サヴァリスとの接触から既に十日。
何事も無く何時もの生活は続いていた。
違っているところと言えば、サヴァリスとリンテンスの気配を遠くに感じることくらいだ。
気配を感じると言っても、それはリチャードの特殊能力を持ってしても、おぼろげに感じる程度の長距離である。
これで、いざという時に間に合うのか著しく疑問ではあるのだが、レイフォンと同じ人外の化け物だというのならば、十分に間に合うのだろうと言う事は理解している。
不安ではあるのだが。
だが、実は問題は別なところにあるのだ。
「で? あんたは誰なんだ?」
「うん? 通りすがりの謎の美少女よ。これほどの美少女に話しかけられて、嬉しくないなんて事はないわよね」
そう言うのは、黒髪で長身の女性だ。
武芸者らしいことは間違いないのだが、それ以上のことはさっぱり分からない。
むしろ分かりたくないと本能が絶叫しているような気がするほどだ。
だが、事態はリチャードの思惑など知らぬげに突き進み、シノーラと名乗った美女は何故かリチャードと同じ方向へと歩いているし、話しかけてきているのだ。
これ以上いらない揉め事からは逃げるべきだと思うのだが、相手から接近して来る以上どうしようもない。
まあ、巻き込まれても、武芸者らしいからリチャードよりは役に立つだろうと割り切ることにする。
「美少女ねえ」
そんな内心をおくびにも出さずに呟いたのは、年齢的な問題についてだ。
明らかに二十歳は超えているだろう女性を、普通は少女などとは呼ばない。
まあ、美しいという表現を否定するつもりはないが、別段それはどうでも良いことだ。
それよりも問題は、むしろリチャードの記憶の中にこそ有る。
「シノーラ・アレイスラ」
「あら? 私の美貌ってそんなに有名だったのね!」
何故か疑問符ではなく感嘆符が付いている。
なにやら凄まじい自信があるようだ。
だが、リチャードにとって美人かどうかなどと言うのはどうでも良いことなのだ。
美男子であるサヴァリスに付きまとわれているために、幻滅しているというわけではない。
ずいぶん昔から、見た目の良い物に対して酷い抵抗があるのだ。
それは、一応美少年のカテゴリーに入るレイフォンや、美少女と言って良いリーリンに対しても言えることで、この二人に対してさえ僅かに引いた位置からしか接することが出来なかった。
と、それも今はどうでも良い。
「姉貴の胸を揉んでいたそうだけれど」
「うん♪ リーちゃんの胸って素敵だったわよねぇ。君もそう思わない?」
「俺に振るな」
確かに、リーリンの胸は凄かったと思う。
レイフォンがもう少しリーリンの気持ちに敏感だったら、とっくの昔に揉んでいたと断言できるほどに凄かった。
実際問題として、ヘタレなレイフォンにそんな事が出来るとは思っていないけれど。
と、また話が変な方向にそれてしまった。
「それで、俺に何の用だ?」
「うふふふ。お姉さんと良い事しない」
「他を当たってくれ」
相手がレイフォンだったら、面白いほど狼狽えるだろうが、リチャードは違う。
自分にそんな魅力がないことは、十分すぎるほどに熟知しているのだ。
ならば、何時も通りに切って捨てるだけで良い。
「えぇぇぇぇぇ! 色々と教えてあげるのにぃぃ」
「だから、他を当たれ。そしていい加減用事を済ませて俺から離れろ」
人通りはそれ程多くはないが、残念なことにシノーラは非常に目立つのだ。
最終的にはリチャードも同じカテゴリーの変人としてみられているような気がして仕方が無い。
周りの視線が、徐々に生暖かくなってきているし。
「うふふふふふ。そう言うストイックなところが素敵」
「・・・・・・・・・・・」
レイフォンが天剣授受者であったことが、信じられなくなりつつある自分を発見していた。
天剣授受者とは、超絶の存在だ。
その体内に宿した剄脈は都市一つを滅ぼすことさえ可能で、技量だけでもその辺の武芸者など足元にも及ばないはずの、まさに超絶の存在だ。
そして、そんな超絶の存在だからこそ通常の性格をしていてはいけないのではないか?
