注意!
今回、はっきり言えば主人公が悪役まっしぐらです。黒いです。むしろ敵っぽいです。しっかり狂っています。恨まれても文句言えない性格です。
何か雰囲気が違いますが、ご了承ください。
出来れば感想をお願いします。
境界恋物語 その⑩・下 ~『紅魔館』編~
紅魔館の中を、静かに進む影がある。背が高く、スラリとした体格の女性。足は長く、胸元は少々足りないが形が良く、短く揃えた髪の中で、後頭部から延びた髪が纏められている。
名も無い神鹿。現在の名を、蒼。
音をたてず、静かに動く彼女。体には何一つ怪我は無く、衣服の解れすらも無い。館の中に居る妖精メイド達は、彼女の目を捕えるまでも無く倒されている。尾形縁の進む先には居ない。彼女の先にはいる。
これは即ち、館の主――レミリア・スカーレットが、この先に立ち入る事が無い様に、手配しているのだろう。おそらくは、そういうことだ。
「……同じ、ですか」
彼女のいた世界――彼女が訪れた《幻想郷》で、数回ではあるが蒼はこの館を訪問している。その時は時間を操るメイドの手で空間を操られていた為に今よりも広く、複雑であったけれども、内部構造上、変化が少ない部分もある。
廊下の真ん中に距離が空き、空間と同時に部屋が構成されていても。上下移動が必要な、階段の位置は基本的に変化が無いだろう。階段が増える事はあっても、元あった物が消える事は無い。そして蒼は『彼女の性質』が原因で、空間把握能力は非常に高い。
歩み、行きついた先は階段だ。灯りが付いてもいない。ただ石造りの頑丈な階段が、深く深く地下へと伸びている。そこに、蒼は躊躇なく足を踏み入れた。
空気が冷たい。埃っぽくもある。けれども、湿度は少ない。日当たりが無い事を除けば、暖さえあれば快適に生活できるだろう。それは同時に、何かを保管する時にも非常に役に立つということだ。
何が保管されているのか、勿論彼女は把握している。
「……懐かしい、と言うべきですか」
蒼は、行きついた先の扉を開く。木の扉。鍵を懸ける事も出来るようだが、既に開いているのだ。定期的に、この場所にレミリア・スカーレットがやってきている証拠だろう。
蒼は、内部に足を踏み入れる。
並んでいたのは、書物だ。数千、数万では効かない、膨大な量の書物、書籍、記録用紙、資料、研究論文、それらが混然一体となって地下の空間を埋め尽くしている。
後に、ヴワル魔法図書館(あくまでも通称であり、本名は不明である)、あるいは唯の地下魔法図書館と呼ばれる事になるこの場所に――蒼の目的がある。
渡された紙に、短く書かれていた事は三つ。
どれも、『とある事』を確認するための物。
二つまでは、非常に単純だった。この地下の中から本を探し出す、それだけの話。大体の場所も、タイトルも、尾形縁の『能力』で答えが導かれている。
けれども、三つ目。この三つ目は、確かに蒼でないと無理だ。
尾形縁が、レミリア・スカーレットに相対するのも相当に危険だが、尾形縁が三つ目を遂行するのは、もっと危険だ。危険度が、桁違いだ。
蒼は、緊張が体に走るのを悟って、息を吐く。
集中し、見据える先は――入口から最も遠い、奥の壁。
そして、地下図書館の一角に不釣り合いな、頑丈に施錠され、魔方陣で封じられた扉。
そこに居るのは、一人の少女。
彼女は、純粋で、無邪気な子供だ。
だからこそ、危険だ。
尾形縁が、レミリア・スカーレットを相手にした気持ちも分かる。
「……行きましょう」
確認すべき物は、あの部屋――フランドール・スカーレットの部屋の中にある。
◇
その時、僕が実感した事は一つだ。単純で、そしてこれ以上無い位に確実な、事実。
――――僕は、人間じゃ無いんだな、と。
頭の片隅で、そんな事を、思っていた。
右腕が、無い状態で。
「――――っ!」
少女の声と同時に、宙に舞う物がある。それは、長く、適度に細く、そして先端が五つに分岐した物。
僕の、腕だ。そう、今は右腕が、吸血鬼の一撃で肘から千切れ飛んでいた。
痛みはある。体の重心がぶれる。少女の攻撃で傾ぐ肉体を、それでも僕は強引に引き起こす。
「こ、……の――」
何を言おうと思ったのだろう。何かを言いながら、鉄すらも簡単に引き裂くであろう、鋭利な爪の猛襲を回避する。肌を切り裂かれ、衣服は破け、血に塗れる中でも僕は動く。
「――――!」
それは、嵐だった。間違い無く災害だった。たった一人の少女が生み出す、暴力の嵐だった。
その中に僕は踏み込む。
高速。視認は不可能。けれども、脳裏に浮かぶのはレミリア・スカーレットの軌道だ。軌道を読み取れても回避出来るとは限らない。だが、繰り出される軌道が見えれば、そこで自分の体に、どの程度の被害が来るのかは分かる。致命傷になり得るか、なり得ないか程度は分かる。
身を、右に。
仰け反る様に、頭部への少女の腕を回避した僕は、宙を舞う、腕を掴んだ。
それを、左手で肘に繋げる。
庇うまま、僕は身を下げる。スウェーバックで、前髪と額が裂け、風圧で蹈鞴を踏む。
その隙に、懐に入られた。懐、鳩尾に受けた拳の一撃を、僕は腹筋を占めて耐える。吹奏楽で鍛えた……いや、無理だった。早さの乗った一撃は、軽くない。体重は軽くても、そもそもの身体能力が桁外れ。突き刺さった拳で意識が明滅し、俯いた所で、少女のクローが、顎をかち上げ――
「――――ぁぶ、な!」
――その攻撃、首と頭が持って行かれるだろう『致命傷』を避ける。顎が多少斬られるが、幸い無事。鳩尾への攻撃で体が重いが、それでも妖怪の体は、頑丈だった。
見れば、額の傷はすでに塞がっている。本当に、妖怪は人間とは違う。僕の格が如何程の物か確認した訳では無いし、この鬼相手にケンカできるとは到底思えないが、それでも人間には不可能は耐久力、体力、回復力を兼ね備えている。
そんな状態であったからこそ――――この状態でも僕は、生きている。
生きて、機会をうかがっている。
鬼。吸血鬼も鬼であることに違いはない。日本において最も有名で、最も人に知られた、そして悪の象徴だった存在。歴史的見れば、決して彼らは強かったわけでは無い。人間と言う弱者に、集団と知恵とで敗北し、行き違った末に消えて行った存在達だ。
けれども、今の僕には関係が無かった。
頭の中で。自分自身の、闇が動く。闇が、囁く。それは、誰もが持つ衝動。言うなれば、そう。目の前の相手を、ただ一発殴りたいという、実に原始的な感情だった。
振り下ろされた一撃は、床を砕く。
薙ぎ払われた一撃は、壁を切り裂く。
眼光は闘争の光に、狂騒的な笑みは口元に、蠢く翼は、獲物を求める様に。
そんな、普通の人間ならば瞬時に唯の肉になるであろう、圧倒的な存在を相手に、僕は未だに立っている。立って、向かい合っている。
