つい先ほど、刀刺青男との激闘を終えたナルキだったが、今は遙かに恐るべき敵と向かい合っている。
いや。既に日が昇っているから、つい先ほどという表現は、かなり無理があるだろう。
だが、現実に立ち塞がっている問題は、断じて表現上の問題ではない。
「お前は馬鹿だ」
「済みません」
「ああ? 分かってるのかてめえは? 自分と相手の力量差も分からずに突っかかっていって、ろくに使えもしない技を使って自滅しただと? その頭蓋骨の中には何も入ってないんだな」
「そうかも知れません」
「レイフォンみたいに、剄脈が入っているんだったらまだしも、空っぽじゃ飾りにもならねえ!!」
建物の屋上で回収されたナルキだったが、即座に病院に搬送されてしまったそうだ。
そして、急性の剄脈疲労で入院となったわけだが、回収にも立ち会ったイージェが付き添いをしているわけだ。
そして、勝てない相手に無謀に挑みかかり、無様な敗北を喫したナルキは現在イージェから説教を食らっているところである。
既に三十分ほども続いているが、終わる気配は全く無い。
「サイハーデンは生き残るためにあるんだ。死にに行くためにあるんじゃないんだ」
「はい」
しかも、非常に珍しい事にイージェの言う事は、凄くもっともなのである。
それだけ、今回のナルキの行動は危険だったと、そう判断されているのだ。
そして、それはナルキの方にも異存はない。
危険だと言う事は、最初の一撃を受けた瞬間に分かった。
それでも深追いしてしまったのは、自分の実力を過信したからと言うわけではない。
フォーメッドを狙われたからと言うのもあるが、それと同じだけ、警官としての義務感がナルキに無謀な追跡をさせたのだ。
もし、あの刀刺青男に、僅かでも害意が有れば、ナルキは既にこの世には居ない事は間違いない。
それは十分に分かっているのだ。
「ああ。それ以上罵るとこの後使い物にならなくなると思うんだが」
「ああ? この頭蓋骨空っぽ女になんか使い道があるのか?」
一応仲裁に入ってくれたフォーメッドだったが、こちらも瞬殺されてしまった。
そして、この瞬間でさえ、ナルキに反論の権利など無い。
だが、猿から女に格上げされた事は嬉しいかも知れない。
「・・・・・・・。違う」
断じて違う。
何処をどう取っても、断じて違う。
「ああ? まさかその中、何か入っているのかぁぁ?」
「脳みそが耳かき一杯分くらい」
「・・・・・。それはずいぶん立派な中身だ」
咄嗟に反論してしまったためだろうが、今まで全力疾走していたイージェが急制動をかけた。
だが、そろそろもう少し建設的な方向へと進まなければならない。
「それで、逃げた男なんだが」
「左目の所に刺青があったんだったか?」
そう思ったのはイージェやフォーメッドも同じだったようで、やっと話が前に進む。
とは言え、大して有益な情報は持っていない。
一通りの話を終えたが、二人の表情は苦いままだ。
「刺青で刀で、サイハーデン」
「赤毛で語尾にさを付ける」
「年齢は、私達とあまり変わらないかと」
ツェルニの学生だと言われても、さほどの違和感はない。
だが、それは武芸者としての能力を無視した場合の話だ。
武芸者としては、明らかに学生レベルを超えている。
ある意味レイフォンに非常に近い印象を受ける。
そんな非常に優秀な武芸者が、何で違法酒なんかに手を出したのか疑問だが、それでも事実として存在しているのだ。
「まあ、昨日の夜捕まえた奴らを絞って吐かせるさ」
フォーメッドがそう言いつつ部屋を出て行く。
徹夜明けのはずではあるのだが、そんな物お構いなしに仕事に邁進するその姿に、思わず憧れの視線を投げてしまったほど凛々しい。
目の前で、憮然とした表情をしている割に、戦い以外では殆ど役に立たない武芸者よりは、遙かに尊敬に値する。
流石に、この評価を表に出すわけには行かないので、少し気になっていた事を訪ねる事にした。
「サイハーデンって、そんなに門下生って居ないんですよね?」
「・・・ああ? そうだな。基本的に零細武門だからな」
若干の合間の後答えてくれたイージェだったが、違和感を感じた。
本来、自分の流派を零細だなどと言うのはあまり心地よい事ではない。
だが、そんな一般常識がイージェに、サイハーデンに通用するはずはないのだ。
弱者が作り上げてきた、ある意味卑怯な流派であるサイハーデンは、隆盛を誇ってしまってはその存在意義を大きく失ってしまうのだ。
別に卑下する必要はないが、零細である事を誇りに思っても何ら不思議ではない。
だと言うのに、イージェの反応が気にかかる。
「さっきも言ったが、サイハーデンは生き残るための流派だ。そしてそれは都市に住み着いている武芸者にはあまり受け入れられないが、流れ者の武芸者、傭兵にとっては十分に重要な項目になる」
「戦いで生き残れないと、報酬とかもらえませんからね」
都市に住み着いている武芸者ならば、自分が死んでも都市から報奨金が遺族に支払われる。
だが、傭兵の場合はどうだろうか?
