数日後。骨折を完治させたルーは村から5キロほど離れた、自分専用の訓練場に来ていた。
太い木の枝に座り込み、絶の状態を維持したまま大きく息を吸って、ゆるやかに吐き出しながら意識を集中させる。
やがて一匹の虫が木々の向こうから飛んできた。羽音の大きさからするとコガネトゲアブだ。
鋭い産卵管を利用して獲物の皮膚の下に卵を産みつけるタイプの危険な虫であり、数え切れないほどの病原菌を運んでいるので、刺されれば命に関る。
ルーはそれを理解していながらもじっと動かず、皮膚に接触する直前まで絶を続け、虫と皮膚との距離が限りなくゼロに近づいた瞬間、一気に全身の精孔を開く。
「練!」
両手を打ち鳴らすように声に出し、全身から水蒸気爆発を起こしたようにオーラを噴出させる。その圧力で不敬な虫は粉々に吹き飛んだ。
オーラを周囲に発散するのはカロリーを無駄にしているようで好きではないが、練を続けてオーラを空っぽにしないと最大値は伸びてくれない。オーラを外から取り込めればこんな苦労は必要ないのになあと呻き、空気中に霧散していく自分の生命力を見て勿体無く思う。
子供の体という事もあってか、延々と大量のオーラを練り続けるのはかなり厳しい。このスタミナ不足も頭が痛い問題だろう。
体感時間で1時間ほどオーラを吹き出し続けた頃には疲労感を覚え始めており、オーラ切れで倒れる前に次の修行に入る。
「よし、次ー」
堅の状態を維持したまま両方の指先にオーラを集め、左右に4割ずつ振り分ける。
その状態で揃えていた指をパッと離し、親指を除いた4本それぞれに1割ずつになっている事を確認。くっ付けたり離したりを繰り返し、オーラの反射神経というべきものを鍛えていく。ノルマである1000回を達成するまでに2分ほどかかった。
今度は両の人差し指に4割超ずつ集め、中指、薬指、小指、親指、手全体、手首、二の腕、肘、と移動させる流の訓練だ。最初はカタツムリが這うような速度でしか出来なかったのに、今では体を動かしながらでも一瞬で狙った部位に流ができるようになっている。常人には見る事さえ叶わない不思議パワーを自分が使えるというのは快感で、やった分だけ成長を確認できるのがまた楽しい。
「しかし、円ってどうやればいいんだろう……。体からオーラを離すって感覚が、いまいち理解できんなあ」
ルーは無意識的に犬歯に舌を這わせると、足先に下ろしたオーラの塊をグルグルと移動させながら呟いた。
村では応用技は秘伝扱いになっているらしく、早くても成人年齢である15歳まで待たなければ教えてもらえない。流や硬、堅や周についてはおぼろげな記憶があったのと、村を襲ってきたハンター達が使っていた事から習得する事ができていたが、円のように感覚的に分かりにくい物はどう鍛えていいのか分からなかった。
主人公らがやっていた記憶もないし、そうなると原作では訓練法が登場していないのかもしれない。ならばお手上げだ。
絶や隠は獲物を追いかけている内に自然と覚えていたし、何か切っ掛けさえあれば円だって習得で競うではあるのだが。何にしろ今は出来ない。
大人しくあと6年間待つべきか、それとも自分なりに訓練してみるか、主人公が使ってないなら必要ないと諦めるか……。ルーは頭を悩ませる。
覚えたいのに6年も待つのは面倒だし、下手に訓練して取り返しのつかない変な癖をつけてしまったら元も子もない。
諦めるのは悔しいので嫌……となれば、本来なら15歳以降に受けられる 『成神の試練』 を先に受けてしまうのがいいだろう。これは村から30キロ以上はなれた場所にある祠に連れて行かれ、自分だけを頼りに森の中で1カ月の間生き残るという試練であり、一人前の戦士として認められるための儀式でもある。
途中で村に戻ってくると失敗扱いであるし、村の外で村人に発見された場合は試練の一環として攻撃を受けるので、森の奥深くで過ごす事が求められる。これを受ける事によって正式に一族の大人として認められ、本来は秘匿されていたはずの応用技だとかを教えてもらえるのだ。
基礎を怠らないようにという先人の知恵なのかもしれないが、既に基礎ならば早々負けはしない、と思っているルーにはありがた迷惑である。森には厄介な獣も多く存在しているし、一般人には厳しいだろうけれども、24時間ずっと纏を続けられる念能力者ならさして難しい事ではない。それどころかこの試練中は狩りで自由に獲物をとる事が許されているので、無駄にしなければ好きな物を好きなだけ食べられるし、小旅行という気分である。