本当は、僕は戦いが出来ない。本当に出来ない。けれども、僕は、僕の大事なメリーを。そしてメリーと僕の関係を侮辱されて、黙っていられる性格では無かった。そこで戦えないほど、弱くなかった。
レミリア・スカーレットが何故僕に戦いを挑んだのか。何故、僕と今こうして争っているのか。推測の範疇ならば把握している。目の前の彼女の思考を推測する事、トレースする事は出来る。
彼女は、遊びたいだけなのだ。
紙一重、あるいは僅かに被害を出しながら、僕は機会を窺う。容赦がない。攻撃力も早さも馬鹿高い。凄まじい威力の破壊圧が周囲一帯に巻かれ、巻き込み、崩落していく。
目の前の少女に勝てるとは思っていない。けれども、一泡吹かせる位は出来る。
……僕は。
レミリア・スカーレットに相対する為に、数時間の時間の中で、限りなく対策を練って来た。酒場の中で、蒼にも多くを話してはいない。彼女に作戦を話したのは、出入り口前で彼女に『とある仕事』――地下空間の探索と、幾つかの『探し物』を任せたことだけだ。
勿論、今現在の頭の中にもその策略、その狙いは入っている。入っているし、今の状態も、その作戦の本筋から外れていない。
正し、如いて、問題を言うのであれば。
今の僕は、思いきり怒っていた。
怒りと言う物が、人格を変化させるというのは事実だと思う。事実であり、メリットもデメリットも存在する。一瞬の感情、衝動のもたらす恩恵は、後に大きな波紋と影響を齎すだろう。
それを計算できないほど。先を見据えられないほど、僕は愚かでは無いし馬鹿では無い。だから、きちんと全て、頭の中に先を考え。全てを天秤にかけた。その上で行動している。
時折。そんな自分が、嫌に感じる。僕の頭の中には、何があってもメリーがいるし、僕とメリーという存在が天秤の片側に常に乗っている。傾いているのだ。
依存はしていない。もしも依存をしたら、僕は彼女に、彼女は僕にそれを言う。それを分からせる。そうして、必ず一緒に進んで行く。長い、先を進んで行くのだ。
その為の手段は、選ばない。自分で卑劣な、例え妖怪であれ、やってはいけない領域を、自分で自制を外して侵す(と自分で決めている)つもりは無いが、事、戦い、戦闘になれば別だ。
だからこそ。僕はレミリア・スカーレットに食らいつく。
狂気に支配されてはいない。僕が仮に狂気に支配されたら、それこそ本当に、とんでもない事になる。それが自覚出来ている。
だから、飽くまでも冷静に。そして、冷酷に。隙を窺う獣の様に。
僕の頭は、ただ一撃、この少女を思いきり、殴る事を考えていた。
目の前の少女の思考、行動を予測し、推測し、先読みし、唯一撃を加える為に、虎視眈々と動いていた。
気に入らない。
レミリア・スカーレットはそう考えている。
目の前の妖怪は、若い。年齢を重ねてはいない。それでも此の妖怪は一歩も引かない。引かずに、自分に向かい合う。今も尚、向かい合っている。
目の前の青年は、彼女の『運命を操る程度の能力』を頼って、この館にやって来た。
それだけならば良い。だが、それも彼の目的を聞くまでの話だ。
彼は、自分にとっての大事な存在を探し求めているのだという。
――レミリア・スカーレットは思う。
何かを探す為に、目の前の青年は此処へとやって来た。この場所に来たのは、それが最も相手へ『行きつける』からだと言った。それが一番、確実だからと言った。
……ならば、何故この青年は、別れたのだろう。
彼女は強い。とても強い。けれども、強いが故に、尾形縁の真意を、読み取るのが難しい。
レミリア・スカーレットは吸血鬼だ。吸血鬼であり、妖怪の最強種だ。長い寿命と、不死に近い体質と、反則的なまでの能力を有している。その彼女だったからこそ、尾形縁が言う『完成している』からこそ、不完全で異邦人である、彼の理解が難しいのだ。
別れは必ずやってくる。どんな者にも、やって来る。レミリア・スカーレットにも、やって来るのだ。
レミリア・スカーレットにとって、それは当然だった。
別れは必ずある。必ずあるのだから、それを覚悟して生きている。何者かが消えるのも、何者かが死ぬのも、当然だ。自然の摂理だ。疑い様の無い事実だ。
レミリア・スカーレットはその未練を飲み込む。
飲み込み、糧にして、自分を失う事は無い。自分の人生を彩った、大事な相手に感謝をし、大事な相手に敬意を払い、そして再度歩むのだ。
それは、確かに強者の在り方だった。強者故に持つ、有り方だった。
だからこそ、レミリア・スカーレットは目の前の青年が、気に入らない。
追いかけるのならば、別れなければいい。
別れたのならば、それを受け入れるべきであろう。
それが、強者の在り方だ。
それが、少女の在り方だった。
だから。
再度巡り合う為に離別し、互いの為に追う。その行動を取る青年が――レミリア・スカーレットは、気に食わないのだ。
……おそらく、そんな事を、彼女は考えているのだろうな、と僕は推測していた。
僕は、相手の思考を『解析』『解読』はしないと、メリーに過去に言ったことがある。だから、今のこれは能力でも何でも無い。敷いて言うのならば、高度な洞察力と言った所だろう。
腕が、ようやっと繋がった。完璧では無いが、取りあえず動く。何かあったら直ぐに再度離れてしまうだろう。
只管に回避し、只管に防御に集中してきたお陰だろうか。僕の体はまだ動く。けれども、流石の少女は焦れて生きたのか。最初よりも、僅かに血が上って来ている様だった。
精神は体に引っ張られるというのは、正しいのだろう。
体に仕込んだ仕掛けは、僅か。僅かだが、目の前の少女相手ならば――効果はある。
一発、彼女に一撃を加えれば――――この、心の中の情動は、抑え込める。
メリーへの感情が暴走しないですむ。
――――結局、僕は奇妙なのだ。異常なのだ。
心の中に、普通の僕と、衝動を抱えた僕がいる。衝動が表に現れるのは、僕の為じゃ無い。僕が大切にしたい、大切にしている物、それらの為に、揺れ動く。
そして、ある一定ラインを超えた時、後者は前者を飛ばす。飛ばして、僕は自分の頭の中で、止まれと命じても意味は無い。容赦無く行動してしまう。それを、頭の中で冷静に見守っていても、見守っているだけ。冷静に、無情に、嗤いながら見ているだけ。
――僕は、それを恐れている。自分の中に抱える数少ない弱点の一つだ。
今の僕は『半分』だ。むしろ、半分も弾け飛んでいるのだ。メリーの存在が如何に大きいのか、それを身を持って思い知らされる。
何もしなければいいのかもしれない、と冷静な部分が言う。けれども、妖怪としての闘争本能、それが顔を覗かせ、そして裏の感情、相手への攻撃衝動と結びついている。
