09-2
この前は海の中だった。そして、今は空の上。
(じゃあ、次は火の中か? 水の底……まあ海の底は体験済みだし)
予言めいた事を思う少年の脳裏には、酷い苦しみや困難な境遇を喩える言葉が渦巻いていた。
正しく、父親に呼ばれてからの一部状況を表しているが、まさか中らずといえども遠からずの事を予測しているとは本人は知り得ない。
しかし、そんな悪い冗談の様な未来図は、現実味の薄い視界と聞き慣れた声が不毛な議論とばかりに消去した。
「あ~あ、日本でのデビュー戦だって言うのに、どうしてあたし一人に任せてくれないの?」
人が本能的に怖がるのが正常な高度上空に位置するシンジは、高所恐怖癖なら魂が抜けること請合いだなと眼下を見下ろしながら口を開く。
「仕方ないよ。作戦なんだから」
「言っとくけど、くれぐれも足手纏いになるような事はしないでね!」
「……多分」
「多分て何よ!? もう! 何であんなのがパイロットに選ばれたの?」
短距離離着陸機(STOL機)に運ばれている初号機のエントリープラグには、憤懣やる方ないという声から呆れの混じった独り言に変化したアスカの声が届いた。
それも至極当然で、アスカの目に映る初号機パイロットの様子は、又しても乗り物酔いで青白い顔をしているのだ。
「自律神経の失調なんて根性で治しなさいよ、シンジ!」
「無理。乗り物酔いは一生治らないんだよ」
「嘘!?」
「うん。多分、嘘」
「あ、あんたねぇ!」
数時間前、怪しげな薬を打たれて拉致された割には元気一杯の少女に、不調の原因であろう外部からの振動を気にしないようにしながら少年は苦笑する。
軽口でも叩かないとやってられない状態のシンジは、いつまでも慣れない水の恐怖と酔う気持ち悪さから意識を逸らすべく更に会話を続行しようとしたが、丁度外部からの通信が入ってしまい残念と口を閉ざした。
『はい、そこまで。あんた達、緊張感無いわねぇ』
「フン! ミサトと違ってあたしの辞書に緊張なんて言葉は無いのよ」
以前、シンジへ似た台詞を言ったのを忘れたのか無かった事にしたのか、ネルフ発令所から送られてくるミサトの映像へ、実は似た者同士ではないかと思われる台詞をアスカは吐く。
『ま、ガチガチになるよりいいわ。さって、そろそろ着くわよ』
その声が合図になったように、STOL機に一部合体していたようなエヴァの拘束が解除され空中に投下された。
引き寄せられる重力により自由落下する二体のエヴァは、地面と衝突する前に逆噴射が作動し軽い地響きを立てて着地する。
その際、思わず口元を押さえる少年がいたが、既に現地入りしていた補給部隊を見て現実を認識すると、苦い表情とは裏腹に専用電源をエヴァへ接続する作業を敏速に終わらせた。
『二人共、いいわね? 初号機ならびに弐号機は、交互に目標に対し波状攻撃、近接戦闘よ!』
今回ミサトが立てた作戦は、上陸戦前の水際での迎撃戦である。
前々回、第五使徒との戦闘により、第三新東京市の迎撃システムは大打撃を受けて復旧も芳しくなく、実践における稼働率も皆無の為仕方なく場所を変更し、未だ調整が終わらない零号機を抜かした二体での使徒迎撃戦となったのだ。
「二人掛かりなんて、卑怯でやだな。趣味じゃない」
『アスカ、残念ながら私達に選ぶ余裕なんてないのよ。生き残るための手段をね』
正正堂堂としたアスカの主張は実に道徳的でありながらも、人類滅亡を秤に掛ければ戦闘指揮官して諫める類でしかない。
確かに、選り好みした挙句に人類滅亡では目も当てられないだろう。
遠い視界の先で水柱が上がり、次第に近付いてくるものを眺めてシンジはこっそり溜息を吐く。
(……何か見たことあるような形だよな)
今回の使徒は、正に頭部が無い伝統的な玩具のような形をしており、胸部には赤と青で彩られた対極図のような顔、更にその下部に赤いコアが位置するようだ。
腕を伸ばしてバランスをとるような人形型のそれは、敵対する気が有るのか無いのか、こちらに向かってゆっくりと二足歩行で進んでいる。
