朝食が終わるのを待って、危険極まりない人物との対面が始まった。
目の前には、グレンダンから来た武芸者が何時も通りににこやかな笑いを浮かべているが、それを信じることなど出来ようはずが無い。
保管庫の鍵をあっさりと壊し、誰かに見とがめられる前に錬金鋼を盗み出した人物なのだ。
並々ならぬ実力者だと思っていた方が無難である。
「朝早く申し訳ありません」
「いえいえ。これのことで来るとは思っていましたが、思ったよりも速かったですね」
ロイの挨拶を真正面から受け止めたサヴァリスという猛獣は、ポケットから自分の錬金鋼を取り出して机の上に置いた。
それは、間違いなく彼の持ち物であり、そして、ここに有ってはならないはずの品物だった。
彼が盗んだのならば、当然のこと隠しているはずだし、犯人が違うのならば当然彼が持っているはずがないのだ。
だと言うのに、サヴァリス所有の錬金鋼は目の前に存在している。
この展開は流石のロイも予想していなかったのか、呆然と机の上にある基礎状態の錬金鋼を見詰めているだけだ。
同席している下っ端警官である自分はと顧みれば、どちらかと言うと落ち着いてサヴァリスを見詰めていた。
だが、これは能力が高いとか、修羅場に馴れているとか言う建設的な理由からではない。
単にロイの付き添いで来ているから、有る意味他人事としてみることが出来ているからこそ、比較的落ち着いてこの状況を見ていられるのだ。
そして、他人事として見ているからこそ、行動を起こすことが出来ない。
最終的には、ロイと一緒に呆然と見詰めることしかできていないのだ。
(な、なさけない)
そうは思うのだが、どうしたら良いのか分からないという現実から逃れることは出来ないのだ。
無言の睨み合いと呼ぶには、いささか緊迫感のない時間が流れた。
そして、無意味な時間を打ち破ったのは、当然の様にサヴァリスだった。
あろう事か、机に出した錬金鋼を引き寄せ、そして上着のポケットへと平然と仕舞ってしまったのだ。
本来ならば、都市警できちんと保管しておかなければならないはずの、危険極まりない錬金鋼をだ。
「そ、それは!!」
「うん?」
慌てて手を伸ばしたが、既に錬金鋼はサヴァリスの服の中。
相手は、武芸の本場と呼ばれるグレンダンからの武芸者だ。
その武芸者から、愛着のある錬金鋼を取り戻すなどと言うことは、相当の困難を伴う事業となることは請け合いだ。
もはや余所の都市にある窃盗データを取り戻すよりも困難だろう。
だが、次に起こったのは平警官を驚かせるのに十分な事柄だった。
「持っていないよ」
「・・・? は?」
言いつつ上着を脱いでこちらに差し出すサヴァリス。
ロイが凍り付いたままだったために、慌てて受け取りポケットというポケットを探るが、錬金鋼は出てこなかった。
そうなると視線は当然ズボンに行き着く訳で。
「こっちも渡そうか?」
「・・・・・・。いえ。無駄なようですので」
自信満々にそう言われてしまえば、そこには絶対に存在しないと言う事となる。
というのはフェイントと言う事も考えられるが、そんなオチではないことは何となく分かった。
何よりも、これ以上平警官の自分がロイを差し置いて話を進めることがはばかられたのだ。
なので視線を横にずらして上司を観察する。
凍結から脱したロイだったが、それでもこれ以上何をやっても無駄であることは理解しているようで、視線でお引き取り願えと命じられた。
逆らう理由も気力もなかった。
「いや。これはこれでなかなか楽しかったよ。また機会があったら遊んでくれると嬉しいね」
「・・・・・・。善処します」
沈黙の後、ロイが絞り出すように言った言葉に、全くもって異存はない。
こうして、恐ろしすぎる武芸者との対決は呆気なく終了したのだった。
一部始終をこっそりと見ていたナルキは、サヴァリスの錬金鋼を渡しつつも溜息をつきたくなってしまった。
手品の種は簡単である。
サヴァリスが錬金鋼を上着に仕舞ったのならば、警官に見付からないようにナルキが鋼糸で回収する。
たったそれだけの話だ。
本来ならば、こんな事に手を貸すのは嫌なのだが、何か勘違いしたサヴァリスの頼みとあっては引き受けざるおえない。
「いやぁ。なかなかに楽しいイベントだったね。ナルキも存分に楽しんだよね」
「全くもって楽しんでいませんから。私が警官だと言うことはしっかりと理解して下さいよ」