むしろ、こう考えていると言っても良い。
『此処で如何にかしないと、此の後に自分が、どんな状態になるのか分からない』――と。
だから、僕は妖怪なのだと自覚している。
それに対して思うのは、メリーの為ならば其れも良いかと、極普通に受け入れた実感だけ。
内心でそう思いながら。
――僕は、動いた。
さあ、作戦開始と、行こう。
ここで暴れても問題が無い位、僕は計画を練って来たのだから。
◇
圧倒的に不利な状態から、どうやって逆転するのか。
傍観している私の注目する場所は、そこだった。
密度を薄く、レミリア・スカーレットも集中しなければ気が付かない状態で、私は観察を続けていた。彼らが人間の里を出た時からだ。どうやら彼と、鹿は私に気が付いている……もしくは、私が何処かで見ている事を悟っているらしいが、私を如何にか出来る筈もない。
レミリア・スカーレットは強い。
二百年前。吸血鬼の一族がやってきた際に、彼女だけは当時からその才能を発揮していた。八雲紫に密かに接触し、この土地の害になる存在達の排除を計画してもいた。彼女の計画は結局、吸血鬼一族の行動のせいで無駄に終わったが(あるいは彼らがレミリアに手を下される間も無く自滅したとも言える)、齎された結果は一緒だろう。
あの時、私に挑みかかって来た物は、勇儀と一緒に倒してやった。高々、百と少々の下級の鬼。普通の妖怪ならばいざ知らず、大した能力を持ってもいない相手など、その程度だった。
けれども、あの少女は違った。
自分達がどんな存在なのかを、良く把握していた。把握していただけでなく、その力の使い所も知っていた。そして何より、彼女は誇り高かった。
彼女が結果として取った行動は、彼女と妹、その両者の助命だ。けれども、そこに至るまでの間に、どんな騒動と、どんな争いがあったのかを私は良く知っている。
その、運命を制する能力を省いたとしても――彼女の実力は、この《幻想郷》の中でも相当の上位に食い込むだろう。そんな存在だ。
対する青年は――弱くは無い。確かにその性根、その精神。そこには、私ですらも怯ませる覚悟と、想いがあった。鬼を倒す人間の、その懐かしさすら感じる気迫があった。
けれども、其れだけでは私達は倒せない。気に入るかも知れない。面白いやつだ、と言うかもしれない。一緒に酒を飲み、笑い合うかもしれない。けれども、私も、彼も、レミリアも妖怪だ。何か、互いにとっての些細な事で、先程までの一緒に酒を飲んでいた間でも、殺し合える存在達だ。
青年は――確かに、優秀だ。肉体は鬼ほど強くないが、妖怪としてみた際に決して劣ってはいない。けれども、それで吸血鬼に勝てはしない。
――いや、勝つつもりは、無いのかもしれない。青年にとって、最も重要なのは、レミリアに彼の願い通りに運命を操らせること。
……さて、どう動く。若人よ。
私は、伊吹萃香は観察する。
……どのようにして鬼を退けるのか、その心を示すのか、見せてみるが良い。
少女の右手から振り下ろされた一撃は、床に爪痕を残す。床は五つに裂かれ、その痕跡を回るようにして青年は動く。振り下ろされた右手で、少女の死角に回り込むように。同時、腰に結ばれた小さな鞄から、素早い手付きで取り出された物がある。
麻袋に包まれたそれを、青年は――口を緩め、レミリアに放り投げる。それを態々当たる程、レミリアは甘くない。勿論青年とて、それを十分に理解していただろう。簡単に回避された袋は地面に落ちる。中身も殆ど零れていない。
にや、と口元に笑みを浮かべ、袋を踏まない様に前へと出たレミリア。その腕の一撃は、青年の胸元を引き裂き、擦られた肌が血を噴き出す。けれども、やはり――致命傷には、至らない。
青年は、レミリアに向かって進む。小柄な吸血鬼の懐に入るのは至難の業。しかも圧倒的に彼女の方が迅い。どう行動するのか、私の目の前で、青年は。
躊躇なく、顔を狙って、殴りに行った。
「――――甘い!」
体重の乗った、結構な一撃だったけれども、所詮は素人。動きも早くない。先ほど彼が行動したように、今度はレミリアが同じように動く。延ばされた腕を回るように。しかしその動きは、青年よりも圧倒的に早く、圧倒的に――重い!
ゴキャ、と明らかに異常な音が鳴った。
「――――g!」
言葉に成らない声と共に、青年は宙を飛ぶ。けれども、その目には意志がある。レミリアを殴りに行った拳が開く。握り込まれていた物が、再度地面に落下。どうやらレミリアを狙ったらしい。けれども、やっぱり当たらない。
壁に叩きつけられた青年は、息を吐きながら――――突如、膝を突いて立ち上がる。強引に体を倒し、目前に迫っていたレミリアの攻撃を、首を掠めながらも回避。耳の一部が無くなったが、やはり、致命傷を回避する。
青年の目が、その腕を捕える。確かに、チャンスだった。
壁に食い込んだ腕が離れるよりも早く、青年がレミリアの細腕を掴む。先ほどは怒りの余りへし折っていたが、あれが今も同じように出来るとは思えない。青年がやったのは、単純な話。
「――覚悟、して下さい」
その時の笑みが、半分ほど狂気に支配されかけた物に見えたのは、たぶん間違いでは無い。
言葉と共に、腰元に入っていた袋を――。
レミリアの顔に『振りかけた』。
「g、ぐ、――――ぁぁぁああああああアアアア!」
悲鳴が、上がる。
顔を押さえて呻くレミリアの顔に掛かっているのは、粉末。それも普通の粉末じゃ無い。赤い色。しかも独特の匂い。――間違いない。
生姜、大蒜、葱、そして赤唐辛子。
あれが目の中に入ったのならば、吸血鬼ですらも悶絶では済まない。私だって勇儀だって、耐えられるものじゃ無い。
レミリアにしてみれば、簡単に食らう筈もない。けれども。その前に投げられた二つが、飛び道具であると印象付ける事によって、僅かな安心感を呼び出し、そこに付け入ったのだ。
「き、き、きさ――――!」
「甘い。吸血鬼」
吠えるレミリアが、顔を押さえている。素早く離れた青年は、拾い上げた袋の中身を、思いきり周囲にぶちまける。同時に、空気中に漂う魔力が一気に減衰。レミリアの動きすらも、僅かに弱まる。
まき散らされたのは、銀。
西洋の妖怪に効果的な、言い換えれば――『対妖怪』では名の有る道具。この館にも、銀食器は殆ど置いていない。陶器が大半だった。
青年の手は、緩まない。
再度、腰の鞄から袋ごと引き吊り出されたのは――私の天敵。
「熱いですよ?」
叩きつけるように横に振るって浴びせられたのは大豆。袋を頭の上で。ひっくり返す。
