「力を抜いて。 抵抗しないで下さいね」「はい」ベンチに腰かけたなのはの背後に、シャマル。なのはの肩に、クラールヴィントを展開した右手を置いている。なのはの正面にヴィータと、ザフィーラに抱きかかえられたあゆ。シグナムは、追い払ったフェイトが戻って来ないか見張るためと称して上空で待機している。 ≪ Narkose ≫「その術式は?」なのはの様子を見逃すまいと、ユーノは今、ヴィータの帽子の上に乗せてもらっていた。「麻酔の魔法です。物理的な苦痛も、魔法的な苦痛も和らげるんですよ」物質に瑕疵をもたらさない非殺傷設定で生命体を気絶させられることから解かるように、魔法的なダメージも苦痛として認識される。魔力の枯渇を疲労と感じたり、魔力の収奪が麻痺を引き起こしたりと、直接物質に関わらないはずの魔力は、生命活動――なかでも脳神経系――には影響を与えるのだ。シャマルが使ったのは神経伝達信号を自在に制限する術式で、物理的・魔法的、局部麻酔・全身麻酔、さらには苦痛の種類まで細かく設定できる優れものである。癒しと補助が本領の、湖の騎士の名は伊達ではない。「それでは参りますね」一体これから何をされるのかと固唾を呑むなのはの背後で、シャマルが【闇の書】を取り出す。ちらり。と、あゆはユーノの様子を確認する。今回あゆがここに居るのは、交渉役を務めるためだけではない。それだけなら、多少の不得手があってもシグナムなりシャマルなりで充分――もちろん、子供同士のほうが交渉しやすいだろうとの思惑はあったが――だ。本当の理由。それは、万が一に備えた保険であった。もし、交渉相手が【闇の書】を知っていた時に、ヴォルケンリッターを率いていたのがあゆだと、【闇の書】の所有者だと誤認させるために。だが幸いなことに、ユーノは反応を見せなかった。【闇の書】の知名度がどれほどのものかは知らないが、すくなくとも見ただけで判る程ではないらしい。「!」いきなりなのはの胸元から生えて来た手に一番驚いたのは、ユーノだっただろう。当の本人はと云うと、意外と平然としていた。麻酔のおかげか痛みも何もないし、なにやら頭がぼーっとしている。自分の胸元から他人の手が生えたという実感が、ぜんぜん湧かないのだ。つんつんと、つい突付いてしまう。「しまった、外しちゃった」突き出した掌の中に、何もない。「……しゃまるねぇさま」あゆの向けるじっとりとした視線に、「だってわたし、初めてなんですもの」と言い訳すると、大事な手術の最中に執刀医が「あっ」と呟いたのを聞いた患者のような顔をして、ユーノもシャマルを見る。「ごっごめんなさい」やはりイタチの表情はよく判らないが、シャマルは何故か理解したらしい。こんどこそ。と、いったん引っ込んだ手が、今度は小さな輝きを押し出してきた。あれが、【りんかーこあ】。と、あゆは自分の胸元に手を当てる。ここにも、あれと同じ物があると教わっていた。だからこそ身代わりになれたのだと、いずれ自分も魔法を使えるのだと、聞いていた。「蒐集開始」 ≪ Sammlung ≫ぱらり、ぱらり。白紙が術式で埋まるたびに、なのはの胸元の光が小さくなっていく。はらはらとユーノは見守るが、本人は至って平気な顔をして、なんだか眠くなってきた。などと思っている。ばたん。と音をたてて【闇の書】が閉じるのと、なのはのまぶたが落ちきるのが同時であった。「なのはっ!?」「大丈夫。疲れて眠っているだけです」慌てるイタチに微笑みで応え、ベンチに座り込んだシャマルがなのはを膝抱きにする。「レイジングハートさん、なのはちゃんの治療に使いたいのでジュエルシードをお貸し願えませんか?」 ≪ …… ≫ベンチに立てかけられていた魔法の杖が、無言でその宝玉を明滅させる。その意味するところを悟ったらしいユーノが「本当にジュエルシードを使いこなせるんですか?」とシャマルを見据えた。「はい」「…」あまりに気負いのない返事をどう解釈したものか、鳥を見た砂ネズミのようにユーノが固まっている。「まだ疑ってんのかよ」言葉の内容の割に、口調はきつくない。頭の上に乗せてやったことといい、紅の鉄騎はこのイタチのことが気にいったのだろうか?