汚染獣を撃退した少し後、ヨルテムの足は完全にでは無いにせよ復旧し、移動をしながら修理する事になった。
そうなると、戦闘を終えた武芸者達の反省会が始まるのも、また当然の事。
このような機会に割と使われる大きめの会議室には、色々な部署の責任者達が集められていた。
トマスも一応都市に残った武芸者の小隊長と言う事で、この場に参加しているのだが、不用意に発言するわけにはいかない。
「問題は、この、誰がやったか分からないやつですね」
死者が出なかった事は評価されたが、見学車や戦場が都市から離れすぎていた事が問題になったり、味方の誤射で負傷した者が予想よりも多かったなどの反省事項があらかた終わった頃になると、トマスが恐れていた事態が実現してしまった。
映写機にはこれ以上ない程綺麗に分断された、汚染獣の死体が映し出されている。
その切り口は、背筋が寒くなる程鋭利で滑らかだ。
誰がやったかと聞かれれば、それはもちろんレイフォンなのだが、そんな事は当然言えない。
これほどの威力と切れ味を持った攻撃を放てる武芸者は、数は少ないがそれなりには居る。
だが、問題は、念威繰者が剄の流れを感知出来なかったと言う事だ。
それは極々短い時間で剄を練り上げ、収束させ、閃断を放ったと言う事に他ならない。
威力自体は驚きこそすれ、驚愕はしない。
問題なのは、実はその時間なのだ。
「私でも出来ない事はないが、二十秒はかかるはずだ」
交叉騎士団の団長、ダン・ウィルキンソンがぼそりと呟いた。
六十を超える老練の武芸者で、力業だけでならすでに彼を超える者も居るだろうが、その戦い巧者としての実力は、他の追随を許さない。
そのはずだった。
「そうです。問題なのは、正体不明の優秀な武芸者がこの都市に居ると言う事ですね」
司会進行役の騎士団員が、当時の武芸者の配置図を示しつつ問題点を指摘して行く。
危険極まりない状況なのだが、誤摩化しが効く程、ヨルテムの武芸者は甘くないのだ。
その証拠に、会議室に集まった熟練の武芸者達のざわめきが大きくなっている。
隣にいる者と色々と意見を交換しているのだろう事は間違いない。
「ふむ」
トマスが解決出来ない問題に直面し続け、困惑の果てに身動きが出来なくなっているのを余所に、ダンが小さく唸った。
「まあ、あまり追求してやるな」
「は? しかし、それでは」
若い団員がダンに詰め寄ろうとしたが、それを手で制止しつつ。
それを押しのける事は、流石に出来ずに引き下がるのを待ち、おもむろに口を開く。
「これを放った者は確実にいるだろうが、もしかしたら全力を出しすぎて、急性の剄脈疲労で倒れてしまったやも知れぬ」
「は、はあ」
司会役が、気の抜けた返事をしているのを聞きつつ、トマスは少しだけ安心出来た。
「意地を張れない程疲れてしまって、自分がやったと名乗り出るタイミングを逸してしまったやも知れぬ」
納得らしい声が、会議室のあちこちから小さく聞こえてきた。
「独断専行はあまり褒められた事ではないが、若い者にはそれくらいの覇気があった方が良かろうて」
実際には、レイフォンにも予想外の威力が出てしまっただけなのだが、それもここでは言えない。
「ですが、念威繰者が見付けられなかったというのは」
「それもな。あのときはあちこちで混乱しておったし、二度と同じ事態が起こらないように、対応すれば問題なかろう」
「それは、そうなのですが」
若い団員が何かまだ言いたそうにしているが、それもやはり手で制止する。
「ほとぼりが冷めれば、自分がやったと出てくるだろうて。そのときに団員として迎えるもよし、報奨金を渡すもよし」