シノーラを見ているとそんな気がしてきて仕方が無い。
何でそんな事を考えたのか、全く持って疑問ではあるのだが、リチャード的にはそんな結論に飛んでしまったのだ。
そして、その基準で判断する場合、レイフォンは明らかに一般的で収まる精神構造をしていたと断言できる。
武芸に関する冷徹な態度も、デルクとそれ程隔絶しているというわけではなかったし、もしかしたら優秀な武芸者には多い傾向なのかも知れないが、それでも一般的で通用すると断言できる。
その前提に立って考えるならば、レイフォンは天剣授受者になるべきではなかったのかも知れない。
そんな事をふと思っているが、これもやはり話が横道にそれているだろう。
「色々と厄介ごとに巻き込まれているんだよ、俺は」
酷い疲労と共に言葉を吐き出す。
このまま家に帰って、布団を被って寝てしまいたいところだ。
デルクの食事の世話とかがなければ、間違いなくそうしている。
特にこの意味不明な生き物のために疲れているのだが、それを理解してはくれないだろうと言う事はきっちりと認識しているのだ。
「うふふふふ。若いのに苦労しているのね」
「兄貴と良い、親父と良い、常識と良識が欠如している連中ばかりだからな」
特にサヴァリスとか、シノーラとかがと言う台詞は何とか飲み込んだ。
天剣授受者であるサヴァリスのことを、見知らぬ人間に悪く言うのは気が引けたし、本人の前で非常識だというのもはばかられたからだ。
「ねえねえ。リーちゃんから手紙来てない?」
「姉貴から? きてるけれど」
どうやら目的はリチャード本人ではなく、リーリンの方だったようだ。
もしかしたら、シノーラに宛てて手紙なんか書いていないのかも知れない。
それを寂しく思って、こうして襲撃に来た。
辻褄が合う。
「もしかしてさ」
「ああ?」
「私に胸を揉まれたいとか、胸にすり寄ってきて欲しいとか、ああん! もしかして私のこの胸に! 豊満なこの胸に!! 死ぬほど埋もれたいとか書いてなかった?」
「・・・・・・。何処の天剣授受者だよ?」
サヴァリスと同じような反応を見せられて、一気に脱力してしまった。
もう少し、何か違う反応があっても良いのではないかと思うのだが、それは贅沢な望みなのだろうかと疑問に思うほどだ。
だが、当然シノーラはそんな事情など知るよしもなく、不思議そうにリチャードを見ている。
「天剣授受者って?」
「サヴァ。クォルラフィン卿が、兄貴の手紙にそんな事書いてなかったかって」
「っち! あの戦闘狂のニヤケ馬鹿が」
「?」
なにやら、サヴァリスを詳しく知っているようなことを言うシノーラの雰囲気がいきなり変わった。
むしろ、本性を現したと言った方が良いかもしれないほどに、猛々しい雰囲気を発散させている。
そして、唐突にある恐るべき危険性に気が付いた。
「・・・・・。まさかな」
だが、あまりにもあり得なかったので、それを脳内だけで処理してしまった。
目の前の物騒な生き物が、グレンダンの女王だなどと言う、恐るべき危険性を考えついただけで、リチャードは自分の脳が致命的に何か間違っているのだと確信できてしまうほどには、おそるべき危険性だった。
その恐ろしすぎる予測を何とか殴り倒して、取り敢えずリーリンに手紙を出すことを決めた。
シノーラにも連絡を取ってやってくれと言う、懇願の手紙をだ。
これ以上の揉め事は困るのだ。
平日の授業を終えたレイフォンは、意味不明な事態に直面して驚愕していた。
むしろ混乱していたと言っても良いだろう。
それはつい今し方フェリの念威端子経由でもたらされた情報だった。
「隊長とシャーニッド先輩が行方不明?」
『正確に言うならば、隊長の寮近くにある病院にいることは確認されていますが、それはあくまでも肉体がと言うことです』
「?」