「うちの村って、けっこう理論的なんだよな……。早くから念の存在を教え、15歳までは延々と基礎をやらせ、それから応用を教えるって」
昔にテレビで見た、精神論以外は何の意味もないバンジージャンプをする部族とかと比べると、わが村は実に理にかなっている。
いくら力を欲したとはいえ魔獣と性的な交わりを持つのは凄まじい発想だが、魔獣の血を引き入れなければここまで念能力が一般化する事もなかっただろう。元は村の周囲に生息していた魔獣の技だったようだし、念に対して高い才能を持つ者が圧倒的に多いのはこれが理由だ。
漫画で見るのと実際に目にするのでは違いすぎて分からないが、村の大人なら原作初期に出てきた念能力者よりは強いはず。少なくとも応用技を知っていて鍛えているし、発を覚えている者が数人がかりで当たれば、ヒソカに殺された分身を作る人だって無傷で倒せるだろうと思っている。
戦士は念を覚えられなければ選別されるというのも、この森の中では念能力者でもなければ生きていきにくい、という背景を考えると納得できた。
鋭い産卵管を持ち皮膚の奥に何百も卵を植え付けるハエ、耳や目や肛門といった人体に存在する穴という穴から侵入して血肉を食い荒らすヒル、踏むと猛烈に胞子を飛ばして肺の中から侵略を企むキノコ、万単位の群れを作り常に移動を続ける軍隊アリならぬ軍隊ハチ、などなど危険生物が多いのだ。今も体長2メートルほどの蛇が枝に擬態しつつルーの事を狙っているが、あれに噛まれると体長5メートルオーバーのフォレストタイガーでも数秒で麻痺する。
ハンター試験に合格したプロハンターとて、うかつに足を踏み入れれば命の保証はない。この森は猛烈に死が近い場所なのだ。
その証拠にルーの散歩コースにはよく人骨が転がっているし、新鮮なうちはいいものの、たまに骨に残った肉が腐敗して猛烈な臭いを発しているグロテスクな物体も見かける。ウジで表面が真っ白になっている姿は本気で気色悪いから嫌いだった。
何よりの問題は、そういうのは懐を漁っても硬貨しか得られない事。
腐汁のついたお札はほぼ間違いなく使用不能なため、泣く泣く破棄していた。
「とりあえず、ハンターの人の肉が無くなるまでは村にいよう……。あ、この蛇美味いわ」
念で防御していれば蛇ごときの牙は通らない。猛毒を持つ蛇だったが、数秒後には食材へと姿を変えていた。
無造作に手を伸ばしたルーは捕獲した蛇の頭を素早く切り落とし、軽く切れ目を入れてから引き摺り下ろすようにして一気に皮を剥いたのだ。ヘビ肉の味はさほどではないが、食べるまでに手間が殆どかからないところが良い。近場にある川で洗って口に運ぶと、なかなか美味であった。骨は取っていないが、念で自分の歯を強化すればコリコリと歯ごたえを感じる程度でしかない。
おやつも食べて満足したので、今日はこの辺で村に戻る。
ウィールグに帰ってきたルーは特に当ても無く、たまにすれ違う知り合いと軽く挨拶を交わしながら歩いていた。
今ルーが考えているのは、自分の体の事だ。
鍛えれば普通の人間だって何十トンと動かせるようになるのがハンターハンターの世界である。原作で描かれているシビアな世界観を反映してか、肉体においても念においても才能の有無は極めて顕著な物になっていた。
その経験に基づけば、才能の無い人間は努力しても無駄である。普通の人間が1年かけて学ぶ事だとしても天才なら1ヶ月で終わらせるし、主人公になれるクラスの才があれば1週間かからない。武術に人生を捧げた老人がレベル100まで己を磨いたとしても、たった1年で200まで成長できる化け物も居る。
その辺りは現実よりも差が顕著なだけにより厳しい。原作でもハンター試験に合格したのは子供ばかりで、大人が殆ど居なかった事もこれに由来する。
「姿形を自由に変えられたら、ライセンス取り放題だよな……って、ん?」
相変わらず犬歯を舐める癖を行っていたルーは、上顎に何か違和感を覚えて首を傾げた。
何かの変異かもしれない。舌の上を水の粒が走っていったと言うか、唾液が沸くはずのない場所から水が出てきたように感じたのだ。
壁に掛けてある鏡の前に立って唇を持ち上げ、牙をむき出してみる。見た目的には変わったように思えないのに、何だろうか。
