朝っぱらからダイニングで、シャマルが難しい顔をしていた。目の前のテーブルには【瞳】がひとつ浮いていて、いくつかの魔法陣に囲まれている。【瞳】の魔力が【闇の書】の完成に使えるかどうか、調べているのだ。しかし相手は正体不明の高密度魔力結晶体。しかも封印中とあって、さすがの湖の騎士も勝手が判らないらしい。ニトログリセリンを虫メガネで観察するような危うさ、闇夜でムギ球を頼りに広辞苑を引くような心許なさ、沙漠の砂を一粒ずつ数えるような途方のなさだからだ。「は~」いったん魔法陣を消したシャマルが、引き寄せた椅子に腰かけた。テーブルの上に麦茶が出ているのに気付いて、一口。とんとんと、思わず年寄り臭く肩を叩いてみたり。暴走が怖いので使っている探査魔法は弱いモノだが、だからこそ却って疲れるのだろう。同調させての妨害隠蔽魔法の同時行使も地味に堪えたようだ。「しゃまるねぇさま。 おつかれさま、なのです」キッチンにコップを返しに来たあゆが、その帰りがけにシャマルの背後で立ち止まった。小さな手を伸ばして何をするのかと思えば、シャマルの肩を揉み始めた。「ありがとう~」なにやら溶けている。「極楽~」よほど疲れているのだろう。言葉が短い。「おぉ、ええなぁ」「ごようぼうとあらば、おねぇちゃんもまっさーじしてあげるのです」こちらはお代わりを取りに来たらしい。はやてが冷蔵庫前に車イスをつけた。「おおきに。 けど、うち肩凝らんからええわ。そのぶんシャマルをよろしゅうな」「おお!あゆ、あたいも揉んでくれ」ヴィータもお代わり組か。「お前のどこに、凝るような肩があるのだ」シンクにコップを置いたシグナムが、シャマルの反対側に腰かける。「うっせぇな。てめぇにゃ関係ねぇ」「そこまで言うなら、我が揉んでやろうか?」珍しく人間形態のザフィーラが、やはりコップをシンクへ。「てめぇのバカ力なんかで揉まれてたまるか」べー。と舌を見せながら、ヴィータが車イスを押していく。「ヴィータは、もうちょっと言葉遣いをなんとかせんとあかんなぁ」と、こちらは押されている方。「ああ。あゆちゃん、ありがとう。楽になったわ」人体というものに多少の理解を持つあゆは、マッサージも巧い。それに、見かけ以上に握力もある。とはいえ、こんな短時間で効くものでもなかろう。社交辞令だ。「はい。どういたしまして、なのです」もう一口。と麦茶に手を伸ばすシャマルを横目にリビングに戻ろうとして、あゆは足を止めた。「ああ、しゃまるねぇさま。 ひとつ、しつもん。なのです」なあに。と目顔で応えたシャマルが、テーブルに椅子を引き寄せている。「まりょくそ。というものは8しゅるい、あるのですか?」通常空間はもとより次元空間にすら遍在する複合粒子、それが魔力素だ。魔導師はこれをリンカーコアに収集することで魔力へと変え、魔法行使の源泉となす。「……、いいえ。どうして?」わたしはいままで。と、あゆは抱えた【闇の書】から伸びる光の帯を見る。「このひかりを、こうげんとしてしか、にんしきしていませんでした」空いてる椅子を引いて座り、テーブルの上に【闇の書】を置く。「これが まりょくそとよばれるもので、まほうのちからのみなもとと きいてから、それがどういうものなのか、もっとよくみるようにしたのです」何もない中空に掌を差し上げ、あゆは続ける。「わたしにはこのひかりが、8しゅるいあるようにかんじられる」疑問符を浮かべるヴォルケンリッターの中で、ただひとりシャマルだけが理解の色を浮かべた。「もしかして、魔力子まで見えてるの!?」魔力子とは、魔力素内部で物理相互作用を伝播する素粒子である。魔力素は内部の魔力子の状態によってその性質を変えるが、普通に魔力として使う分にはほとんど影響を及ぼさない。