何をどう勘違いしたのか、はたまた何か開けてはいけない扉を開けてしまったのか、警官が取り乱す姿を是非とも見たいと言い出した時には、正直に暗殺すべきだと判断した。
出来るはずはないのでやらなかったが。
この戦う事しか考えていない狂人が、暇をもてあましていると言う事は十分に理解できる。
その暇を潰す手段を色々と画策しているというのも、おおよそ理解できると思うのだが。
「もう少し自重して下さい。貴男が暴れたらマイアスはその時点で終わりなんですから」
「うん? そんな事は理解しているよ? だから逸る気持ちを押し留めようと色々考えているんじゃないか」
「もう少し平和的な方向で考えては、くれないでしょうね」
「最大限平和的だと思わないかい?」
「・・・・・。実は思っているんですよ、これが」
凶悪事件を起こして、そうでなくても手一杯なマイアスを混乱のどん底に叩き落とすくらいは、このサヴァリスならやりかねない。
マイアスの全武芸者を、お茶を飲む程度の感覚で全滅させることが出来るのだから、今日の被害は警官二人だけだ。
極めつけに平和的な暇つぶしの方法であると、言い切ることが出来ると判断できるナルキは、自分の置かれた環境に非常な憤りを覚えていた。
そして、現実に対して言いたいことが山ほど有るナルキの見る限り、上司と思われる人物の方がよりダメージが大きかったようだが、同席していたもう一人も相当に疲れ果てていたことは間違いない。
思わず、自分の立場を忘れて同情してしまうくらいには。
「次は何をして遊ぼうかな」
そう呟く危険人物の相手をさせられているという、驚くべき立場にいるナルキに同情されたならば、あの警官二人はどう反応するだろうと、ほんの一瞬だけ考えた。
だが、それもほんの一瞬だった。
ふと、何かの接近を感じたのだ。
別段危険な代物という訳ではない。
宿泊施設の中を移動中であり、最も危険な生き物はナルキの前を悠然と歩いている以上、騒動が起こるという危険性はそれ程高くはない。
だが、小さな質量しか持たない物体が、空中を移動しているらしいことを認識した瞬間、何時でも錬金鋼を手元に移動できるようにして、視線を動かした。
動かすのは出来うる限り視線だけだ。
そして今回、視線だけでその移動物体を捉えることに成功したのは、ささやかな幸運だと言えるだろう。
だが、幸運もそこまでだった。
「・・・・・・。疲れているな、私は」
視界に飛び込んできたのは、小さな物体であった。
それは、青い羽毛に覆われた、当然の結果として小鳥だった。
羽毛に覆われている生き物は、おおよそ鳥だけだから当然なのだが。
当然なのだが、それでもナルキは自分がこうも緊張している事実に脱力してしまいそうだった。
きっと、目の前を歩く戦闘狂と関わったために、色々と精神的に追い詰められているのに違いない。
そうでなければ、小鳥の接近にこうも緊張したりはしないはずだ。
そして、驚いたことに青い羽毛に覆われた小動物は、ナルキの肩にピトッと止まってしまったのだ。
ナルキ自身に、小動物に好かれるという特製はあっただろうかと、少しだけ考える。
メイシェンは小動物チックだが、それはかなり違うと思うのだ。
そんな一瞬の隙を突くかのように、前を歩いていたサヴァリスがふと振り返る。
「うん? どうしたんだいその小鳥?」
「・・・。食べませんよ?」
念のための予防線を張ってみる。
無駄であることはきっちり理解しているし、サヴァリスが小鳥に興味を持つとは全く思っていないが、念のためだ。
「うん? 僕にもそのくらいの常識はあるよ。それに、食べたとしてもそれ程お腹はふくれないようだしね」
「理解していてもらえて嬉しいです」
皮肉気味に返してみるが、全く通用した様子がない。
当然である。
だが、サヴァリスの視線は少しだけ小鳥を真剣な様子で見詰めているようなのだ。
そちらの方に驚きを覚えてしまったくらいには、真剣味を帯びていた。
もしかしたら、ナルキ以上の戦闘能力を持っているのではないかと、一瞬の十分の一くらい疑ってしまったが、そんな事があるはずがないと結論付ける。
何しろ相手は小鳥なのだ。
「良く接近に気が付いたね」
「ああ。そっちですか」
無気力を装いつつ少しだけ驚いてもいた。
言われるまで気が付かなかったが、何故ナルキは、小鳥が接近してくるだけであんなに緊張したのだろうか?