詳しくは知らない。
そもそもヨルテムが傭兵を雇ったという話は、聞いた事がない。
レイフォンのように、事情がある場合はこっそりと雇うらしいので、公になる事は滅多にない。
ナルキが知らなくても、これは問題無い。
「俺の経験から言うと、報奨金払うくらいなら死んでくれた方がましだ。って都市が多かったな」
「・・・・。グレンダンでも?」
「ああ。あそこは特に金が無いから、死んだ傭兵の葬式だって、年に一回まとめてやるという徹底ぶりで」
「うわ」
聞けば聞くほど、グレンダンという都市は弱者にとっては、住みにくい場所である事がはっきりしてくる。
そんな恐ろしいところで、最強の武芸者となったレイフォンは、やはり異常者なのだろうと少し納得もしたが。
「・・・。つまり、傭兵だったらサイハーデンを使っていても、不思議ではない?」
「全ての技を修めたかどうかは別として、囓っていても不思議じゃないな」
ただの傭兵だとは思えないが、イージェの見解にはそれなりの説得力があるような気はする。
と言う事で、昨晩の刀刺青男が傭兵という前提で考えを進めてみる。
「違法酒の一味に、用心棒として雇われたと考えるのが妥当でしょうか?」
「あの逃げっぷりからすると、そう考えるのが一番しっくり来るな」
もし一味だったら、取り囲まれた状況でああも徹底的に逃げたりはしないだろう。
せめて戦うふりくらいはするはずだ。
「だがな」
「はい?」
そこまでナルキが考えたところで、イージェがなにやら考え込みつつ視線を彷徨わせている。
心当たりがあるというわけではないが、何か引っかかる事があるようだ。
「デルクのオッサンから聞いたんだがな」
「グレンダンですね」
「ああ。それとそろそろ敬語は辞めろ」
「・・・。分かった」
イージェの変な習慣として、やたらと敬語を嫌うのだ。
使われるのは嫌いだし、自分が使うのも嫌いという、社会不適合者である。
だが、今その辺を突っ込んでも全く意味がないので、話を先に進める事とした。
「兄弟子が都市外に出たって事は言ったよな?」
「幼生体戦の後に」
あの時は、ウォリアスがなにやら考えついてしまったようで、色々と後始末が面倒だった。
だが、今のところイージェ側の話が見えない。
「リュホウと言うそうなんだがな、その兄弟子」
正確な名前を聞くのは初めてだが、未だに話の筋が見えない。
話から想像するリュホウは、明らかに老年に達しているはずである。
昨晩ナルキが見た青年ではないはずだ。
「もし、そいつの弟子かなんかだったら、継承者と呼べるかも知れないな」
「・・・・。つまり、イッチャンやレイとんと同じだと?」
当然だが、イッチャンというのはイージェの愛称である。
当然だが、ミィフィの命名である。
「ああ。デルクのオッサン曰く、自分よりも伝承者として相応しかったのがリュホウだそうだから、その弟子となったらナルキが勝てないのも納得だと思ってな」
イージェはそう言うのだが、ナルキからしてみると少し話が違う。
ナルキはまだ、サイハーデンの技を全て修めているわけではない。
いわば、まだ継承者と呼ばれるほどではないのだ。
もし、継承者と呼ばれるサイハーデンの使い手がいれば、ナルキは確実に負ける。
だが、少しおかしいとも感じていた。
イージェが何時もと違って真面目すぎるのだ。
これは、かなり深刻な違和感と言える。
だが、意識がもうろうとしてきたのも事実だ。
なにせ、かなり強力な武芸者と対峙して剄脈疲労を起こしている上に、脛骨に罅が入っているのだ。
回復のために睡魔に襲われても、何ら不思議ではない。