何しろ、ヨルテムの武芸者の頂点に立つ男の発言だ。
話はダンの発言の方向で収束して行く。
「た、助かったのか?」
「班長、あれ」
いつもの部下が反省会が終了したので、安心のため息をつき賭けたトマスの視線を、ある方向に向けさせ。
「・・・。後で話があるって顔か?」
「いえ、むしろ、授業が終わったら、体育館の裏に来いやって顔じゃないですか?」
とても怖い事を言う部下だが、トマスの認識もあまり変わらない。
ダンの視線がトマスに向けられ、それは決して友好的なものでは無い。
と、思うのは気のせいであってほしい。
「断頭台に昇るって、こんな気持ちだと思うか?」
「おそらく、大して違いはないでしょうね」
二人の認識が一致した所で、同時に席を立ち、今もっとも合いたくない男の後を追う。
「レイフォンを責められないし、秘密にしておきたいし」
「団長の追及をかわせるとも思えないですね」
そんな事を話している内に、ダンの側まで来てしまった。
長身でごつい体つきをした、ごつい顔の白髪と白いひげを蓄えた、威風堂々たる武芸者だ。
無言で対峙する事二秒。
いきなりダンの右手が懐に伸び、書類らしき物を一枚差し出してきた。
「?」
読めと言う事らしいので、受け取り開いてみて、トマスは少し呆然としてしまった。
そこに書かれていたのは、単語がいくつか。
視野狭窄。
猪突猛進。
独断専行。
浅慮暴挙。
器用貧乏。
単純馬鹿。
などの、あまり褒め言葉には使わない単語だった。
一つ一つはどうでも良いが、全てを並べてみると容易に一人の少年の特色を書き連ねた物だと言う事が分かる。
「これって、あの人ですよね」
後ろから覗いていた部下も、同じ意見のようだ。
「レイフォン・アルセイフという人物について、グレンダンにいる古い友人に問い合わせて、返ってきた答えだ」
ダンのその一言で、レイフォンの事がかなり知られているらしい事が分かってしまった。
「君の事はよく知っている。私は君を信じるから、彼の事も信じているのだが」
間接的だが、レイフォンに悪い感情を持たないで居てくれる事に、少しだけほっとしたトマスだったのだが。
「だが、これだけは知っておきたい。彼はヨルテムにとって、危険な存在になりうるか?」
「そ、それは」
ダンの一言は、ヨルテムの守護者として当然の物だ。
否定する事は感嘆なのだが、安易な答えは返って警戒心を招くだろう。
「今のところ、レイフォン・アルセイフはヨルテムにとって、危険ではありません」
人間は変わる物だ。
今の状況から、未来を正確に予測する事はほぼ不可能だ。
だから、現状を報告するだけにとどめる。
「ふむ。危険ではないのだね? 今のところは」
「ヨルテムにとっては」
こうなっては仕方が無いので、ダンには出来るだけレイフォンを知ってもらう事にした。
「何に対して、誰に対して、危険だというのだね?」
あえてヨルテムといった事から、正確にトマスの趣旨を了解してくれたようで、願った方向に話が進む。
「レイフォン・アルセイフにとって、レイフォン・アルセイフは危険です。今しばらくの間は」
トマスが見る限りにおいて、レイフォンは今非常に不安定だ。
ナルキ達との交流は、彼を安定させ始めているが、安全だと言い切る事が出来るようになるまでは、もうしばらく時間がかかると、トマスは判断している。
「成る程な」
大きく頷いたダンが、踵を返し、付いてくるようにと顎をしゃくる。
「君の所に、優秀な武芸者が出入りしていると聞いてな。その素性を調べてみたのだ」
レイフォンにはグレンダンでの出来事は、警察関係者では割と有名だと言ったが、それははったり以外の何物でもない。