いきなりこんな事を言われて、驚愕しない人間はいないだろうし、取り乱して視線があちらこちら彷徨っても、別段おかしな事ではないはずだ。
肉体を確認出来るのに、行方不明というのはさっぱり理解できないのだから。
なので、疑問の視線を念威端子へと飛ばしてみる。
『ゼロ領域を見て何か譫言を垂れ流しているようです』
「ゼロ領域って何ですか?」
訪ねた直後に思い出した。
ウォリアスの作ったパウンドケーキが、そのゼロ何とかに飲み込まれて、フェリの体重が増えたとか何とか。
そちらも全く意味不明だったのだが、更に訳が分からなくなっている。
『取り敢えず、精神崩壊と同義語だと思ってもらって、問題無いかと』
「それって、かなり問題なんじゃ?」
精神崩壊である。
普通に考えて入院だし、もしかしたら母都市への強制送還というのもあり得るはずだ。
断じて、今日の訓練が中止になるなどと言う、簡単な連絡の理由であってはならない。
と思うのだが、フェリは違うようだ。
『一日寝れば治ると、ドクター・サマーズが言っていますから問題無いかと』
「・・・・・・・・。それの方が問題では?」
医師であり、同じグレンダン出身のサマーズには色々と世話になっている。
訓練で怪我をすれば、ほぼ間違いなくシフト開け直前だし、居住区の方で何か問題を起こして病院に行けば、何故かそこで非常勤の仕事をしていたりする。
非常に因縁というか縁のある人物だ。
優秀な医師であることは間違いないのだが、それはあくまでも外科であり内科であって、断じて精神科ではない。
専門外の患者を扱うことは出来るはずだが、それでももう少し対応として正しい物が存在しているはずだと思う。
『問題有りません。消化器でもって二人を強制的に眠らせただけですから』
「・・・・・・・・・・・・」
聞かなかったことにしよう。
そう決意したレイフォンは、フェリに礼を言い終えると、今日これからどうするかと考える。
何しろ人付き合いが苦手で、狭い範囲でしか友達が居ないレイフォンの事だ。
誰かと連れだって遊びに行くなどと言うことはほぼ考えられない。
かといって、このまま寮に帰ってしまってはそのまま明日の朝まで出てこないだろう事が予測できる。
今夜バイトは入っていないから、間違いなく明日の朝まで寮を出ない。
それはいくら何でも不健康な生活であるのは、きちんと理解しているのだが、ならばどうするかという選択肢を思いつけない。
ウォリアス先生に特別授業をしてもらうというのも、ほんの一瞬考えたのだが、それはまさにほんの一瞬で消去した。
学生の本分とは勉学にあると言うが、頭を使うことが苦手なレイフォンにとって、それは出来れば避けて通りたい道なのだ。
最低限の常識や、頭を使うことを学習しなければならないと思うのだが、それでもやはり積極的には選べない。
週に二日有る休みの内、どちらかの午前中をウォリアス先生に取られているのだ。
これ以上休みが減ることは容認できないという現実もある。
考えてみれば、小隊単位の対汚染獣戦研究をかねた訓練と、特別授業で二日有るはずの休日は、半分は吹き飛んでいるのだ。
なんだかんだ言って、老性体戦からこちら、レイフォンはかなり忙しいのだ。
「にひひひひひひひ」
「うわぁぁぁぁ」
そんな思考をぶち壊したのは、揉め事大好き茶髪猫だ。
思わず飛び退りつつ、盾を構える。
「な、なんだ!」
レイフォンよりも少しだけ背が低くて、体重の大きな同級生を前方へと押し出しつつ、必死になってミィフィから視線をそらせる。
関わっては駄目なのだと本能が叫んでいるわけではないが、それでも条件反射的に防御行動を取ってしまうのだ。
「さあエド!」
「な、なんだ? どうした?」
「金剛剄を張ってミィフィの攻撃を阻止するんだ!!」
「俺は一般人だ! そっちの武芸者に頼め!」
「あ。そうか」
