ふと目覚めたナルキは、一瞬驚愕に支配されてしまった。
サヴァリスと同じ部屋で寝ているために、心臓に悪い目覚めをすることは既に日常となり果てている。
床で毛布にくるまって眠っていたはずだというのに、何故かサヴァリスと同じベッドで目が覚めてみたり。
心臓に悪いことこの上ない同居生活だが、それを解消する術をナルキは持ち合わせていない。
何しろ、都市に入った記録がないのだから、問答無用で豚箱に放り込まれても何ら文句を言える立場ではない。
立場ではないのだが、それでも、豚箱の方がまだ精神衛生上安眠を得られるかも知れないと、考える今日この頃だった。
だがしかし、今驚愕に襲われたのはサヴァリスの顔を、超至近距離で見てしまったからではない。
「私に懐くのは良いんだが、少しだけ安眠させてくれると嬉しい」
鳥類の特色と言える表情の読み取れない、丸い瞳を見返しつつ、猛然と活動を続ける心臓が落ち着くのを待つ。
追い出そうかとも考えたのだが、何故かそれをしてはいけないような気がしたので、一緒の部屋で眠ったのだが、もしかしたら、せめて鳥かごを用意すべきだったかも知れないとそんな事を考えたりもしている。
用意すると言っても、鳥籠なぞ調達する宛はないのだが。
「うん? 起きたのかい」
平和的に小鳥さんと喋っているところに、この世の争乱の元凶になりかねない男が、とても健やかな笑顔と共に現れた。
本人は、至って平和的にマイアスでの生活を楽しんでいるつもりなのだろうが、ナルキからしてみれば早くこの危険人物との縁を切りたいところだ。
やはり、不法入都で自首して、豚箱に避難すべきかも知れないと考えるが、最終的には豚箱を襲撃してでもナルキと戯れようとしてくるかも知れないので、余計な被害を出さないために実行に移すことは出来ない。
八方塞がりという奴だ。
「お早う御座います」
「うん? 何度も一緒のベッドで眠った仲じゃないか」
「事実を表してはいますが、一般的な意味じゃないですよ」
「せめて、起き抜けの一撃ぐらいは欲しいと思わないかい?」
「全然人の話を聞いていませんね」
レイフォンの苦労が骨身にしみて分かろうという物だ。
よくもまあ、グレンダンはこんな凶暴な生き物を飼っていられる物だと感心するが、それでも、あの都市にはそれが必要だったのだと言う事は理解している。
納得しているとは言えない状況だが。
「それはそれとして、これからどうする? 僕としては速く汚染獣が来てくれると嬉しいんだけれどね」
「都市の足が止まっている理由とか、考えないんですか?」
「それは、他の人の仕事だと思わないかい?」
「・・・・。それはそうですけれど」
確かに、都市の足が止まっている原因を探し出して解決するのは、錬金技師や機械技師の仕事だとは思うのだが、もっと違う反応が有っても良いのにと、何度目か分からない思いに囚われたが、そんなナルキを驚愕させる音が辺りに響き渡った。
そう。汚染獣の接近警報だ。
そして、恐る恐ると凶暴な武芸者の方向を見る。
「ワクワクしてきたよね?」
「全くこれっぽっちも」
当然の表情をしたサヴァリスを発見しただけだったが、それでもこのまま一日を無駄に過ごさずに済むかも知れないという考えも、確かにナルキの中にはあった。
とは言え、ナルキが正面切って戦いに参加できるという訳ではない。
何しろ、都市に入った記録がない武芸者なのだ。
緊急事態だからと言って、おいそれと前線に出られる訳ではないのだ。
そのはずだったのだ。
「うわぁぁぁぁ!!」
そんな葛藤を知ってか知らずか、サヴァリスがナルキをお姫様だっこして、いきなり走り出した。
扉を蹴破り、傍若無人に廊下を突っ走り、既に何人かが避難行動をしていた階段の壁を、斜めになって走破して、宿泊施設のロビーへと到着してしまっていた。
ロビーに一番乗りしたサヴァリスだが、当然の様に宿泊している人間としてはという但し書きが付く。
そう。制服を着た少年がいるのだ。
その都市警から派遣されている少年が、驚きに硬直してこちらを見ているが、ナルキだってかなり驚いているのだ。