炒った豆の雨が、中る度に、レミリアの体に僅かに跡が残る。うっすらと煙が上がる所を見るに効果があるのだ。肌を焼かれる、瞬間的な火傷が続く痛み。すぐに治る分、タチが悪い。
青年の攻撃は、エゲツナイ。
正直に言ってしまえば、確かに姑息だった。でも唯の姑息じゃ無い。本来このように彼女を責めるのならば、普通は姿を見せる必要もない。言い換えれば、そう。
正々堂々、正面から姑息な手を使う。そう言える。
レミリアの体を焼く大豆の雨が終わった後。流石に呻くレミリアの横で。
腰元から取り出されたのは、一つの器。素材は良く解らないが、何か液体が入っているのだろう。
「――――」
青年は笑う。その目には、此処でレミリアが青年の行動を認めたのならば――――そこで止める、そう言った感情が込められている。勿論、彼もそれは無理だろう、と思っているだろう。見ている私だって無理だ。
あそこまで酷い攻撃をされて、それで相手を認める程に――彼女は、優しくない。
「殺すわ。若造!」
叫び声を、でしょうね、と表情に出して。
「――――僕は喧嘩はしたく、なかったんですが」
今は別です、と――青年は言う。
いつの間にか、彼のペースだった。
気が付いたら、飲み込まれていた。
その表情、その態度。その、空気。雰囲気。それらが、示す。
今、分かった。
この青年は、確かに狂っている。
静かに、確かに歪んでいる。
目の前の青年には、何よりもまず想いがある。その思いを叶え、その思いに従うのならば、この青年は、間違いなく軽々と、手段を選ばない。
最初から最後まで、この青年は絶対に、自分と自分の思いの為に動く。
この青年は徹底しているのだ。
自分が自分で、自部として生きる為に、彼は大事な人に再開を願っている。
その為ならば、おそらく容赦がない。妖怪としての性質もあるのだろう。ただ、それを超える程に、抱える想いが大き過ぎる。
それは、確かに弱さで――けれども、今この状態に限って言えば、彼の持つ力は、強さだった。
正面から戦って、勝つことは出来ない。だから、正面から『卑怯に』戦う。
温厚で、誠実で、正直で、親切で、柔和で、面倒見も良くて、例え私に気が付いていても一緒に気にせず酒を飲むような性格で。けれども、その奥、一番奥にある物は、何よりも彼の思いだ。
自分の世界を形作る、大切な存在への思いだ。
恐らく、レミリアがあの時。青年に対して、青年とその思い人の関係に何も言わなかったら、きっとあのまま、青年は他の手段を使った。
けれども、あの一言が、彼の狂気を示してしまった。
彼の狂気を、発言させえてしまった。
普段は隠してある、決して見せない――想いが大きい故の、衝動を、表してしまった。
私には、見える。
部外者だから、読み取れる。
青年は、虎視眈々とこの状況を狙っていたのかもしれない。
尾形縁と言う名の妖怪の奥には、何よりも思いがある。
その為ならば、いかなる策略をも、彼は有する可能性がある。
この一連の行動もまた、彼の狙いなのかもしれない。
そう、まるで周囲に疑心を感じさせる、その性質が――今の青年にはある。
この目の前の青年が、何を考えているのか、何を企んでいるのか、それを『疑わずにはいられなくなる』。
元に、レミリアの目を潰してから今まで、ほんの一分も経っていないのだから。
「――言ったでしょう。レミリア・スカーレット。僕は、――何があっても歩みを止めないと!」
「貴様――――!」
目を押さえるレミリアの攻撃は、大振り。しかも眼だけで無く、その嗅覚も塞がれてもいる。レミリアは血が上っている。その状態ならば、そう簡単には、攻撃を食らわない。
「僕が。喧嘩が嫌いな理由は――容赦と躊躇を、僕がしないからです!」
青年が、器を開ける。蓋を開け、液体を――頭から、注ぐように。素早く、懸けて、距離を取る。
私の嗅覚にも反応する。中身は、酒だ。それもかなり強い――。
「吸血鬼の弱点。古今東西、諸説あります。白木の杭。流水。十字架。そして――」
――まさか!
私の視界の中、青年の眼は冷静だった。
レミリアの、視界を潰されて何も見えない状態の攻撃を、回避して。
青年が、カチン、と取り出したもの。それは。
「――貴方なら、死なないでしょう」
西洋の火打石。
ライター。
青年は容赦無く、微塵も躊躇なく、レミリア・スカーレットに火を放った。
◇
その昔、浦戸は僕に言った。
『お前、結構外道だよな』
そのとき僕は、こう答えた。
『今頃気が付くな』
――僕は。
戦いも喧嘩も、嫌いだ。大嫌いだ。争わず、平野に穏やかに生きていたい。ただ大事な人が隣に居る状態で、平和に生きていられれば良い。今の僕にとっては、それはメリーで、新しく家族になる蒼でもある。
僕は、異邦人だった。異邦人に、心が歪んだのでは無い。元々歪んでいて、それ故に異邦人だと気が付いたのだ。
戦わなくてはいけない時に戦う覚悟と、それ以外の時間の平穏さえあれば良い。
僕は他人に依存しない。依存しない代わりに、一緒に歩いてくれる人を求めていた。メリーも同じだ。メリーの場合は、自分の人生、自分の宿命を、一緒に担う人を必要としていた。
互いに、強くなどなかった。
それでも、依存はしないのだ。頼り、支え、一緒に歩むだけで、それで僕もメリーも、互いに安心できる。互いに、歩むことを続けていられる。
レミリア・スカーレットという存在も、歩むことの重要さを十分に把握している。彼女が理解出来ないのは、弱者は歩む際に一人では歩めない――それだけの、事なのだ。レミリア・スカーレットは強者だ。強者故に、一緒に歩く事を許しても、行く末が違うことを当然と思う。勿論、それを僕もそんな事、十分に知っている。
彼女の道は、障害こそあれ、歩み続けることが可能。僕の道は、メリーがいなければ、先に進めない。そこが違いだ。
だから、僕は覚悟を決めた。
メリーに出会う為に、己の全てを懸けて、それを叶えると決めた。
再度出会い、再度歩むために、全力を尽くすことを決めた。
その結果、メリーに出会えずとも、メリーに憎まれようと、それはそれで、構わない。僕の道はそれしかない。僕の行く先は、其処しか無いのだ。
――僕は、話し合いで解決したかった。レミリアという少女が何を抱えているのか、それをある程度まで把握出来ていたから、戦いにならない事を祈っていた。
最初の、出会い頭の『歓迎』で、怒るつもりはない。
レミリア・スカーレットという吸血鬼の少女が、そういう歓迎をして来る事は予想の範疇にあった。
だからそれが終わった後で、交渉に入りたかった。
けれども、彼女は言った。僕とメリーの関係を、侮辱した。
レミリア・スカーレットは、その、両者にとっても不用意な一言を、言ってしまった。