そんな好機を見逃す筈がなく、ミサトから張り切った命令が届いた。
『攻撃開始!!』
「じゃ、あたしから行くわ! シンジ、援護してね!」
「援護?」
「レディーファーストよ!」
女性を尊重して優先させる洋風の習慣を持ち出したアスカは、反論は聞かないとばかりに使徒へと猪突猛進した。
無論、好き好んで使徒を殺している訳ではないシンジは、むしろ面倒を引き受けてくれた少女へ従順に応えるのみである。
「了解。当たったらゴメン」
改良されたポジトロンライフルを構えた初号機は先行する弐号機の邪魔をしないように狙いを定めるが、所詮、初心者に付け焼刃の腕前では絶対に当たらない訳がない。
牽制と足止めの為に撃ちまくるが、案の定、無防備な背後から弐号機は巻き添えを食らった。
「ちょっと! あんた避けなさいよ!!」
当然、味方から苦痛を貰った弐号機から文句が出るが、故意にしている訳ではない操縦者は濡れ衣を着せられては堪らないと言い返す。
「ちゃんと避けてるけど、そっちが弾に向かってるんだよ」
「そんな訳ないでしょ! この下手くそ!!」
「うん。だから、当たったらゴメンって」
「ッバカ! バカシンジ!!」
しかし、流石はエヴァのパイロットとしての年季が違うのか、しっかりと罵声を浴びせながらも弐号機は敵に近付き、ソニックグレイブを振り上げていた。
「ぬぁぁぁぁーっ!!」
乙女に有るまじき気合の入った声と共に、高振動粒子によって接触物質を分子レベルで切断する薙刀が使徒を真っ二つに切り裂く。
その圧倒的な瞬殺光景に、思わずシンジは感嘆の声を上げた。
「お見事……」
「どう、シンジ! 戦いは、常に無駄なく美しくよ!」
それはもう完璧に唐竹割りにされた使徒は、血も流さずにピンク色の内面を曝け出してぴくりとも動かない。
(……あれ?)
ふと、何かがおかしい事に気付いたシンジが、その疑問を声に出す前にそれは起こった。
≪≪……カエリタイ……≫≫
二重に聴こえた声は、現世と隠世が重なるような歪みとなってシンジの意識を揺さぶる。
その今迄にない揺らぐ音楽のような声は、悲しさに溢れながらも聞き惚れるものだった。
だが、その声こそが、おかしいと思っていた事実を確信させる。
(まだ、殲滅されてない?)
いつもなら魂ホイホイとばかりにシンジの中に入ってくる使徒の魂は、その器に留まり続けているらしい。
つまり、真っ二つに切り裂かれながらも、あの使徒はまだ生きている。
どう見ても硬質な形状を一部変形させていたラミエルと同じく、この使徒にも常識を覆すものがあってもおかしくはないのだ。
驚異的な魂の容量と言い、非常識は使徒の常識と今更ながら得心する少年だったが、その時、もう一つの悲しい声が停滞しているような時の流れを大きく波打たせる。
≪……カエリタイ……カエリタイヨ……≫
途端、嘗てない凄まじいまでの郷愁の想いがシンジの心の中を吹き荒れた。
「……ッ!?」
宿る悲しみは尽きる事もなく、寂しさも満ち足りる事はないように、中から響く声は次第に大きくなって繰り返す。
余りにも以前とは違うその感触に圧迫感さえ感じるシンジは、思わず胸元を強く握り締めた。
そして、同調するような苦しさの中から生まれたのは、紛れも無い疑念だった。
(……もしかして)
不意に滲んだシンジの視界は、無意識に流す涙の所為だと分かっても止まらない。
(帰りたいのは、鞄の中にあったあの魂じゃない……?)
泡のように浮かんで弾けた疑いは、拡散して消えることなく脳裏を漂った。
そう、きっと求めるものは同じなのだろうが、直感的に思っていた場所は外れだったのかも知れない。
あの名前の分からない魂が中にある筈なのに、何故憑いている彼らもその言葉を繰り返すのだろうと前回も不思議だったが、この狂おしいまでの望郷の念に答えは一つしか思い浮かばなかった。
もし、これが正解でないのなら、この心臓を引き裂くような彼らの悲しみの声は一体何だと言うのか。
(なら、帰りたいのは……何処へ?)
