往路にかかった時間は一日だった。
一日少々の戦闘の後、老性体は殲滅出来た。
だが、そこからツェルニに帰ってくるのには、二日半という時間がかかってしまった。
当然だ。ツェルニは戦場から遠ざかろうとしていたのだし、作業指揮車の速力はそれ程速くなかったからだ。
実に五日ぶりにツェルニに帰り着いたレイフォンだったが、なにやらとても身体がだるかった。
そもそも、活剄を使って長時間戦い続けると言う事は、生体リズムを狂わせると言う事と同義である。
いくら天剣授受者とは言え、その辺の根幹部分は変わっていない。
莫大な剄脈を内蔵しつつも、無駄を省き洗練し研ぎ澄ませることによって、常識では考えられないほどの持久力を始めとする、身体能力を上げることが出来るのだ。
それだけに反動が凄まじい。
一週間戦い続けることは出来るが、体調が回復するまでに二週間はかかる。
では今回はどうだったのかと問われるのならば、確かに相手は強力で、命を削るような戦いだった。
だが、実質的に戦っていた時間は僅かに一日。
戦闘終了からこちら、二日半も眠り続けていたのだから、ほぼ完璧に元に戻っていて良いはずだ。
だと言うのに、身体が非常にだるい。
もしかしたら、戦闘終了後よりも更に体調が悪いかも知れない。
更に、胸焼けがすると言うか胃がもたれるというか、何か凄まじい暴飲暴食をした後というか、兎に角もの凄く消化器官に負担をかけた後のような気がするのだ。
その事をウォリアスやナルキに相談したところ、何故か視線をそらされて慰められた。
知らなければその方が幸せなことと言うのが、確かにこの世にはあるのだと。
良く分からないが、聞かない方が良さそうだというのは理解出来た。
そして今、ツェルニに帰り着き、だるい身体を押してシャワーを浴び、剃る必要はあまり感じなかったが髭も剃ったレイフォンの前には、少しだけやつれた感じのメイシェンがいる。
レイフォンを心配しつつ待つ時間は、戦う側である人間には理解出来ない重さを持っているのだろうことが十分すぎるほどに理解出来た。
出来るだけ心配させないように細心の注意をしていたが、それでも無くすことなど出来るはずがない。
だからこそ、レイフォンは言わなければならないことがある。
「ただいま戻りました」
そっと、触れただけで壊れてしまいそうなメイシェンに向かい、静かに言葉を送り出す。
もっと他に言うべき事があるはずだが、それを思いつけるほどレイフォンは器用ではない。
「おかえりなさい」
そして、それはメイシェンも同じだったようだ。
何の捻りもないが、それだけに深い言葉がレイフォンに届く。
無事であることは先に知らされていたはずだが、それでもやはり実際に見ないと安心出来ないのが人の性だ。
深い溜息と共に、強ばっていたメイシェンの表情から緊張が抜ける。
壊れてしまったのではないかと思えるほど、立つことが困難なほど、疲労しているらしいその身体をそっと抱きしめる。
出撃前にも同じ事をしたような気がするが、その時はレイフォンも緊張していたようで殆ど記憶がない。
何に対して緊張していたか、これから戦うことになる老性体に対してか、レイフォンを見送ることになったメイシェンに対してだったか。
それははっきり分からないが、今、分かることがある。
ほんの少しだけしか力を入れていないというのに、あっさりとその形を変えてしまうほどに柔らかく、そしてとても暖かい身体からほのかにシャンプーと石けんの香りがする。
レイフォンの胸を掴んだ小さな掌が、小さく震えていることも、嗚咽をこらえている呼吸音と共に揺れる胸郭の感触、そして、メイシェンの心臓の鼓動そのもの。
やっと帰ってきたのだと、レイフォンはしっかりと認識した。
天剣授受者だった頃、戦い終わって帰った家にも、同じように待っていてくれる人達がいた。
そして今ここでも、待ってくれている人達がいる。
だからこそレイフォンは、生きることを諦めないでいられるのだ。
そして何よりも、多くの人と戦うことによって失敗を取り戻せるかも知れないと言う可能性を見つけることが出来た。
今回の老性体戦は、レイフォンにとって非常に実り多い戦いだった。
「それと、有り難う」
「え?」
話が唐突に変わったために、驚いてこちらを見上げるメイシェンの瞳は、誤解のしようがないほどに涙で一杯だった。