ふと気になって、肩に止まっていた小鳥さんへと視線を向ける。
あろう事か、平然とナルキをまん丸な瞳で見返してくれた。
「あ、の! 避難誘導をしますので、暫くこちらでお待ち下さい」
動揺著しいはずだが、どもりつつもサヴァリスを止めようとしてくれる隊員には悪いのだが、未だにナルキをお姫様だっこしている危険人物が止まるはずはないのだ。
その証拠に、とても良い笑顔と共に隊員を無視して宿泊施設から出ようとしている。
ナルキは、まだだっこされたままだ。
「も、もしもし!! 貴男だけならともかく、そちらの女性は置いていって下さい!!」
有りっ丈の勇気と言うよりは、もはや蛮勇を振り絞ってサヴァリスからナルキを助け出そうとしてくれているのだが、そうは問屋が卸さないのだ。
こう言う時に使うかどうかは全くもって疑問な言葉だが。
いや。それ以前に、サヴァリスだけだったら問題無いと言っているところが、そもそもの問題かも知れないが、相手は天剣授受者だから平気なのかも知れない。
「うん? 彼女は大丈夫だよ。槍殻都市グレンダンでその人有りと言われた武芸者の、弟子に当たる人でね。この学園都市くらいならば朝食前の運動程度の気持ちで征服できるから」
「普通は、そんな無茶は出来ませんから!!」
叫びつつも、サヴァリスに縋り付いて止めようとしてくれているこの少年は、何時ぞやサヴァリスが悪ふざけで錬金鋼を使ったトリックを見せた時に、取り調べをしていた内の一人だと言うことを思いだした。
上司に比べると影が薄かったが、それでもナルキの記憶には残っている。
まあナルキに限って言えば、確かに、グレンダンにその人有りと言われた武芸者の弟子だと言われれば、確かにそうなのではあるが、だからと言ってマイアスを征服する力などナルキにはないのだ。
と言っている内に、隊員を引きずりつつ宿泊施設から出て、かなり歩いてきてしまっていた。
「ああ。やって来るのは老性体かな? 老性体だよね? 老性体以外にあり得ないよね!!」
見事な活剄を使い、無茶苦茶な勢いで外縁部を目指すサヴァリスからそんな声が聞こえる。
微かに頬を赤らめて、呼吸が弾み、体温が高い。
こんな状態の人間を、ナルキは良く知っている。
例えば、ヨルテムでレイフォンと一緒に歩いていた、黒髪の幼馴染みとか。
ツェルニでも、あまり状況は変わらなかったような気もするが、流石に多少の慣れがあったのか、それ程顕著な変化はなくなっていたが、基本的に今のサヴァリスと同じだと言える。
それはつまり。
「・・・・・・・・・・・。こんな世界終わってしまえば良いんだ」
今の思考を全力で消去していたナルキだったが、おかしな物を視界の隅に捉えた。
あえてそれを言葉にするならば、細い光で作られた網。
何かを取り囲むように、作られたその光の網の中に、今、ナルキの肩に止まっているのとよく似た小鳥が大量に捕らわれている。
全く意味不明な現象を見ていたのは、しかし一瞬の出来事だった。
「何をしているんだ!!」
その叫び声と共に、サヴァリスの行く手を遮るように一人の少年が現れた。
それは、ロイと名乗った都市警の隊長であり、サヴァリスに縋り付いて止めようとしてくれている少年の、上司に当たる人物だった。
そして、ロイもサヴァリスを止めようと四苦八苦しているのを眺めつつ、ナルキは光の網の方に注意を取られている自分を発見していた。
何故、あれがそんなに気になるのか分からない。
「兎に角、いくら優秀とは言え、都市外から来た武芸者を即座に戦わせる訳には行かないのです!!」
「うん? ならば話は早いじゃないか」
「何処が速いんですか!!」
今、サヴァリスの最も危険なスイッチが入ってしまった。
そんな直感がナルキの胸に沸き上がってきた。
そして、魔女の釜の蓋が開かれる。
「マイアスの武芸者を僕が殲滅すれば、全て丸く収まるという訳だね」
そう。マイアスの武芸者が全員戦闘不能だったならば、外から来た武芸者に頼る以外にないのだ。
