「なんやろ?」八神はやては、自身がたてたものではない物音に敏感な娘だった。静かな夜ほど、特に。「テラスの方っぽかったやんな」車イスを窓に寄せてカーテンを開けてみるが、夜闇が濃い。「……あかん、暗うて見ぇへん」ジョイスティックを倒して、車イスを下がらせる。元々の位置を通り過ぎたのは、わざわざ外まで確認に行くつもりなのか。「なんや倒れたような音やったけど」独り言が多いのは、一人暮らしが長いから。「もしかして、泥棒さんかいな?それとも、大遅刻のサンタはん?」泥棒がさん付けでサンタがはん付けなのは、ひそかなこだわりらしい。ガラス戸を開けると、春とは名ばかりの夜気が這い寄ってくる。下手をすれば、まだ雪の降る季節なのだから当然だ。「寒っ、なんか羽織ってくるべきやったかなぁ」などと呟きつつ、ジョイスティックは前へ。「ん~?」明かりを背にして闇を見通すのは難しい。しかし、八神はやての眇めた目には違和感が見えた。生け垣そばの植え込みのシルエットが、記憶と異なるのだ。「物体Xやったらヤやなぁ♪」あまり嫌そうでもない。孤独が深いと、たとえそれがトラブルでも変化を望んでしまう。そういうことがある。「百歩譲って、ブロブなら赦したるで」タイルと芝生の微妙な段差を、車輪が越えた。「女の…子?」闇に慣れてきた目に映ったのは、植え込みの陰に倒れた年の頃5、6歳と思しき少女の姿だった。****衣擦れの音に目を上げると、ベッドの上で少女が身を起こしていた。「目、覚めたんか?」ここまで運んできた苦労など、微塵も感じさせぬ笑顔。「どないや?大丈夫か?気分悪ぅない?ほぼ1日寝とったんやで」読んでた本を傍らの机に置いて、車イスを寄せていく。「体中、打ち身と擦り傷だらけやったんやから、無理したらあかんよ?」見下ろす少女の視線の先に、包帯や絆創膏。それらに特に感慨を抱いた様子も見せず、着せられたであろうパジャマの襟元をおそるおそる摘んでいる。「うちのお下がり、気に入らんかった?たぬきさん柄、かわいいと思んやけど」小首をかしげて覗き込むはやてに、少女がかぶりを振ってみせる。彼女のこれまでの人生で、こんなにも肌触りがよく可愛らしい衣服を着たことがなかっただけだった。ほぅか、よかった♪と背もたれに体重を預けたはやてが、「そや」と手を叩く。「うち、八神はやて言います。嬢ちゃんのお名前、教えてくれへんかなぁ?」「……。54、なのです」少女は、言いよどんだようだった。自身に付けられた名称が一般的でないことは、幾度かの実習で偽名を名乗らせられたから判っていたに違いない。しかし、見下ろせば、手当てしてくれたのだろう包帯や絆創膏。そして、さまざまな表情のたぬき。なにより、車イスの少女が見せる笑顔。それが一般的でなかろうと、嫌いな名前であろうと、一時しのぎの偽名を使う気にはなれなかったのだろう。「へっ?……ごじゅうよん!?名前がか?」ゴ・ジューヨンという名の外国人の可能性が、その頭によぎっただろうか?けれど、少女の見た目はあまりにも日本人で、口にしたイントネーションにも舌足らずな感じはあるが違和感はない。「もしかして、うちをからこうとる?」だが、少女はかぶりを振った。「わたしは、54ばんめに こどくぼうをぬけたのです。だから、54なのです」****少女は、これまでの境遇を思い返す。気付いた時には、窓ひとつない大部屋に、同じ年頃の子供たちと一緒に押し込められていた。もちろん見えたわけではない。息遣いでそうと知れただけだ。自分が何者で、なぜそこに居るのかも思い出せなかった。食事は日に一度、固いパンが人数分放り込まれるだけ。問題は、日を追うにつれて、放り込まれるパンの数が減っていくことだった。当然、パンを手に入れられず衰弱していく子供、争奪戦の過程でケガをする子供が続出する。そのままであれば彼女も、その他大勢の子供と一緒に餓死するしかなかっただろう。せめて最期にこの世界の光景をと願った少女はしかし、暗闇の中にほのかな明かりを見た。部屋中の空気が、壁が、ぼんやりと輝いているのだ。それが、何か力になったわけではない。