精神的に疲れているからと言う事もあるだろうが、それにしても緊張の度合いが異常だった。
それは、かなり深刻な疑問だった。
そう。何か失ってはいけない物が、今ナルキの肩にいるような、そんな凄まじい直感もあるのだ。
第四小隊所属のフランク・タコスは現在有名人だ。
小隊員と言う事もあり、元々それなりに有名だったが、この一月の間にその知名度は天井知らずの跳ね上がりを見せ、ヴァンゼやゴルネオ、レイフォンさえ凌駕するのではないかと言われている。
第四小隊の戦績は、決して良いとは言えないし、フランク自身の戦闘能力もそれ程高くない。
身長はレイフォンよりも低く、前後左右はかなり大きい。
もちろん、武芸者であるからして、太っているという訳ではなく、骨格が前後左右に大きいのだ。
本人は結構気にしている骨格の問題だが、汚染獣との戦闘と言う事となれば、別段何の問題も無い。
だがしかし、とても残念なことに、フランク自身認める通りに、戦闘能力は決して高くない。
小隊員を戦闘能力順に並べてみたら、下の方から数えた方が早いだろうと断言出来る程度の、ある意味居ても居なくてもさほど問題無い武芸者である。
そう。ただ一つの事実がなければ、汚染獣戦が連続するこの異常事態で、目立つべき存在ではないのだ。
「ほぉぉら。こっちおいでぇぇ」
今日の獲物は雄性二期が一体。
他に雄性体一期が三体いるのだが、それは第一中隊とレイフォンが片付けに行っているので気にしなくて良い。
そう。気にすべきはフランクに向かってまっしぐらに突っ込んでくる、羽根の生えた雄性体二期だけだ。
他にも武芸者はいる。
第三中隊は規定通りの人数がそろっているので、念威繰者を除いても二十人以上がこの戦場にいる。
にもかかわらず、何故か汚染獣はフランクのみを標的として、全く他に餌がないかのようにまっしぐらに突っ込んでくるのだ。
今回が初めてという訳ではない。
第三中隊が汚染獣との直接的な戦闘に参加したその瞬間から、何故かフランクだけを標的に目がけて突っ込んでくるのだ。
いや。幼生体との戦いでさえ、真っ先にフランクが狙われていた。
だからだろうが、今ではもう、兎に角フランクを餌にして汚染獣を釣るという基本戦術が固定してしまっているほどに、間違いなく真っ先に狙われるのだ。
当然、そんな状況が延々と続いたために、餌にされる方もしっかりと馴れてしまっている。
油断出来るほど神経が太い訳ではないが、それでも、間合いの取り方や回避のタイミングなど、かなり色々なことをその身体に刻みつけることに成功している。
そうでなければ、とっくに食われて死んでいるとも言えるが。
そして、その経験から判断した最善のタイミングで、右手を大きく振りかぶる。
手に持っているのは、二キロの爆薬を詰めた円筒形の物体。
持ちやすいように取っ手まで付いていると言う、親切設計の破壊兵器だ。
余計な動作をする必要はない。
ただ、大口開けてまっしぐらに突っ込んでくる汚染獣の、喉の奥に向かって四キロ近い円筒形の、金属の塊を投げつければよい。
手首に巻かれた部品から伸びる、遅延信管作動索が限界を超えたところで手投げ爆弾から抜ける。
そうすると、僅かに五秒後に信管が作動するという寸法だ。
五秒と言っても、武芸者が活剄を使って投げるのだから、いかに四キロの重さがあるとは言っても、それは時速百キルを超える速度を実現する。