「うわ、何だこれ……。毒か?」
犬歯の上あたりに力を込めると、両の牙からポタポタと水が落ちるのが見えた。
何かの冗談だろうと口中に沸いた唾を残らず飲み下し、改めてもう一度試してみたが、やはり浸水は止まらない。指で拭ってみると軽い粘り気があった。
「いやいや、まさか、ねえ……。強烈な麻痺毒を持った魔獣や獣って多く居るけど、発現しちゃったのか……?」
まさか自分の牙から分泌された毒で死なないよね、と多大な不安を感じながら家を飛び出し、こういった現象に詳しいはずの医療系担当者の家へと向かった。
ノックもそこそこに中に飛び込み、額から角を生やした青年と向かい合う。
「おや、ルーが慌てているなんて、珍しいね。どうしたんだい?」
「ユーニさん! それが……歯から、毒のような物が出るようになりまして」
落ち着いた態度の彼はユーニコ・モノーケスという名前で、他者の怪我を治す念能力を持っているために村一番の名医と評判だ。
白衣姿が村で一番似合っている青年で、医者だけに頭も良く、念能力を過信せず医学書などから知識を吸収する事を厭わない性格をしているため、念を使わない分野についても町医者顔負けの知識がある。
病気や怪我の時には村の誰よりも非常に頼りになるお医者様なのだけれども、額から伸びている角はかなり鋭い上に10センチ近くあり、たまに患者をよく見ようとし過ぎて角を刺してしまうのが珠に瑕だった。
「毒だって……? その症状が現れたのは、何時の話だい?」
「ついさっきですから、10分も経ってないと思います」
普通の病院ならば精神科に案内されるような内容であるが、この村では背中から羽が生えてきたとか、指が二股になり始めたとか、頭から尻尾が生えてきた、などと世界でも珍しい症状を訴える患者の巣窟である。本職の医者でも慌てふためくような事態を前にしても、彼には少しも同様は見られなかった。
彼はルーを落ち着かせながら椅子へと誘い、煮沸消毒を行ったゴム製の手袋を嵌め、歯科のようにじっくりとルーの歯を観察する。
「なるほど、たしかに歯の先端から出ているようだね……。成長してから毒をもつ魔獣といえば、この付近だとヘビと人の特徴が混ざったマン・パイソンだから、その辺りの影響かな?」
「……うぇ、あれですか」
ルーは彼の手が引っ込んだのを確認してから、口を閉じて大きく顔を顰めた。
マン・パイソンは極めて狡猾な性格をしている魔獣の一種で、石を削って作った槍や弓矢などを使う他、枝や草で偽装した落とし穴などのトラップを作れるまでに知能が高い魔獣だ。多少鍛えただけの人間では到底及ばないほどの力を持つ、天然のハンター。
体は人間に近く2本の腕と足を持っているが、その一方でヘビとしての特長も色濃く持っている。頭を含めて全身は鈍く光を反射する鱗に覆われているし、間接の稼動領域も信じられないぐらいに広いため、人間では骨を砕かない限り入れないような狭い場所にまで進入する事まで可能。人間としての視界だけでなくサーモグラフィーのように熱も感知できるらしく、暗闇は彼らの縄張りだ。
成体になるまでは特定の住処を持たず、5~8体ほどの群れを作って森の中を移動しながら生活している。毒牙はあるが生まれてから数年は毒を持たない。
その理由として子供の体では自らの持つ強力な毒に耐えられないからだと言われており、筋肉毒、出血毒、神経毒、など複数の毒を使い分け、そのどれもが猛毒だ。彼らの持つ槍や鏃にも毒が塗られている事が殆どで、肉も食べるが仕留めた相手の血を啜る事を最も好む、極めて危険な魔獣である。
かつて纏を覚えて調子に乗っていたルーを集団で追い回した魔獣でもあり、ルーは未だに彼らの事を嫌っていた。
「見ただけじゃあ判別のしようがないな……。サンプルが欲しいから、この容器の中に出してもらえるかい?」
「あ、はい……」
自分の皮膚が鱗まみれになる悪夢に頭を抱えていたルーは、彼の言葉で我に返った。手渡された2本の試験管を牙に当てる。
毒らしき物は出そうと思えばかなりの勢いで出せるようで、ガラスの壁を絶え間なく流れる川は緩やかに試験管を満たしていく。ほどなくして2センチほどの水位に達し、ユーニにそれぐらいで十分だと言われた後も、毒の方はまだまだ搾り出せそうだった。
牙の付け根にあるだろう毒袋の容量はかなり大きいのかもしれない。食事の際には毒を周囲に振りまかないように注意しよう、と心中で決意する。