偶然が重なった事から、トマスはレイフォンの事を知ったに過ぎないのだが、その偶然がダンにも働いたようだ。
「調べてみれば、グレンダンの天剣授受者という、化け物だったというわけだ」
ため息をつきそうな勢いのダンに、思わず硬直する。
「それで、昔のつてをたどってこうなったわけだが、偶然を装って何度か見に行ったよ」
「それは、お手数おかけしました」
騎士団長ともなれば、かなりの激務なのだが、その合間を縫ってレイフォンの事を見に行くなど、かなりの酔狂と言えない事もない。
「彼を見ていると、若い頃の私を見ているようだよ」
遠くを見るその視線は、間違いなく昔を懐かしむ老人の物だった。
覇気に溢れ、今後十年は団長の地位にとどまり続けるだろうと言われている男のものでは無いように、トマスには思えた。
だが、もしかしたのなら、これこそがダンの人となりなのかも知れない。
「私が初めて乙女と手をつないだのは、十八の頃であった」
「そ、それは、また遅かったですね」
老人の昔話に付合うのはかなり疲れるのだが、何せ相手は団長だ。
トマスに拒否権は存在しない。
「うむ。彼程ではないにせよ、私も武芸の道を突っ走ってしまった人生だったのでな」
武芸者には割と多い事だが、一般常識という物が欠落しやすい。
昔のダンにも、レイフォンと同じ様な事があったのだろうと、少しだけこの団長に親近感を持った。
「まあ、彼程蒸気を上げる事はなかったが、それでも、初めて触れた乙女の手の柔らかさに、恐れをなしつつも、その感触の虜となった物だ」
一瞬、目の前のごつい白髪のオッサンが、頬を赤らめつつ女の子と手をつないでいるという、想像してはいけない光景を見てしまった。
「今、とても失礼な事を考えたな」
「滅相も御座いません」
瞬間的な反応で、自分の頭の中で何が有ったかを綺麗に消去しつつ、ダンに対応した。
消去したトマスだが、やはり、精神にかかる負担が大きかったようで、少々現実復帰に時間がかかってしまった。
「あれ? でも、結婚は早かったんですよね?」
トマスがそんな状況だったので、話の腰を折るような部下の発言を止める事が出来ずに、思わず胃が痛くなってしまった。
「うむ。結婚したのは十九の時であった」
「は、はや!」
部下のように声には出さなかったが、トマスもかなり驚いた。
ダンについては、色々逸話がある。
その中でもっとも有名な物が、非常な愛妻家であると言う事だ。
特に結婚記念日は、どれほどの重要な会議があろうと、渾身の力で欠席。
いつも家族で過ごすという話だ。
その中でも、もっともダンと言う人となりを示すエピソードが伝わっている。
ずいぶん昔に、結婚記念日に汚染獣に襲われた事が有ったそうだが、問答無用で出撃。
他の武芸者が戦闘態勢を整える前に、やってきた汚染獣、雄性体二期一体を文字通り瞬殺。
ささやかな家族のパーティーの席に、何食わぬ顔で戻ったとか言う、ものすごい話を聞いた事がある。
「今から考えれば、恐ろしい話なのだが」
そんな愛妻家のダンが、結婚について恐ろしいと表現したので、思わず身構えてしまったトマスだったが。
「手をつないで妊娠したから、責任を取れと言われてな」
「「は?」」
とても、聞いてはいけない話を聞いたような気がしたトマスは、部下の頬をつねってみた。
「痛いですよ」
「私の頬もやってみてくれ」
言われたとおりにトマスの頬をつねる部下の刺激は、間違いなく痛みとして分類され、これが現実だと認識させられた。
「まあ、若気の至りという物だな」
「いや。若気って問題じゃないような気が」