そして、最悪を通り越している事実として、サヴァリスなら笑いながらマイアス武芸者を、死者を出さないように手加減しつつ、戦闘不能に陥れることが出来るのだ。
もし、万が一にでも、全員を殺して良いと思われたならば、五分以内に全員がこの世から退場を余儀なくされてしまう。
それ程の実力を、ナルキをお姫様だっこしている危険人物は持っているのだ。
その実力差を認識しているのかどうか、ロイと名乗った青年の表情が硬直する。
何処まで本気か分からないという表情ではない。
実際にやりそうだと確信している表情で、凍り付いているのだ。
「・・・・」
「ああ。僕は当面手出ししないよ? グレンダンでも、若手でピカイチだと言われているナルキが、先に汚染獣と戦うんだからね」
ちなみにでは有るのだが、ナルキはグレンダン出身者ではないし、立ち寄ったことも、見た事もない。
その辺全く無視してサヴァリスが更に続ける。
「例え相手が老性体だったとしても、一撃で粉砕できるだけの実力を持っているんだよ」
「持っていませんから! この前雄性体とやり合った時だって!! 穴だらけにしましたけれど、結局倒したのはレイフォンだったんですからね!!」
「おや?」
思わず上げた抗議の声で、サヴァリスの視線がナルキを捉える。
そしてその視線の危険さに気が付いた。
何がいけなかったのかは分からないが、確実にサヴァリスの視線は危険だ。
「やはり実戦経験があるんだね。しかし、雄性体ごときに手こずるはずはないよね? あれだけの活剄を使えるんだから、鎧袖一触だったはずだけれど。ああ。五期とかの大物だったんだね。それなら納得だよ」
しまったと思ったが、遅い。
思わず汚染獣との戦闘経験があると言う事を、よりにもよって都市警の前で公言してしまったのだ。
実際にやり合ったのは一期だったが、ご丁寧に五期などと言う老性体と見間違えるほどの大物との戦闘経験があると、何処かの天剣授受者が修正してくれているし。
そして結果的に、時期は不明だが、確実に戦闘に参加させられることだけは間違いない。
問題は、マイアスの武芸者が何時汚染獣を殲滅できるかにかかっている。
速ければナルキの参戦はないだろうし、遅ければある。
そこまで考えたところで、ふと胸の中で何かが蠢くのを感じた。
あえて表現するのならば、胸の中にある空洞を埋め尽くした何かが、猛烈な熱と勢いをもって、ナルキを戦場へ駆り立てようとしている。
そんな何かが、胸の中で蠢くのを感じたナルキは、唐突に肩に止まっている小鳥の正体を理解した。
いや。胸の中の何かが教えてくれたのだ。
それは、ナルキの肩に止まっていて良い存在ではない。
それは、この都市にとって最も重要な存在なのだと。
それとは別に、ナルキの中の熱は戦場へと駆り立てる。
小鳥を返さなければならないという使命感と、戦場へと駆り立てる熱がナルキを苛んだが、それはしかし一瞬でしかなかった。
ナルキにとって、都市を守ると言う事は汚染獣と戦う事ではない。
そして、今回マイアスを守ると言う事は、断じて直接汚染獣と戦う事ではない。
一瞬でこの結論に達したナルキは、全力で胸の中の闘争本能を抑制する。
そして次の瞬間、活剄を使って、脊柱起立筋と殿筋、半腱半膜様筋と大体二頭筋などを使って、サヴァリスを弾く要領で空中へと移動。
腹筋や大体四頭筋を使って身体を丸め、四分の三回転して地面に立つ。
今のところ、胸の奥の熱を押さえ込むことに成功していた。
そして、信じられないほど身体に力がみなぎり、つい最近手こずったはずの雄性一期くらいなら、本当に鎧袖一触に出来そうな自信がナルキを支配する。
そして理解した。
サヴァリスの本当の恐ろしさを。
「くくくく。ああ。素晴らしいよナルキ。とうとう僕と殺し合ってくれるんだね?」
「違いますから。私はこれから機関部まで行かなければならないんですよ。汚染獣はサヴァリスさんに任せますから」
サヴァリスの性格がでは無い。
隠されていた戦闘能力を、直感的に感じ取ることが出来るのだ。
おそらく、みなぎっている力がそれを感じさせてくれたのだろうと思う。
