『仔猫だな』『ああ……』遠目に封時結界を見やって、ヴィータとシグナム。シグナムの返事がそっけないのは、結界の出来を見て内心賞賛していたからだ。『はやてちゃんが見たら、喜ぶかしら?』『どうであろうな?あの大きさでは』シャマルとザフィーラは、さらに離れている。いざという時どう結界を破ろうかと、シャマルは計算に忙しいはずなのにそうは見えない。4人とも魔法で外見をごまかし、さらに隠蔽魔法で姿を隠していた。見えるのは、巨大な仔猫。生物の生長促進ではなく、巨大化。しかも仔猫の体型を維持したままで、潰れもしていない。現代魔法はもとより、古代ベルカでもありえない術式。莫大な魔力を背景にした強引な魔法は、あきらかに【瞳】の仕業であろう。『あれなら、差し迫った危険はなさそうだ。 白い魔導師が手間取るようなら、飛び込むぞ』屋敷から、以前ほどの警戒を感じない。シグナムは、今なら侵入も可能と判断したようだ。3人の応えを確認して、シグナムは現場に視線を戻そうとした。しかし、その視界に捉えたものは、「黒い……魔導師?」円形のミッドチルダ式魔法陣を展開した少女が掻き消えた瞬間だった。『転移反応、結界内にでます』結界内に現れるやいなや発射体を生成、槍のような魔力弾を仔猫に打ち込む。「悪くない手際だ。やるな」自分たちの将が観戦モードになったのを感じとったのだろう。紅の鉄騎はふてくされたかのように座り込んだ。追撃を続ける黒衣の魔導師と、立ちふさがって防御魔法を展開する白い魔導師。結界内で邂逅した2人は、しばし見詰め合った。「一方的……。いや、白い方に戦う意志がないのか」デバイスを変形させ、鎌様の魔力刃で襲いかかる黒衣の魔導師の攻撃を、白い魔導師は避け、防ぐことしかしない。絶え間ない攻撃と、堅牢な防御。そのままであれば、その攻防に決着はつかなかったであろう。距離を開け、対峙する2人の均衡を破ったのは、ダメージから立ち直った巨大仔猫。能天気にも「にゃあ」と。覚悟の差か、練度の差か、とっさに放たれた魔力弾が、白い魔導師を撃墜した。「『ごめんね』、か」直前の唇を読んで、シグナムが独り語ちる。「根は優しいのかもな」と、口中で付け足して。『どうすんだ?くれてやんのかよ?』変形した黒杖が4枚の光翼を広げ、黒衣の魔導師が今にも【瞳】を封印しようとしている。それを横取りするか?とヴィータは言いたいのだろう。『いや、やめておこう』烈火の将は即決する。『我らの目標はあくまでも【瞳】の無害化だ。 ここで相手を傷つけでもしたら、あるじはやてに申し訳がたたん』それに。とシグナムは口中で続ける。我らが侵入した途端、先般の連中が出て来ないとも限らない。と。『黒衣の魔導師は、おそらく転移を行うだろう。 シャマル、転移先の特定を頼む』『任せて』まさか、素直に根城を目指すことはなかろう。と思いつつも、念のために指示だけは出しておく。結界内から転移した黒衣の魔導師は、そのまま転移を重ね、シグナムの予想はすぐ現実のものとなった。さて、ヴォルケンリッターが帰還した八神家では、「超巨大な仔猫かぁ、見たかったなぁ」「いっけんの、かちあり。なのです」「あ、映像ありますよ」「ナイスや、シャマル」「しゃまるねぇさま、ぐっじょぶ。なのです」シャマルの株が急上昇していた。「おなかのうえで、ほんがよめるおおきさ!なのです」連れて帰ってきていたら喜ばれていただろうか?と、つい考えてしまったのはシグナムである。****「それでは始めますね」シャマルが満座のリビングを見渡すと、全員が黙って頷いた。「クラールヴィント、【瞳】の管制をお願い」 ≪ Ja ≫テーブルの上に浮かぶひとつの【瞳】を、挟むように2つの振り子水晶が展開する。あゆから手渡された【闇の書】を掲げ、シャマルがページを開いた。「【闇の書】、蒐集」 ≪ Sammlung ≫ぱらり、ぱらり。白紙が術式で埋まるたびにページがめくられていく。徐々に加速して、個々のページが視認できないほどまで。「すごい。なのです」「ええ」【瞳】の解析に携わった2人には、予想できる事態だった。