「若いな。世の中には想像を絶する事など、珍しくないのだよ」
確かに想像も付かない事が、立て続けに起こった今日この頃だ。
ダンの認識は間違っていないと思うが。
「まあ、実際に結婚した後になって、あれは単なる冗談だったと聞かされた時には、人生止めたくなったがな」
「それはもう、そうでしょうとも」
トマスだってそんな事があったら、違う世界に旅立ちたくなるかも知れない。
「だから、彼と似た人生を送った私から頼む。彼を育て、はぐくんでやってくれ」
「はい。私の全身全霊を傾けまして」
ダンがなぜこんな話をしたのか、その理由が分かった。
実際にレイフォンの姿は、ダンにとって他人事ではないのだろう。
だからこそ、恥をさらすようなまねまでして、トマスに頼んだのだ。
「うむ。私と同じ過ちを、繰り返させてはいかんぞ」
「はっ! 早速帰りましたら、性教育を実行いたします!」
「うむ」
一つ頷くと、本来の仕事が待っているだろう彼の執務室に向かって、歩き去って行く。
「それにしても」
歩を一旦止めたダンが、不思議そうに首をかしげ、小さな声を出した。
「グレンダンは、何を焦ったのだろうな。あれほどの才の持ち主だ。十年、いや、五年育てれば、後世に名を残す偉大な武芸者となれたものを」
ダンのつぶやきは、トマスにも理解出来た。
天剣授受者という物が、実際にどんな物かは理解出来ないが、十歳の子供でなければ与えられないという物でもないはずだ。
ならば、候補者として経験と修行を積ませ、ゆっくりと一般常識も教え込めば、追放せねばならない事態を回避出来たはずだ。
何か焦ったのか、それとも他の理由かは分からないが、グレンダンの王室の判断は、正しいものでは無かったと言わざる終えない。
もっとも、これは後からこそ言える事だし、向こうには向こうの事情がある事も理解している。
だから、トマス達に出来るのは、こうなってしまった事態を、少しでも良い方向に変える事だけだ。
だからこそ、トマスはやらなければならない。
「班長。早めに実行した方が良さそうですね」
「ああ。そんな馬鹿な事はないと思っているから、まだ無事なだけだ。知られてしまったらレイフォンに未来はない」
何よりも先に、このことをレイフォンに知らせなければならない。
トマスは少し残っていた事後処理を部下に任せ、帰宅の道を急ぐ事にした。
レイフォンは、地上一メルトル少々に張られた洗濯ひもの上に立ち、青石錬金鋼の剣を清眼に構え、自分の中の疑問と戦っていた。
なぜ、あれほど簡単に汚染獣を斬り殺す事ができたのか?
本来ならダメージを与えて、他の武芸者がやってくるまでの、時間稼ぎをするはずだった。
だが、込めた剄から推測した技の威力を、あっさりと凌駕してしまったのだ。
これは非常に困る事だと、レイフォンは気が付いていた。
打撃を与えて、行動不能にするだけのつもりが、相手をミンチにしてしまう危険性があるからだ。
(なんで、ガハルドの時は失敗したんだ?)
全力に近い剄を注ぎ込んだ一撃は、なぜか微妙に外れてガハルドに重傷を負わせた程度で終わっている。
今回の汚染獣戦と比べたら、とても看過できないほど大きな差だ。
(人を殺す事に、罪悪感があるのか?)
振り返ってみるが、武芸者が死ぬ事に対してそれほど感情的になった事は、最近はなかった。
天剣を授かってからは、さらにその傾向が強くなったが、初めて死を目の当たりにした衝撃が大きかったせいか、その後の死体については割と平然としていられた。
罪悪感があったにしても、あれほど太刀筋を乱す物にはならなかったはずだ。
(なんでだ?)
