午前中の、かなりの時間オスカーの仕事場で寝ていたニーナだが、当然レイフォンの講義を聞き逃すなどと言う失態は犯さない。
何を伝えようとしているのかは分からないが、死を覚悟しなければならない戦場に行く前に、やらなければならないのだから、相当に重要なことだというのは理解している。
そして今、ニーナがやってきた狭い部屋にいるのは、文字通りツェルニの小隊員全員だ。
普段不真面目を通しているシャーニッドもいれば、レイフォンと因縁のあるゴルネオもいる。
ヴァンゼとオスカーも神妙な顔つきで始まるのを待っている。
だが、少しだけ違和感を覚えた。
部屋の空気が変だというわけではない。
ヴァンゼとオスカーが神妙な顔つきで開始を待っている以上、他の小隊員がふざけられるわけがない。
とは言え、一年生であるレイフォンの話を真面目に聞こうという精神構造の人間も、あまり多くはないのは事実だ。
全体的にざわついているのは良い。
それは予測の範囲内だ。
だが、まだレイフォンが現れていない演台がおかしい。
一応机があるのは良いだろう。
だが、その机の両脇にも、なにやら机が並んでいるのだ。
シュナイバルで公務員の不正があった時に、謝罪会見が行われたが、それに似ている。
数人で並んで謝罪の言葉を述べて頭を下げるのが常だったが、その時は確かに横長の机が必要だった。
だが、今回この場で話をするのはレイフォンただ一人のはずだ。
ご丁寧に布が張ってあって、腰から下が聞いている人間から見えないようになっている。
非常に意味不明だ。
だが、それを詮索している時間はない。
無表情というか能面のような顔をしたレイフォンが、部屋へと入ってきて演台に立ったのだ。
そして第一声。
「皆さんこんにちは。一年生のレイフォン・アルセイフです」
普通の挨拶だ。
だが、そんな物は殆ど無意味だ。
小隊員であり、第十六小隊戦で鮮烈な活躍をしたレイフォンを知らない人間など、この部屋には誰一人としていないのだ。
身体の後ろで手を組んでいるらしいレイフォンが、更に続ける。
「最初に言います」
能面のような顔は、次にどんな言葉を出すか全く予測が出来ない。
それは、訓練や試合では決して見せない、レイフォンのもう一つの顔だ。
「はっきり言って皆さんは弱い」
その始めてみるレイフォンから、とんでもない言葉が出てきた。
いや。ニーナは良い。
自分が役に立たない弱い武芸者であることを知っているから。
それでも僅かでは済まない感情の揺らぎを感じた。
そして、弱いと言われて平然としていられるような人間がこの部屋にいるはずがないのだ。
ヴァンゼやオスカーでさえ、歯痛をこらえるような表情になったし、それ以外の者達ははっきりと殺気だった。
だが、その感情が爆発するよりも早くレイフォンの言葉が続く。
「前回の汚染獣戦、あの程度で自信を持たれてしまっては困るので、このような場を用意して頂きました」
前回の汚染獣戦。
後から知ったが、幼生体と呼ばれる汚染獣との戦いは、ツェルニ武芸者の総力を挙げて戦い、そして勝った。
実戦を経験して生き残ったために、武芸者達は自信を持つことが出来た。
これからも何とかやって行けるだろうと。
つい今朝まではそう思っていた。
だが、それが違うらしいことをニーナは聞かされた。
ニーナ達が戦って倒した幼生体は、おおよそ三百体。
それが少ないとは思わないが、全部ではないらしいと言う事も予測している。
レイフォンの視線が、ゴルネオを捉える。
渋々と、それはもう、これ以上に嫌なことはないと言いたげな表情のゴルネオが立ち上がり、そして恐るべき事実を口にした。
「通常母体となる雌性体、一体から生み出されるのは、おおよそ千体以上の幼生体だ」
「!!」
部屋にいたほぼ全員から、驚愕のどよめきが起こる。
あれだけ必死に戦い倒したにもかかわらず、本来相手にしなければならなかった敵戦力の、三分の一でしかなかったのだと。
そして疑問が浮かぶ。
残りはどうしたのだろうかと。
いや。恐らくそれはレイフォンが倒したのだという事は分かる。
ツェルニの武芸者五百人で、三百しか倒せなかったのに、レイフォンはたった一人で七百前後を始末出来たのだと言う事になる。
不可能だと思った。
「あり得ん! そんな事が出来る物か!!」
ここでやっと、感情が爆発という形を取ることが出来たようだ。
声を上げたのは誰だっただろう?