悲しみの涙でないからかまわないのだろうが、それでも少し心が痛いような気がする。
「レトルトにする試作シチュー」
「あ」
珍獣フォンフォンになってしまったあの時、メイシェンとリーリンが隣で作っていたシチュー。
レトルトパウチに収納され、作業指揮車に積み込まれていたのだ。
そして出撃前にウォリアスに言われたのだ。
メイシェンが折角作ってくれたこれを、無駄にしないために生きて帰ってこいと。
その言葉と罠の準備が進んでいることを知っていたから、レイフォンは無理をすることなく少しずつ汚染獣を削る行為に集中出来た。
どれか一つでも欠けていたら、生きて帰ることが出来たかどうか疑問なほど、強力な相手だったのだ。
「とても美味しかったよ」
「・・・。よかった」
まだ涙をこぼしつつだったが、それでもメイシェンの頬笑みはレイフォンを癒やしてくれた。
その癒しの熱は、僅かずつだが確実に、戦いのために凍り付いていたレイフォンの心を温めてくれるようだ。
その熱をもっと確かな物にするために、抱きしめていた力を少しだけ強くした。
作業指揮車とやらに缶詰にされている間、ろくに入浴も出来なかったフェリだったが、当然ツェルニに帰って来たので思う存分お湯に浸って、心身共にリフレッシュすることが出来た。
念威繰者であるフェリが前線に出ることなど普通は考えられないのだが、今回汚染獣との距離が大きかったために、やむなく出張することになってしまった。
戦闘開始時点でならば、問題無くフェリの念威が及ぶ範囲内だったのだが、一つだけ不安要素があった。
それは戦闘時間だ。
当然だが、ツェルニは汚染獣を発見したら逃げる。
つまり、戦闘が継続されている限り、ツェルニと汚染獣との距離が開くと言う事だ。
短時間ならば何の問題も無いだろうが、戦闘が数日間になると話は違ってくる。
最悪ツェルニが逃げたために、フェリの念威が届かないという事態になりかねない。
今回の都市外戦装備の要は、念威繰者としてのフェリの能力を最大限生かした視覚補助システムだ。
予備として通常の視界もきちんと用意されているのだが、当然予備は予備に他ならない。
汚染獣の攻撃を避けようとした、まさにその瞬間、いきなり念威が途絶えてしまったのではそれは死に直結してしまう。
レイフォンは大丈夫だと言っていたが、それでも予測されているのならば対策を取りたい。
そして、対策として考え出されたのがフェリを戦場の近くに置くという今回の手段だ。
はっきり言って、あんな狭いところで何日も暮らすなど願い下げなのだが、生憎と他の手はあまりにも不確定要素が多くて却下されてしまったのだ。
「にひひひひひひひ」
そんな回想をしていると、突如として隣から怪しげな笑い声が聞こえてきた。
ここはツェルニの最下層に近い、都市外作業をする場合の控え室。
居るのはゴルネオとシャンテ、オスカーとウォリアス。
そして、ナルキとリーリン。
あとはフェリの隣で不気味に笑う、不気味な生き物。
人数外が二人ほどいるがたいした問題ではない。
なにやらニーナが真剣に考えているようだが、きっとウォリアス先生から出された宿題について考えているのだろう。
途中経過は兎も角として、ニーナが戦いの場に来ることは予測されていた。
そうだったからこそ、やや危なっかしかったが、対応することが出来たのだ。
そして、無謀と呼べるその行動に対する制裁が、今回の老性体戦をどう戦うか、ニーナがその作戦を考えるという物。
そのための資料として、ウォリアスが使った資料がそのままニーナに渡されている。
きちんと整理された資料をもらえるという、いたせりつくせりの制裁だ。
「何を笑っているのですか?」
その制裁はどうでも良いとしても、隣で不気味に笑われるのは少々困ってしまう。
折角ベッドで手足を伸ばして眠れるというのに、悪夢なぞ見たくはないのだ。
「にひひひひ。今メイッチとレイとんが居る部屋なんですけれどね」
恋する二人が逢っているのは、このすぐ下にあるフロアだ。
構造的に面積が小さいので、必要な空間を確保しようとしたら、あっという間に数階分の高さになってしまう最下層、そのワンフロアがあの二人のために開けられているのだ。