レミリア・スカーレットにとって、それは大きな事では無かったのだろう。彼女の性質が現れた、普通の感想だったのだろう。でも、そうであったとしても。
僕はそれを許せない。
それが、何よりも許せなかった。
だから、躊躇いも、容赦も、何もしなかった。
「ぁぁぁぁぁぁあああああああアアアアアアア――――――!!」
少女は、吠えた。
僕の目の前で、体に灯った焔を振り払うように動く。
衣服が、髪が、その体が燃える。僕の目の前で、踊るように動く。
そして。
――無数の、蝙蝠になった。
吸血鬼が無数の蝙蝠になり、再構成される。どういう理屈か、再構成した少女は、衣服を再度身に纏っている。最初に見た時と何も変わらないドレスだ。
肌に残る火傷跡も、唐辛子で潰した目と鼻も、元通り。
そこまで確認して、冷静に僕は、彼女が何かを言う前に、火を放つ。
対象は、レミリア・スカーレットでは無い。
床だ。
酒を懸けただけで燃えるほど、吸血鬼は甘くない。彼女が良く燃えたのは大豆――ばら撒いた中の二割程度に、それはもう燃えやすいであろう油を染み込ませて置いたからだ。食用では無く、灯りとして使用される油から生み出した、可燃物。本物を《幻想郷》では見つけるのは不可能だが、各所を巡って集めた物を合成し、混ぜれば、簡単にアイテムは生み出せる。
僕の『能力』の有効活用とは、おそらくこういう事を言うのだ。
「吸血鬼の弱点は、炎」
自分の攻撃は、かなり酷いな、と理解しているけれども、止まるつもりは全く無い。やるのならば、徹底的に。徹頭徹尾、覚悟を決めて。レミリア・スカーレットと僕が同じフィールドに立つことを、彼女自身に認めさせるために動く。
ライターが、床に落ちる。
小さく灯った焔は、大豆と。そして投げ捨てられた麻袋を媒介に広がった油に燃え広がる。
アルコール。油。袋の中には、可燃性物質。それ以外にも、回避しながらばら撒いた、色々が部屋の中には散乱している。
加速度的に、僕とレミリア・スカーレットの周囲に燃え広がる炎。それを盾に、僕は踏み込んだ。
僕の今までの策略。それが、レミリア・スカーレットの行動を僅かに阻害する。此処で僕が踏み込んだことこそ、再度の策略の一端では無いかと疑ってしまう。
レミリア・スカーレットに『運命を操る程度の能力』で防がれたら、それで終わりだろう。
けれども、僕はその心配をしていなかった。
もっと言うのならば、使おうが、使うまいが、そんな事は関係が無く――僕の頭の中に、計略は立ててあった。
「――――!」
十分に燃えやすくなった床は、高くはないが目眩ましには十分な炎をあげる。
その中に、勢いを付けて踏み込み。
身を低く下げ、狙うは顔。相手が少女であろうと、一発殴るのならば、其処しかない。
レミリア・スカーレットを嫌ってなどいない。憎んですらいない。ただ許せない。それだけ。それで、僕が動くには、十分だ。
赤色の中を、僕は駆ける。正面、警戒する吸血鬼の目の前に。
小細工無し。今まで、散々に彼女を、嫌が応にも警戒させる姑息な手だけを使用してきたからこそ。
それゆえに真正面からの攻撃が、相手の警戒を誘う。
その迷い、その判断の隙を突いて、僕は彼女へ辿り着く。
右手の拳が、少女の頭部へ向かい。
「……やって、くれる!」
右手が、捕らえられ。
それすらも、計画のうち。
少女の持っているのは、腕だけだった。
「それが――」
どうしたと、言うのだ。
僕は、自分で自分の右腕をパージしていた。強引に、繋がりかけた腕を自分で外して、生贄にした。既に一回外れた腕だ。外れるのも直ぐだった。
痛い。痛いが『その程度』でしかない。
メリーに出会えない事、彼女との約束を果たせない事の方が、遥かに苦痛だ。
はるかに、圧倒的に、苦痛なのだ。
右腕が囮だという事に気が付いた時には、既に僕は左腕の準備が完了している。
握り込まれた拳。最初から右が無い事を覚悟の上での、攻撃。
その覚悟が、その思いが、吸血鬼の少女を、圧倒する。
「レミリア・スカーレット。――――僕の思いを、舐めるな」
彼女を飲み込み、格上である彼女を、見えない意志で束縛する。
その、僅かな時間だったけれども。
今度こそ――僕は。
レミリア・スカーレットを殴り飛ばした。
最も、それが、僕の限界だったのだけれど。
◇
気が付いたら、相手のペースだった。
一瞬の隙から、一気に畳み掛けられた攻撃は私を退かせる程に、苛烈だった。
目を潰し、鼻を麻痺させ、魔力を減衰させ、肌を焼き、そして弱点を突く。
言葉にすればセオリー通りの攻撃を、躊躇なく、この青年はやってのけた。
復活し、攻撃しようと思った瞬間には――既に後手。豆に仕掛けがしてあったのだろう。見る前に燃え広がった焔は、私を怯ませる。熱さと灯り、そして吸血鬼の数少ない弱点が、私の動きを縛る。
その隙を、さらに突き込まれた。
炎を盾として飛び込んできた青年は、そのまま私に殴りかかる。繰り出された右手を私は防ぎ――それが、囮だった事を知った。
一体幾つ、彼は私に対して、策を練ったのか。数だけで言うのならば、精々が数えられる程度。けれども、彼の行動は計算されていた。最も効率良く考え抜かれていた。一瞬の判断が正確であり、そして私に対して躊躇なく行われた。
それが、今の結果だ。
侮っていた者に、此処まで醜態をさらしている。
圧倒される程の思いと覚悟の乗った拳に、確かに一撃を受けてしまった。
顔を殴られ、地面に倒れた私に、追撃の手は無い。
(……やって、くれる)
注意しながら身を起こした。
感じ取ったのは、自分の肉体には被害が無い事。
体よりも、もっと別の部分が重い気がした。
先程までの空気が変わり、静かな雰囲気を保っている。
それは唯の静けさじゃない。災害現場の前の、静けさだ。静かなくせに、心を掻き乱す。この状態ですらも何かの前触れの様に、思えてしまう程に。
立ち上がる。
周囲は、ボロボロだった。
無事な物は、天井に架かったままのシャンデリア位な物。数刻前までの状態が嘘の様だった。
そして。
見れば、青年は息を荒げ、疲労の色濃く腕を再度繋げている。その眼光に光はある。けれども、今の一連の行動で限界だったのだろう。多量の汗を流し、苦痛を堪えていた。
けれども、油断は出来ない。
この状態で躊躇う事無く、尚も罠を仕掛け、策略と謀略で攻撃するのが、この青年だ。
今の私は、それが分かる。
思いきり殴られて、落ち着いたというべきだろうか。
外見と態度で騙される。この男、普通の状態では人畜無害も良い所だが――一度本気で怒ると、危険だ。私にそう思わせる程に、危険な物を抱えていた。
「――――とんだ、化物ね。貴方は」
そう、私は言った。
