「そう?そうならいいんだけど」でも、ね。と女性は手にしたバッグを開いた。それは、二つ折りにされた取っ手付きのトレイとでも云えばいいのだろうか?開いた内側に、所狭しとさまざまなアクセサリーが並んでいた。「私ね。アクセサリーのデザインとか、してるの。専門は七宝焼きとクレイシルバー。 さっきのお詫びに、ひとつ好きなのを選んで?」「え……、そんな。いただけません」思わず一歩退いたフェイトを追いかけるのは、その女性の笑顔。「そう言わないで。あなたみたいな子がどんなのを選ぶか、そのリサーチだと思ってくれればいいから」「でも……」「せっかくの ごこうい、なのです。 ことわるほうが しつれい、なのですよ」そ、そうなの?と困惑するフェイトに「そうそう」と女性が頷いてる。「じゃあ……」視線をめぐらせたフェイトが指差したのは、「……これを」サボテンのような形をしたブローチだった。金色の枠をした七宝焼きで、根元のほうは黒く、先端に向かって青へとグラデーションしている。「七支刀ね」幹の左右から交互に6本、枝葉を伸ばした大木のごとき剣。実在しても、実用には耐えられまい。「……ななつさやのたち?」フェイトの疑問に「ええ」と応えながら、女性がトレイからブローチを外す。「雷を象徴していると云われる剣よ。私、こうした神話モチーフ大好きなの」はやてが貸し与えた深い緑色のワンピース。その胸元を走るオレンジのラインにブローチをつけてくれた。「黒から青に変わっていくのは【水生木】と言って、雷の力の源と成り立ちを意味しているのよ」うん、なかなか似合うじゃない。と満足げに頷いて、女性がにっこり。「ありがとう……ございます」「ああ、気にしないで。そもそもお詫びだし、綺麗なコに着けてもらえるのは嬉しいし」それじゃ、ね。と立ち去りかけた女性を、しかしフェイトは呼び止めた。「あの……。 赤ちゃん、かわいいですか?」いきなりの質問に面食らった女性は、しばし考え込む。「ん~と、ね。 子育てって、ホント大変なの。寝る間もないくらい。うるさいし臭いしメンドウだし。 本っ気で殺意覚えることもあるんだよ」たはは……。と苦笑して、「こんな小さい子に何言ってんだろうね、私」と自嘲。少なからず疲れているのかもしれない。「あの子は私の実の子じゃないから、なおさらかな」そのお腹をさすって、少し寂しそう。「……でも、やっぱり可愛いの。 笑いかけてくれると疲れなんか吹っ飛ぶの。 殺したいって思った瞬間に笑いかけられて、泣いちゃったこともあったなぁ」思い出したのか、ちょっと涙目。 「可愛さあまって憎さ百倍なんて言うけど、 母親やってると、愛憎って表裏一体なんだって実感するのよ。 ホント、簡っ単にひっくり返っちゃう」愛憎は、……表裏一体。と呟くフェイトを見て、女性が我に返る。「あ、ゴメンね。変な話になっちゃって」「いいえ……、ありがとうございました」手を振りながら去っていく女性に頭を下げて、フェイトは目尻の涙をぬぐった。見上げたのは空。花びら舞う青空。力を篭めたのはこぶし。涙ぬぐった握りこぶし。「……まだ、届くかな?」「ふぇいとおねぇちゃんが あきらめないのなら、わたしたちが とどかせてあげるのです」