「メイっちが待ち伏せしている隣の部屋にですね」
「何か罠を張っているのですか?」
「にひひひひ。ベッドを用意してあるんですよ」
ベッドである。
普通に考えると眠る場所なのだが、今回は話が違っている。
もしかしたら、展開的に何か起こっても問題無い。
いや。むしろ何か起こるべきである。
「・・・・・。返して下さい」
思わず剣帯に伸びた手が、錬金鋼を掴めずに空振りしてしまった。
そして何時の間にかミィフィと反対側にオスカーが立っている。
ならば話は完璧に分かってしまう。
「駄目」
一刀両断だった。
最近、徐々にオスカーの性格が弛んできているように思えるのは、フェリの気のせいであって欲しいところだ。
そうでなくても、変な人間に事欠かない今日この頃なのだ。
「まあ、アルセイフ君にそんな度胸はないと思うがね」
そう言うオスカーの表情が、微妙に引きつっているように見えるのは気のせいではない。
なにやらフェリの背筋にも、悪寒のような物が走っているし、部屋の空気が急激に下がったようにも思えるのだ。
気温でないところがミソだ。
「ふ、ふふふふふふふふふふ」
ミィフィ以上に不気味な笑い声から注意をそらせるために、必死になって話題を探す。
だが、誰かが話題を探すよりも速く、階下から上がってくる扉が開かれた。
今日に限って下のフロアにいるのは二人だけだ。
「な、なに?」
「ひゃ?」
扉を開けた瞬間、部屋の空気が異常であることに気が付き、その場で硬直する二人。
ミィフィが期待した展開があったにしては早過ぎるので、今回何もなかったのだろうと言う事が分かる。
もしかしたら、隣の部屋に用意してあったベッドに気が付かなかっただけかも知れないが、兎に角状況が動いたのでそれで良しとすることにした。
「お帰り二人とも。速かったね」
何かがあったと言う事を前提に話が進んでいるミィフィだが、その表情からは血の気が引いて今にも倒れてしまいそうだ。
考え込んでいたニーナも同じ状況に陥っているので、この話題から強制的に離れなければならないと心に誓う。
「もっとゆっくりしてくれば良かったのに。別に明日の朝になっても、何の問題も無いわよ。ええ。全くこれっぽっちもノープロブレムよ」
とてもそうは見えないリーリンの台詞は、どんどんと棒読みになって行く。
そろそろ危ないかも知れない。
周りにいる人間が迷惑だからと、必死に止めようとする。
「そうそうレイとん」
「な、なに?」
あまりにも恐ろしいリーリンに気圧されてしまい、行動を起こせなかったフェリ達と違って、今回の騒動の原因を作りだした不気味な生き物が、なにやら手紙のような物を取り出してレイフォンに話しかけている。
もしかしたら、これこそがこの事態を打開するための切り札かも知れないと、そう思ったのだが。
「シノーラさんて人から手紙が来ていたよ。間違って家に配達されたみたい」
そう言いつつ、ニヤリと笑いつつ、手紙をレイフォンに向かって差し出すミィフィ。
だが、受け取ったレイフォンは不思議そうな顔で手紙とミィフィを見比べている。
もしかしたら、シノーラという人物に心当たりがないのかも知れない。
「シノーラって、誰?」
「・・・・。私に聞くのは間違いだと思わないのかね、君は?」
賛同の気配があちこちから立ち上っているのが分かる。
確かに、ヨルテムからレイフォンに来た手紙と言う事は考えられるが、確率としてはグレンダンからだという方が高いと思うのだ。
それを裏付けるように、リーリンが少々驚いた表情をしているのが確認出来るし。
「シノーラ先輩と知り合いだったの?」
「リーリンの知り合いなのぉぉぉ!!」
台詞の最後が驚愕していたのは、手紙に書かれている差出人などを読んで驚いたからの様だ。
名前には心当たりがないようだが、筆跡には思い当たる節があるのかも知れない。
恐る恐ると、封を切って中身を取り出すレイフォン。
そして硬直してしまったようで、全く活動が停止してしまっている。
いつまでたっても再起動しそうにないために、好奇心丸出しのミィフィが手紙を奪い取り、そして読み上げる。
拝啓。
あなた様がグレンダンを旅立たれて一年以上の月日がたちました。
お元気でいらっしゃいますこととお喜び申し上げます。
さて。
リーちゃんに手ぇ出したらぶっ殺す!