蝙蝠となって肉体を再構成。衣服も同時に戻す。床に燃え盛る炎を、炎と床の運命を操って消し止める。修復作業は後だ。今は、しなければならない事がある。
「――――何か、言い残すことはないのかしら?」
近寄り、足で蹴り倒し、腹の上に体重をかけて、顔を見る。
「言い残すこと。……何故、ですかね?」
青年は、不敵なままで言った。
そんなこと、決まっている。
「この期に及んで、命が必要だというのかしら?」
その返答に。
青年は。
「……なるほど」
そう、呟いて。
くすくす、と。
笑った。
笑っていた。
私に対して、何かを言うように――笑っていた。
「確かに、今僕の命は、貴方に握られています。……何時から此処は、『殺し合いの場』になったんですかね」
その言葉に――――私は、一瞬考えさせられた。
尾形縁の眼は、座っている。口元に、歪んだ笑顔が浮かんでいるけれども、確かに冷静だった。その瞳の奥で、何かが蠢いていた。
私の気まぐれで簡単に死に至るというのに――欠片もその恐怖を見せず、私に笑い掛けるように言う。
「尋ねましょうか」
尾形縁は言った。
「何故貴方が、私を殺すのか、をね?」
その瞬間の瞳に、心の内を読まれたような錯覚を覚えた。
尾形縁は、視線を此方に向ける。
額は乱れた前髪で隠れ、首を私が抑えているから顔もはっきりと見えないのに――瞳だけは、不気味な光と共に、この私を射抜いている。
「レミリア・スカーレット。確かに今僕の命は、貴方の掌の上でしょう。ですか、此処で僕を殺して、此処で命を奪って、それで貴方は喜べますか?……断言します。貴方は、絶対に、喜ばない」
その言葉は。
鋭く、私の心を抉る。
何も話していない、私の心に、突き刺さる。
「僕のとった方法は、確かに卑劣でしょう。確かに卑怯で、嫌悪される攻撃ですよ。貴方が嫌うのも結構です。……ですが」
また。
青年のペースに、なっていた。
この青年は、強くない。
けれども、それを補って余りある、圧倒的なまでの知略を有していた。
この私も簡単に巻き込む、深謀遠慮を有していた。
頭が冷えた今ならば、それが把握出来た。
その目の光が、部屋の中を見渡す。
床にも壁にも、私の爪痕。周囲に飛び散ったのは、相手の血が殆ど。相手の衣服はぼろぼろ、私の方は随分マシだが、それでもこの青年相手に苦戦した事は、間違いがない。
「この現状。この痕跡。これを見て、貴方はそれでもなお、自分が完膚なきまでに勝利した――――そう言える神経は、していないでしょう?」
この青年は。
私を、恐れている事は間違いない。けれども、その恐怖、その覇気、それらを受け止めて、尚も自分の目的の為に動くような、そんな性質を持っている。
今此処で私に死ぬ恐怖で私に何かを言っているのではない。
自分の歩みの為に動き、その『ついでに』命が助かる、と思考しているのだ。
「――レミリア・スカーレット」
言い換えましょう、と青年は言う。
「貴方は。未熟者で、若造で、まだ数か月の妖怪。その『子供』に此処まで追い詰められた。命は貴方の手の内にある。けれども、この期に及んで僕に押されている貴方が、――――それでも胸を張って言えますか?」
青年の言葉は、止むことは無い。
「レミリア・スカーレット。僕はそもそも戦えない。戦えないが故に、生き延びる為にはこんな方法しかない。そして――貴方は、精々子供騙し程度の攻撃に引っかかった」
さらに続けて。
「貴方が、気が付いているのかどうか、不明ですが」
青年は言った。
「この光景は、僕と貴方だけが見ている訳では無い。酒場で知り合った鬼が、この光景を見ています。僕と貴方だけならばいざ知らず、この期に及んで。この状態に置いて。他人の目がある中で。――僕を始末しても何にもならない。其れとも、人間ならばいざ知らず、ただやって来た妖怪の客人に手を出して、勝ち名乗りを上げるほど貴方は――低俗では、無いでしょう?」
その言葉。
その言動が、示す。
間違いない。
今のこの状態、今のこの状況を、この青年は間違いなく計画していた。
間違いなく、この状況は、相手にとって都合が良かった。
「気が付きましたか」
青年は、瞳の中に炎を宿す。
「そう。この状況が欲しかった。僕は、レミリア嬢。貴方が僕を認めた上で、真剣に僕の話を聞く状態になって、そして僕の存在を僕としてみてくれれば、それで良かった」
青年の言葉が、響く。
気が付いたら、自分が青年の話に取り込まれている。
彼の言葉に、彼の発言に、強さが関係無く取り込まれる。
「レミリア・スカーレット。貴方にとって、僕は唯の若輩者でしょう。唯の若い妖怪でしょう。ですが、言ったはずです。僕はメリーに会うために、貴方の力を貸りる必要がある。貴方が何を言おうと僕の意志は違わない。――そして、その為に必要な、貴方が戦いを挑むのならば僕はそこに応えます。僕はそれを返します」
狂った、歪んだ心に、それでも彼は従っている。
ただ彼の思いの為に、動いている。
「貴方は僕を手に懸ける。何の為に、何が目的で?」
言葉は止まらない。
私を煙に巻く為の言葉では無い。この状態でも尚、この青年は私に向かっている。彼の願いを叶える為に相対している。
彼の心は、折れていないのだ。
「――レミリア・スカーレット。僕は断言しても良い。貴方は、僕を殺すつもりはない」
「……痴れ者が」
その言葉を聞いて。
ようやっと、私の口から洩れるのは、抑えの効かない感情だった。
「この状況で、何故そんな言葉を言う……!」
青年は。
私の性格、私の性質、それら全てを意識の中に入れている。
最初から、私の状態を見抜いて、攻撃していたのだ。
圧倒的に有利なのは此方なのに。
圧倒的に弱いのは、あちらのはずなのに。
気が付いたら、此方の心が、負けそうになっている。
「ええ。ですが、忘れないで下さい。吸血鬼」
肯定し、しかし一歩も退かず、青年は告げる。
「最初に僕と戦おうとしたのは貴方です」
青年は、言葉を紡ぐ。
「貴方が僕に喧嘩を売った。僕が気に食わなかった、それは結構です。ですが、それは『僕が貴方の腕をへし折った後』の話」
「ならば、何故貴方は、やって来た僕に、戦う事を強制したのか。それを、僕が読み取っていない――とお思いですか?」
「……!」
その指摘は、私の心をさらに深く、打つ。
「気紛れ? それとも此の館での歓迎方法? 僕の能力や性格を見極めるため?――違う筈です」
確かに頭にあった。けれども、もう一つ。そのもう一つの感情を。
――如何してこの男が、知っている。
私は、表情に出さずに――呻いた。
「僕は戦いは、あの程度しか出来ません。ですが幸いにも、貴方の考えを推測する程度は出来る」