だから、一般的には魔力素に種類はない。とされる。「みえる。というほどではないのです」魔力素の状態は2の3乗で8種類あり、世界によってはこの分布が偏っていることもある。ある一定の魔力素分布に慣れた魔導師が他の世界に行くと魔力収集障碍を起こすことがあるが、魔力素分布の違いに拠る変換障碍で、基本的に一時的なものだそうだ。「ただ、ちがいがわかるだけ。なのです」また、魔力変換資質の持ち主は、この魔力素の状態を選別して特定の状態を優先して収集している。と云われている。魔力素のフィルターを持っている。とでも云えばいいのか。「それは凄いが、何か意味のあることなのか?」シャマルに向けられたシグナムの問いは、一般的な魔導師なら当然の認識だろう。魔力素の状態は魔力収集・魔法行使にほとんど影響がないのだから、気にするほうがおかしい。……それなんだけど。とシャマルは視線を滑らす。「あゆちゃん。これを構成している魔力素、読めます?」シャマルが差し出したのは、テーブルの上に浮かんでいた『瞳』。はい。と頷いたあゆは、ザフィーラに伝言用のホワイトボードを取ってとねだる。「【ひとみ】は、このように」と、3重の同心紡錘形をホワイトボードに書き記して、「3そうこうぞうになっているようにみうけられるのです」「べんぎじょう、まりょくそのじょうたいに1から8までばんごうをふって、このいちばんそとがわのぶぶんをこうせいする まりょくそは……」8877714566328817832275……。と数字を書き連ね、「これを1せっとに、ほぼくりかえし。なのです」と締めた。そして。と真ん中の紡錘形を指し示して、「ここには、しゅるいごとにまりょくそがおしかためられてるのです」「驚いたわ」もちろん、そのくらいのことは調べがついている。【瞳】が3層構造であり、外殻・制御部・魔力槽で構成されていることは、シャマルの探査で一発だった。だが、ここまで無雑作にはできない。魔力量が尋常ではない【瞳】は、探査に向けた微量な魔力でさえ励起しかねないのだ。魔力封印はかけてあるが、この魔力量の前には気休め程度。ここ。とシャマルはホワイトボードを指差し、「制御部の魔力素を読んでみてくれますか」と、続きを促す。はい。と頷き、1226755735411388675……と読み上げるが、魔導師ではないあゆに意味は解からない。魔導師であっても、デバイスマイスターでもない限りここまでは気にしない。シャマルはそれをクラールヴィントに記録させ、整理を実行していた。「3152583というくみあわせが、おおいのです」との呟きをデバイスマイスターが聞いていたら、きっと驚いたことであろう。それは、デバイスの魔力回路において「処理実行開始」を示すキーワードなのだから。そして、うらやましがることだろう。魔法行使には影響を及ぼさない魔力素の状態だが、魔力構造体を集積する、ということになればこれほど重要な要素はない。リンカーコアと違って、魔力素そのものに魔力を操作させようと思えば、その性質を見極めてひとつひとつ組み上げていくしかないからだ。魔力素の状態が直接見えるということは、魔法や道具に頼らずに魔力回路を解析できるということになる。それがデバイス製作時にどれだけ労力の軽減になるか、この場で気付いているのはシャマルただ一人であった。**** 【養蜂家の店 蜂蜜のフジタ】「こないなところに、蜂蜜屋さんが」病院からの帰り、ちょっと気分転換にいつもとは違う道を通ることにした。その途上。「うち、蜂蜜屋さんなんて初めて見るわ」「お寄りになりますか?あるじはやて」シグナムの問いに、「そやなぁ」と、はやて。さいわい店内は広くて、客の姿もない。