その胸をぐわっしぐわっしなぞと揉みやがったら、天剣十人送りつけてなぶり殺しにする!!
万が一、億分の一、兆分の一の確率でも孕ませやがったりしたら、切・り・落・と・す!
これからも壮健でいらっしゃいますよう、遠いグレンダンの地から願っております。
敬具。
親愛なるレイフォン・アルセイフ様へ。
シノーラ・アレイスラ。
読み上げられた内容のギャップに思わず全員が絶句する。
レイフォンが再起動出来ないのも当然だ。
だが、その絶句の中から動き出したのは、やはりというか何というかウォリアスだった。
なにやらとんでもない破壊力を秘めた爆発物を扱うように、慎重にミィフィの手から手紙を抜き取る。
そして3秒ほど文面を見て。
「二人の内どっちの筆跡に心当たりがあるんだ?」
「あ、あう」
どうやら二人掛かりで手紙を書いたようだという事が分かった。
それならば、挨拶文と本文のギャップの説明は付く。
まあ、挨拶文などは定型文章だから、差して意味はないのかも知れないが。
「両方」
「成る程」
やっとの事で再起動したレイフォンが、もう一度しげしげと手紙を見詰める。
ウォリアスの手にある手紙を、恐る恐ると遠くから。
活剄を使って、絶対に触れないように遠くからこわごわとのぞき見る。
「リーリン」
「な、なに?」
そして、やはり恐る恐るとリーリンに話しかけるレイフォン。
何か、とても聞いてはいけないことを聞こうとしているかのように、その表情は恐怖によって凍り付いている。
「シノーラさんってさ」
「うん?」
「天剣授受者と親しかった?」
間違っていて欲しいと思いつつ、質問していることが容易に想像出来る。
そして出てきた単語も問題だ。
天剣授受者。
レイフォンと同等かそれ以上の戦闘力を持つという、人外の化け物達のことだ。
そんな連中と親しいと言うだけで、シノーラという人物がただ者ではないことの証拠になる。
「うん。留学する私を見送りに来てくれたんだけれど、サヴァリス様とリンテンス様が一緒だった」
「う、うわ」
それを聞いた瞬間、レイフォンは彫像と化した。
絶望という名の、誰も再現することが出来ないほど完璧な彫像へと。
「・・・・・・・」
そして、レイフォンのその状況を認識したウォリアスがなにやら考え込んでいる。
だが、それだけではない。
何故かゴルネオも驚いた表情で固まっているのだ。
先ほど名前が出てきた、サヴァリスというのはゴルネオの兄だ。
何か心当たりがあるのだろう事が分かる。
「サヴァリス様が何か言ったら、しばくわよとか返していたから、きっとかなり親しいんだと思うけれど、やっぱり天剣時代に会っているの?」
「あ、あう」
まだ彫像と化したままだが、それでも少しだけ反応することが出来るようになってきている。
話が先に進みそうなので少し歓迎だ。
「もしかして、黒髪でスタイルが良くて、猛烈な美人で無駄に押しが強い人?」
「そう。やっぱり知ってるじゃない」
「う、うん。名前は知らなかったんだ」
猛烈にぎこちない表情でそう言うレイフォン。
もしかしたら、今回戦った老性体以上の脅威を目の前にしているのかも知れない。
それ程までに絶望と恐怖に支配されていた。
「成る程ね」
なにやら一人納得した様子で、レイフォンに手紙を渡すウォリアス。
受け取り拒否したそうだったが、それでもなんとかそれを受け取りポケットに仕舞い込むレイフォン。
実に嫌そうだ。
リーリンの暴走も止まったことだし、取り敢えずこれでよいかと思うフェリは、小さく欠伸をした。
そろそろ家へ帰ってベッドで眠りたいというのは、偽らざる本音なのだ。
名前を聞いても分からなかった。
シノーラとは名乗っていなかったので、全く心当たりがないのは当然なのだ。
わかりかけてきたのは、宛名を見た時だった。
レイフォン宛の書類は、カナリスが作成していることが多かった。
天剣授受者は一応女王直轄と言う事になっているから、その辺の文官が作成すると言う事の方が珍しかった。
カナリスはアルシェイラの影武者もやっていたので、便利に使われてしまったのだろう事が分かったほど、レイフォン宛の書類は彼女が書いていた。