迷惑そうに、持っていたお菓子の箱を落とさないようにしつつも、必死の形相でレイフォンの腕から逃れようとする。
一瞬でも攻撃を防いでくれたのならば、レイフォンは逃げる事が出来るのだが、エドの言う事にも一理ある。
と言う事で、千斬閃を使ってナルキを確保。
「愚か者が!!」
「ぐえ!」
分身のレイフォンがナルキを本体の前へ持ってきた直後、振り返りざまに結構な威力の蹴りがやってきた。
思わず直撃を食らってその場にへたり込む。
ナルキの攻撃が来ることは、ある程度予想していた。
十分に受け止めるなり受け流すなり出来ると踏んでいたのだが、実際には直撃を受けてしまった。
少し見ない間に、ナルキの実力がかなり上がっていたのに気が付かなかった。
剄の総量と言うよりは、身体捌きがいきなり見違えるほどに速く、そして鋭さを増していたのだ。
これは驚きの真実だ。
「一々茶髪猫ごときに恐れおののくんじゃない! お前それでも武芸者か!!」
「武芸者かどうかは関係ないと思うけれど」
「なら、無闇に凄い剄技を安売りみたいに連発するな!!」
ナルキが絶叫するのも当然かもしれないと思う。
最近、ことあるごとに千斬閃や千手衝を使って楽をしているような気がする。
反省すべき事は反省すべきかも知れない。
鍛錬の一環と言えないことはないのだろうが、それでも流石に普段から使いすぎではあるかも知れない。
「にひひひひひ」
「う、わ」
「後ろを取ったぞレイとん」
そんなやりとりをしている間に、何時の間にかミィフィが後ろに回り込み、更に肩に手を置いていた。
これほど見事に後ろを取られたことは初めてだ。
天剣授受者さえ目指せるのではないかと思ってしまうほどだ。
ミィフィ・ヴォルフシュテイン・ロッテン。
悪くない名前のような気がする。
と、そんなどうでも良いことを脳の半分ほどで考えつつ、身体は猛烈な反応を見せていた。
具体的には、エドをミィフィに向けて押し出していたのだ。
とっさの事態で、蹈鞴を踏むエド。
何とかレイフォンの押し出しに耐えて、踏みとどまる事には成功したが。
「ほほう」
「な、なんでしょうか?」
当然、そんな状況になってしまった二人の顔は、異常なほど接近していた。
エドに夢中になっている間に、ミィフィから逃げるという戦術を考えたわけではないが、状況は最大限に有効に使わなければならない。
と言う事で、後ずさったのだが。
「待つよろし!!」
「うわぁぁぁ」
何故か、エドの向こう側にいるはずなのに、後ろからミィフィに声をかけられた。
慌てて振り返って見えたのは、スピーカーを持つナルキの姿だけ。
気配を探る暇さえなかったことが災いした。
未だにミィフィはエドの向こう側にいるはずだが、遅いのだ。
しまったと思った時には既に遅かったのだ。
右腕に感じる、一般人のはずなのに武芸者であるはずのレイフォンを完璧に拘束する掌を感じていた。
その膂力は凄まじく、とても振り解くなどと言う事は出来そうにない。
いや。それどころか、上腕骨を握りつぶされそうな勢いだ。
「さてレイとん。用件に入って良いかね?」
「あ、あう。どうぞ用件にお入り下さい」
もはや抵抗することは出来ない。
蛇に睨まれた蛙。
狼に睨まれた羊。
絶体絶命であり、現状を打開する手立ては存在していない。
「ふふふふふ。メイッチ」
「あ、あう?」
そして呼ばれたのは、何故かメイシェン。
何時もオドオドとした印象を受ける少女だが、この瞬間は事態に全く付いて行けない様子で、ミィフィとレイフォンを恐る恐ると見比べている。
だが、呼ばれた以上行動しないという選択肢は存在していないのか、恐る恐ると、石橋を叩いて渡るような足取りで、こちらへと近付いて来る。
「さあ。レイとん! メイッチを連れて行くのだ!!」
いきなりだった。