だが、それでも言葉短く洩らすのみ。ばたん。と音をたてて【闇の書】が閉じる。【瞳】の魔力はまだまだ余裕があるが、書き記すべき術式を全て写しきってしまったのだ。「……何ページ、いった?」烈火の将には不似合いなことに、シグナムはおそるおそる訊ねた。「200ページ、と少し。といったところでしょうか」シャマルの返答に、誰も口を開けない。「すげぇじゃんか!」やにわに立ち上がったヴィータが、興奮して【闇の書】を掴み取った。「あと3個も蒐集させりゃ、すぐに完せ……」口篭もったのは、自分と同様に喜んでる顔が少なかったからだ。シャマルは特に厳しい顔をしている。「待ってね。ヴィータちゃん」もうひとつ【瞳】を取り出したシャマルが、蒐集の終わったそれと交換。ヴィータから【闇の書】を受け取って掲げる。「蒐集開始」 ≪ Sammlung ≫ぱらり、ぱらり。と、先ほどと同様に白紙が埋められていく。しかし、それはあっという間に終わって【闇の書】が閉じた。「……やっぱり」「どういうことだ?」落胆が過ぎて口も利けないヴィータに代わって、問うたのはザフィーラ。「【瞳】に記録されている術式、それはほとんど同じものなの」シャマルは言う。これが魔導師や魔法生物なら、例え同じ魔法でも個体差が出る。【闇の書】は、それを別物として記録するだろう。魔導師でない魔法生物は個性が出にくいから効率は悪いが、それでも全くの無駄と云うわけではない。しかし【瞳】に記録された術式は違う。単なるコピーに過ぎないそれらを、【闇の書】は同じものとして認識し、書き写さない。2つ目の【瞳】からたいして蒐集されなかったのは、それだけしか違いがなかった。後は共通した術式だった。ということだ。「20ページほどですね」【闇の書】を見たシャマルは、そう確認する。「19個を全て蒐集しても、560ページということか」蒐集し終わった【瞳】を掴み取ったシグナムの、問いはつぶやきめいて力ない。「多少の誤差がありますから、結果的に570ページくらいには」【瞳】をすべて解析したシャマルは、その内包する術式の差異を把握している。その差分を計算した結果と、たったいま埋まったページとを突き合わせて、最終的に570ページほどになると結論付けていた。「仮にあと2つ回収してきても届かぬ。か、」ザフィーラは、自分にもたれかからせている少女に視線をやる。中途半端な蒐集は、【闇の書】を刺激して所持者への侵蝕を加速する恐れがあるとシャマルから聞いていた。それは当然、あるじの肩代わりをしているこの少女への負担となる。ふさふさと、感情が尻尾に出ていたらしい。あゆが振り返った。「ざふぃーらにぃさま?」「なんだ。お手洗いか?」ごまかしたザフィーラを、あゆは追求しないことにしたのだろう。「でりかしーのない、おにぃさま。なのです」ふだん気にしたこともないデリカシーなど持ち出して、その鼻を抓んだのだから。ネコ目に限らず、多くの動物にとって鼻は急所である。盾の守護獣として頑健な肉体を持つザフィーラとて例外ではない。たいして強く抓まれたわけではないにしろ、怯むには充分。そのうえで、「つぎは、みみをかんでさしあげます」などと言われたザフィーラは、あゆには逆らうまい。と誓ったとか誓わなかったとか。「たった100ページ!何人か蒐集すればすぐ埋まるっ!」「ヴィータ」テーブルを叩いて吼えるヴィータを、はやてが意外に冷静な声音でたしなめる。「そうです。 ひとさまのりんかーこあなど むりやりうばわなくとも、なんとでもなります。 それとも、びぃーたおねぇちゃんは、きょだいせいぶつからしゅうしゅうするのは めんどくさくて、おいや。なのですか?」「そんなワケねー!」なら、いいのです。と強引に話しを締めくくったあゆを、怪訝げにシグナムが見やっていた。****海鳴市は、日暮れの早い土地である。卯月も半ばのこの時期、7時ともなればもう真っ暗だ。住宅街を音もなく歩くのは狼形態のザフィーラである。