そして今回の手紙の宛名も、間違いなくカナリスが書いた物だったのだが、問題は何故偽名を使っているかと言う事だ。
カナリス本人が手紙を出すのならば、そのまま本名でかまわないはずだ。
となれば、理由は全く不明だがアルシェイラが絡んでいると考える方が納得出来る。
それを理解した上で、本文を読んでも、更にとても恐ろしい恐慌状態に陥ってしまったのだ。
これほど恐ろしい手紙をもらったことは、未だかって無いし、もしかしたらこの先も二度と無いかも知れない。
しかもよりによって、リーリンを孕ませるなどと言う芸当が出来ると判断されているようなのだ。
そんな勇気はレイフォンにはないのだ。
まあ、それはさておき、今問題なのはアルシェイラの手紙を貰ってしまったために、冷え固まってしまった心と体を何とか温めなければならないという、緊急的な事態の方だ。
そこでふと思い出す。
ヨルテムが都震を起こして動けなくなった時に、メイシェンからお守りをもらった。
それは今もレイフォンが持ち歩いているし、当然老性体戦の時も、肌身離さずにいた。
強ばった手を何とか動かして、そのお守りが収納されているポケットをまさぐる。
小さな布で出来たそれを発見した途端、身体に熱が戻ってきた。
単純な物だと自分でも思うのだが、今この場では絶対に必要な行動だったのだ。
と、ここで疑問に感じる。
「そう言えば、これの中身って」
小さな布で出来た熱の素を取りだし、目の前にかざしてみる。
お守りである以上、中身が何であれ問題無いと言ってしまえば問題無いのだが、ほんの少しだけ疑問に思ってしまったのだ。
だが、それによって引き起こされた現象はあまりにも激しかった。
「ああああああああ!!」
いきなりだった。
何の前触れもなくメイシェンが絶叫し、目の前に持ち上げていたお守りごとレイフォンの右手を拘束。
そのまま肩が外れるのではないかと思えるほどの速度で抱え込んだ。
武芸者であるレイフォンが、肩の脱臼を心配するほどの速度で、一般人のメイシェンが運動したのである。
これだけでも驚愕に値する事実だったのだが、更に事態は突き進む。
「め、めい?」
必死に抱きかかえた右手に縋り付くように、レイフォンを見上げるメイシェンの瞳は、表面張力を突き破った涙であふれかえっていた。
何故そんな状況なのか全く理解出来ないまま、メイシェンの小さな声が耳に届く。
「それは、聞いては駄目です」
すっかり涙目で訴えかけられてしまっては、否という事は出来ない。
少々疑問に思っただけなので、全く持って青天の霹靂だったのだが、兎に角頷いてこれ以上追求しないと表現する。
言葉にしなかったのは、単に驚いて上手く喋ることが出来なかっただけで、深い意味は特にない。
レイフォンを見上げる少女が、ほっと安堵の表情を浮かべたのを見て、若干だが、中身が気になってしまうと言う事もないわけではないような気がするが、それを殴り倒しても別段何の苦痛も感じない。
いや。実を言うと他に気にすべき事柄があるのだ。
「おどおどした外見を装いつつも、計算高く行動する魔性の女だとは思っていましたが、まさかこれほどまでに恐ろしいとは思いもよりませんでした」
「・・・・。そうか。これが魔性の女という生き物なのか。始めて見たがなんと恐ろしいのだ」
フェリとニーナの声が聞こえてきたからだ。
メイシェンと二人で視線を合わせて、何が起こっているのか、お互いが理解していないことを確認。
そろってフェリ達の居る方向を見る。
なにやら目付きが鋭くなっているフェリを発見。
どういう訳かとても怖い顔をしているニーナも発見。
果物ナイフで武装しているリーリンがゆっくり立ち上がるのも発見。
何か恐るべき事態になりつつあることも認識。
そして、他の人達の視線も少々異常であることも認識。
ニヤリ笑いを浮かべるミィフィとウォリアス。
あちゃぁ、と顔を覆って溜息をつくナルキ。
視線をそらせるゴルネオとオスカー。
訳が分からないと首をかしげるシャンテ。
全く意味不明だ。
だが、シャンテ以外の全員の視線が少し気になった。
メイシェンを見ているはずなのだが、その視線はほんの少しだけ下を向いているのだ。