何か考え込みつつ部屋を出て行くイージェを見送りつつ、ナルキは瞼を閉じた。
昨日の夜は、オカマ警官に絡まれるという、人生始まって以来の大惨事に見舞われたハイアだったが、何故か未だに大惨事に見舞われている有様である。
いや。正確を期すならば惨事と言うほど深刻ではない。
相棒であり幼馴染みであり、更に団員でもあるミュンファの機嫌がすこぶる付きで悪いだけだから。
心当たりは全く無い。
更に、問い質したところで不機嫌が増すばかりだという奇妙奇天烈さである。
鉱山での採掘作業があるためだとかで、休日だと言うことで朝早くから遊びに出ている若い連中であふれかえっている町中で、いい加減この空気を改善すべくハイアは元凶へと声をかけることとした。
「ミュンファさぁ? いい加減にしないとオレッチ怒るさぁ?」
「ハイアちゃんの馬鹿」
「団長と呼ぶさぁ」
何故か不明なのだが、機嫌が悪かったり感情が高ぶったりすると、ミュンファはハイアのことをちゃん付けて呼ぶのだ。
何度注意しても直らない癖で困っているのだが、団員はおおむね理解しているようで誰も気にしていない。
気にしているのはハイアだけである。
「まったく。あのオカマに絡まれてからこちら、ろくな事が無いさぁ」
「オカマじゃないもん」
そしてもっとも奇っ怪なことと言えば、ミュンファがあのオカマは女だと主張していることなのだ。
あれが女であったら、世の中に男など存在できなくなると思うのだが、ミュンファは違う意見を持っているようだし、もしかしたらハイアが気が付かないだけで本当は女かも知れない。
まあ、そんな事は今はどうでも良い。
日が昇ったツェルニの町をだらだらと歩きつつ、視線を適当に飛ばす。
普段は頭の隅へと放り込んでいるが、ここにはサイハーデンの使い手であり、そして元天剣授受者が居るのだ。
デルクの弟子が天剣授受者となったと聞いた時、養父のリュホウがとても嬉しそうだった姿を、今でも明確に思い出すことが出来る。
外への憧れが強く、グレンダンを出ることを決意した時、サイハーデンの伝承者をデルクに押しつけてしまったと、そう後悔しているところを見たのも、一度や二度ではない。
その後悔の重荷を、少しでも軽くしてくれたデルクの弟子には感謝しても良いと思うのだが、残念なことにとてもそうは考えられない。
リュホウの後悔を晴らすことが出来るのは、その息子であるハイアでなければならなかったのだ。
ハイアがグレンダンにいたのならば、天剣授受者となったのは自分だったと信じている。
リュホウの弟子はデルクの弟子よりも強い。
そう。ハイアはレイフォンよりも強いと信じているのだ。
そう信じているからこそ、レイフォンへの感情は複雑な物へと変わり、ツェルニに来ることとなった今回の事件に対する態度も、色々と複雑になってしまっているのだ。
これではいけないと思うのだが、割り切ることなど不可能。
このもやもやした感情に決着を付けたい。
簡単な方法として、直接レイフォンと戦えばいいのだが、サリンバン教導傭兵団結成の目的を考えれば、協力を仰ぐのが当然である。
ハイアの感情をねじ伏せてでも。
「っきゃ!」
そんな複雑怪奇な感情と現状の摺り合わせをやっていたために、周りへの注意力が不足気味となっていた。
本来有ってはならないことではあるのだが、人とぶつかってしまった。
無意識的な動作で避けて当然だというのにである。
この一事を取ってみても、ハイアの精神状況が平常から遠いことは間違いない。
そして、ぶつかった人物へと八つ当たり気味な視線を向ける。
相手は少女だった。
年齢はハイアよりも少し低い感じである。