結果的に、汚染獣の喉の奥でいきなり二キロの爆薬が炸裂し、円筒形を形作っている金属片を高温高速でばらまく訳で、それはもうかなり手ひどい打撃となる。
そんな事を考えている間にも、身体はきっちりと仕事をこなし、作動索が抜けた手投げ爆弾が、回転運動をしながら迫り来る汚染獣の、口の中へと消えていった。
それを見届けた次の瞬間、フランクは全力の旋剄を横に向かって発動させた。
一秒にも満たない時間の後、猛烈な質量をもった雄性二期の汚染獣が、大地をその顎で削りつつ通り過ぎて行く。
どんなに数をこなしても、この瞬間に冷や汗が背中を流れることを止めることは出来ない。
そして、通り過ぎた汚染獣は、自分が捕食にしくじったことを認識して、再び空中へと舞い上がろうとしたまさにその瞬間、くぐもった爆発音と共にその巨体を一瞬痙攣させて、完全に動きを止めた。
こうして創り出された好機を逃す訳がない。
第三中隊の全員の総攻撃で、羽根と足がもぎ取られる。
汚染獣戦で最も重要なことは、どの時点で機動力を奪えるかと言う事だ。
空中を飛ぶ羽根と、地上を高速で移動出来る足を失えば、戦線を突破されてツェルニに被害が出る危険性を極限まで少なくすることが出来る。
フランクという囮がいるからこそ、この戦術を基本として第三中隊は戦っているのだが、考案された時点では最も使えないと評価されたりもしていた。
最も重要となる囮を、人間側が特定させられないからだ。
一人で戦場に出ているレイフォンだったら、別段問題はなかった。
あるいは、帰還しないことを前提とした特攻だったら、こちらも問題はなかった。
だが集団戦で、二十人以上いる状況下で、誰か一人だけを囮として人間側が特定させることは、非常に困難だとされた。
今だって困難だ。
フランク自身、何故自分が最も先に襲われるのか分からないし、おそらく汚染獣以外には誰も分からないだろう。
もしかしたら、食べ物の名前を持ってしまっているから狙われるのかも知れないが、確定する方法が無い以上はどうしようもない。
だが、状況がこうなっている以上、それを使わないという選択肢こそ存在していない。
なので、毎回毎回、怖いのを我慢して汚染獣に食われる寸前まで引きつけ、決定的とは言えないが、有利に戦いを進めるために一撃を見舞うのだ。
そして、その忍耐の一撃は今回も有効に働いてくれたのだった。
出来れば誰かに変わって欲しいのだが、どんな要素が汚染獣を引きつけるのか分からない以上、フランクの寿命が尽きるまではこの仕事をこなし続けるしかないだろう。
九割方の諦めと共に、フランクも汚染獣の足を一本奪い、更なる攻撃のために指揮官の指示を待つのだった。
戦闘を終えて帰ってきたフランクは、いきなりの提案におののいてしまっていた。
それ程長い時間を生きてきた訳ではないのだが、こんな提案をされるなどとは思いもよらなかったのだ。
「映画ですか?」
「はい。映画です」
生徒会長の秘書の一人が、律儀に返答をしてくれた。
見た事もない美人という訳ではない。
ちょくちょく見ているので、見た事がないと表現することは出来ないのだが、それでも、これだけ間近で見るとなると話が違ってくるのも、当然の事実ではある。
まあ、それは置いておくとしても。
生徒会長自身が、並み居る候補者を薙ぎ倒して今の地位を手に入れたというのは、あの当時のことを知る人間だったならば常識的な知識と言える。
では、その秘書はどうなのだろうか?