それでも、決して答えてはくれない問いを理解していても訊ねずにはいられない。
だが、歪んだ視界を正す為に目を擦ったシンジが見たものは、思考を断絶させる威力を持っていた。
『ぬゎんてインチキ!』
ミサトの喚く声が届くが、シンジは何度も瞬きをしてそれを見る。
視線の先では、何と使徒の切断面から、鏡合わせのようにしてにょっきりと腕が生えてきたのだ。
そうして、腕どころか足も胴体も生えた結果、同じ形の使徒が二体という目を疑うような光景が出来上がってしまったのである。
その後、少年以外にとって悪夢のような光景は更に続いた。
油断していた弐号機はあっさりと二体に分離した使徒に投げ飛ばされ、勢いよく山へと墜落。下半身だけを山肌に見せている様子は、ある意味シュール過ぎる有様だった。
そして、残った初号機がライフルやナイフで応戦するものの何故かダメージを与える事が出来ず、流石に手詰りとなると同じように投げ飛ばされ、沖合いの海上に水没。海中から逆さまに生える初号機の下半身という、妙なる風景を作り出してしまうのだった。
『この状況に対するE計画責任者のコメント』
『無様ね』
戦闘終了後、照明が落されたブリーフィングルームでは、部屋の名称通りに要旨の説明と報告が行われていたが、その薄暗い室内の雰囲気を蹴散らすように少女の声が元気に響き渡っていた。
「もう、あんたの所為で折角のデビュー戦が目茶目茶になっちゃったじゃない!」
「え、それって僕の所為じゃないと思うけど」
「他に誰の所為って言うのよ!? 何よ、海の中でドザエモンみたいに! だっさぁ~」
「正体不明の使徒の所為じゃないかな。それに、山に埋もれた弐号機もお互い様だよ」
「ぐっ、う、う、うぅ~!!」
何やら悔しそうに呻く少女だったが、少年は何処ふく風と言うように上映される戦闘経過を眺める。
リツコが言う通りの無様な結果はすぐに消え去り、盛大に何かが爆発する別の映像へと移った。
『午前11時3分をもって、ネルフは作戦の遂行を断念、国連第二方面軍に指揮権を譲渡。同05分、N2爆雷により目標を攻撃、構成物質の28%を焼却に成功』
「やったの?」
「足止めに過ぎん。再度侵攻は時間の問題だよ」
爆発後の使徒が立ち尽くしている映像にアスカは問い掛けるが、答えたのはこの場で一番偉い存在の副司令である。
何やら手元に薬瓶のような物を置き頻りに腹部を撫でていたが、「建て直しの時間が稼げただけでも、儲けもんっすよ」と横から口が挟まれると、更に溜息を吐いて胃の辺りを押さえた。
「また地図を書き直さなきゃならんな……。いいか君達、君達の仕事は何だか分かるかね?」
子供達を眺めて言うその台詞には、未だにプラグスーツを着たままの二人が揃って答える。
「「エヴァの操縦」」
「まあ、それもあるが。大事なのは、使徒に勝つ事だ。このような醜態を晒す為に我々ネルフは存在している訳ではない。その為には君達が協力し合って、」
「こんな乗り物酔いも治せないパイロットとは無理よ!」
「…………」
冬月の台詞を途中で奪ったアスカの台詞に、シンジは返す言葉も無く肩を竦めた。
だが、懐が深くなければ副司令は勤められないのか、自分の台詞を遮られても怒りもしない当人はしみじみと言ったのだった。
「それは、父親からの遺伝だよ。碇も、それはもう酷い乗り物酔いだからな……」
どこか遠い所を見つめて語る冬月の過去に、父親と何があったのか息子は非常に気になるところだが、時と場所と場合を考えてシンジは訊ねるのを次回に回す事にする。
「……まあ、弐号機パイロットは無理難題を言わず仲良く協力するように。それと、出来ればこの年寄りの胃を労わってくれると嬉しいよ」
腹部を庇う様にそう言った冬月に、敬老精神を発揮した少年が頷いた。
「分かりました。出来る範囲で協力して仲良くします」
「ちょっと!?」
「流石、私が教えた優しくて可愛いユイ君の息子だ。頼んだよ」