長くて艶やかな黒髪をもった、とても大人しそうな少女である。
ぶつかった衝撃に耐えられなかったようで、なにやら色っぽい格好一歩手前で路面にへたり込んでいる。
とても小動物チックというか、良く知っている誰かに似ているし、思わず虐めたくなってしまうような、そんな感じの少女であったために、本当に虐めてしまうこととした。
「ああ? 何か用かさぁ?」
「あ、あう。す、済みませんでした」
まだ一言しか言っていないにもかかわらず、既に涙目である。
昨晩からのイライラが募っていたためだろうが、嗜虐的な気持ちが後から後からどんどんと沸き上がってくる。
別段、目の前で倒れている少女に対して何か悪い感情を持っているという訳ではないのだ。
あえて言うならば、虐めなれている感じであったために、自制心が働かないのだ。
そう。あまりにも突然の展開で対応が出来ていない幼馴染みで眼鏡な少女によく似ていたために、全くと言って良いほど自制心が働かない。
「さぁ? もしかしてオレッチに文句でもあるのかさぁ?」
「ひぅ。ご、ごめんなさい」
もはや泣きじゃくるまで後半歩の距離もないだろう事が伺える。
あまり手ひどく泣かれてしまっては、後味が良くないのも事実なので、そろそろ切り上げようかと思っていたのだが、それはある意味遅かったようだ。
「おい、見ろよ」「世も末だよなぁ」「あんな大人しそうな子を虐めているぜ」「しかも一緒に歩いている子が困っているのにだぜ」「実はあの子に頭が上がらないから、もっと大人しい子を虐めて喜んでるんじゃねぇのか」「最低な男って生き物を俺は今目撃しているんだな」
等々。
周りを歩いていた若い連中が、よってたかってハイアを批難しているのである。
しかも、ハイア自身あまり褒められた行動でないことを理解しているがために、非常に居心地が悪い。
更に、後ろからなにやら非難がましい視線というか、恨みがましい視線が来ているような気がしてならない。
ハイア・サリンバン・ライア一生の不覚かも知れない。
だが、行動のために使える思考の時間は殆ど無い。
なぜならば、暇な人間が周り中に集まってきて、巨大なゴキブリでも見るような視線でハイアを見ているのだ。
耐えられるはずがない。
「と、兎に角、来るさぁぁ!!」
「ひゃぅぅぅ!!」
色っぽく倒れ損ねた少女の膝裏と背中に手を入れて、そのまま持ち上げて全力疾走をする。
当然活剄は使っていないが、それでもその辺の人間が追いつけるような速度ではない。
実際、武芸者であるはずのミュンファが呆気に取られて置いてけぼりになる程度には、凄まじい速度だったのだ。
「あ、あう! ハイアちゃん待ってよぉぉ」
そう叫びつつ、押っ取り刀で後を追ってくるミュンファは、ずいぶん前に見ることが出来なくなった幼女のままだった。
場違いではあるが、その当時の、一緒にお風呂に入った頃を懐かしく思い出してしまったが、それも一瞬の出来事だった。
「お、おい! あいつ自分の女をおいていったぞ!」「それどころかぶつかって押し倒した女を連れ去ったぞ!!」「強姦魔だ。きっと常習的強姦魔に違いない!!」「都市警だ!! 都市警を呼んであいつをぶち殺すんだ!!」「俺達持てない男が必死に我慢しているってのに!! 自分の女を捨てて、新しい女を連れ去るなんて、神が許しても俺が許さん!!」
等々。
あのオカマ警官に絡まれてからこちら、ろくな事が無い。
いや。もしかしたらツェルニに来てからこちら、ろくな事が無いのかも知れない。
少しだけ自分のやっていることに自己嫌悪を覚えたが、それでも走る動作だけは止められない。
普通に考えても、都市警に突き出されてしまうからだ。