そしてそれは、今のナルキから見ても遙かに遠く、戦えば間違いなく数秒以内に殺されることが分かった。
だからと言う訳ではないが、殺し合いなど出来はしないのだ。
「うん? 汚染獣と戦うよりもナルキと殺し合った方が、僕はずっと楽しいんだけれどね?」
「きっと、凄い汚染獣が来ていますから」
剄息で常に活性化している剄脈を更に刺激して、最大限の瞬発力を確保する。
それと同時に、目の前の危険人物を何とか汚染獣戦に向かわせなければならない。
「うん? 期待はずれだったんだよ」
「・・・? え?」
サヴァリスの台詞を、脳が理解し損ねた。
だが、それは僅かに一秒程度の時間だった。
「それはつまり、サヴァリスさんには既に汚染獣が見えていると?」
「うん? ナルキにも見えるはずだよ?」
そう言われて、恐る恐るサヴァリスの見ている方へと視線を向ける。
準備をしていたために、見詰めようとしただけで活剄が発動して、視力が爆発的に強化された。
そして見た。
雄性体一期の汚染獣を。
「・・・・・・・・・・・・・。雑魚だ」
「うん。雑魚だよ」
胸の中の何かが存在しない状態のナルキでさえ、一撃で撃破できると確信できるほどに弱々しい汚染獣は、幼生体から脱皮したばかりの個体に見えた。
こんな弱敵相手では、サヴァリスが満足するはずがない。
むしろ、戦わせたら、欲求不満が爆発して、直後にナルキに襲いかかってくるかも知れない。
そして、側にいる都市警の二人へと視線を向ける。
恐怖に支配された顔で辺りを見回しているロイと名乗った青年の行動だけで、まだ他の誰にも見えていないことが分かった。
そして、もう一度サヴァリスを見る。
とても素敵な笑顔でナルキを見詰めていた。
「雑魚なんかマイアス武芸者に任せて、僕達は僕達で愛をはぐくまないかい?」
「それは愛とは言いませんから」
全力で突っ込みつつ、水鏡渡りで機関部へと向かう。
サヴァリスから逃げられるとは思わないが、もしかしたら、気まぐれで今だけは見逃してくれるかも知れないから。
そして、ナルキは機関部へ行かなければならない。
肩に止まった小鳥、電子精霊マイアスを返すために。
それが、多くの人の命を救うことだと確信して。
汚染獣との戦闘は気になるが、雄性体になりたてだったら、きっとマイアスの武芸者だけでも撃退できるはずだから。
褐色長身の、赤毛武芸者が瞬時に消えたことは驚きに値したが、それを見逃したサヴァリスという武芸者に対してもかなり驚いていた。
いや。その認識は少し違うのかも知れない。
「ああ」
頬を染め、潤んだ瞳で熱い吐息を放つその怪生物は、既に都市警の下っ端の理解を大きく超えた存在だった。
いやまあ、最初っから越えていたのは事実なのだが。
「剄を練り上げる速度、それを技へ変換する速度と滑らかさ。何よりも僕でさえ一瞬驚いた切れと超加速」
今まで見たことも聞いたこともないほど優秀だと判断できる、目の前の武芸者でさえ驚いたのだったら、都市警の下っ端武芸者でしかない自分に見えなくても、何ら問題無いのだと無理矢理納得する。
おそらく、ロイにさえ見えていなかったはずだから、見えているサヴァリスの方が異常なのだと、そう結論を付ける。
「ああ。僕は生まれて始めて、女性という生き物に興味を持ったよ。ああ。ナルキ。僕は君を愛してしまったようだよ」
恍惚とした表情でそう語る武芸者からはしかし、通常の男女の間にある愛情を伺うことは出来なかった。
そう。恍惚とした表情はそのままに、潤んだ瞳さえ変わらず、それは獲物を前にした肉食動物の視線だったからだ。
熱い吐息は、化錬剄の変化を起こしているかのように周りの気温を上げていることからも、それは十分証明できるという物だ。
思わず、滅んでしまった神に、ナルキという女性武芸者の冥福を祈ってしまった。
「今は共に戦うことが出来ないけれど、それは僕らに課せられた試練なんだよ。他のことに気を取られていては、愛を育めないからね」
見逃したのは、ナルキが他に目的を持って行動していると判断したからだ。