冬月の隠された贔屓がダダ漏れの台詞に、その場にいる周囲の大人達は『師(冬月)と教え子(ユイ)に間男(ゲンドウ)』という昼ドラのようにドロドロとした愛憎劇が過去にあったのではと憶測を逞しくする。
因みに、乗り物酔いの因子である父親と冬月の過去話は、母親と副司令の過去の関係に多大なる興味が湧いた息子により優先度が繰り下がった。
一方、反論しようとしたアスカは、すっかり好々爺のような雰囲気で床下に消えていく相手を見て、毒気を抜かれたのか憮然としている。
そんな少女を見たシンジが取り敢えず苦笑すると、不機嫌そうに外方を向いてしまった。
心做しか、その頬が赤く見えるのは、照明の所為ではないのかも知れない。
「もう。分かったわよ。あたしがしっかりやればどうとでもなるわよ!」
「まあまあ。一人より二人の方が色々と楽になるさ」
「加持さんっ!」
気配もなく二人の背後に現れた男性は、驚くアスカの頭をぽんぽんと軽く叩く。
先程、助け船とも言える台詞の声で加持がいるのは分かっていたので、シンジは驚愕せずにこの場に見当たらない人物について尋ねた。
「あの、ミサトさんは?」
「後片付け。責任者は責任取るためにいるからな」
「成程。……あ、ミサトさん、今夜は帰れますか?」
「どうだろうな。多分、帰れると思うが」
「そうですか」
同僚から聞きだした予想と、本日の予定だった零号機のテストが中止になった為、一人分の手抜きメニューの筈がいつもの人数分の夕食メニューとなり、やっぱり帰りにスーパーへ寄ろうと決めたシンジだった。
どこまでも所帯じみた行動を忘れない、とある秘密結社の中でも注目されている初号機パイロットは、最早専業主婦に負けず劣らずの兼業主夫なのである。
「そうそう、出向する事になってね。ここに居続けになったんだ。お二人共、今後とも宜しくな」
「嘘っ!? 加持さん、ここにいるの?」
未だに頭の上に手が置かれているアスカは、その手を払いもせずに嬉しそうに声を上げた。
シンジは水子霊が三つも憑く相手が可愛がる少女を、かなり複雑な心境で眺める。
「そうなんだ。それに、そろそろここで決めなきゃいかん事もあってな」
「……結婚でもするんですか?」
全面的に祝福出来ない二人の関係だが、何故かピンときたシンジがずばり直球を投げると、不意を衝かれた大人は瞠目した後にニヤリと笑った。
「葛城が何か言ったか?」
「いいえ、あなたの事は何も。只、三十路になる迄に結婚出来なかったら、一生独身を貫くと言ってましたが」
僕のオムライスと一緒に。という大事な一言が抜けた台詞を言うと、加持ではなくアスカが我先にと口を開く。
「ミサトなんか、一生独身でいいんじゃないの。だって、料理も出来ない奥さんじゃ旦那が可哀相よ」
「そこはそれ、さ。料理が出来なくても、愛があれば何とやら」
「掃除も洗濯も出来ませんよ」
「ま、まあ、愛があれば何とかなるさ……」
止めを刺すように葛城家の主婦業をこなす少年が言うと、加持は引き攣った顔で笑うのだった。
やがて、乾いてしまったL.C.L.を落とす為にシャワー室へと向かった二人だったが、一人は結婚話に衝撃を受けなかった自分に動揺し、もう一人は無表情で通路を歩いていく。
父親を慕うように纏わりついている水子を後目に、供養もしないで結婚なんて甘いよと人知れず呟くシンジだった。
***
家路を辿る車中で、少年はぼんやりと物思いに耽っていた。
その思考の渦の中には三つの失敗した家族計画の結果ではなく、ましてや敗北した使徒との戦闘の事でもなく、五日前に出会い、今日もまた出会った弐号機パイロットがいる。
(……何か、おかしいな)
自身の中で育つ違和感は、時が経つにつれ発覚した。
それは、一言で言うなら対人関係である。
今迄、他人との距離はしっかりと一枚隔てたような感覚だったのに、彼女だけ何かが違うのだ。
初対面からまだ間も無い相手なのに、今はまるで気安い友人のように普通に接しているというのは、シンジにとって尋常ではない状態であり、言うなれば異常なのである。
(秘密を知られた相手だから?)