「いや、そういうわけじゃ……」それはユーノも感じていたのだろう。それに、今の状況ではどのみち抵抗のしようもない。「レイジングハート、頼む」 ≪ All light.put Out ≫ありがとうございます。と微笑んだシャマルが、レイジングハートの上で円を描くジュエルシードたちに振り子水晶を差し向けた。「クラールヴィント、2番をお願い」 ≪ Ja ≫クラールヴィントがその2個の水晶で円の端を挟みこむと、ルーレットが止まるようにゆるりと回転が止まる。 ≪ Energie versorgen der Magie ≫クラールヴィントの管制を受けて、ジュエルシードが魔力を放出。光の帯と変えて、なのはの胸元へ注ぎ込む。「ホントに使いこなしてる……」呆然と――やはりイタチの表情はよく判らないが――呟くユーノを、あゆが無表情に盗み見ている。「まずは、失った魔力の補充を」ミッドチルダ式にディバイドエナジーという術式があるが、デバイス間で魔力を遣り取りするもので、直接リンカーコアへの魔力供給は不可能だ。魔法を使う分には充分だが、失った魔力の回復とはならず疲労も取れない。ジュエルシードの中で眠っていたこの術式は、直接リンカーコアへ魔力を供給し、疲労の回復も促す。【闇の書】経由でなのはの魔力の詳細を得ているシャマルはさらに、なのはのリンカーコア特性に合わせて魔力素を調整してみせた。あゆやはやて相手に、使用済みの術式であることも手伝っているが。「超回復の分も見込んで、少し多めにしておきました」魔力素構造体である以上、リンカーコアの回復や成長には魔力を必要とする。それを見越しての処置。「18……、いいえここは17ね」目盛りを刻むように、ジュエルシードの輪が5個分ほど進む。ジュエルシードに刻まれた術式は、その9割方が共通だ。だが、それでも個性、得手不得手はある。 ≪ Wiege Traums ≫「半日ほど、楽しい夢の中で眠って貰いましょう」回復が早くなるように、精神状態を良く保ったままで休ませるのだ。これもジュエルシードの中に眠っていた術式。【闇の書】の中によく似た術式があることをシャマルは知っていたが、もちろんそれを使う気はない。「12番……だけでは力不足ですね。2番の力も借りましょうか」輪の中央に寄り集まったジュエルシードが見えない太陽を巡る彗星群のように舞い、てんでに元の軌道へ戻る。先ほどまでとは順列が異なるようだ。その上で、2つのジュエルシードがクラールヴィントの間で止まった。 ≪ Fesseln der Magie ≫「最後に、2日間ほど魔法を使えないよう封じさせてもらいました」魔法を封じる方法はいくつもあるが、リンカーコアに直接働きかけ、指定した用途外の魔力運用の規制まで可能なものは知られていない。シャマルは、なのはのリンカーコアの魔力を自己治癒と防御魔法以外には使えないように設定した。「なのはちゃんのリンカーコアは今、水でふやかした高野豆腐みたいになっています」「コーヤドーフ?」どうやらユーノは高野豆腐を知らないらしい。と気付いて、シャマルが言葉を探す。花どんこだのフカヒレだの増えるワカメちゃん1個連隊だの、どれも異界のイタチに通じるとは思えないが。「干物を水に漬けて戻すように、魔力を搾って縮んだリンカーコアを、魔力に漬けて戻そうとしている。で、解かります?」もっとも、遺跡調査で探検行の多いユーノにとって、食料の保存方法と食べ方は基礎知識だろう。頷くユーノに満足げな微笑みを向けて、シャマルは続ける。「この状態のリンカーコアは、脱皮したてのエビ……甲殻類みたいに脆弱ですから、この時期に無理したり魔力ダメージを受けると、最悪死に至るわけです」その代わりに、この時期を乗り越えればそのリンカーコアは一回り大きく、強く、頑丈になるだろう。シャマルの万全のケアが、その回復と成長を後押しする。ああ、念のために。と再びクラールヴィトを構えたシャマルは、「2番と4番を」その振り子水晶の間に、ふたつのジュエルシードを止めた。 ≪ Schleier der Magie ≫「念のために、対魔力防御を付与しておきました。