気が散っている人間と戦ってもつまらないと、そう判断したようだ。
本当に、戦うことしか考えていない生き物のようだが、問題は実は違うところにある。
「隊長? どうしますか?」
「ああ。そうだな」
呆然としている感じのロイへと視線を向ける。
信頼する隊長も、立て続けに起こった展開にかなり驚いているようだったが、それでも思考をまとめるように、大きく息を吸って吐き出す。
「俺はあの女性を追って機関部へ行く。お前はサヴァリスさんをシェルターに避難させてくれ」
「・・・・・。了解しました」
この危険人物が、大人しくシェルターに避難するはずはない。
ならば、何故ロイは実現できない指示を出したのか。
それは、言って良ければ、口実である。
取り敢えずシェルターに避難してくれと指示を出したが、相手がそれを聞かなかったのだと、後で問題になったら主張するために出された指示なのだ。
それを理解したからこそ、旋剄で機関部へと向かったロイを見送りつつ、小さく溜息をついてしまった。
どうにか出来るかも知れないと言う一点において、まだナルキの方が見込みがあると、下っ端武芸者だって判断できたから。
「それで、シェルターに避難して欲しいのですが?」
「うん? 君も僕と愛を語りたいのかい?」
「それは違いますからね」
汚染獣が接近していて、マイアスが動けないという切迫しているはずの状況の中でさえ、この異常な武芸者は余裕綽々だ。
ふと振り返り、サヴァリス達が見ていた方向へと視線を飛ばし、活剄で限界まで視力を強化する。
まだ、汚染獣らしい飛行物体を捉えることさえ出来ていない。
どれだけの実力差があるのか、考えるだけで絶望してしまいそうな気分だ。
「ふむ? 僕としてはナルキの方が気になるけれど、汚染獣ごときにマイアスを荒らされてしまっては、愛を育むのに支障が出てしまうかも知れないね」
「ですからね。それは愛とは言いませんからね」
こんな状況で漫才をしなければならない自分に、少しだけ不幸を感じたが、それを強引にねじ伏せる。
やる事があるのだ。
どうやら、目の前の変態的な武芸者は汚染獣戦への参加を希望しているようだから、武芸長にその事を知らせて、余計な混乱を避けなければならない。
下っ端は下っ端で、やる事が多いのだと、少しだけ安堵した。
こんな危機的状況で、仕事もなく待機などしていたら、気が変になってしまいそうだから。
そんな小心な自分を認識しつつも、サヴァリスを連れて武芸長のいるだろう場所へと移動しようとして、そして気が付いた。
「いない」
何時の間にか、サヴァリスが消えていたのだ。
小うるさい都市警の下っ端武芸者を振り切ったサヴァリスは、外縁部の建物の一つ、その屋上で事の成り行きを見守る。
サヴァリスの腕から逃げ出したナルキの剄量が、突然信じられないほど上がったのは認識していた。
そして、それこそがツェルニに向かうための目的なのだと言う事も、直感的に理解することが出来た。
だが、この状況は悪くない。
あわよくば元天剣授受者と戦えるかと思っていたのだが、借り物とは言え、ナルキの実力はサヴァリスを楽しくしてくれるのに十分な物だった。
だが、事はそれだけでは収まらなかった。
「ふむ。初代ルッケンスは割と本当の事を書き残したのかも知れませんねぇ」
ルッケンス家にとって、初代とはもはや神話である。
そんな人物の書き残した事柄から、本当は疑うこと自体が問題なのかも知れないのだが、それでもサヴァリスはかなり眉唾物だと考えていた。
何しろ、記録にある時期に大規模な戦闘が都市内で起こった記録という物が、グレンダンには存在していなかったのだ。
そこから考えて、事実に尾ひれが付いて今に伝わったのだとそう考えていたのだが、どうやらサヴァリスの認識の方が間違っていたようだ。
機関部へと突き進んだナルキの前に現れたのは、まるでコピーでもしたように個性の欠片もない、画一的な集団だった。
被っているお面の模様も、全て同じという徹底ぶりだ。
イグナシスの下っ端武芸者達だ。