そう。メイシェンの胸付近を。
何かあるのだろうかと思い、レイフォンもメイシェンの胸付近を見て、そして理解した。
いや。視線を向ける前に、無意識的な反応で右手の感覚を確認してしまったのだ。
胸骨と思われる、平たい骨の感覚がある。
メイシェンの柔らかくて温かい両手の感覚もある。
だが、問題なのはそれではない。
それは驚くほどの弾力を持っていた。
そして信じがたいほど柔らかかった。
更に、凍り付いたレイフォンの心を蒸発させるほどの暖かさを持っていた。
何よりも、恐るべき丸みを持ってレイフォンの右手を挟み込んでいた。
「あ」
「い?」
二人で同時に理解して見つめ合ってしまう。
そう。メイシェンはレイフォンの右手を両手で捕まえて、自分の胸の谷間へと押しつけていたのだ。
何が起こっているかを理解したが、それに対応出来るかと問われたのならば無理だと答えるしかない。
こんな状況は生まれて始めてである。
いや。小隊入りを断った時に発作を起こして、病院に担ぎ込まれた時、気が付けばメイシェンの胸を揉んでいたという事態はあった。
何故そうなったのか未だに不明だが、兎に角そういう事態にはなっていた。
だが今回は訳が違う。
あろう事か、メイシェンがレイフォンの腕を拘束しているのだ。
そして、見つめ合っていたメイシェンの瞳に何度目か分からないが、涙が盛り上がるのを確認。
「ひゃぁぁぁ」
「ひぃぃぃん?」
悲鳴を上げて手を離し、後ずさるメイシェンと、取り敢えずホールドアップしつつお守りを死守するレイフォン。
そこで気が付いたのだが、メイシェンの視線が批難しているように見えているのだが、何かの間違いであって欲しいところだ。
だが、現実にメイシェンはレイフォンを責めているようにしか見えないのも、きちんと認識しているのだ。
そして。
「レイフォンの莫迦ぁぁぁぁぁ!」
絶叫と共に踵を返す。
その後を涙のしずくが追いかけているところを見ると、完璧に泣いてしまっているようだ。
そして、泣きながら扉の方へと全力疾走。
「待ってメイシェン!」
活剄を使える距離でなかったので、普通に走ろうとしたがどうしても加速力がたりない。
メイシェンの肩に手が触れるよりも速く、扉を潜ってしまった。
「ぎゃむ」
そして、一メルトル先にあった壁へと全力で特効を敢行してしまった。
変な悲鳴を上げて尻餅をつくメイシェンに、やっとの事で追いついた。
「前見ながら走らないと、危ないよ」
いらないことを言ってしまったと後悔したが既に遅い。
レイフォンを批難するメイシェンの視線が更に凄まじい物になってしまっている。
見上げられる視線がもの凄く痛い。
「レイフォンの莫迦ぁぁぁぁぁぁ!!」
もう一度絶叫しながら立ち上がって、今度こそ廊下を全力で走り出してしまった。
この先に階段はなかったが、また壁に激突するといけないので、本格的に追いかけることとなった。
無くすといけないので、騒動の原因たるお守りを胸ポケットにしまいつつ。
ラブコメを間近で見せつけられたゴルネオは、老性体戦が終わったことを完全に認識出来た。
これほど弛んだ事態が展開していて尚、戦いの最中などと言う事はあり得ないのだ。
ツェルニに来てからこちら、天剣授受者の情けない姿しか見ていないような気がするが、きっとレイフォンの個人的な事情なので気にしないことに決めた。
元と付いていることだし、気にしないに越したことはないのだ。
それよりも問題は。
「なあ。あのお守りってさ」
「なんだねウッチン?」
作戦遂行中は張り詰めた空気に支配されていたウォリアスだが、流石にあれを見て尚緊張していることは出来なかったようだ。
猛烈に気合いの抜けた表情と声で、なにやら確認するためにミィフィに質問している。
「ミィフィが渡せって言っただろう」
「ほうほう。流石ウッチンだね。その通りだよ」
それ程豊かではない胸を張りつつ、肯定するミィフィは良いとしても、納得して脱力するウォリアスは少々問題かも知れない。
件のお守りの中身がなんなのか、それを予測していると言う事になるから。
「中身ってさ」
「うむうむ」