恐らく何処かの小隊長だったはずだが、今はそれどころではない。
「出来ますよ」
「どうやってだ!」
どうやって?
時間をかければ何とかなるかも知れない。
だが、普通の方法で短時間に決着を付けることは無理だ。
あの状況から考えて、ニーナ達が戦端を開くよりも早く、幼生体の数を減らしていたはずだ。
七百という数の幼生体をどうやってと言う疑問は、当然なのだ。
「こうやってです」
「!!」
突如として、部屋全体を躍動的な剄の気配が支配した。
そして次の瞬間、あろう事かニーナの剣帯に収まっていた錬金鋼が空中に持ち上がった。
いや。ニーナのだけではない。
その部屋にいる、全員の全ての錬金鋼が、何の支えもなく空中に持ち上がってしまったのだ。
有るのはただ、躍動的な剄の気配だけ。
そして、後ろ手に組んでいたレイフォンが、その手を前へと持ってきた。
おかしな物が握られていた。
最近持ち替えた刀の、その柄だけが握られていた。
「鋼糸という武器です」
それを聞いて理解した。
レイフォンの刀、その青石錬金鋼には特殊な設定が存在していることを。
それを使って、まるで特撮のように朝食を作るレイフォンを見たことがある。
これも、その鋼糸による作業なのだという事が分かった。
ゆっくりと錬金鋼が持ち主の剣帯に収まって行く。
そして、剄の気配が更に躍動的になった時に、それは見えてきた。
微かに青く耀く細い糸だ。
一本ではないらしいことが分かるが、何本かは全く分からない。
そしてこれが、今、見えているわけではないことに気が付いた。
レイフォンが見せてくれているのだ。
「千を越える鋼糸を操り、弱敵を切り刻むことが出来ます。幼生体戦には重宝する武器ですね」
言い終わると、柄が基礎状態へと戻って行く。
見ることさえ出来ないその武器を、自在に操るレイフォンのその実力に、一瞬恐怖を覚えた。
小隊対抗戦はおろか、武芸大会でさえ使うには危険すぎるのだ。
「まあ、ここまでは前振りです。本題はここから」
既に全員が息を飲んでレイフォンを見詰めている。
強すぎるのだ、レイフォンは。
それは知っていたつもりだったが、全く不十分だったことをニーナが確認している間に、話は進んでしまう。
「本題は、都市外戦闘についてです」
表情は変わらない。
いや。そんな物は始めから無い。
だが、レイフォンの周りの空気が急激に緊張した。
それを感じることが出来たからだろう、全ての小隊員が沈黙を持って、次の言葉を待つ。
「都市外戦闘での基本は、無傷で帰るかそれとも死ぬか。二つに一つです」
誰かが唾を飲む音が聞こえた。
それはニーナ自身だったのかも知れないし、誰か他の人物だったのかも知れない。
「七年ほど前になりますが、僕が初めて汚染獣と戦った時の話です」
レイフォンの実戦経験が異常な数値だと言うことは知っている。
そして、信じられないほど幼い頃から戦場にいることも知っている。
そして、これから語られるのは、初陣の経験談だろう事が分かった。
その経験が今の、武芸者としてのレイフォンを形作っているのだと。
「戦闘中に、一緒に戦っていた武芸者の一人が汚染獣に食われました」
前回の幼生体戦では、そう言う被害はなかった。
危険だと言う事が分かっていたし、そもそも戦力にそれ程困ることがなかった。
だから、連携を重視し危険を分散させることが出来た。
何ヶ所か危ないところもあったが、それも大事には至っていない。
いや。レイフォンが助けてくれたのだという事が分かった。
恐らく鋼糸を使い、危険な場面でギリギリの時に、幼生体を切り裂いてくれたのだ。
ニーナも何体か見た。
恐るべき切り口を晒して両断されている幼生体の死骸を。
誰がやったのかその時は分からなかったが、今ならはっきりと分かる。
レイフォンがいたからこそ、重傷者や死者が出なかったのだと。
「ちょうど腰のやや下辺りに食いつかれました」
骨盤のやや下辺りを片手でなぞる仕草をする。
最低限両足切断だ。