個々の戦闘能力を見れば、かなりの差でナルキの方が有利という程度の、どうと言う事のない連中だが、数が多い上に完璧と言って差し支えない連携で襲いかかってくるのだ。
焦るナルキとお面集団の戦闘は、何とかナルキが有利だと言える程度の様相を呈しつつある。
「ああ。それでも君はとても耀いているよ」
多数対多数の戦いは経験しているだろうし、汚染獣戦で多数対一の戦いも経験しているはずだ。
だが、一対多数の戦いという物は未経験だったようで、ナルキは少々戸惑っているようではあったが、それでも優位に戦いを進めることが出来ている。
廃貴族の助けを受けているとは言え、それは剄量だけの話であるはずだ。
ならば、お面集団を相手に優位に戦いを続けていられる現状は、まさにナルキの持って生まれたセンスそのものだと言える。
武芸者に強大な力を与える廃貴族と、それを無駄なく使うことが出来る人材の融合。
それはもしかしたら、天剣授受者になることさえ出来るほどの、優秀な武芸者の誕生を意味しているのかも知れない。
「ああ。やはり僕は君を愛してしまったようだよ。二人でもっと強くなって、二人の愛を育もう」
不満があるとすれば、廃貴族が全力を出していないことだろうか。
まさか、あの程度で全力などと言う事はあり得ないとサヴァリスは睨んでいるのだが、何かの切っ掛けがあれば変わってくるはずだとも思っている。
それはもしかしたら、汚染獣との戦闘かも知れないし、一度死にかけるという体験かも知れない。
何はともあれ、よたよたと飛んでくる汚染獣などよりは、よっぽどサヴァリスの興味を引く戦いは、もう暫く続きそうである。
もし、ナルキが敗れるようなことがあったら、その時はどうしようかと僅かに思考を巡らせる。
「うん。あの程度の連中に負けるようなら、それは大したことがなかったと言う事だね」
ナルキを愛しているのは間違いないが、それとこれは話が別なのである。
だがしかし、ナルキが負けるなどとは全く思ってもいないのも事実だ。
慣れていないとは言え、それなりに考えた戦いをしているのだ。
今も、攻撃してきた個体の足を鋼糸で掬い、思わぬところで体制が崩れたために連携が乱れた隙を突き反撃して、地道に数を減らしている。
これをやって行けば、必ずナルキが勝利するだろう。
そして、鋼糸という見えにくい罠の存在を知ったために、襲う側の動きが鈍くなっているのも大きい。
この場合は、損害を恐れずに全力での総攻撃こそが必要だというのに、どうも今ひとつ戦いの機微を弁えていないようだ。
ナルキが優勢になりつつあるのは喜ばしいが、つまらない戦いになって来たのが少し残念だった。
暇つぶしに、やっとこさ外縁部へ到着した汚染獣を捻り潰してこようかと思うくらいには、つまらない戦いとなってしまっていた。
少し。いや。かなり残念でつまらない戦いから視線を外し、恐怖に顔を引きつらせたマイアス武芸者の、奮戦の方へと注意を向けた。
こちらはこちらで、もしかしたら楽しいことになるかも知れないから。
「おや?」
そして気が付いた。
ロイと名乗った、都市警の武芸者の姿が見えないのだ。
いや。いる場所はおおよそ分かっているのだが、ナルキとお面集団との戦いに関わろうとしていないのだ。
これは少し興味が出てきた。
ロイがどうなろうと知った事ではないのだが、ナルキに関わる事にはすべて興味を持てるのだ。
遮光カーテンを通りすぎて尚、暖かな日差しを浴びて目覚めたレイフォンは、一瞬ほど驚いてしまっていた。
本来ならば、レイフォンは一人で住んでいるために、誰かと一緒に寝ると言う事はない。
孤児院では違ったし、ある意味ヨルテムでも同じ家で住んでいた。
それは、ツェルニの寮でも同じ事が言えるのだが、流石にあの建物で誰かと一緒に暮らしていると表現することは難しいので、レイフォンは一人で暮らしていると言う事となる。
だが、今は少々事情が違う。
日差しの暖かさとは全く違った、柔らかな温もりがレイフォンの手の中にあるのだ。
まだ、この状況になって間が無いために、起きた時や、何かの拍子にふと驚いてしまうのだ。