話の脈絡もなく、何の複線もなく告げられた台詞に、戸惑っているのはレイフォンだけではない。
だが、何とかリアクションを取らなければいけないのも事実。
なので、取り敢えずメイシェンに向かって行くべき場所を上げてみることにした。
「えっと? 歯医者?」
「違うよ」
「病院?」
「違うよ」
「買い物?」
「ちがうよ」
ぱっと思いつく場所を連続してあげてみたのだが、全てが外れてしまったようだ。
だが、他にメイシェンが行かなければならない場所というのは思いつけない。
そして、他に候補を挙げることが出来ないことを理解してくれたのか、やっとの事でメイシェンの目的地が明らかになった。
だが、それはある意味想像の外にある場所の名前だった。
「錬金科の建物」
「? 錬金科って、錬金鋼とか作っているところだよね」
「うん」
そして思い出した。
メイシェンが使っている包丁は鋼鉄錬金鋼だったと。
錬金鋼の調整や保守点検には、どうしても専門的な技術が必要だ。
ならば、錬金科の建物に用事があっても何ら不思議ではない。
「それと」
「うん?」
「屋台のアイスクリーム屋さん」
「成る程」
錬金科の建物の近くにあるのだろう、その屋台に寄ることも目的の一部なのだろう。
全て辻褄が合う。
そして気が付いた。
ミィフィも、意地悪でレイフォンに声をかけたわけではないと。
良く酷い目に合わされるので、とっさに先入観で行動してしまったのだと。
つい最近も酷い目に合ったばかりだし、それは仕方が無いことなのかも知れないが、今後はもう少しだけ慎重に行動しようと心に決めた。
「これ上げる」
「なに?」
そう考えたところで、ミィフィから何やらチケットらしき物をもらった。
なにやら、激しい原色で印刷されたそれは、割引チケットのように見える。
オスカーの食肉加工店ではない。
それにしてはデザインが派手すぎるのだ。
そして、それを渡したミィフィの視線が、獲物を捕らえた肉食獣のようになっていることに、この瞬間に気が付いた。
既に後の祭りである。
「二ヒヒヒヒヒヒ。二名様ご宿泊招待券だぞ」
「「・・・・・・・・・・・・」」
思わずメイシェンと視線が合ってしまった。
そう。合ってしまったのだ。
二名様ご宿泊招待券と言うからには、それはつまり。
「ええっと?」
「ああう?」
視線がそらされる。
リアクションに困ることこの上ない。
どうやってこの場を誤魔化そうかと、辺りを見回して絶望した。
教室に残っていた全員が、なにやら凄まじい温度でこちらを見ているのだ。
超高温と、極低温の双方が混在するその視線の集中砲火は、レイフォンごときの防御力ではとても防ぐことなど出来ない。
と言う事で、メイシェンの手を引いて全力で教室から撤退した。
一般的には逃走というかも知れないが、取り敢えず撤退と言う事にする。
建物を出てからこちら、延々とメイシェンと手を繋ぎ続けていたことに気が付いたのだが、誰かに止めを刺されるわけではないので特に問題はない。
と言う事で、錬金科の建物が見えだした、ただ今現在も、手を繋いだままなのだ。
その小さく柔らかな暖かさを持った感覚のせいで、心臓は全力疾走を続けているが、それは決して不快な刺激ではない。
思い返せば、メイシェンはどこもかしこも柔らかかった。
とは言え、触ったことのある場所というのはもちろん限られている。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
思わず鼻血が出そうな体験を思い出しつつ、だがしかし油断をせずに辺りに警戒の視線を飛ばし続けているのだ。
世の中何が有るか分からないと言う事は、既に身をもって知り尽くしている今日この頃。
警戒だけは怠れ無い。
だが、それでも思ってしまうのだ。
メイシェンは何処を押しても柔らかいし、そして何よりも甘いのだと。