瞳の奥に見える感情は、何なのだろうか。
それは弱さであって、強さでもあって。そして歪んだ彼の性質を見ているようであって。
「貴方の言葉通り、戦いは決着です。僕はこれ以上動けない。これ以上、戦う事が出来ない。――そして、ご察しの通り、僕は貴方の思考を理解している。十分にね。その上で訊きましょう」
たとえ、体がボロボロでも。その意志は唯、目的を向いている。
今の現状までも、自分の怒りすらも計画に入れている。
八雲紫の言葉が、思い出される。
『貴方ですらも、心で押し負けるわよ』
……ゾクリ、と。
背筋が震えたのは、気のせいでは無い。
目の前の青年は、異常なのだ。
この私ですらも、それを知って背筋が震える程に、歪んでいる。そしてその歪みの中で、一直線に、まっすぐに、思っている感情がある。
この時。
レミリア・スカーレットは、この目の前の妖怪が、自分の理解を超えたイキモノなのだと、理解した。
青年の口が、悪魔か蛇に見えた。
「僕と対等な立場で、交渉をして頂きたい」
◇
空気を掌握して、僕は交渉を始める。
――――忘れてはいない。そもそも本当は、レミリア・スカーレットとの交渉が、目的だった。
僕は戦う気など全く無かったし、レミリア嬢に歓迎という名目で襲われても、まあ良いか、と思っていた。稗田家の資料で見たところでは、そんな程度か、と思ったのだ。
だから僕は、どうやってレミリア・スカーレットに対等な交渉をするのかを、考えた。
単純に言えば、レミリア・スカーレットに、一言、対等な条件で交渉する事を言わせれば良い。
けれども、彼女にその言葉を言わせること自体が容易では無い。博霊の巫女や八雲紫の様な、彼女が目で見て実力を知っている存在。あるいは、魂魄妖忌の主人であるという亡霊姫や閻魔といった、一目で実力を把握出来る存在。彼女達の頼みで力を使用することならば、レミリア嬢は行うだろう。それは相手への「貸し」になるからだ。
けれども、僕は違う。自分で言うのもアレだが、僕の実力は大した物では無い。妖怪に成ったばかりで年は若い。レミリア・スカーレット程の実力者ならば容易に殺せる相手。それが僕だ。
その僕が、交渉の場に着く為には、第一に彼女に、僕をハッキリと。『認めるに足る相手』だと認識させる必要があった。其処からしなければ、僕の『対価』は、何も出来ずに彼女に奪われる。
だから、僕はレミリア嬢にまず、認めさせた。
僕の信念は、想いは、レミリア・スカーレットですら覆すのは難しいのだと。
そうハッキリと理解させる事が、最大の狙いだった。
その状態に、今、なった。
けれども、そう成るまでにイレギュラーがあった。
それは、レミリア嬢の言葉で、僕が怒ったこと。理解していても、怒りを収めることが出来なくなった。今は一発、思いきり彼女を殴って気が収まった。
けれども、レミリア嬢は違った。彼女にとって戦いは、彼女の内心を埋めるために、必要だった。
だから彼女は僕を歓迎する時に戦っただけでなく。
僕が怒った時にも、また彼女はそれを受け入れた。それを受け入れて、争う事になった。
「――――対価が」
蒼に言った、賭け。それは、レミリア嬢に、その言葉を言わせるまで。――『交渉に至るまで、僕が無事でいられるかどうか』。
彼女の猛攻に耐えられるか。彼女の気まぐれで殺されないか。彼女の目に叶うか。
「有ると言ったら――どうしますか?」
僕は聞く。
レミリア・スカーレットが、この時にも僕の交渉を行うか、行わないか――おそらく、行う。
僕は、彼女の心を読んでいる。
勿論、先程までの――追い詰められた状態での、彼女への言葉は演技だ。演技であるけれども、限りなく僕の素に近い。言葉を使用して命を繋ぎ、レミリアに交渉に引っ張り込んだのだ。
勿論、そう簡単に、彼女は答えなかった。
ここまで来たら、僕を盛大に警戒するに違いない。
けれども、もう僕には何も切り札は無い。
この期に及んで彼女相手に喧嘩を売れる程、僕は強くない。
小細工も何も一切なし。本当に口先と駆け引きだけの、交渉だ。
僕は言う。
「絶対に、レミリア・スカーレット。貴方が必要とする対価を、僕は払いましょう」
「……愚問ね」
少女は言う。
「古今東西。そんなセリフで始まる商品に、マシな物は無いわ」
――内心で。
僕は、手ごたえを感じる。何せ、此処で問答無用で、レミリアに腕を振るわれて……例えば、体が半分になってしまったら、御仕舞なのだ。
今彼女は、返事をした。
言うなれば、彼女もまた『頭が冷えたのだ』。
だったら、話し合いは可能なのだ。
「そうでも、有りません」
実の所、今起きているだけでも、かなりキツイ。流石に吸血鬼ほど回復が早いわけじゃ無い。復活するまで時間は必要だ。既に体はギシギシと悲鳴を上げている。この交渉だって痩せ我慢だ。寧ろ、この目の前の少女相手に、よくもまあ此処まで持ったものだと自分で感心する。
メリーへの感情が、一時的に枷を外した、のだろう。
「レミリア・スカーレット嬢。貴方が果たして、気が付いていたのかどうか。――僕には、友人がいます。名前を蒼。神鹿――言うなれば鹿の神。その実力は、折り紙です」
口元の血を拭いながら、僕は上半身と足で立ち上がる。
「僕が、レミリア嬢。貴方に一対一で面会をしたのは、第一に貴方への礼儀。第二に、余計な介入を加えたくないという僕の意地。三つ目が、僕が貴方に交渉する為には、貴方に僕をはっきりと、認識させる必要があったから。そして、最後――」
瞳に視線を込めたまま。
僕は、目の前の少女に言い放つ。
「――《悪魔の妹》フランドール・スカーレットの居場所を見つける事」
「……尾形、縁」
そこまで無表情に聞いていた彼女の、顔が変わった。
同時に押し寄せたのは、明確な殺意だった。
まぎれもなく、殺意だった。
濃密で、呼吸すら出来ないほど。目の前を闇が覆い尽くす程に、巨大な殺意。
「我が妹に、手を懸けるつもりか」
空間が歪むとは、きっとこういう事を言う。
目の前が、最初に出会った時よりも遥かに重い。
僕へと歩むその足取りが、死神を通り越して、冥界の物に見えたのも気のせいでは無い。
「――我が妹。愛する妹に触れて」
目の前に居るのは、猛獣では無い。猛獣は獣。だがこの目の前にいるのは獣ですらない。獣よりも遥かに強い、人間の理性と獣の本能と、そして圧倒的なまでの攻撃力を兼ね備えた、妖怪。
「生きていられると思うな。下郎」
震えて、逃げだしてしまいそうな程に、怖い。頭が冷えた今、やはり目の前の少女が僕の太刀打ちできない事を肌で感じ取る。
そう、やはり。
やはり、僕の予想は、当たっている。
「勘違いしないで、頂きたい」