もしかしたら剄脈を傷付けられ、再起不能かも知れない。
そんな危険な位置に噛み付かれてしまったのだと、理解出来た。
「どう対応することが正しいと思いますか?」
ここへ来て、レイフォンが部屋中を見回して質問してきた。
だが、その視線はあくまでも冷たく乾燥している。
こんな目にならなければ生き残ることが出来なかった戦場。
それを想像しただけでニーナの背筋を寒気が走った。
だが、沈黙に支配された部屋でレイフォンが紡いだ言葉は、そんな物が全く生温い想像であることをニーナに教えるのに十分だった。
「出来るだけ苦痛を与えないように、その武芸者を殺すことです」
何を言っているのか分からなかった。
いや。分かりたくない。
一緒に戦っていた仲間を、その手にかけなければならないなどと言うのだ。
思わず席を蹴って立ち上がっていた。
「そんな事はさせん!」
絶叫する。
だが、その声は大きさに反比例するように虚しく響いた。
そして、レイフォンの視線がニーナを捉える。
思わず怯んだ自分に鞭を打って、正面からその視線を受け止める。
負けてはならないのだ。
誰かの犠牲の上に成り立つ平穏など、断じて認めるわけには行かない。
「では、どうしますか?」
「・・・。そ、それは」
当然切り替えされたが、言葉が出ない。
それでも、諦めるわけには行かないのだ。
「す、速やかに汚染獣を倒して」
「それが出来ていれば、そもそも食われません」
何とか返したが、それはすぐに撃破されてしまった。
当然だ。
速やかに殲滅することが出来るならば、誰も犠牲にはならない。
「な、ならば、汚染獣の顎を打ち砕いて」
「その場合、激しく動き回り相当に頑丈な間接を破壊しなければなりません。難易度はあまり変わりません」
ここではっきり分かった。
顎を破壊するという行動は、既に試されて失敗しているのだと。
考えてみれば当然だ。
汚染獣との戦闘が異常に多いグレンダンで、ニーナが考えるようなことは既に考案され、試されて結果が出ているのだと。
「な、ならば、ならば、腰付近で人体を切断して」
「・・・・・・・」
レイフォンの冷たい視線の温度が、更に下がった。
確かに、切られたら痛いことは間違いないが、それでも生きていられるのだったら、何とか許容出来るかも知れないのだ。
最善とは行かないまでも、それなりによい手だと思ったのだが。
「その場合、痛みと失血でショック死しますね」
「・・・・・。あ」
レイフォンの視線が冷たくなった理由が分かった。
麻酔無しでそんなことをやれば、当然その痛みは想像を絶する物になる。
アドレナリンなどが大量に分泌して痛みを感じなかったとしても、大量の失血はそれだけでショック状態を起こす。
それに思い至らなかったのは、全く恥じ入るしかない。
だが、更にレイフォンの言葉は続いてしまった。
「例えそれを乗り切ったとしても、大量の汚染物質に直接内臓を灼かれて死にます。すぐ側に最新設備を整えて、医師と看護師が大量にいる病院がなければ、苦しみ抜いて死ぬことになります」
都市外での戦闘には、常に遮断スーツの制限がかかる。
スーツに微かな傷が出来ただけでも、確実に人体を蝕み死に至らしめる汚染物質が充満している以上、手や足なら兎も角腰付近での切断など論外だったのだ。
その認識がないがために、ニーナは全く的外れなことを言ってしまったのだ。
それを認めてしまったからだが、力なく椅子に崩れ落ちる。
「そして、共に戦った者の勤めとして、出来るだけ速く確実に、その武芸者の首をはねなければなりません」
そっと右手が挙がり、自分の首辺りを横になぐ。
それを見て、鼓動が激しくなり視界が狭まった。
そこまでして戦わなければならないのかと、恐怖を覚えた。
「初めての実戦でその現場に遭遇した僕は、恐怖に取り付かれて正しい行動を取ることが出来ました」
それはつまり、目の前にいるレイフォンが、仲間を殺したと言う事だ。
何時も弛んだ表情をしている、勉強が苦手でヘタレなところのある、ニーナの部下が。