万が一にでも、またあのオカマ警官と遭遇したら、ハイアの精神は致命的な打撃を受けてしまうからだ。
と言う事で、徐々に活剄を使い走る速度を上げる。
当然、抱えている少女が死んだりしないように、細心の注意を払いつつ。
途中から活剄を使って持久力を上げ、かなりの距離を走破したハイアは、やっとの事で一息ついた。
肉体的には全くもって平気ではあるのだが、生憎と精神的には猛烈なダメージを食らってしまっているのだ。
モテない男の負の感情が、あれほど凄まじいとは思いもよらなかった。
そして、抱えたままだった少女をその場にそっと降ろす。
乱暴に扱うことなど考えも及ばないからだ。
基本的に生真面目なハイアは、一般人に対しては非常に親切に振る舞うことが多い。
今回は、非常にまれなケースだと自己弁護を試みる事は忘れない。
「大丈夫さぁ?」
「あ、あう」
何とか気を失っていないと言った程度の返事だが、兎も角コミュニケーション能力が存在していることは確認された。
これで、ろくに話しも出来ないほど取り乱されたりしたら、目も当てられないところだったと、胸をなで下ろしているところで、ふと、後ろから殺意の視線を感じた。
咄嗟に剣帯に伸ばしかけた手を止める。
その視線は、良く知っている人物のそれだったからだ。
「さぁ? どうしたのさミュンファさぁ?」
「・・・・・・」
ハイアの問いかけに帰ってきたのは、何故か殺意がきつくなる視線。
きつくなるとは言え、それは通常のミュンファと比べてのそれであり、平均的な基準ではないので、全く怖くない。
「兎に角、巻き込んで悪かったさ。適当なところまで送って行くさ」
「あ、あう」
ある意味、ミュンファと通じるところのある少女へと手を差し伸べる。
おどおどとした立ち居振る舞いから、迫力のない瞳、そして大きな胸に至るまで、結構よく似ている。
二人を並べたら、結構面白いことになるかも知れないと思いつつ、未だにへたり込んでいる少女の右手をやや強引に引っ張った。
こうでもしないと、何時までもここでへたり込んでいそうだったからだ。
だが!!
「は、はいあちゃん」
「団長と呼ぶさぁ」
いきなりミュンファが何か驚いた様子で、ハイアの腕にしがみつくように行動を止める。
その表情は、まさに鬼気迫るように必死であり、そして視線はとある一点を見据えている。
自然と、ハイアもミュンファが見ているところを見て、そして一気に全身の血が引くのを感じた。
「さぁぁぁぁぁ!!!」
「あうぅぅぅぅぅ!!」
「あう?」
そう。ハイアが掴んだ少女の右手は、見事に原形を留めていなかったのだ。
指は、まるで骨などと言う物が存在していないかのように、あらぬ方向へと曲がり、手首はこれでもかと言うほどにひねれてしまっている。
それは、肘に対しても言えることであり、やはり人間としては考えられない方向を向いているのだ。
結論はただ一つ。
「おお、折れてるさぁぁぁ!!」
「ハイアちゃんの莫迦ぁぁぁ!!」
珍しくハイアの方が取り乱して、現状をどうしようかとあらぬ方向を見回す。
応急処置を始めているミュンファとは偉い違いである。
その割に、黒髪の少女は落ち着いているように見えるが、これは当然あまりの激痛に現実感が無くなっているのだ。
兎に角現状を何とかしなければならないと、変な踊りを踊りつつ辺りを見回す。
「ど、どうするさぁぁ? こ、殺して口封じさ!!」
「ハイアちゃんの人でなし!!」
「じゃ、じゃあどうするさぁぁ!!」
「きゅ、きゅ、救急車ぁぁぁ」
「おお! その手があったさ」
珍しくミュンファから真っ当な意見が出てきたので、慌てて周りを見て電話などがないかを確認する。