このまま何処かで美味しく頂いてしまおうかとか思っている自分を、実は不思議な気持ちで見詰めていた。
レイフォンはあまり欲という物が強くない。
お金に執着していたことはあったが、それは孤児院の経営を何とかしたいと思ったからだったし、あの悲惨な食糧危機に何も出来なかった無力な自分を、もう一度繰り返したくなかったからだ。
そして手段として手に入れた天剣授受者と言う名誉も、賭試合に出るために利用しただけで、別段なりたいと思ってなったわけではなかった。
名誉でお腹はふくれないから、別段無くなっても惜しくないと今だって思っている。
天剣という錬金鋼はあったら便利だとは思うが。
食欲に関しては、まあ、人並みにはあると思う。
武芸者という生き物は、極めて大量の燃料を消費する生き物だ。
それを計算に入れると、レイフォンの食事量はそれ程多いというわけでもなかった。
睡眠欲となると、はっきり言って良く分からない。
まあ、他の人の体験談を総合すると、可もなく不可もなくと言ったところだろう。
そして今問題にしているのは、なんといっても性欲。
健全な男の子である以上、有って当然なのだが、それでもやはり少々気後れしてしまうのがレイフォンがヘタレだと言われるゆえんかも知れない。
散々セクハラまがいなことをやっておいて、二の足を踏むのはどうかと自分でも思うのだが、最後の一線を超えられないのもまた事実。
だがしかし! 今日はいささか事情が違っているのだ。
そう。メイシェンと手を繋いでいるのは左手である。
そして、右手側に付いているポケットの中には、何故か二名様ご宿泊招待券が入っていたりしているのだ。
ミィフィからもらったという記憶はない。
何時の間にか入れられたという感覚もないのだが、現実問題としてレイフォンは今そのチケットを持っているのだ。
これは、最大限に問題である。
天からの誘いか、はたまた地獄への招待状か。
そして、ここでレイフォンは気が付いた。
メイシェンの視線も、一カ所にとどまらずにフラフラと揺れていると言う事に。
そして、そのメイシェンの制服、胸ポケットにレイフォンが持つ物と同じチケットが入っていると言う事に。
これはもしかしたら、やはり悪魔の誘いかも知れない。
「・・・・・・・・・・・」
だが、それも、錬金科の建物が見えてきた瞬間までだった。
午後の授業が終わったこの時間だというのに、いや。この時間だからだろうか、建物のあちこちから色々な色の煙が噴出しているように見える。
定番の黒や白は良いとして、緑に赤、黄色にピンク、更には瞬間的に形容できないような色まで、様々な煙が噴出しているのだ。
有害物質は含まれていないと思うのだが、それでも腰が引けてしまうくらいには色々な色で着色された煙が、あちこちの窓から吹き出し続けているのだ。
そして最も驚いたことと言えば、メイシェンが驚いていないと言う事だ。
普通に考えるならば、間違いなくメイシェンは驚いて怯える。
だと言うのに、全く気にした様子がない。
これはつまり、始めてここに来たわけではないと言うことであり、もっと言えばよくここに来ていて目の前の現象を何度も経験していると言う事になる。
慣れというのがどれほど恐ろしい行為なのか、それを理解した瞬間だった。
いや。視線は建物に向いているが、頭の中は別なことを考えているのかも知れないが、これ以上踏み込むことは大変危険である。
と言う事で、無理矢理話題を振ることにした。
ちょうど、建物の前にある公園に、屋台が見えてきたことだし。
「アイスクリームの屋台って、あれかな?」
「!! そ、そうです」
かけた声に反応して、驚くほど身体が跳ね上がったメイシェンの視線が、やっとの事で現実を捉えたようだ。
何とか一安心である。
いや。安心してはいけないのだろうか?