実はこれには、幾つか有力と思われる説が存在していて、定説というのはない。
定説はないのだが、目の前に佇む長身の美女を見ていると、カリアンと同じように周りを薙ぎ払って今の地位を手に入れたのではないかと、そんな結論に到着してしまいたくなってしまう。
だが、問題はそこではないのだ。
「俺を主役にした映画なんて作って、なんか意味あるんですか?」
「有ります」
そう。よりにもよって、フランク・タコスを主役とした映画を作りたいと、生徒会から打診を受けたところなのだ。
コメディーだったら話はまだ分かるのだが、秘書の表情からすればどうやら違うと判断できてしまう。
そして、見た目がそれ程良くないフランクを題材とする以上、恋愛物である確率も極めて低い。
そしてツェルニの置かれたこの状況。
「俺が戦うところを、適当に編集して映画を作ると?」
「実写映像は使わないつもりです。ですが、題材が貴男であることだけは確実ですので、許可を頂きたいと」
「はあ」
つまりだ。プロパガンダとは少し違うだろうが、都市民の精神を安定させるための、娯楽作品の題材になれと言っているのだ。
それならば全てに納得が行く。
この危機的状況の中でも、汚染獣を効率よく倒すための方法が存在していて、事実それで戦果を上げているというのは、宣伝方法を問わずに有効な戦意高揚の手段となるだろう。
なるだろうが。
「俺の顔出して、みんながっかりしませんかね?」
問題はそこだ。
フランク自身が認めるところだが、決して顔が良いという訳ではない。
悪くはないが、せいぜいが平均的な作りをしていると自己評価を下している。
例えば、第十七小隊のように、美形揃いだったら何の問題も無いのだろうが、フランクは決して美形ではないのだ。
だが、やはり生徒会とは魔王の住まいし場所だった。
「それは大丈夫です。実写映像は使いませんので」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。成る程」
最初に言っていたではないか。
実写映像は使わないと。
登場人物についてもそれは同じなのだ。
納得は行かないが、理解は出来る。
そして、ツェルニの状況で最も重要なのは、都市民の安全と安定を守ることだ。
ならば、フランクは自らのちっぽけな自尊心を粉砕してツェルニのために・・・・。
「・・・・・・。えっと」
「ちなみに」
「拒否は認められないんですね。分かります」
「ご理解頂けて恐縮です」
話の筋からすれば当然のことだ。
そして、目の前の美人秘書さんは、恐縮と言いつつ全く悪びれた様子がない。
やはり、噂通りに今の地位を力尽くで奪い取った人なのだと言う事が確信できた。
この認識を得られたことと、それなりの報酬を引き替えにフランクは自尊心や誇りを悪魔に売り渡したのだった。
雄性一期を二体仕留めて帰ってきたレイフォンだったが、その心に一切の高揚感はなく、ただただ疲労を覚えるだけだった。
だが、ツェルニに帰ってこないという選択肢も存在しないし、何よりもメイシェンの様子が気になってもいる。
徐々にではあるが、中隊の戦闘力が上がってきているために、レイフォンの負担が減ってきているという事実は嬉しいのだが、それでも長期的には確実にツェルニは追い詰められる。
戦力を補充する術が存在していないというのもそうだし、学生のみで運営されているために、戦いそのものに恐怖を覚えてしまう生徒も少なくない。
グレンダンでもたまにあった事態だが、ツェルニでは深刻さの度合いが違う。
中隊構成員に、その手の精神疾患が現れていないのは、せめてもの幸いである。
連続する避難警報はむしろ、一般生徒への精神的な負担を増加させ続けているのだ。
そしてその最も深刻な生徒の一人が、メイシェンである。
本来のメイシェンも、それ程強い人ではなかったのだが、ナルキが行方不明となったために、精神的な疲労は恐ろしいほどの速度で進行してしまった。