だが、それもほんの一瞬でしかない。
まだ眠っているメイシェンを起こさないように、細心の注意を払いつつベッドから抜け出す。
朝早い時間ではあるが、戦場が近いためだろうと思うのだが、ゆっくり眠っていると言う事が出来ないでいるのだ。
そしてもう一つ。
今日、全ツェルニ生徒を前にしたカリアンの演説があるのだ。
もちろんレイフォンが何かするなどと言う事はないのだが、それでも、今のツェルニの現状を全生徒に知らせることによって、人身を安定させてインフラに問題が起こらないようにすると言う目的は非常に重要だ。
思わず、カリアンに声援を送ってしまいたくなるくらいには、今日の演説が重要であると言う事を理解している。
それを理解していて尚、レイフォンに出来ることと言えば、メイシェンと二人分の朝食を準備することだけだ。
本来ならば、ミィフィとナルキもここに住んでいるのだが、今は二人ともいない。
ミィフィはリーリンの寮へと長期単身赴任だと言っていたし、ナルキは、おそらくこのツェルニの中にはいない。
廃貴族とやらに取り憑かれ、既にかなり長い時間が経っているが、未だに消息を掴めていない。
ツェルニに居ない以上、それは当然なのかも知れないが、その事実を受け入れることは非常に困難だ。
だからこそ、メイシェンもレイフォンも追い詰められているのだ。
だが、それでも、レイフォンは、諦めることは出来ない。
メイシェンを守るためと言う事もあるが、レイフォン自身がナルキの帰りを待っているのだ。
だからこそ、今、メイシェンと一緒に暮らしているのだし、汚染獣とも戦っているのだ。
何時終わるか分からないが、それでも、諦めることは出来ない。
「あれ?」
ふと、ここで違和感を覚えた。
レイフォン・アルセイフは、こんなに前向きな人間だっただろうかと。
グレンダンにいた時は、もっとこう、暗く沈み込みがちだったという認識がある。
死なないために戦い、家族を守るために金を稼ぎ、結局失敗して全てを失ったのは、暗く、冷たく、沈み込んでいたからだとそう思っている。
「おや?」
そして更に違和感が酷くなった。
そもそもレイフォン・アルセイフは、こんな事を考える人間だっただろうかと。
これはもしかしたら、おかしな友達が増えたからかも知れないし、もしかしたら、レイフォン自身が変わったからかも知れない。
良い方向に変わったのか、そうでは無いのかは分からないが、それでも、今の気持ちはそんなに悪いものでは無い。
朝食を摂ったら、支度をして戦略・戦術研究室へと顔を出そうと、そう思った。
ある意味、レイフォン以上に過酷な戦場へ立たされている人達に、ほんの少しでも何かで切るかも知れないから。
具体的には、食事の差し入れとか。
リーリンもちょくちょく行っているようだし、さほど必要はないだろうが、念のためという奴である。
ここまで考えた時、寝室の気配が動き出すのが分かった。
まだかなり早い時間なのだが、メイシェンもあまりぐっすりとは眠れないのかも知れない。
あるいは、レイフォンの気配を察して目が覚めてしまったのか。
「お早うメイシェン」
「お、お早うレイフォン」
振り返ると、丁度扉を開けて出てきた瞬間だったので、気軽を装って挨拶をしてみる。
そう。装っているだけなのだ。
まだ、この生活に慣れていないために、心臓は変なテンポでダンスを踊っているし、動作一つ一つもかなりぎこちない。
だがそれは、メイシェンも同じ状況であり、扉を盾にしながら挨拶を返し、ぎくしゃくと油の切れたロボットのような動作でこちらへとやって来る。
出来れば、その緊張をほぐしたいところではあるのだが、残念なことにレイフォンにそんなスキルは存在しない。
と言う事で、二人で平静を装いつつぎこちなく用意が終わった朝食を摂ったりするのだった。
冷たい汗が背中を流れるのを感じながら、それを無視してゼリーを啜る。
どんな状況であれ、食事を抜くことは得策ではない。
更に、目の前の不機嫌の塊を刺激しないためであるのならば、ウォリアスはそれこそ死ぬ気で食事を摂ることだろう。