「よし。じゃあ僕はこれを調べておくから、明日か明後日になったら来てよ」
ユーニは試験管を受け取るや否や目を輝かせ、怪しい器具を満載した個室に引っ込んでしまった。
彼は研究者肌な部分があるので、未知の毒とくれば食指が動いたのだろう。さっそく研究を開始しているようで、部屋の中からはガチャガチャとガラス製品がぶつかる音が聞こえてくる。
相変わらずだなあと額を押さえたルーは、自分がまた牙を舐めている事に気付いて苦笑した。
ドアから漏れる強烈な薬品の臭いも嫌になってきたし、記憶によると自分の舌を噛んで死んだ毒蛇も居るという都市伝説を聞いたことがある。そんなものを証明するために命をかける気には全くならなかったため、今日は大人しくしておこうと決める。
結論から言えば、ルーはやり遂げた笑顔を振りまく青年に 『幾らでも舌を噛んで大丈夫! もう耐性が出来ているみたいだね』 と太鼓判を貰った。
ただそれにたどり着くまでには山あり谷あり、もっとサンプルを寄越せとか血を調べたいから腕を出せとかに始まり、内臓を見たいからちょっと切り開いていいかい? 大丈夫、ちゃんと戻すから……。なんて台詞まで吐かれる有様である。
当然拒否すると同時に突っ込みを入れておいたルーだったが、角のある青年の顔はかなり本気だった。生まれが違っていたらマッドサイエンティストになっていたのかもしれない。村で医者をやっているより、そっちのほうが似合っているとルーは思う。
そのマッドな彼曰く、毒を出せるようになったのは肉体が成熟したからで、近いうちに生理も来るだろう、という聞きたくない話も教えられた。
生理が来れば妊娠できると判明するので許婚が決定する時期でもある。この村では結婚相手を親が決める事が多いし、誰かから求婚されるにしても基本的に女性側は受け身だ。肉体が成長すれば自ずとオーラ量も増えてくれるのだが、あまり嬉しくはない。
変に知識があるせいで生理とは嫌な物だという認識が強かったし、妊娠する事にはまだ恐怖がある。
今はトイレなどの時ぐらいしか性別を意識するような機会はないものの、二次的成長が始まれば嫌でも意識する場面が多々出てくるだろう。そうなれば落ち着いていた人格にも齟齬が出るかもしれず、ルーは女の子には慣れていても女性には慣れていないので、お嫁さんになると思うと落ち着かないのだ。
異性を意識するとあの単純でガサツで強引な男が浮かんでしまうのが気に入らなかったし、まだ“異性”とそういう行為に及ぶ気にはなれなかった。
「って、私はなにを……。記憶によると、乙女回路? なんか嫌だなあ……」
まさかそんな筈は無いと断じるものの、無意識のうちに頬が赤らんでしまうが憎らしい。これが体は正直という奴だろうか。
ルーからすればロプスみたいなガサツで暑苦しくて体を鍛える事しか頭に無い鈍感男は門前払いにして然るべきだったが、村には彼より強い男も居ない事だし、念や体術については確かに優れている。ルーだって女子グループの中では最強ではないかと言われており、ユーニ辺りならお似合いの二人だなんて言いそうだった。
ロプスがもう少し乙女心というものを理解し、花束の一つと真摯なプロポーズがあれば、まあ、付き合ってやるくらいは、考えないでもないのだが……。
「うわああ! やめやめ! 何を考えているんだ、私はっ!」
頬どころか顔を真っ赤にしたルーはブンブンと首を振る。元の肌が白過ぎるため、トマトのごとく真っ赤になってしまった。
肩を超えるまでに伸びている髪がバサバサと目や口に侵入を試み、それでも自分の想像が恥ずかしすぎて首が止まらない。オーラ量を増やすための訓練中だというのに堅が解けそうになった。全身から噴出しているオーラは乱れた精神状態を象徴するごとく、湯気のように空気中へと溶けていく。
普段から大人ぶっているルーではあるが、普段から目を背けている部分を自覚してしまうと弱い。特に自認したくない性的な部分を攻められるともう駄目だ。途端にクールぶっては居られなくなり、ただの女の子になってしまう。
ユーニにはこのギャップが面白いだの可愛いだのと言われていたが、ルーからすれば萌えキャラになる気なんて欠片も無い。どうにか耐性をつけようと頑張っているルーではあるものの、結果はご覧の有様である。
自分の妄想に身悶えしながら追い詰められ、終いには枝からまっ逆さまに落っこちた。