レイフォンに何か出来ることはないかと考えているのだが、一緒にいる時間を増やすことさえ危険である。
そう。レイフォンは戦う側の人間なのだ。
都市の外へと出て行き、そして帰ってこないかも知れない人間なのだ。
扉を閉める姿を見たら、それが最後かも知れない。
そこにかかる重圧は、おそらくレイフォンが考えるよりも遙かに大きいのだろう。
そうなると頼みの綱は、ミィフィとリーリンと言う事になるのだが、リーリンは兎も角ミィフィもあまり余裕のある状況では無くなりつつあるらしい。
それはそうだとレイフォンも考える。
汚染獣との戦闘が頻発するグレンダンで生まれ育ったリーリンならば、ある程度の慣れが存在する。
だが、汚染獣との戦闘をあまり経験しないヨルテム出身のミィフィには、力を抜くための慣れが存在しない。
これは決定的な違いである。
「どうしたら良いだろう?」
「・・・・・。帰ってくるなり僕にその質問をすると言う事は、お前さんも相当追い詰められているな」
目の前に座っているのは、レイフォンからすれば神とさえ言える、ツェルニ屈指の頭脳労働者であるウォリアスだ。
頬が痩せこけ、目の下に隈が出来て、更に肌に張りが無くなって、目だけが異様にギラギラしている不健康オーラを辺りにまき散らしている、同級生に頼るしか無いのだ。
武芸者自体はまだ戦えるが、ツェルニのインフラを支える一般生徒にダメージが蓄積しつつある現状を、何とかしなければならないと活動しているせいで、この数日で急速に不健康になってしまった。
物理的な話ではなく、精神的な問題であるため、決定的な解決策が存在していないのが大きいという話も聞いている。
忙しいのは分かっているが、レイフォンがと言うよりもメイシェンを何とかして欲しいのだ。
本当に、戦うことしかできないレイフォンには、どうすることも出来ないのだ。
「既に手は打ってあるんだけれどね。問題はリーリンで」
「? リーリンが?」
「ああ。リーリンが、だ」
何故ここでリーリンの名前が出てくるのかが分からないが、それでも、きっとなにやら複雑な事情が存在しているのだろう事は分かる。
どんな事情があるのか疑問ではあるが、ウォリアスは待ってくれなかった。
「それと、お前さんの覚悟だ」
「どんな覚悟?」
いきなり覚悟と言われても途方に暮れてしまう。
戦う覚悟も、戦場で死ぬ覚悟も既に出来ている。
死にたい訳ではないが、それでも、死んでしまう覚悟は出来ているのだ。
だが、不健康を煩った同級生から出てきた言葉は、レイフォンにとって許容できる内容の物ではなかった。
「メイシェンを孕ませる」
「却下」
廃都市探索後に明言しているというのに、ここでまたその話題を持ち出したウォリアスを睨むが、だが、すぐに押し負けてしまった。
それ以外の方法がないのだと、その視線が訴えているから。
「ちなみにだが」
「う、うん」
レイフォンが視線をそらせたのを、考慮の余地があると正確に判断したらしいウォリアスが、言葉を続ける。
そして、それはレイフォンに覚悟を決めさせるべき力を持っていた。
「レノスからもってきた」
「何を?」
「一般人が武芸者を出産した際に、起こりうる心身の障害についての治療記録」
「・・・・・・」
「万全だとは言わないけれど、ヨルテム程じゃないと思うけれど、それでも危険率はかなり低くなる」
ウォリアスはやはり違うと、改めて認識した。
一般人が武芸者を生んで健康を損ねる危険性は、極めて小さい物だ。
その極小の危険性に備えて、レノスから医療データを持ってきたウォリアスの思考を、レイフォンは理解することが出来ない。
理解することは出来ないが、それでも感謝はしている。
今にも壊れるかも知れないメイシェンを、何とか支えることが出来るのだから。
「・・・・・・・・」
そこで思考が止まる。
止まってしまう。
「子供をどうやって作るかとか、その辺の情報もあるけど、いるか?」