馬でもあるまいに、かなりの速度を常歩ですたすたと。いや、いまは馬なのか。背中にあゆを乗せているのだ。歩けなくなって、あゆは外出が減った。それまでとて頻繁に出歩いていたわけではないが、少なくともはやてが出かけるなら着いて行かないことはなかった。それが、遠慮するようになったのだ。ヴォルケンリッターの誰かなりが抱きかかえてやると言っても、1度や2度では首肯しない。結局はやての強権発動でさらわれるように連れ出されるのだが、そのときの表情はたとえ朴念仁のザフィーラでも容易に読み解けたであろう。そこで散歩である。「散歩に行きたいのだ。付き添ってくれ」真顔――狼の真顔が区別付くかどうかはさておき――でそう言われたあゆは、リビングを横断中だったはやてに視線をやった。「どないしたんやー」と目顔で応えて、でもそれだけ。車イスは慣性の法則にしたがってキッチンへと去ってしまう。シャマルは……。ダイニングのテーブルでクラールヴィントと何か作業をしていて、こちらに背を向けている。いつもと座る位置が違うようだ。「びぃー」「あたいは願いさげだ。そんなの連れて出歩けるか」ヴィータはテレビでやってる海外ドラマ【殺アイスクリーム事件】に釘付けで、振り向いてもくれなかった。時代劇とかミステリーがお気に入りらしい。そうして今、あゆはザフィーラの背で揺られているのである。「すまんな、付き合わせて」周囲に気配がないことを確認して、青き狼が口を開く。「いいえ……。 ……ありがとう。なのです」「なんのことだ」「つきが、きれいだと……はじめて しりましたから」それはザフィーラへの向けたわけではなかったのだろう。アンテナのように引き回した耳で声の指向性を聞き取って、狼は口を閉じた。少しでも気分転換になってくれればいい。とザフィーラは思う。このところ、あゆは働きすぎだ。麻痺の進行度合も気になる。【瞳】のおかげで、少なくとも魔力についての心配がなくなっていたことにザフィーラは感謝した。「すげー!」「でっけー!」「おおかみ?おおかみか!?」「うわっ、オレも乗りてぇ!」「いいなー」駆け寄ってきたのは両手に余る人数の子供たち。背丈はバラバラで男の子が多いが、女の子も何人か。「こら、お前たち。走り込みの途中で寄り道するんじゃない」「しぐなむねぇさま?」ポニーテールを揺らした人影が、シグナムの声で子供たちに注意したのだ。袴姿のシルエットが凛々しい。 「シグナム先生の妹?」 「シグナムせんせー。おおかみ、かってるの?」 「にてねー」 「先生、乗ってもいい?狼、乗ってもいい?」 「きっと複雑な家庭事情なんだよ」 「あ、いいなー。僕も乗りたい」 「かっけー!」 「しっぽ、ふっさふさ。ほしー」 「どっちが?狼?家庭の事情?」 「せんせー、狼どこで獲ってきたの?」 「はじめまして、シグナム先生の生徒で、ムサシって言います」 「あっ、おれコゴロー」「これはどうもごていねいに。やがみあゆ、なのです」 「かわいいよう!おっ持ち帰りぃ♪」 「キバ、すげー!」 「よさんか」 「……おお、かみよ。えぃめん」「せんせえせんせえ、おおかみこわい……」 「よ~わむし~!」 「むむ……胸毛の返しがない。すわ新種か!我が名が、ついに学名に!」 「ふかふかー♪」 「おおかみさん、おおかみさん。お名前は?」 「…じんぎすかん?」 「……」 「先生先生、うちのチョビとで仔を取りましょう。儲けは折半で」 「ツメもすげー!」なかなかにカオスである。シグナムはこめかみを押さえるばかり。ざふぃーらにぃさま、よろしいですか?と、唇をほとんど動かさずに落とされた小声は、カリカリとアスファルトを掻く音で返された。ぱんぱんと手を叩いて注目を寄せたあゆは、人差し指を高く掲げる。「いっとうしょうで どうじょうについたひとを、のせてあげるのです」いつもより高い声音と、溌剌とした口調。今からのこの場に治めるにふさわしい性格を、演じてみせる。再びぱんと、両手を打ち鳴らす。「まずは ねんしょうぐみさん。ほいくえんのこ、ようちえんのこ。なのですよ。 