恐怖のあまりと言った。
怖かったのだろう事は分かる。
それでも、とても信じられないし、信じたくない。
「助けようとしなかったのか?」
呆然とと言うよりも、むしろ縋り付くように言葉を放つ。
レイフォンにそんなことをして欲しくないと願って。
「そんな余裕はありませんよ。何しろ全てが初めての経験でしたからね」
ゆっくりとレイフォンが部屋中を見回して、他に異論がないかを待つ。
だが、都市外での実戦の経験者などここにはいない。
いるのは、武芸大会を想定した訓練を受けてきた、対人戦闘の経験者だけだ。
その対人戦闘も、相手を殺す危険性が極めて低いという前提に立った者だった。
当然、自分が死ぬという危険性も殆ど無い。
「納得する必要はありませんが、もし、耐えられないというのならば、絶対に汚染獣戦、それも都市外戦闘には参加しないで下さい。甘い判断が戦線を崩壊させ、より大量の犠牲者を出すでしょうし、もしかしたら都市に被害が出てしまうかも知れませんから」
都市外戦闘に甘えは通用しない。
それをレイフォンはツェルニ武芸者に伝えているのだ。
何のためにかは分からないけれど。
「死ぬと思ったら死ぬ。勝ったと思ったら死ぬ。助けを求めたら、助けに来てくれた人を巻き添えにして死ぬ。安全だと思ったら死ぬし、逃げようとしたら死ぬ。それが都市外での汚染獣戦です」
生き残ることが出来るのだろうかという疑問が浮かんだ。
オスカーから、都市外戦闘をする時には命を都市に残しておくというレイフォンの言葉を聞いた。
その意味がやっと理解出来てきた。
想像を絶する戦場に、レイフォンは立ち続けて、そして生き残ってきたのだ。
「出来るのは生き残る確率を上げることだけです。友人に自分を殺させないために、友人を死なせないようにするために、生き残るためには、強くなるしか有りません。そして強くなるための基本中の基本は剄息です」
やっと話が次の段階へと進んだ。
いや。この話をするために都市外戦闘のことを話したのだろうと思う。
ここにいる全員にきっちりと理解させて、武芸者としての覚悟を決めさせるために。
「強くなろうと思ったら人間であることを止めて下さい。武芸者とは思考する血袋ではなく、思考する剄と言う気体です。呼吸の方法が違うんです。呼吸の意味が違うんです。五感の伝える情報よりも剄の伝える情報を信じて下さい」
武芸者とは剄脈のある人間のことだ。
そして剄の基本とは剄息だ。
それは、武芸科の教科書の始めの方に乗っている。
だが、そこには書かれていないことも色々と伝えられている。
「最終的には、剄息をしたまま活剄や衝剄にしない状況で日常生活を送れるようになって下さい。かなり辛いですが、それが出来るようになると剄量も上がりますし感度も上がります。僕が皆さんに完璧に伝えられることはこれだけです」
前振りの割に本題があっさりしているようではあるが、それはある意味仕方がない。
ニーナが刀を持ったところで、双鉄鞭と同じように使いこなすことは出来ないだろうし、レイフォンが双鉄鞭を持ったところで、刀を使うようには戦えない。
武芸者と武器の間には当然相性があるのだが、その相性が何故起きるのかを理論的に説明出来ない以上、確実に伝えられることは非常に限られている。
ましてや、レイフォンはツェルニ全武芸者を圧倒する実力の持ち主だ。
そんな非常識な武芸者から伝えられることが、一般武芸者の役に立つことの方が珍しい。
「組み手の相手や技の相談には乗りますが、最終的に武芸者とは孤独な生き物です。一人で悩んで考えて答えを出して、そして戦場に出るほか無いのです」
淡々と、それこそ感情の起伏一つ見せずに話を終えたレイフォンが、全員に一礼すると部屋を出て行く。
残された武芸者達の顔には、色々な感情がやっとの事で浮かんできていた。
未だに驚愕から抜け出すことが出来ない者も居れば、レイフォンに反感を持ったらしい者もいる。
だが、伝えられた事柄について考えてる者もかなり多い。