直感的に物を考える事に対して、それなり以上に素養のあるレイフォンだが、今回のように理詰めで物を考える時には、非常にその思考能力は低下してしまう。
その思考と呼べるか怪しい思考を中断して、現状に対して疑問を放つ。
「あのぉ」
「なぁにぃ?」
剣を始めとする、あちこちにおかしな重みがかかったので、辺りを見回したレイフォンの視界に飛び込んできたのは。
「僕の身体に、洗濯物をぶら下げないで欲しいのですが」
「良いじゃない。別に女物の下着とか干している訳じゃないんだもの」
アイリの手にあるのは、確かにシャツを始めとする洗濯物だ。
「今日は、洗濯しないって言っていませんでしたっけ?」
「だって、レイフォンを見ていたら、急に洗濯したくなったんだもの」
どうやら半分嫌がらせで、残りは面白半分で、予定を変更したようだ。
「それに、五分考えて答えが出なかったら、ノリで解決しなさいって言ったじゃない」
確かにアイリに言われてからこちら、別段困った事はないが、今抱えている問題は少し重要なような気がしているのだ。
「いえ。それだとこの先困りそうな問題なんですよ」
「そうなんだ。じゃあ、邪魔するの止めとくわね」
そう言いつつ、洗濯物がレイフォンの身体から取り外されていく。
「お願いしますよ」
「ええ。夕食になったら、声をかけるわね」
何やら非常に消化不良の表情をしたアイリが、渋々といった雰囲気で家の中へと帰って行った。
「はあ」
一波乱あったが、取りあえずもう一度精神を集中して考えに戻る事にしたレイフォンだったが。
「?」
いつの間にか、目の前の壁の上に猫が座り込み、レイフォンを見つめている事に気が付いた。
結構長い間、猫と見つめ合ってしまった。
(あの猫を斬り殺す)
イメージの中だけで、剄を収束させ、閃断を放ってみた。
(? あれ?)
イメージの中の猫は閃断を放つ瞬間に、飛び退き抗議の声を上げつつ、どこかへと去っていった。
(なんでだ?)
たかが猫である。
レイフォンの実力を持ってすれば、死んだ事にさえ気が付かれない内に、左右二つにする事は容易のはずだ。
なのに、寸前で察知され回避されてしまった。
さらに、イメージの中だけで、何十回と斬りかかってみたが、その全ては回避されるか、上手く切る事が出来なかった。
(何でだろう?)
延々とやっていたのが災いしたのか、目の前の猫は欠伸をすると、狭い塀の上であるにも関わらず昼寝モードに突入してしまった。
「何やってるんだろう、僕は?」
汚染獣以外の敵に対して、全力を出せないと言う事もあり得るが、ここまでの不様は流石に問題だ。
汚染獣は綺麗に切れたのに、ガハルドと猫は駄目だった。
これに共通する事柄を見付けなければ、この先どんな失敗をするか分からない。
だから、レイフォンはさらに考え込もうとして、頭に何か乗ったような感触を覚えた。
「?」
何か飛んできたのかと思って、上を見たが特に何も見えなかったので、三度思考の中へ突入しようとしたが。
「レ、レイとん」
下からメイシェンの声がかかった事で、現実に復帰した。
「あれ?」
いつの間にか猫はその姿を消し、世界中が紅く染まっていた。
いわゆる夕方という物で、そろそろ夕飯の時間のはずだ。
「ご飯、出来たよ」
「うん。今行くね」
洗濯ひもを揺らさないように注意しつつ、芝生の上に飛び降り、唐突に理解してしまった。
「ああ。そうなんだ」
最近の二つの事柄だけで考えてはいけなかった事に、気が付いた。
そもそもの始めは、兄弟姉妹達が無事に生きられるために、戦場に立つ事を選んだ。
レイフォン自身もそうだが、知っている人の死を見たくなくて、夢中で突っ走ってきた。
だからいつの間にかレイフォンの中では、戦いが二つに分類されていたのだ。
負ければ、誰かが死ぬ戦いと、誰も死なない戦い。
前者の場合、レイフォンはその持てる力を全て出し切って戦う事が出来るが、後者の場合、どうしても技の切れや制御が甘くなるのだ。