「・・・・。一応知っているつもりだよ」
「それは何より」
返事を返しはした物の、実際問題としてそれが出来るかと聞かれると、とても疑問である。
交差騎士団との関わり合いの中で、色々と不良中年達に教えて貰ったのだが、それを実戦の場で使えるかどうかとなると、かなり疑問である。
訓練と実戦が違うのは、何も汚染獣戦だけではないのだ。
だが、やらなければならないのも確かなことだ。
覚悟を決めろと言うのは、このことだったのだと理解したレイフォンは、今まで感じたことがないほど重い身体を何とか持ち上げて、不健康に支配されつつある部屋を後にした。
一体何時以来ここには来ていないのだろうかと、レイフォンはどうでも良いことを考えつつ、その扉を開けた。
メイシェン達が三人で住んでいるアパートと呼んで良い部屋だ。
前回訪れたのは、ハイアを廃棄物へと変えた少し後だった。
暴走したツェルニが汚染獣の群れへと突っ込んで行く、少し前の話だ。
わずか一月ほど前のことだというのに、扉を開けたその場所の雰囲気はずいぶんと変わっていた。
夜と呼べる時間が始まって暫く過ぎている部屋の中は、当然の様に灯りが点けられていた。
僅かに暖色を帯びた光に照らされる部屋の眺めは、記憶にある通りのはずだ。
家具の配置などは全く変わっていない。
それでも、この部屋は別な空間となっているように、レイフォンには思えた。
以前は掃除が行き届き、常に何かお菓子を作っているような甘い香りに支配されていた。
部屋もどことなく明るかったし、何よりも空気が決定的に軽かったように思う。
だが今、この部屋を支配している空気に溶け込んだ匂いは、なんなのだろうかと疑問に思う。
知らない匂いではない。
いや、むしろ慣れ親しんだ匂いだ。
「メイシェン?」
思えば不義理を働き続けてきた。
メイシェンが精神的に打ちのめされていると言う事を知りつつ、それに関わろうとしてこなかった。
リーリンやミィフィに任せきりにしていた、そのツケを支払わなければならない。
例え罵られたとしても、それを受け止め続けなければならない。
もっとも、メイシェンが罵る姿を想像することは出来ないが、それでも覚悟だけは決めておく。
そうすれば、心の痛みを幾分和らげることが出来るから。
「・・。レイフォン?」
空気が動いた。
その揺れと表現できる動きの元は、ソファーに座っていた。
呼吸以外の殆どを停止していたメイシェンが、ゆっくりと身体を起こす。
「メイシェン」
そして、その姿に準備していた覚悟が吹き飛ばされ、鋭く強烈な痛みが胸を襲う。
何処を押しても柔らかくて、とても甘い匂いがしていた少女の面影はすっかりと消え失せていた。
怯えてやつれた、まるで屍のような姿となって、ゆっくりと表現するにはあまりにも非力な動作で立ち上がる。
その瞳に光はなく、ただひたすらにレイフォンを見詰めるそれは、あまりにも無気力だった。
そして、やっとの事で理解できた。
この部屋を支配しているのは、恐怖の匂いだと。
汚染獣との戦いの後、武芸者から漂うそれと、何ら代わりがない恐怖の残り香だ。
つまり、メイシェンは、ここで戦っているのだ。
迫り来る全ての物と、逃げる事さえ出来ずに、ただの一人で。
「ただいま」
「・・。おかえりなさい」
底まで考えて、やっと絞り出した言葉だったが、返ってきたのはやはり無力な言葉の羅列だった。
ここまでメイシェンを追い詰めてしまった原因は、廃貴族という不可思議な存在だが、結果の何割かにレイフォンの不義理がある。
精算しなければならない。
だが、どうやって?
そこで思考が止まってしまう。
確かに、メイシェンがレイフォンの子供を身籠もれば、その子供を支えとしてこの先、生きて行くことが出来るかも知れない。
だが、それは本当にレイフォンが精算したと言えるのだろうか?
いや。それは本当にメイシェンのためになっているのだろうか?