「せっかくやし、のぞいていこか」はい。と応えたシグナムが前に出てガラス戸を引き開ける。「失礼する」店舗の中央に据えられた蜂の巣が、なかなか立派だ。「イらッシャイまセー」店の奥から現れたのは、――中近東あたりの出身だろうか――少し浅黒い肌をしたお姉さんだった。ジーンズとブラウスにエプロン姿。闊達そうな恰好に、ヒマワリのような笑顔が良く似合っている。「ソの蜂ノ巣、フェイクだヨ。残念ダッたネ」蜂の巣に見入るはやてを見て、にこり。「デも、蜂蜜は本物、混ジり気ナし。 正真正銘、ナんとニホンミツバチさン達の努力ノ結晶だヨ♪ スズメバチにモ負けナいニホンミツバチさン達の底力、舐めチャいケないヨぅ♪」まるで歌っているかのように口上を述べながら、舞っているかのような足取りで店頭まで。素人にしては悪くない体軸。とはシグナムの賞賛だ。「オヤおや、オ嬢チャンはゴ病気カナ? ココの蜂蜜食ベタラ、元気にナルヨぉ♪」言いにくいことをずっぱり斬り込んでくるが、いやみたらしさが無い。釣られて、はやても思わず口元をほころばせてしまう。「オ姉サンは、キレイな髪ダネェ! でモ、ココの蜂蜜シャンプー使エば、もっとツヤ出ルよ♪」シグナムはちょっと困惑か。頭髪など、今まで気にもしたことなかろう。「お姐さん、商売上手やなぁ」「そウ?正直ナだけヨ?」「そこが商売上手やねん」ムむ、日本語、難しイネぇ。と眉根をよせるお姉さんの姿に、くす。と、はやての口が綻んだ。そのまま、ころころと笑い出す。「ムむむ、人見テ笑うノは失礼ダよ♪」そう言いながら、お姉さんも口元を綻ばせている。「ごめんなさい。堪忍してください」なんとか笑いをおさえて、はやてが頭を下げる。「うンうん。素直でヨろしイ。お姉サン心が広イからスぐ赦すヨ。 そレはソれとシて、ゴ購入は大歓迎ネ♪」「やっぱり商売上手や!」「悲シイね。見解の相違っテのハ」いかにも遺憾と言わんばかりに手を広げてみせるお姉さん。しかしすぐに、ぷっと吹き出して、からからと笑い出す。釣られて、はやてもまた笑う。石田先生の見立てでは、自分の脚は回復の兆しを見せているらしい。ほんのわずかだが、麻痺が退いているようなのだ。でも、素直には喜べなかった。それが、あゆが身代わりになってくれた結果だと判ってしまったから。それが、あゆに何をもたらすか、判ってしまったから。それに見合うなにものも、与えられないのに。だから今日は、寄り道をしてしまったのだろう。ちょっとでも気を晴らしたくて。もしかしたら、家に着く時間を少し、先延ばしにしたかったのかもしれない。でも今だけは、余計なことをすべて忘れて、ただ笑っていた。****結局1日中読み上げていたあゆと、それを整理解析していたシャマルは、疲労困憊してソファに沈没していた。「ほら、かりんの蜂蜜漬け。喉にええで」「あ゛り゛か゛と゛う゛。な゛の゛で゛す゛」差し出されたかりんを、あーん。と頬張る。「フォークまで食ぅたら、あかんえ?」はやてはなんだか嬉しそうだ。「ったく、てめぇらは加減ってもんを知んねぇのか」「ヴィータちゃん、ありがと~」シャマルの額に乗せた濡れタオルを代えてやりながら、ヴィータが毒づく。本当なら今夜、もうひとつの【瞳】を回収しに行くはずだったのだ。しかし肝心のシャマルがこれでは、支援が心許ない。早々に今夜の出撃を諦めたシグナムが、先刻そのことを告げたのだ。ヴィータはバトルマニアではないが、はやてのために自慢の鉄槌を振るえる機会を楽しみにしていた。タオルを絞るその手に力が篭るのも無理もなかろう。「あゆちゃん。明日は、別の手段を講じましょうねぇ~」「自重しろっ!」叩きつけるように投げ下ろした濡れタオルが、びしゃ!っとシャマルの額にクリーンヒットした。