ヴァンゼやオスカー、ゴルネオやシン、小隊長クラスの武芸者は真剣に今の話を考えているようだ。
中でも最も深刻な表情で考え込んでいるのは、第十小隊長のディンだ。
その雰囲気は、同じ小隊のダルシェナでさえ近付くことがはばかられるほど緊迫している。
それを認識しつつも、ニーナは席を立ちレイフォンの後を追った。
どうしても納得が行かなかったのだ。
レイフォンが人を殺めたと言う事もそうだし、それを当然のことと捉えてしまっていることもそうだ。
ある意味ガハルド事件のことを聞いた時以上に、納得出来ていない。
だから、レイフォンが部屋を出てから僅かな時間をおいて扉を潜ったのだが、しかし、そこにレイフォンの姿はなかった。
代わりに佇んでいたのは、レイフォンの同級生であるナルキ。
男子トイレの扉を右肩に当てて、腕を組んで瞑目している。
小隊員ではないが、間違いなくレイフォンからさっきの話を聞かされていたために、裏方としてここに来ているに違いない。
ニーナの接近に気が付いたようで、ナルキが瞼を開けて視線がこちらへとやって来た。
「レイフォンを知らないか?」
この廊下にいたのならば、間違いなくレイフォンと遭遇しているはずだ。
殺剄を使ってこっそりと逃げたと言う事がなければ、ナルキは気が付いている。
その予測は間違いなかったようで、軽く頷くと右肩を当てていた男子トイレの扉を、やや強く叩いた。
ここにいると言う事をニーナに知らせたのか、それともニーナの接近を中にいるレイフォンに伝えたのか。
その判断が付かないまま、ナルキの側まで歩み寄ると、誰かが嘔吐する苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
誰だかは分からないが、酷く体調が悪そうなことだけは間違いない。
「だから言ったんだ。食べ合わせには気をつけろと」
唐突に中からそんな明るい声が聞こえてきた。
どうやら二人いるようで、更に嘔吐する呼吸音と明るい声と言うアンバランスな音が聞こえてくる。
「食べ合わせというのにはそれなりの根拠があるんだ。それを無視するんだったらこれくらいは許容しないとな」
どうやら食あたりか何かのために嘔吐している人間がいるようだ。
だがここで違和感を覚えた。
この付近で人がいるのは、ついさっきまでニーナがいた部屋だけだ。
そして、ここを通ったのは恐らくレイフォンだけだ。
レイフォンが食あたりで、それ程体調を崩していたようには見えなかった。
ならば、もしかしたら。
「お待たせナルキ」
水を流す音の少し後、ようやっと扉が開き、中からレイフォンを引きずるようにして現れたのは、いつも以上に眼が細くなっているウォリアスだ。
ニーナを見た視線が、少々きつい物に感じたのは、きっといつも以上に細い眼が原因ではない。
そして、ニーナが見ている前でナルキが空いていたレイフォンの肩を担ぎ、引きずるようにして部屋とは反対の方向へと歩き出す。
青白い顔をしたレイフォンは、かなり消耗しているように見えるが、ニーナから顔を背けるようにしているのではっきりとは分からない。
「食べ物と言えば聞いたことがあるんだけれどね」
「なんだウッチン?」
「夏期帯を闊歩することが多いレギオスではね」
「ああ」
「芋虫をソテーした物で来客をもてなす風習があるんだそうだ」
思わず想像してしまう。
芋虫と言えばあれだ。
フライパンの上でこんがり焼かれるそれを想像したニーナは、思わず口元を押さえてしまった。
それはナルキも同じだったようで、非難囂々の視線でウォリアスを睨んでいる。
「へえ。あんなフニフニして歯触りが悪い物で持て成すなんて変わっているね」
唯一平然と返したのはレイフォンだ。
かなりずれていると思うのだが、本人的には当然の返しなのだろうと思う。
変人ぶりに少々呆れてしまった。が。
「・・・・。レイフォンよ」
「なに?」
「何で歯触りが悪いと言う事を知っているんだ?」