そう考えてしまったレイフォンは動けない。
ここに来るまでに、色々と覚悟を決めてきたはずだというのに、土壇場になってしまうと何も出来ない。
だからと言う訳ではないだろうが、先に動いたのはメイシェンだった。
無力で緩慢な動作でゆっくりとレイフォンに近付き、そして胸に向かってその小さな手を伸ばす。
更に身体全体が、力なくレイフォンの身体に寄りかかる。
「やっと、帰ってきてくれたね」
全身でレイフォンにしがみつくようにしながら、そう言われた。
それは、罵られるよりも遙かに強烈な一撃となって、レイフォンの胸を打ち貫く。
帰ってきたら、遊びに行こうと言っておきながら、戦いが続くことを口実に自分の部屋にさえ戻らなかった。
ナルキが行方不明になったことさえ、ミィフィに伝えて貰って直接会うことを避け続けてきた。
その結果がこれなのだ。
そっと、壊れないように細心の注意を払いながら、両手を広げて小さくなってしまったメイシェンの身体を抱きしめる。
「遅くなってごめん」
「帰ってきてくれたから、それで良いよ」
何もせずとも、そこにいてくれるだけで良いと、メイシェンは言ってくれたが、それでは全く駄目なのだ。
何かをしなければならない。
だが、レイフォンに出来ることなど戦うことだけ。
それ以外は本当に、何も出来ないのだと思い知らされた。
それでも、出来ることが無くても、一緒にいる事は出来るのだと、その意志を声に変えて絞り出す。
「今夜は一緒にいられるよ」
「うん。ご飯作るね」
そう言いつつ身をよじって、レイフォンから離れようとする。
離すまいとして、ほんの少しだけ抱きしめた腕に力を込めた。
「一緒に作ろう」
「・・。うん」
暫く抵抗しようとしていたが、それでもレイフォンの提案に乗ってくれた。
そっと、力を抜こうとして異変に気が付いた。
自分の力で立っていない。
驚いて慎重に身体を動かして、メイシェンの様子を確認する。
「メイシェン?」
返事はなかった。
代わりに、少し苦しげな寝息だけが聞こえた。
ただ、レイフォンの服を掴んだ小さな手だけは離していない。
ふり解くことは簡単だ。
簡単だが、今のレイフォンに出来ようはずは無いが。
おかしな気分だ。
強力な汚染獣を平然と殺す力がありながら、女の子一人満足に救えないレイフォンがでは無い。
人が生きて行くには、あまりに過酷なこの世界が今も続いていることに、少しのユーモアを感じたのだ。
そして、ふと疑問に思う。
「この世界に神とか悪魔とかがいたら、僕達を見てなんて言うだろう?」
灯りに照らされた部屋の外、窓から僅かに覗く月を見詰め、ふとそんな疑問が浮かんだ。
必死に足掻いているのを嘲笑うだろうか?
それとも、もがき苦しんでいるのを見て笑うだろうか?
淡々と、見える物を受け入れそれを情報として処理してしまうのだろうか?
世界を見詰める存在のことなど、レイフォンには分からないが、少しだけ疑問に思ったのだった。
後書きに代えて。
と言う事で、ある意味ターニングポイントを迎えました。実際に迎えているんですよ? 俺が書かないだけで、この後きちんとターニングをポイントしているんですよ。
ちなみに、途中で不義理という単語を使いましたが、この使い方が正しいかどうか疑問だったりします。あるいは、もっと適切な単語があるのだろうか? どなたかご存じでしたら教えてください。
さてサツマイモ。
炊飯器に芋を並べて、水を百CCほど注ぎ、ふたを閉めてからスイッチオン!
もちろん、綺麗に洗っておく事は当然ですね。
できあがりは、少し水っぽい焼き芋って感じでした。
時間が経って冷めてしまったので、電子レンジのトースター機能で十分ほど加熱して食べても見ましたが、こちらの方が感覚的に美味しかったかな?
まあ、なんにせよ、この後しばらくはおかしな料理はしない予定ですのであしからず。
さて、誤字脱字を修正した奴を上げていたんですが、現在さらなる修正を加えなければならない状況になっていまして、少々へ込んでいます。
なぜならば、外縁部を、外縁部と書き続けていた事に気がついたから。
さて、一体どのくらいの間違いがある事やら。