「武芸者が持ったが最後、老性体を素手で瞬殺出来るようになるとか言う、根も葉もない出鱈目がまかり通っているという」
「ほうほう。やはり知っていたか」
どうやら、レイフォンの胸にあるお守りの中身は、かなりメジャーな物のようだ。
生憎とゴルネオには思い当たる節がないけれど。
「そんな凄まじい物があるのか?」
だが、良くも悪くも素直なニーナがそれに食いついてしまった。
根も葉もない出鱈目と言っているのだが、そこは綺麗に聞き流してしまっているのかも知れない。
「にひひひひひ」
不気味に笑うミィフィが、そっとニーナの耳元へと口を寄せる。
それに誘われるように全員の注意が注がれるが、いきなりゴルネオの方を向いたミィフィが鋭く警告した。
「男は駄目ですよ。これは女の子の秘密ですからね。にひひひひひ」
「・・・・・・・・・・・・・。そうか」
ここで理解した。
踏み込んでは駄目なのだと。
ここから先は、男が踏み込んでしまってはいけない世界なのだと理解した。
だから、オスカーとウォリアス、それとシャーニッドを引っ掴み部屋の隅へと避難する。
万が一にでも関わってしまったら、とても恐ろしいことになりそうだったからだ。
そして女性陣が円陣を組み、ミィフィがなにやらささやく。
次の瞬間、聞いていた全員がスカートを押さえつけて絶叫する。
「嘘です!!」
異口同音だった。
そして、レイフォンが持っているお守りが相当危険な物であることを認識。
思わず心の中で冥福を祈ってしまったほどだ。
だが、事態はそれどころでは終わらないのだ。
そう。何時の間にかシャンテの姿が消えていたのだ。
嫌な汗が背中を流れるのを感じつつ、逃げ出すための算段を付けようとしたのだが、相手はシャンテだ。
同じ小隊に所属していて、隣の部屋に住んでいる以上、何時でもゴルネオを襲うことが出来る。
ならば、早めに対決して決着を付けておいた方が良い。
その決意を固めるのを待っていたかのように、興奮で頬を赤らめたシャンテが何処からともなく戻ってきた。
その手には当然のように、レイフォンが持っていた物と同じお守りが握られている。
何時用意したかは分からないが、ミィフィが渡したことだけは間違いない。
「ゴル」
「う、うむ」
期待と信頼と、そしてほんの少しの不安を持った瞳で見つめられたゴルネオの背中を、意味不明な冷や汗が大量に流れる。
それを証明するかのように、女性陣の視線が猛烈に厳しい。
「これを持っていてくれゴル」
「あ、ああ」
「これを持ってれば、もうゴルは無敵だぞ!」
これさえあればレイフォンと戦ってさえ勝てると、本気で信じているらしいシャンテの視線が痛い。
その他の女性陣の視線なんかよりも、格段に痛い。
中身がなんなのか、ウォリアスに確認したいような、絶対に聞きたくないような、そんな複雑な感情がゴルネオの中で暴れまくる。
「良く泣きながら走っている女の人って見るじゃないですか」
「ドラマとかではありがちだよなぁ」
そんなこちらのことなど知らぬげに、いや。積極的に見なかったことにするかのように、ウォリアスが取り敢えず関係なさそうなことを話題にしている。
空気に耐えられなくなったのか、シャーニッドがそれに同調してしまって、会話が成立してしまっている。
「何でぶつからないんだろうと思っていたんですが」
「今日は見事に壁に激突していたなぁぁ」
「メイシェンが特別なのか、それとも最終的にみんなぶつかるのか、興味深い研究課題だと思いませんか?」
「そうだなぁぁ。俺って女泣かせるようなことってしていないから、今まで気にしてなかったけど、調べてみても面白いかも知れねぇなぁぁ」
完璧にゴルネオのことを無視した会話が、何の緊張感もなく続けられている。
一縷の望みを持って、オスカーに視線を向けてみたのだが、こちらを見ていないことに気が付いただけだった。
もしかしたら、レイフォンには及ばないだろうが、これから先ゴルネオにもラブコメ人生が待っているのかも知れない。
相手がシャンテだった場合、もしかしたらレイフォンを超えるかも知れないと言う、とても恐ろしい未来予想図込みの、ラブコメ人生がだ。