「そ、それで、なんにする? おごるよ」
「え、えっと。あ、あの」
なにやら取り乱しまくるメイシェンの挙動は、どんどんと怪しくなって行く。
レイフォンとは違う内容かも知れないが、何かほかの事を考えていた証である。
何とか平常心を取り戻してもらわなければならない。
レイフォン自身が、平常心からかなり遠いところにいるので、かなりの難事業ではあるのだが、やらないわけにはいかないのだ。
「お、落ち着いてメイシェン」
「あ、あう」
「こう言う時は素数を数えるのが良いって聞いたよ」
「そ、そすうってなんだっけ?」
「え? なんだっけ?」
二人であうあうと言って、無駄な時間が流れて行くのを感じつつ、視線を飛ばして知っている人がいないかと辺りを窺う。
素数が何かを理解しなければ、落ち着きを取り戻すことが出来ないからだ。
そして見つけた。
オイルと触媒液に汚れたつなぎを着た、第十七小隊のダイトメカニックである、ハーレイその人である。
技術系の人だし、素数がどんな物か知っていそうである。
と言う事で、メイシェンを連れてハーレイに向かって歩く。
だが、驚くべき事が起こっていた。
なんとハーレイがアイスクリームの屋台へと向かい、なにやら二種類買っているという、驚くべき事態だ。
彼女と一緒かなどと思ったわけではない。
技術畑の人が甘い物を食べると言う事に驚きを覚えたのだ。
いや。糖分が必要なのは肉体労働者だけではないはずだから、アイスを食べていても何ら不思議ではないのかも知れない。
そんな混乱と共に歩みを重ね、とうとうハーレイを射程圏内に捉えた。
だが、やはり一人ではなかった。
車椅子に乗った青年へと片方を渡している。
不承不承というか、嫌々受け取っているようにしか見えないが、ハーレイの態度は至って平静なので、むしろこれが平常運転なのだろうと思う。
そして、その青年は不健康そうな白い肌と、整った顔立ちをしているのだが、決定的に目付きが悪すぎた。
これでは、女生徒は元より男子生徒も近付きたがらないだろう。
だが、驚くべき事は実はそこではなかったのだ。
突如としてこちらを見た青年が声をかけたのは、なんとメイシェンだったのだ。
「なんだ。垂れ目女か。今日の盾は赤毛猿じゃないのか」
「あ、あう!」
どうやらメイシェンと知り合いのようだ。
いや。垂れ目女とか赤毛猿とか、全く容赦ない酷評をしているように見えるが、視線も極めて剣呑ではあるのだが、ハーレイが笑いをこらえつつこちらを振り返ったところを見ると、本人的には決して悪く言っているわけではないのだろうと思う。
しかし、事態を説明して欲しいのも事実である。
「えっと、知り合い?」
「あ、あう! 錬金科のキリク先輩」
垂れ目女と酷評されることさえ初めてではないせいか、メイシェンの対応は至って平常だった。
いや。完璧に平常というわけではないようだが、取り敢えず酷い混乱はしていない。
「ああ。一般人が鋼鉄錬金鋼で料理をするなんて暴虐に手を貸すとは思わなかったが、取り敢えずそいつの武器は俺が手入れをしている」
「武器ですか?」
「武器だろう」
「・・。まあ、武器ですね」
確かにメイシェンが使ったが最後、あの包丁はナルキの斬撃よりも凄まじい切り口を創り出すことが出来る。
それを考慮するならば、間違いなくメイシェンにとっての武器と言う事が出来る。
いや。料理人にとって調理道具は、すべからく武器なのかも知れない。
「それで、貴様は誰だ?」
「僕ですか」
成り行き上の興味以上は持っていないと言った感じの、殆どどうでも良い質問がやってきた。
だが、レイフォンが何かを答えるよりも速く、キリクが驚いたような表情になった。
そして、なにやら凄まじく鋭い視線でレイフォンを切り刻む。
だが、その視線も一瞬のことだった。
「ヘタレ顔の武芸者。まさか、本当にいたのか、レイフォン・アルセイフ」
「い、いや。本当に居たのかって、どういう意味でしょう?」
なにやら、伝説上の生き物を目撃したと言いたげな視線で見詰められた。
そして、その脇ではとうとうこらえきれなくなったのか、ハーレイが爆笑を始めてしまっていた。