ガハルドの時にかかっていたのは、レイフォン自身の名誉や誇りと言った、大して重要ではないもので、他の人の生死は全く関係なかった。
だから、微妙に技が鈍ってしまったのだし、今さっきの猫の時もそうだ。
迎えに来たメイシェンの顔を見て、そのことに気が付いたのだ。
ナルキやシリアの遺骸を見て、号泣する事が解りきっているメイシェンを想像した事で、この結論に達する事が出来た。
正しいかどうかは、もうしばらく様子を見つつ考えればいい。
慌てる事は何も無いのだ。
「な、なに?」
「なんでもないよ」
心配気に見上げるメイシェンの頭に手を乗せ、その柔らかい髪を撫でる。
「ひゃぁ」
小さな悲鳴を上げつつ頬を上気させるが、逃げようとはしないメイシェンの髪をさらに撫でる。
「あ、あの、レイとん」
「うん?」
「ご、ごはん」
しどろもどろになりながらも、メイシェンが主張するように、そろそろ行かなければならないようだ。
「うん。行こう」
名残惜しい気持ちもあるのだが、気が付けばかなり空腹なのもまた事実。
メイシェンを促して踵を返そうとしたレイフォンだったが。
「?」
呼びに来たメイシェンの視線が、少しおかしい事に気が付いた。
「なに?」
微妙に角度が違うのだ。
具体的には、僅かに上にそれている。
「頭に、何か乗ってるよ」
言われてみて、少し前に何か乗ったような感触があった事を思い出し、何気なく右手を伸ばしてそれを掴んだ。
柔らかい布の感触からすると、どこからか洗濯物が飛んできて、偶然レイフォンの頭の上に落ちたといった所だろうと、気軽に考えて目の前に持ってきて。
「ああああああああああああああ!」
「いいいいいいいいいいいいいい!」
メイシェンの悲鳴に似た叫び声と共に、普段からは考えられない速度で腕が動き、レイフォンの手からその布で出来た品物を奪い取り、必死の形相で後ろ手に隠した。
当然、レイフォンにはそれを取り戻すと言う選択肢はない。
例え、非難の視線を浮かべる、今にも泣きそうなメイシェンの顔が目の前になかったとしてもだ。
なぜなら、それは。
「だ、誰だよ! こんな物僕の頭に乗せたのは!!」
それは、ピンクの布で出来ていて、あちこちにフリルの付いた、女性用の下着だったからだ。
「うううううううううううううう」
非があるわけではないのだが、恨めしげなメイシェンの視線に耐えきれずに、家の方を見たレイフォンは、おそらく真実と思われる物を見付けてしまった。
アイリを先頭に、ナルキ以外の女性陣が非常ににこやかな表情でこちらを見ているという、真実を。
「ううわぁぁぁぁ!」
汚染獣など比べ物にならない程、恐ろしい敵がこれほど身近にいる事は、レイフォンにとって恐怖以外の何物でもなかった。
「偶然なのよ? 偶然お隣さんの洗濯物が飛んで行っただけで、全く、これっぽっちも悪意なんか無かったんだからね」
アイリはそう言うのだが、とても信じられる状況ではないし、また、そんな事にかまっていられる事態でもないのだ。
メイシェンを何とかしなければならない。
「あ、あのぉぉ」
「レイとんの、馬鹿」
小さいその一言を放ったメイシェンが、通常の三倍近い速度で逃げて行ってしまったのだ。
「駄目ねレイフォン。女の子泣かしては」
何やら、非常に遠大な計画があるのか、アイリが追いかけろと視線で示している。
それを拒否する権限は、レイフォンにはない。
メイシェンは、自分がやった事を冷静に判断しようと、あらん限りの努力をしていた。
だが。
「メイシェン」
「ひゃきゅ」
数年ぶりにやった全力疾走で、息が上がり走れなくなった瞬間、レイフォンが隣を歩いていてはとても冷静にはなれない。
そもそも一般人と武芸者が追いかけっこをしようとするところからして間違いなのだが、そこまで頭が回らなかったのだ。
「あ、あのね。偶然なんだ」
「う、うん」
レイフォンが、狙って下着を頭に乗せていたなどとは思っていないのだが、感情というか、ノリというかが、納得出来ないのだ。
「え、えっと。その、ごめん」
「レ、レイとんは、悪くないよ」