けれど、少女は立ち上がった。部屋の真ん中に居座る、最も体格の大きい少年。今までパンを独り占めしてきた少年。薄明かりの中、黒々としたシルエットに見える少年の下へ、歩み寄る。音をたてないようにゆっくり移動するが、こちらに気付いた様子はない。さっき放り込まれた、たった1個のパンをむさぼっている。少女は自覚していた。自分が何かをすり減らしきってしまっていたことを。だから、何も考えず少年の正面に、目と鼻の先までやってきた。もし、生き延びたいなら、もっと慎重に行動すべきなのだ。少年にこちらが見えてないとは限らないのだから。けれど、どうでも良かったのだ。少女は気付いていたのだろう。たとえここで生き延びても、碌な目に遭わないだろうことを。だからこれは、少女に残された最後のやさしさだったのかもしれない。最後のひとかけらを頬張ろうとした少年の口に、その手を突っ込んだのは。容赦なく喉の奥まで突き入れる。体格差があったから、痩せ細って棒のような手だったから、予想以上に容易だった。突然の奇襲に驚いたものの、少年だってここまで生き延びてきたのだ。やられっぱなしで居るわけがない。突き込まれてきた手に噛みつき、左手で少女の頭を探り当てると、右手で張り手をかます。少年がここまで負傷少なくこれたのは、攻撃に張り手を使うからだった。彼に匹敵する体格のライバルたちが自身の攻撃で拳を痛め脱落していく中、彼はその攻撃力を保持し続けたのだ。暗闇で攻撃手段が見えないことが彼に味方していた。しかし、この相手にそれは通用しない。少女は、振りかぶられた掌を、明かりの中の脱落した闇として見ていた。左は論外。右は少年の左手が塞いでいる。手を噛まれていて後ろには下がれない。しゃがめば躱せるだろうが、敢えて少女は前へと踏み込んだ。噛みつかれた部位から皮膚が裂けるが、気にしない。むしろお返しとばかりに喉の奥を引っ掻いてやる。空振りした右手が引き戻され、頭髪を掴み、掻き毟る。だが、少年の抵抗もそこまでだった。ろくに呼吸もできない状況でできることなど限られている。なにより、少年だって衰弱していたのだ。パンしか食えない環境の中で。右手越しに少年の断末魔を感じながら、口を塞いでいて良かったと少女は思ったのだろう。意味はないと判っていて、左耳だけを塞いでいたのだから。最後の一人となって部屋から出された少女は、自分の境遇を知った。はっきりと告げられたわけではないが、彼女はある組織の暗殺者候補として攫われてきたらしい。少女の予想通り、部屋を出ても、良いことなどひとつもなかった。最低限の食事、冷暖房など望むべくもない簡素な住居、着ると却って肌荒れするほど最悪な肌触りの粗末な衣服。それだけを与えられて、碌な睡眠も許されず暗殺者としての訓練に追い立てられるのだ。同期と呼べなくもない別部屋の生き残りの中で、少女はもっとも体格に恵まれず体力的にも劣っていた。そのままでは、早晩彼女は脱落していただろう。蠱毒房と呼ばれたあの暗闇の部屋と同じように、時折子供同士で殺し合いをさせられたのだ。少女にとって幸運だったことに、そうした殺し合いは暗闇の中で行われることが多かった。いくら夜目が利く者でも、彼女ほどはっきりと闇を見通すことはできないのだから。そうして5年を生き抜いた冬に、少女の居た施設が襲撃された。彼女を暗殺者に仕立て上げようとしていた組織は、ある一族と敵対していたらしい。たまたま野外実習で外出していた少女は、その襲撃の最中に施設に帰還してきた。異変に気付いて逃げ出そうとした少女も、崖から足を踏み外し河に流されなければ、今こうして生きてここには居られなかっただろう。****「なぜ、ないているのです?」「だって、悲しいやんかっ!」今思い返したことを、全て話したわけではない。ぼやかしたことも、省いたこともある。暗殺者としての訓練には、標的の心理を読むための授業もあった。だから、口にすべきでない事柄を選ぶことぐらいは少女にもできる。けれど、車イスの女の子には、八神はやてには、その限られた言葉で充分だった。「あんたは悲しゅうなかったんか?