全く楽しめなかろうが、毒が入っていようがかまいはしない。
いや。即死できるのだったら、毒入りの料理を喜んで食べてしまうかも知れない。
それ程までに、目の前の怒れる少女は恐ろしいのだ。
いや。怒っているのとは少し違うことは理解しているのだが、他の表現は更に遠いような気がしているのだ。
視線を僅かに動かして、ウォリアスの直属の上司を伺う。
スキンヘッドの上司も、恐る恐るとゼリーを啜っている光景を確認するだけだった。
「それで、カリアンさんの演説ってもうすぐなんでしょう?」
「うん? そろそろ始まるけれど中継でも見る?」
ツェルニが置かれた現状を全生徒に知らせて、そして奮い立たせるカリアンの演説はもうすぐ始まる。
それは、おそらく成功することだろう。
カリアンの実家は情報の商いを生業としていると聞いている。
そこで育ったのならば、手元にある情報にどのような加工すればどのような反応を人々がするかを、きちんと学んでいるはずだし、そもそも、この程度のことが出来ないようでは、並み居る対立候補を蹴落として生徒会長になるなど出来ないのだ。
その意味において、ツェルニは非常に恵まれた指導者を得たと言える。
まあ、もう少し方法を考えて欲しいと思うことはいくらでもあるが、それでも、現状ではとても必要な人材である。
出来れば、ウォリアス達の現状も何とかして欲しいのではあるが、それは恐らく贅沢すぎる望みなのだろうと言う事は、きちんと理解している。
だが、その贅沢すぎる望みは思わぬ人物によって叶えられた。
「よぅ。きちんと生きているかぁ?」
第十七小隊所属の狙撃手にして、ツェルニ一の伊達男と自己主張しているシャーニッドだ。
ウォリアスにもディンにも真似することが出来ない、とても朗らかな笑顔と共に爆発寸前の少女へと歩み寄っているのだ。
一体、どれだけの修羅場をくぐり抜けたらこんな事が出来るのか、一度で良いから聞いてみたいが、今は駄目だ。
なんとしてもリーリンの荒ぶる魂を沈めてもらわなければならないのだ。
「少し良いか?」
「何でしょう? この二人をきちんと生かさないといけないんですけれど」
シャーニッドの質問に答えたリーリンだが、それはどちらかと言うと八つ当たりに近い力強さを持っていた。
それは、取り敢えず生きているウォリアス達の監督が必要だと主張している辺りからも伺える。
風呂に入らなかったり、生活リズムが滅茶苦茶になったりはするが、きちんと生きて行くことは出来るのだ。
そのはずだ。
「いやな。少し込み入った内容なんだ。屋上にでも出ないか?」
「・・・・・・・」
逡巡しているのが分かる。
入学前から付き合いのあるシャーニッドに、こうまで言われてしまっては少し断り辛いのだろう。
そして、今のリーリン相手にこんな事が言えるのは、おそらくツェルニひろしと言えどシャーニッドだけだ。
第十小隊絡みで、シャーニッド達にも何かあったようだし、思うところがあるのだろうとも思う。
「分かりました」
「わりいな」
あまり悪びれた様子もなく、リーリンを連れ出すシャーニッドの視線が、何故かディンを捉える。
その瞳に何時もの軽薄な色はなく、何かとても真剣な鋭さを持っていた。
そしてその意味を、ウォリアスはおおよそ理解できていると思う。
そう。ツェルニの歴史が何時終わるか分からない今の状況では、思い残すことは少ない方が良いと思うのだ。
「室長。少し外の空気を吸ってきたらどうですか? ここは僕がいますから」
「? ああ。そうさせてもらおうか」
ウォリアスなりに気を遣ったと思ったのだが、残念なことにディンはそれを理解してはくれなかったようだ。
それはディンが鈍いのか、それとも何か他の理由によってなのか、観察を続けることで分かってくるだろうと思う反面、触れてはいけないことであるとも思っているのだ。
扉が閉まり、機械の駆動音が耳障りに感じだした研究室で小さく溜息をつく。
まだ、ウォリアスはレノスの呪縛から逃れられていないのかも知れないと、そう思ったから。