偶然の事故であるのならば、誰かに責任があるわけでない事も理解しているのだ。納得しているわけでもないのだが。
とは言え、メイシェンが今もっとも問題にしているのは、実は少し違う所にあるのだ。
それは何かと問われれば、未だに後ろ手で隠している、誰の物とも知れない女性物の下着。
これを、レイフォンに気が付かれないように、どうにかしなければならないのだが、その方法を全く思いつけないまま、メイシェンは歩き続ける。
「あ、あのさ」
「きゃひゅあ」
かけられた声に、思わず噛んだ悲鳴を上げてしまった。
「え、えっと。そろそろ、家に戻らない?」
「う、うん。もどる」
他の選択肢はないのだが、どうしても、未だに手に持っている物が気になって、壁を背にしてレイフォンの方を向いてしまう。
「あ、あのね。うんと」
レイフォンの方も何がメイシェンを困らせているのか、その理由が理解出来たようで、視線がさまよっている。
「じゃ、じゃあ。僕は前を歩くから、それで良い?」
「う、うん。それでお願いします」
お願いするのが正しい事なのかどうか、非情に疑問ではあるのだが、口から出てしまった言葉を取り消す事は出来ない。
「じゃ、じゃあ。先を歩くね」
恐る恐るといった感じで、微妙な間合いを取りつつメイシェンの前に立つレイフォンの背中を見つつ、色々な事が思い出された。
ここ最近、殆ど毎日顔を合わせているのだが、レイフォンのグレンダン時代の話を、全く知らないとミィフィに話した事があった。
ミィフィから返ってきたのも、やはり謎が多いという答えだった。
実際には、殆ど何も解らないとぼやいていたのも覚えている。
ナルキとシリアは、レイフォンが非常に優秀な武芸者であると言っていたが、それほど優秀な人材を都市が手放すのはおかしいとも言っていた。
人見知りが激しいだけではなく、臆病であるメイシェンにとって、レイフォンに直接聞くという行為は、非常に大きな決断である。
だが、何時かはそれを知りたいとも思っている。
もしかしたら、メイシェンが思っているよりも暗い人生を送ってきて、逃げるようにここにたどり着いたのかも知れないとも思う。
そのせいで、とても疲れているのだとしたら、過去を探られる事はレイフォンにとって非常に辛い事だろうと思う。
もしかしたら、過去を聞く事で、レイフォンが居づらいと感じてしまい、どこか他の都市を目指して出て行ってしまう事になるのかも知れないとも思う。
それは、とても悲しい事だと思うのだが、知りたいと思う気持ちと、一緒にいたいと思う気持ちがせめぎ合っている今現在、自分の事ながら、感情をもてあましてしまっているのだ。
矛盾を抱えたままで居られる程、メイシェンは強くもないし、人生に疲れているわけでもない。
何時か、決着を付けないといけない事だとは解っているのだが、それでも、先延ばしにしているメイシェンが居るのだ。
「だめだよね、それじゃ」
小さく呟いたメイシェンは、手に持っていた物を器用に綺麗に畳んでポケットに仕舞うと、歩く速度を少しだけ上げて、レイフォンの隣に並んで、そっと手をつないだ。
「?」
少し驚いたのだろう、レイフォンがメイシェンの方をちらりと見た。
「ちゃんと、仕舞ったから」
言わなくても良い事を言ってしまったと思ったメイシェンは、顔が熱くなったのを隠すためにうつむいてしまう。
「帰ろう」
「うん」
何時か決着を付けなければいけないのは間違いないが、今は手をつないで帰ろうと決めたメイシェンは、少しだけ手に力を込めた。
だが。
「ひゃぅ」
いきなりある事に気が付いてしまった。
「な、なに?」
あまりに突然に悲鳴に似た声を上げてしまったので驚いたのだろう、レイフォンがこちらを見下ろしている。
「な、なんでもないです」
少々、堅い言葉遣いになったが、実はそれどころではないのだ。
何を隠そう、メイシェンからレイフォンの手を握ったのは、これが初めてなのだ。
ある意味、これこそが、今日のもっとも驚くべき事柄だったのかも知れない。