確かに、誰も知らない秘密を彼女一人だけが知っている。
ただそれだけの理由で甘受しているのなら、それは振り返りたくも無い過去の記憶の所為だろう。
(………アスカは変わらなかったから)
秘匿する事を分かち合う者として、無意識に中へ踏み込まれるのを許しているのだろうか。
だから、相手の中にも無防備に入り込もうとしているのかも知れない。
(何だか、怖いな)
それを許している自分に。
そして、今はまだ、それを受け入れている相手にも。
「…………」
声にならない言葉が消える。
恐らくは、迂闊な行為をした過去の時間を悔恨に染める色の溜息だったのだろう。
きっと、今の状況は辛い記憶を払拭出来る絶好の機会には違いないのだろうが、それを喜ばしく受け入れるには厭う気持ちが強すぎてシンジには無理だった。
(まあ、嬉しくない訳じゃないけど)
それでも、いずれ離れてしまうのが分かっているのに、手を伸ばすのは滑稽だ。
まだ足りないとばかりに欲張る自分なんて、いっそ消えてしまえばいい。
(でも、アスカは違う ───── )
そう、秘密を知っても、離れたくとも、絆を解消出来ない家族とは違うのだから。
脳裏で比較する人物は、シンジの父親ではないもう一人の家族だった。
母親のクローンであり、血の絆を持つ、秘密の家族。
綺麗な赤い眼を持つ、決して他人ではない少女。
(綾波……綾波、レイ)
ふと、正にこの問題を直撃していた昼間の友人達の疑問を思い出す。
家族を強調させる呼び方でもあり、異性をも感じさせる名前呼びをシンジは拒絶した。
目を背けても無駄だと言うように、連鎖する感情が黒く淀んだ奥底を暴きだす。
やがて、明らかになった自分の想いは、何て素直で臆病なんだとシンジは自嘲するしかない。
高が、名前を呼ぶだけで心が悲鳴を上げる原因が、彼女との関係が固定されてしまう恐怖からだとは。
(……そうか。ずっと、僕はこのまま綾波と)
家族でいたい。家族でいたくない。
まるで、あの使徒のように分離する相反した願いはいつからあるのだろう。
(最低だな……僕って)
貪欲な心は、家族ならば、いずれ自分以外の誰かを選び離れてしまう現実を認めたくはない。
そして、家族でなければ、その認識の上に成り立つ絆が消えるのだろう現実を理解したくないのだ。
二人を繋ぐ、その不思議な距離感が全てを補ってしまった為に。
「サードチルドレン、到着致しました」
溺れていた思考からシンジを正気に戻らせたのは、渋い男性の声だった。
チルドレン送迎用専用車となった要人用装甲車両から降り立ち、見慣れたコンフォート17マンションをぼんやりと見上げる。
(やれやれ……)
自分の暗く醜い奥底を覗いた嫌気からか、それとも単に考える事自体に疲れたのか、シンジは投げ遣りな気分で自宅に向かった。
(まあ、取り敢えずは現況維持かな)
二人だけの密室空間に油断したのか、致命的な行為をしてしまった自分を今はもう呪うしかない。
それに、副司令の大義名分もある手前、せいぜい協力し合って仲良くするしかないのだ。
(嫌じゃないけどさ……)
僅かな恐怖が待ち構えているように思うのは、シンジが保守的だからなのだろうか。
それが嫌な予感に該当するのかしないのか、漠然としたものを抱えたまま少年は葛城家のドアを開ける。
「ただいまー。……って、何だこれ?」
「失礼ね。あたしの荷物よ」
ドアを開けた途端、シンジの目には堆(うずたか)く積もったダンボール箱が映った。
そして、疑問に答えた人物の声に当惑する。
短パンにタンクトップというミサトの部屋着のような格好をした少女は、腰に手を当てて待ち構えていたように唇を微かに上げた。
「何でアスカがここにいるんだよ」
この場にいる筈のない相手に、思わずシンジは呟く。
「さっきここに引越ししたからよ。あんたこそまだ居たの? 今日からお払い箱よ、シンジ」
「は?」
「ミサトは私と暮らすの。まぁ、どっちが優秀かを考えれば、当然の選択よね。本当は加持さんと一緒がいいんだけど」
アスカは立て板に水を流すように意味不明の内容を話すが、訳が分からないシンジは一先ず荷物の横を通り抜けて、自分のテリトリーであるキッチンへと買い物袋と共に移動する。
「ねえ、ところで、日本人てどうしてこう危機感足りないの? よくこんな鍵のない部屋で暮らせるわね。信じられない」