突如今までに聞いたこともないほど、真剣なウォリアスの質問が発せられた。
そして理解した。
レイフォンは、あれの歯触りが悪いと自分の体験のように話しているのだ。
いや。もしかしたらそう言う話を聞いただけかも知れないが、きっとそうに違いないが。
「食糧危機の時に、近くで見つけたから食べてみた」
「「「・・・・・・・・・・・・・・」」」
三人で絶句する。
そして更に。
「油で揚げてみたら割と美味しかったかな? 生では流石に食べたことはなかったけれど」
想像する。
油の中でのたうちながら揚げられる、あれ。
「「!!!」」
とっさに口元を押さえつけつつ、まだ近くに有った女子トイレに駆け込む。
僅かに遅れてナルキも続いているところを見ると、同じ物を想像してしまったのだろう。
食糧危機が恐ろしい物だとは聞いていたが、ここまで凄まじいとは全く思いもよらなかった。
取り敢えず、吐き出せる物は全部吐き出して、口の中をすすいでいるニーナの横では、青白い顔をしたナルキもやっと人心地が付いたといった風に鏡を見ている。
ほぼ同じタイミングで口に水を含み、丹念に口腔の中を転がしてから吐き出す。
暫くあれを思い出させる料理には手を出さない方が賢明だろうと、そんな事を考えているニーナと鏡の中で視線を合わせたナルキが一言。
「レイとんの奴。今度復讐してやる」
しみじみと、深刻にそう言うナルキ。
ニーナも似たような意見を持っている。
どんな復讐が良いか考えつつ、ハンカチで手を拭いて扉を出ると。
「だからな。目に入る物を片っ端から食べるなよな」
「お腹が空いていたから仕方が無いじゃないか」
男二人は、扉の向かい側の壁により掛かり、そんな会話の真っ最中だ。
あまり具体的な表現に入られるとかなり困るのだが、その辺はウォリアスがきっちりと理解しているようで、やや強引に話を打ち切った。
「ほら行くぞ。メイシェンのご飯が待っているぞ」
「・・・・。何が出てくるか恐ろしい」
ナルキがそう言っているが、これから昼食の時間だから当然なのだが、今の状況で食事というのは少々苦しい。
だが、相手はウォリアスだった。
予測出来ることには全て手を打つことを心情としているらしい、この細目の少年にかかれば、あらかたの問題は既に解決しているようだ。
「今日はサンドイッチとサラダだそうだ」
「それなら怖くないな」
ほっと安堵の息をつくナルキ。
思わずニーナも、似たようなメニューの昼食を考えてしまったほどだ。
そして、まだ顔色が悪いレイフォンを真ん中に、三人が建物の外へ向かうために歩き出した。
「・・・・・・?」
ここで違和感を覚えた。
いや。そもそもが変だった。
全てが、レイフォンの講義に合わせて用意されていたような感覚なのだ。
あの講義の後では、肉を食べることは非常に苦痛なはずだ。
そうなると、レイフォンの講義の内容を知っていたと言う事になる。
そして思い出すのは、つい先ほどのレイフォンとウォリアスの会話の不自然さ。
そして、注意してレイフォンを観察する。
「目に入る物が食べられるかどうか気になるんだったら、汚染獣でも食ってればいいだろうに」
「そうだそうだ。グレンダンだったら汚染獣には困らなかっただろう」
その最中にも、やはりまだ食べ物の話題が続いているようだ。
そして、恐るべき物を食卓へ乗せようと提案するウォリアスとナルキ。
「うん。結構美味しかったよ」
「「「・・・・・・・・・・・・・・」」」
続いたレイフォンの台詞に凍り付く。
美味しかったというのはつまり、あれを食べたと言う事になる。
唯一知っている汚染獣である幼生体を思い出す。
鋼糸を使いぶつ切りにしたあれを、ホークとナイフを振るって、猛烈な勢いで食い散らかすレイフォンを想像する。
なんだか、非常にリアルだ。
「ほ、ほんとうか?」
「お、おいしかったのか?」
それは残り二人も一緒だったようで、割と真剣にレイフォンへと聞き返している。
そしてとてもにこやかな笑顔と共に。
「冗談だよ」
「な、なんだじょうだんか」