ここまで来れば、おおよそ話が見えてくると言う物だ。
「ヘタレ全開で、ペットに成り下がったツェルニ最強武芸者。冗談だと思ったのだが」
「い、いや。確かにヘタレですし、ペットに成り下がったりもしましたが」
ヘタレだと言われるのにはもう慣れた。
フェリのペットとして社会的に認知されつつあることも、理解している。
両方とも断じて納得は出来ないが。
「成る程な。ならば俺の作品をぶち壊してくれたのも貴様か」
「作品ですか?」
「ある意味、愛娘を弄ばれたと言い換えてもかまわない」
「いや。そんな度胸有りませんから」
「成る程。ヘタレだというのは本当か」
何かツボにでも填ったのか、息も絶え絶えに全力で笑い転げるハーレイの手からアイスが零れ落ちるのが見えた。
レイフォンの隣では、メイシェンがどう反応して良いか分からずに困り果てている。
実はレイフォンだって困り果てているのだ。
キリクの作品を壊したと言われたが、それが何か思いつかないのだ。
だが、それはキリクの一言でおおよそ解決できた。
「複合錬金鋼だ」
「ああ! あれの制作者が貴方だったんですね」
やっと納得がいった。
前回の老性体戦で使った巨大な刀。
見た事もない特色をいくつも兼ね備えた、あの錬金鋼がなかったのならば、おそらくレイフォンは今ここに居なかっただろうし、もしかしたらツェルニも存在していなかったかも知れない。
そして、制作者が酷い人間嫌いで変人だという話も、ちらっとハーレイから聞かされたような記憶もある。
「無様な使われ方をして壊れたのではないかと心配だったが、剄の過剰供給で爆発したなどと言う話は、暫く信じられなかった物だ」
「滅多にそんな事にはなりませんからね」
天剣授受者が複数居るグレンダンでさえ、剄の過剰供給で錬金鋼を破壊できる人間など滅多にいなかったのだ。
他の都市ならばなおさら出会うことはないだろう。
そして、あの状況では錬金鋼の破片一つ持ち帰ることは出来なかった。
それが、ほんの少しだけ悔やまれている。
キリクは誇りを持った立派な技術者なのだと理解してしまったから。
「それで、あれはお前の役に立ったか?」
「はい。あれでなければ乗り切ることが出来なかったです。僕が生きているのもツェルニが有るのも貴方のお陰です」
深々と頭を下げる。
ウォリアスの作戦があったから、ツェルニは残ったかも知れないが、レイフォンはどう頑張っても助からなかった。
それをしっかりと確信しているからこそ、キリクへと頭を下げる。
「ふん! 道具なんぞは誰かの役に立って壊れるのが宿命だ。出来ればその壊れ方が有意義であって欲しいがな」
そう言いつつそっぽを向くキリクが、何故か照れているように思えてならなかった。
見た目分かりにくいが、案外可愛い人なのかも知れない。
当然本人の前では、口が裂けても言えないが。
「この次はもっと良い物を造ってやるから、貴様はそれを有効に使う方法だけ考えていれば良い」
「出来れば、二度とあんな事が無い方が良いですけれどね」
メイシェンに心配をかけるのもそうだし、レイフォン自身怖いことが好きというわけではないのだ。
クラリーベルとかサヴァリスのような、戦いを楽しむという性癖を持っていない以上、死ぬかも知れない状況は出来るだけ避けて通りたいのだ。
レイフォンのそんな思いを知ってか知らずか、キリクの興味は既に他へと映ってしまっているようだった。
いや。これももしかしたら照れ隠しかも知れないが。
「それで貴様はいつまで笑っているつもりだ」
「ぷくくくく。ま、まって、変に笑いのスイッチが入っちゃって、も、もうちょっと笑わせて」
第十七小隊のダイトメカニックは、死ぬのではないかと思えるくらいに笑い続けていた。
取り敢えず、ハーレイが笑い終わり、キリクとの口論というか口げんか、問題点の洗い出しが一通り終わり、四人のお腹にアイスが消えてからメイシェンの包丁の調整が行われることとなった。
そして驚いたことが一つ。
散々ハーレイの研究室を掃除していたレイフォンだったのだが、キリクと合ったことはなかったのだ。
これはこれでかなりの驚きと言える。