居住区や商業区から外れてしまっているためだろうが、ボロアパートや空き家と言った使えそうもない物しか存在していないことを確認。
何処かの家に上がり込んで、電話を借りるという選択肢さえ絶望的である。
「さぁぁぁぁ!!」
「あうぅぅぅぅぅ」
これでは救急車を呼ぶことさえ困難である。
だが、事態は一気に進展する。
「やかましい!! ああ。お前ら! 俺が久々の休みで! 家でくつろいでいるのが気に入らないほど! 俺のことが嫌いか!!」
「さ?」
いきなり怒鳴られた。
しかも、学園都市にいるはずのない中年男に。
思わず、今まで焦りまくっていたのが嘘のように、急速に冷静さが蘇ってくるほどに、その事態は異常だった。
そして、その中年男が黒髪の少女を視界に捉えたことで、いきなり話が進展した。
「あう」
「なんだお前か。ああ? 今日の下手人はヴォルフシュテインじゃないのか?」
「あう」
「全く。お前らと関わるとろくな事がねえんだがな」
何故か黒髪の少女と中年男の間では、何の齟齬もなく意思疎通が行われている。
だが、問題としなければならないのはその事実ではない。
会話の中に出てきた固有名詞が、ハイアの中で急激に存在感を増しているのだ。
そして、その結果として驚愕して身動きが取れなくなってしまった。
よりにもよって、ヴォルフシュテインの身内を拉致してしまい、更に腕の骨を木っ端微塵にしてしまったのだ。
別段レイフォンとの関係などどうなっても良いと思うほどには、ハイアは割り切れていなかった。
「つうか、また外れたのか」
「あう」
「取り敢えず入れ。ただの脱臼だったら簡単に治せるから」
「あう」
更に、ハイアのことなどお構いなしに会話は進む。
そして、何の躊躇もなく少女が立ち上がり、中年男が出てきたらしいボロアパートへと向かう。
その動作は非力ではあっても、別段痛みをこらえている様子ではない。
そして、会話の中に聞き捨てならない単語が含まれていることを認識。
「だっきゅう?」
「ああ? 脱臼がどうかしたのか?」
脱臼である。
そして、改めて少女の右手を観察して、骨が砕けているのではなく、ただ単に関節が外れていることを認識した。
痛くなくても問題のない展開ではある。
だが、厳然として、とても大きな疑問が存在しているのだ。
いや。その疑問は既に存在していて今まで気が付かなかっただけである。
そう。ハイアはそれ程強く握っていないのだ。
それ以前に、肘が外れるほどの衝撃を少女に与えたという記憶さえない。
謎である。
だが、そんな逡巡をしている余裕はない。
中年男の一人住まいのアパートに、非力な少女が入って行こうとしているのだ。
万が一のことがあったら、流石に寝覚めが悪いので、その後に続いて歩く。
そして、扉を開けた中年男の後に続いていた少女の身体が、いきなり硬直した。
何かあったのかと思い、少し歩く速度を上げたハイアは、扉の向こう側に恐るべき物を見てしまった。
「あ、あう」
「・・・。地獄さ」
そこは一言で言ってしまえば、汚かった。
いや。もはや人間が存続することさえ不可能であると断言できるほどに、あらゆる物が散乱していた。
厚さ数センチの埃の下にである。
更に恐ろしい事実として、あちこちに足跡が残っているのだ。
埃を強制的に移動させて、その下にある物を取った形跡もそこここに垣間見える。
それはつまり、目の前の中年男が、この環境で生育しているという証である。
人類ではあり得ないと断言できるかも知れない。
「少し散らかっているが気にせずに入れ。死にはしない」