いちについて、よーい。 どん!なのです」「おー!」「きゃー!」たちまち駆け出す年少組。走るというより、ころころと転がっているような印象だが。「つぎは、しょうがっこう ていがくねんさんですよ。よういはいいですか?」「おぉー!」「はやくはやくっ!」はんでは?と向けられた視線に、「30秒だな」とシグナムの応え。自身の心拍数を把握しているあゆは、多少なら遡って時間を計測できる。「では……、6・5・4・3・2・1・ごー!なのです」「やったらー!」「あいたっ」慌てるからだ。と転んだ男の子をシグナムが起こしてやると、泣きもせず途端に駆け出した。「つづいて、しょうがっこう ちゅうがくねんさんですよ。 おいぬくときは こえかけて、ぼうがいとか、きしどうにはんするこういは ゆるしませんよ。 あーゆーれでぃ?」「いぇー!」なかなかののりなのです。と満足げに頷くあゆ。「4…50秒だな」並んだ顔触れを見て、シグナムが宣告。「では、5びょうまえ」「5秒前!」手を突き上げ、手のひらを広げて見せると、中学年たちが付き従う。「4」「4!」突き上げた手の、指でもカウントダウン。「3」「3!!」「2」「2!!!」「1」「1!!!!」「げーへん!なのです」 ……「あ、行かなきゃ」「あ、そっか」カウントダウンすることに気を取られて、出遅れるのはどうだろう?中学年たちよ。「そして、しょうがっこう こうがくねんさんですよ。 のる。いがいのこうしょうごとも、いっとうしょうじゃないと うけつけないので、あしからず」「えー!」「よーし!完全勝利で、おっ持ちかえりぃ♪」「させるかー!」こめかみを押さえて、「1分だ」シグナム。「……では、ごー! と、いったら はしるんですよ?」「あたあたあた……」「フェイントずっけー!」「といいつつ、ごー!なのです」 「……」「ほんとですよ?」「わぁぁぁ!」「性格悪ぃ!ホントにシグナム先生の妹かよ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」ドップラー効果である。「次は3分だな」「さいごに、ちゅうがくせいさん。……なぜ、そんなに やるきまんまんなのですか?」残った2人は、実に念入りに準備体操していた。「ふふふ、我が名が学名に。永遠に刻まれるのだ!」「1匹30万として、180万。半分でも90万……。40万でもいけるか?」あゆに応えたわけではないのだろう。ぶつぶつと声が小さい。「あゆ、やっぱり4分だ」「せんせー!そんなゴムタイヤ」「むむ、旧態依然たる学会の抵抗勢力か!?見損なったぞシグナム先生」それでも準備体操を止めないところがまた……。「はい、10びょうまえ、なのです。げっとせっと」気合充分なクラウチングスタイルが2つ。「れでぃー、ごー。なのです」「なんぴとたりとも我が前は走らせーーーーーーーーん!」「おっ金、お金♪おっ金だっけが人生よ♪」その調子っぱずれの歌で、なぜあんなに速く走れるのだろう?はぁ。とシグナムの嘆息が重い。「ひじょうきんこうし、おつかれさま。なのです」「いや、散歩のところをすまん。助かった」「いえ。けっこうたのしかった。なのです」嘘ではない。本当に少し、楽しかったのだ。同年代の子供たちと戯れるということが。笑顔のあゆのその頭を、「そうか」とシグナムがくしゃくしゃに。「では、ゴールの判定をしに行ってくる」「はい」と、あゆが応える前に駆け出したシグナムは、あっという間に見えなくなった。「なんだ、そのへっぴり腰は!」と怒声が聞こえてくる。「我らも、ぼちぼちと向かうとしよう」「はい」ゆるりと歩き出すザフィーラの背で揺られ、あゆは自分についてくる月を見上げた。今宵は、寄り添うように月が近い。あゆの預かり知らぬことであるが、あゆと面識のない目撃者の間で、あゆは【サン】と名付けられ、都市伝説化していくのであった。もし知ったら、「3ではなくて、54だったのです」とでも反論しただろうか?そうそう、優勝者コメントをどうぞ。 「……おおかみ、こわい……」