寂しゅうなかったんか?」「そういうかんじょうは、とうに なくしてしまったようなのです」そう言いながら少女は、自らの胸に手を当てる。目の前で泣き伏すはやての姿に、なにを感じたのだろう。「そんなに、なかないでほしいのです」「これで泣かずに、なんに泣けばええっちゅうねん」しゃくりあげ、ひっくり返る声で、それでもはやては言いきった。「うちはな、自分が不幸やと思っとった。 早うに両親がのうなって、ひとりぼっちで、足も動かんようになってもうて……、 夜中に泣いたことやって何度もある」でも、思いあがりやったわ。と目元をぬぐった袖が涙を拭ききれてない。「わたしがふこうなのだとして、だからといって それであなたが ふこうではない。ということには ならないのです」むしろ……。と少女は続ける。「かなしいとかんじられる。さみしいとかんじられる。あなたのほうが よほどふこうだったのではないかと おもえるのです」口を開きかけたはやてを身振りで押しとどめて、少女はさらに続ける。「わたしはかなしみをかんじない。わたしはさみしさをしらない。 けれど、あなたがわたしのために ないてくれたから、ふこうではない。そうかんじられるのです」失くす物を持たぬ者に、失う苦しみは解からない。失ったことがないのだから。苦しみの中にあっても、それを理解できないのなら、苦しみではない。だが、それが屁理屈に過ぎないと、八神はやてには解かったのだろう。もちろん、少女が何故そんなことを言ったのかも。「優しい子ぉやな」「わたしが、なのですか?」そうや。と、あらためて涙をぬぐいながら、微笑む。「そないな環境で、なんでそんなに優しゅうなれるのか、ほんま不思議やわ。 うちも見習わなあかんな」うんうんと頷いているはやてをよそ目に、少女の脳裏には「好意の返応性」という言葉がよぎっていた。優しくされたから、優しさを返したに過ぎない。そう、自己分析する。そのことへの自嘲と、その程度には人間らしさを残していた自分への憐憫がしばし、少女の思考をさまよわせた。「と言うわけで、よかったら暫くここに住まへんか?」何が「と言うわけ」なのか、聞き逃していたらしい。少女の無反応をどう読み解いたのかはやては、視線を落とす。「うちはこれまでも、漠然と家族が欲しいと思っとった。一緒に暮らしてくれる人が欲しいと思っとった。 けれど、ただ同じ家に住んでくれるだけでは、ただ傍に居てくれるだけでは、早晩あかんようになる。 そのことに今、気付いたんや」組んだ掌を膝の上に乗せて前かがみになると、八神はやての小さな体はより一層縮んだように見えた。「わたしで、よろしいのですか?」うちは、5……。と、はやては言いよどむ。ちらりと上げた視線が少女の顔色を窺うが、もちろん気にした様子はない。しかし、人の名前が数字だなどと、番号などということがあっていいのだろうか?はやては、自分の名前が好きだった。女の子に付ける名前としてはちょっと微妙で変かもしれないが、この関西弁と共に両親が残してくれたものだったから。はやてのために、一所懸命考えてくれた名前であろうから。少女をどう呼べばいいか逡巡を重ねたはやてが、また視線を落とす。「うちは……54ちゃんとやったら、自分を卑下せんでも居られるような気がする。 5……4ちゃんとやったら、ひがまんと居れるような気がする。 今のままの自分で、遠慮も呵責もなく接していられるような気がするんや」俯いた顔は前髪で隠されて、その表情をうかがうことはできない。しかしその震える肩は、放っておけばまた目頭を搾り上げることだろう。「……」行く宛てのない少女にとって、この話は渡りに船だった筈だ。けれど、この八神はやてという少女と出会って以来刺激されつづけている心の細片が、不純な打算を糾弾する。それでも、今はただ自分よりも小さく見える少女を慰めたくて。「いらなくなったら、そういってほしいのです。それを やくそくしてくださるのなら」差し出された手は、小さく。包むように握りしめたその手も、まだ大きくはなく。こうして八神家に、住人が増えた。