「あ、ぅぅぅ」
ハイそうですかと、入る訳には行かない。
誰かが生け贄となり、安全であることを確認しなければならないのだ。
そして、か弱い少女をこんな恐ろしい場所へ送り込む訳には行かない。
いくらレイフォンの関係者だったとしても、それとこれは話が別なのである。
振り返り、ミュンファを見る。
錬金鋼を復元して、ハイアを援護してくれるつもりのようだ。
いや。ハイアに何かあったら、この建物全てを破壊するつもりだ。
ツェルニと自分達の安全のために。
「早くしろ!!」
「さぁぁぁ!!」
選択肢は存在していない。
思い切って、恐るべき魔境へと一歩を踏み出した。
傭兵であるハイアにとって、不潔であると言う事はそれ程異常な事態ではない。
別段、ハイア個人の部屋が散らかっていたり汚れていたりする訳ではない。
ハイア自身の努力に寄らないという事実はあるが、それでも割とこぎれいな部屋に住んでいる。
だが、多少不潔だったとしても何ら問題無い。
目の前のこの惨状が異常なだけである。
「多少散らかっている程度で、人間は死なんから安心して入ってこいと言っているんだ」
「あんた人間さ?」
「人間だ。そして医者だ。更にここの学生だ」
「さ?」
立て続けに二つ、異常な言葉が中年男の口から零れ落ちた気がした。
ゆっくりと、そして慎重に足を踏み出しつつ男を観察する。
だが、医者であると言う事は否定できないが、学生であると言う事は全くもって疑わしい。
だが、それも、中年男が自分の学生証をハイアに見せた段階で打ち砕かれた。
テイル・サマーズと書かれたそれは、間違いなく目の前の中年男がここの学生であり、更に二十歳を少し過ぎたばかりであることを知らしめている。
偽物であると言う事も出来るが、よほどの事情がなければ全く意味がない。
つまり目の前の中年男は。
「トリンデン」
「あう」
「さっさと来い。さっさと治して俺の久しぶりの休日をこれ以上邪魔するな」
「あ、あう!!」
知り合いらしい少女が、恐る恐るとテイルの元へと近づき、そしてやはり恐る恐ると右手を差し出す。
それからは、まさに熟練の技を見せつけられるようだった。
瞬きする間に肘の関節がはめ込まれ、手首や指の関節もあれよあれよという間に、元の形へと戻されて行く。
脱臼だというのは本当だったらしい。
「ハイアちゃん」
「団長と呼ぶさぁ?」
信じられないほどの手際の良い復旧作業を眺めていると、突然後ろから声をかけられた。
そして、もう一人ここにいるはずの人物を視界に納め、そして疑問を感じた。
「そこ、どいて」
「さ?」
何処からもってきたのか全く不明だが、背負い式で巨大な業務用掃除機を装備しているのだ。
何時もおどおどしているその瞳は、これから戦いに赴くために鋭い光を放ち、ハイアさえ圧倒しそうな勢いだ。
だが。
「何をするつもりだ!! ここは先祖代々掃除をしていないんだ!! 今日を限りにこの居心地の良い部屋を!!」
「黙れ!!」
「っう!」
テイルを一喝して黙らせたミュンファが、掃除機のスイッチを入れる。
そして、傭兵団随一の掃除技能を遺憾なく発揮して、あまりにも埃にまみれた部屋を綺麗にして行く。
伊達にハイアの部屋を毎日掃除している訳ではないのだ。
ハイアがやらなくて良いと言っても、全くもって手抜きなどせずに掃除している訳ではないのだ。
この日、午前中の時間を全て使って、メイシェンと名乗った少女と共にミュンファは心ゆくまで掃除をした。
ハイアは、テイルが邪魔をしないように見張りつつ、邪魔にならない場所へと移動する以外には何もしなかった。
なぜか、非常に負けたような気分であった。