そして、居間に移ったアスカは次はこっちの疑問とばかりに、ミサトの部屋の襖を開け閉めする動作を繰り返した。
例え家の中であろうともどんな危険がいつ訪れるか分からず、更に家族であろうと個人の干渉を許さないという外国人ならではの問いには、突然、洗面所のドアから出てきた保護者である女性が答える。
「それはね、日本人の心情は察しと思いやりだからよ」
「ミサトさん、居たんですか」
「お帰りなさ~い、シンちゃん。早速上手くやってるじゃない」
「お帰りなさい。碇君」
何故か、ミサトの後ろから一緒に洗面所から出てきたレイだが、外出から戻った人を出迎える挨拶の言葉を当然のようにシンジへと送った。
最初の頃はぎごちなかったそれに反射的に微笑んで、少年は帰宅の際の挨拶を返す。
「ただいま、綾波。で、何が上手くなんですか?」
「今度の作戦準備よ」
「何よ、それ」
アスカの質問に同意したシンジは、ミサトに「詳しくはあっちで」と居間に促されついでに全員の冷えた麦茶も用意して移動する。
「ありがと、シンちゃん。じゃ、早速説明するわね」
甲斐甲斐しい少年に礼を言ったミサトは、人差し指を立てながら気合を入れて語った。
「第七使徒の弱点は一つ! 分離中のコアに対する二点同時の荷重攻撃、これしかないわ!」
ミサト曰く、片方だけにダメージを与えても、残りの片方も同時にダメージを与えないとすぐに回復してしまうらしい。
実際、初号機が幾ら攻撃しても、全く致命傷を与えられなかったのだ。
今迄の使徒も十分該当するが、今回の使徒も随分変わった生命体なんだなとシンジは内心呟く。
「つまり、エヴァ二体のタイミングを完璧に合わせた攻撃よ。その為には二人の協調、完璧なユニゾンが必要なの」
ユニゾンとは同一旋律を二人以上で歌い又は奏する斉唱の事だろうが、今回は行動を意味するのであろう。
嫌な予感を覚えたシンジは、次の台詞に又しても的中率を外さない己の勘を恨めしく思った。
「そ・こ・で、あなた達にこれから一緒に暮らしてもらうわ」
「えぇ~っ!?」
表情を出さずに沈黙するシンジとは正反対に、アスカは盛大に異議を唱えた。
「嫌よ! 昔から男女七歳にして席を同じゅうせず、ってね!」
「私もレイも居るわよ。それに、使徒は現在自己修復中。第二波は六日後、時間がないの」
「そんな、無茶な~」
「そこで、無茶を可能にする方法。二人の完璧なユニゾンをマスターするため、この曲に合わせた攻撃パターンを覚え込むのよ。六日以内に、1秒でも早く!」
シンジは無言のまま、目の前に出された一枚のディスクを見る。
鈍く光る銀色の円盤は、先の未来を暗示するように七色に光る世界を映し出した。
この美しく彩る世界は、新しく迎えるに相応しい世界となるのだろうか。
それとも。
「……じゃあ、取り敢えず四人で暮らすんですね」
埒も無い思考を消し去り、シンジは苦笑を作る。
「そうなるわね。多分、ずっとになるけど。あっ、夕食の材料足りるかしら?」
「まあ、今夜の分は何とか。後で買出しにでも行きますか?」
「そうね。いっそ、皆揃って行きましょ。アスカ、あなたも一緒に行くのよ」
ミサトの不穏な台詞を聞き逃したのか、誰が見ても不平不満とした顔付きのアスカは「えぇ~」と言いつつ、ちゃっかりと注文を突き付けた。
「じゃあ、ハンバーグが食べたい!」
「今夜はもう決まってるから、明日なら作れるよ」
「仕方ないわね……でも、絶対よ! 絶対、明日はハンバーグ!!」
「はいはい。あ、綾波の分はちゃんと特別製にするから安心してね」
静かに頷くレイとは逆に、あっさりと機嫌を直して子供のように喜んでいるアスカに内心溜息を吐く。
現状維持をする筈が、それを許さないような展開にシンジはうんざりとした。
苛立つような感情が燻り続け、更に不安が覆い被さるような感覚は、折角手に入れた大事な物を手放してしまうような焦燥をじわじわと齎してくる。
(………参ったな)
こっそりと溜息を吐いた少年は、隣に座るアスカをちらりと見た。
生気に満ち溢れている少女のその瞳は、脅かすものなど何も無いと言うように素晴らしく透き通った空の青だった。
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