1週間ほど保ちます」ベルカ式ミッドチルダ式を問わず、術者が維持せずに継続する術式はほとんどない。魔力がいくらあっても足りなくなるからだ。これらジュエルシードに眠っていた術式は、どれもその莫大な魔力量を背景に長時間継続するものが多かった。逆を言えば、だからこそ廃れたのだといえるかもしれない。さて。と、なのはを抱きかかえたままで立ち上がったシャマルに、ヴィータが歩み寄る。頭の上のイタチのために歩み寄ってやった。が正解か。「やはり、ジュエルシードの制御方法は教えてもらえませんか」それは再度の懇願ではなくて、事実の再確認に過ぎない。「いずれは」赤い帽子の上で項垂れるイタチに応えたのは、あゆ。「でも、いまは それをかいしゅうすることが さいゆうせんで、つかうことはないのでしょう? おわたしした じょうたいでも、けんきゅうには ししょうがないでしょうし、いまは わたしたちもいそがしくて、せいぎょほうほうを おわたしできるかたちに せいりするじかんが とれないのです」嘘ではない。現状でジュエルシードの制御はシャマルとクラールヴィントの共同作業なのだ。デバイス部分はともかくとして、術者負担部分はまとめるのに時間がかかるだろう。だが、それだけとも言い切れない。もちろん、ジュエルシードが無闇に使われないようにする意図もあった。いま渡した9個もパラメータを全て初期化し、いくつもの安全装置やパスワードを組み込んである。「確認しただけです」にゅっ。と伸びてきた手が、イタチの首根っこを掴んだ。「うざってぇな。そのうちきっと教えてやんだから、いまは我慢しとけ」ひょい、と放り出されたのは、シャマルに抱きかかえられたなのはのお腹の上。「ありがとうございます」扱いこそ乱暴だったが、不快な感じはしなかったのだろう。むしろ嬉しそうにユーノは頭を下げた。「シャマル。さっさとそいつら送ってこいよ」「ええ。 ユーノさん、空間座標を教えてもらえますか?」はい。と応えたイタチとの間で、しかし、なにやら空間座標以外のやりとりが始まった様子。どうやら、体調診察用の魔法を教えているらしい。シャマルが家族の健康管理用に編んだ術式で、身長・体重・体脂肪率・代謝率・血圧・血流量・脈拍・脳波・心電図・各種ホルモンバランスに脳内分泌系・魔力保有量にその収集効率まで調べ上げる代物だ。1日1回、お風呂上りに「はか」られるからと、はやてがヘルスメーターと名付けていたが。ようやく術式の伝授が終わったか、シャマルの足元に緑色の魔法陣が開く。「それでは行ってきます」と、シャマルたちの姿が掻き消えた途端、ぽたり。と音がした。誰もそれに気付かなかった。ヴィータも、ザフィーラも、当の本人でさえも。「どうした、あゆ」最初に気付いたのは、上空から降りてきたシグナムだった。「なんで泣いてんだよ」騎士服と封鎖領域を解除しようとしていたヴィータが、一歩。傍に寄る。「ともだちが、できました」その場に居合わせていたのだ。今更聞くまでもない。それどころか、ヴィータも無理矢理なのはの友達にさせられた。何度か名前を言い損ねて、しばらく言い争ったりしていたが。念話で聞いていたシグナムも状況は理解している。しかし、あゆがなぜ泣き出したのか、さすがに思い至らない。「ともだちが……。 はじめてのともだちが、できました」ひくっ、としゃくりあげて、いまさら懸命に涙をこらえようとしている。「でも、はじめてのともだちが できたときには、もう、うらぎっていたんです」あゆの認識では、友達とは家族同然だった。ユーノに言われたたとおり、一緒に住んでない家族であると。もとより血のつながりなど知らないあゆには、ユーノの言いようがひどく素直に胸に落ちたのだ。あゆは想像する。はやてが自分を家族として受け容れてくれたあとで、その人が自分が暗殺せねばならない対象だと知ったとしたら。と。その時点で自分が暗殺者として完成させられていたら。と。ザフィーラの胸にしがみついて懸命に声を押し殺すあゆの傍で、「あたいも、そうなんだよな」とヴィータがグラーフアイゼンを、そこに収めてある10個のジュエルシードを睨みつけていた。