それでも僕は、虚勢を張る。
今此処は、決して引いてはいけない場所だからだ。
声の震えを押し殺し、視線を合わせて言う。
「僕も蒼も、彼女に何かをするつもりは有りません。僕が蒼に命じたのは、たった一言――」
「『彼女の封印が、僕の予想通りだったのか、それを確かめろ』」
言葉は。
劇的だった。
「……何、ですって?」
驚いた彼女の、殺気が緩む。
「稗田家で、この館の事を確認しました。紅魔館。吸血鬼の住む館。赤く染まったその建物は美しく、同時にとても恐ろしい場所である。今から二百年程前。現れた吸血鬼の一族は《幻想郷》を支配下に置こうと無意味に殺戮と支配を繰り返した。しかし其れを脅威に思った、また《幻想郷》の秩序を守ろうとした当時の博霊の巫女、そして八雲紫を始めとした強力な存在に撃破。生き残ったのは、レミリア・スカーレットとその妹、フランドール・スカーレット」
腕が、戻った。まだ痛みはするが、それでも動かすのに支障はない。
殺気で乱れた息を整え、僕は吸血鬼に向かい合う。
「ただし、妙な記録でした。一族の事、貴方の事、非常に詳細に記述されている。けれども、フランドール・スカーレットの詳細だけが妙に曖昧です。言葉の各所に存在が垣間見れる。恐ろしく強く、危険であることも読み取れる。それなのにただ、記録だけが無い」
そこで僕は、詳細をおったのだ。稗田家の資料をひっくり返し、僕の『能力』を使い、何がそこに隠されているのかを探ろうとした。
『紅魔館』の主、レミリアに話を付ける際に、一緒に居るであろう妹の方を確認するべきなのは当然だった。勿論最初は注意をする意味が大きかった。
けれども、僕は結論に辿り着く。今現在、本当に動けるのはレミリア・スカーレットだけ。妹の方は、行動が出来ない状態にある。そこが、実は狙い目だった。もしも其処に、レミリアですらも如何にも成らない事情が隠れているのならば。何かしらの理由で妹が表に出て来る事が無いのならば。
「……そこには、間違いなく大きな問題が潜んでいる。それこそ、貴方と交渉に持ち込むことが十二分な可能な程の、問題がね」
そして、その推測は正しかった。
フランドール・スカーレットはこの屋敷の地下に封印されている。レミリアの意志では、おそらく無い。彼女は孤高だ。孤高故に、親族を見捨てることは無いのだから。
「――――交渉です。レミリア・スカーレット」
僕は言う。
「僕の願いどおりに『運命』を操ってくれるのならば、フランドール・スカーレットに架けられた封印を解く為の、貴方の大事な妹を解き放つ為の鍵を、差し上げましょう」
これは、ハッタリではない。
僕はその鍵を、持っている。
既に手にしているのだ。
実を言えば。此処まで引っ張って来るのが、一番大きな問題だった。一番初めの様に、出会ったばかりの僕が彼女にこんな話を持ち出しても、目の前の彼女は信用しなかったか、或いは僕に強制させるか、対価を僕の望むものでは無かったか、その何れかの可能性が高かっただろう。
そもそも、僕の願い自体が、目の前の彼女には理解し難い……言い換えれば、彼女の気分を酷く害する物だった。僕と彼女とが、今まで大きな衝突をしていたのが、その確固たる証拠だ。
――――僕は。
彼女と交渉するための対価は、持っていた。
彼女に対価を渡し、僕の願いを叶える為には、彼女と対等に立つ必要があった。
彼女と対等に立つには、僕と彼女が向かい合い、互いを認めるしかなかった。認めて貰わなくても、彼女自身に、その条件を飲ませればよかった。
条件をのませる為に話し合いたかった。けれども、僕はレミリア嬢の言葉で怒り、レミリア嬢はそれに乗った。
僕が、いざという時に備えて置いた戦いの道具を駆使して、レミリア嬢に一撃を加え、互いに頭が冷えた。けれども、その状態から交渉を持ち込むのは困難だった。
だから僕は、僕を見ていた鬼の名を出し、レミリア嬢の内心を推測し、勢いと言葉とを持って――――彼女に、交渉まで持ち込んだのだ。
……手際は、物凄く悪い。しかも怒って、つい勢いでレミリア嬢に思いきり、凄くエゲツナイ攻撃をしてしまっていた。あの時がどれ程冷静に狂っていたのか、今思い出して溜息を吐きたくなるのである。
勿論、行った事は後悔していない。
けれども、自分の計画を自分で壊していては、意味がないという事だ。
「……尾形縁。――最初から」
少女が、全てを把握したような顔で、訊いた。
「ええ」
僕は頷く。
「僕が貴方に相対するよりも前。貴方と接触する必要が出た時から、僕は考えていました」
そう。
レミリア・スカーレットという少女が、何を考えるのか。
何故、この館に居るのか。妹との関係は、隠されたん謎は。彼女の心は何処を向いているのか。
徹底的に考えて、推測して、対処法まで考えて、僕はやって来たのだから。
全ては、メリーに出会うため。
彼女と巡り合う為。
その為には、僕はこの程度、容易にやってみせる。
たとえ相手が吸血鬼であろうと。
妖怪であろうと、悪霊であろうと、魔法使いであろうと。
行く道を切り開く為には、僕はこうして進んでいくのだ。
蒼が僕に合流し、情報を伝える。体に怪我を負っていたが、それでも無事だった。
レミリア・スカーレットは、僕の願いを叶える対価として、妹を解放する鍵を渡される事になったのだ。
◇
同時刻・博麗神社。
其処には、幾人もの有象無象が集まっている。
白玉楼の庭師。半人半霊の青年。魂魄妖忌。
境界を操る《幻想郷》の管理人。八雲紫。
だが、そこに居たのは彼らだけでは無い。
「……ウチの上司からの、命令だったけど」
三途の川の渡し守。死神の小野塚小町。
「……あやや、大変ですね」
《幻想郷》最速を誇る烏天狗の社命丸文。
その集団の中で、お茶を飲んでいる巫女がいる。
当代の博麗の巫女だ。
「……話は、分かったわ」
彼女は、頷いて。
「――異変が、起きるのね?」
物語は、《幻想郷》を巻き込んで、広がって行く。
実は主人公。策士で外道で真っ黒で狂っている、という話でした。とはいう物の、怒った時に本性が見えるだけで、それ以外にはその辺の普通の兄さんと変わりありません。メリーが絡むと豹変するだけで、彼に何かがあっても問題は無いんですね。再度メリーに出会ってしまえば、何も問題無いんですが、そこに至るまでが結構、非道です。おぜうさまを目潰して、頭から火を付けて燃やすとか。まあ、妖怪として見た時は、其れでも瞬殺される位の差があるんですけれど。
尾形縁が『其処を直す』こと、そして『成長する』事が、彼の今後の課題です。
試練は、まだ続きます。
次回は、フランの話と、幕間です。
今回みたいな、黒い話には、たぶん、なりません。