あまりにもあっさりと冗談だと言われて、思わず脱力するニーナとナルキ。
流石に、いくら食糧危機だからと言って、そしてグレンダンだからと言って、汚染獣を食べるなどと言う非常識以前の問題はやらなかったようだ。
だが。
「どっちがだ?」
「うん?」
ウォリアスだけが、真剣な視線でレイフォンを見詰めている。
その視線は、世界の真理を追究するかのように鋭く、そして妥協を知らないほどに苛烈だった。
だが、言っている意味が分からない。
ニーナの困惑を知らぬげに、最も恐るべき言葉が細目の少年の唇から漏れる。
「冗談という単語は、食べたと言う方にかかるのか? それとも美味しかったと言う方にかかっているのか?」
言われて気が付いた。
レイフォンは冗談だとしか言っていない。
何が冗談だったのか、聞いている誰にも分からない。
反射的に食べたと言う方に冗談がかかると思ったのだが、もし違ったとしたのならば。
「・・・・・・。さあ! ご飯を食べに行こう!!」
何故か元気よくそう言うと、ナルキとウォリアスを引きずるようにして急ぎ足で突き進むレイフォン。
さっきまでの弱々しい態度など何処にも見えない。
「お、おいぃぃぃ! どっちなんだ!」
「ま、待て待て待て待て」
二人の抗議の声など聞こえないかのように、建物から出るべく一直線に歩き去るレイフォンの後ろ姿が、とうとう角を曲がって見えなくなってしまった。
これで、汚染獣を食べたかどうか確認する術を、当面無くしたことになるが、それで良かったのだと思う。
いまは、レイフォン自身について考えなければならないからだ。
気が付くべきだったのだ。
数人が並べるだけの机と、そこに張られた布。
そしてナルキとウォリアスが部屋を出たレイフォンを待っていたこと。
そして何よりも、レイフォンの性格。
「あの馬鹿」
最初の汚染獣戦での体験は、レイフォンにとって非常に衝撃的だったはずだ。
それを大勢の前で話したとなれば、本人にかかる精神的負担は想像を絶する物があるはずだ。
足が震えているのを隠すための机と布だったはずだし、よろめく姿を見せないために二人が待っていたのだ。
そして、嘔吐してしまったために食べ合わせの話で誤魔化そうとしていたのだ。
全ては、ツェルニ武芸者を強くするために計画されたのだ。
ならば、ニーナがやらなければならないのは。
「・・・・・・。何をやればいいのだ?」
剄息での日常生活は当然だとして、他に何が出来るのだろうかと考える。
自主鍛錬をするのは当然だとしても、どうやって鍛えるかが全く分からないことに、なんの変わりもない。
小さく溜息をつくが、実はそれ程落ち込む必要はないのだと結論付けた。
何しろレイフォンは第十七小隊に所属しているのだ。
ならば、最も指導を受けやすいのはニーナ達に他ならない。
「・・・・・・」
そしてここで理解した。
レイフォンが小隊入りを拒んでいたのは、今の状況を予測していたからに他ならないと。
先ほどの講義もそうだが、第十七小隊のレイフォンでは言っていることが上手く伝わらないかも知れない。
そして、第十七小隊が最も恩恵を受けていると思われることも事実だ。
これは不公平感を即座に呼び起こし、嫉妬や羨望などの悪感情を呼び込んでしまう。
「そう言うことらしいぜ」
「どわ!」
その結論に達したところで、いきなり後ろから声がかけられた。
跳ね上がる身体を強制的に沈めて、錬金鋼を復元しつつ打撃を打ち込む。
相当激しく打ち込んだはずだが、ニーナの鉄鞭は同じ黒鋼錬金鋼の何かによって完璧に受け止められていた。
なにやら複雑な形をしているが、銃であるらしいことが分かった。
銃身が上下に厚く、所々に突起などが付いている、射撃武器と言うよりも打撃武器に近い形状をしている。
こんな武器を使っている小隊員は見た事がないので、握る手をさかのぼって行くと、なんとそこにいたのはニーナの小隊員だった。
「シャーニッド?」
「おう。天下の狙撃手。シャーニッド・エリプトン様だ」
鉄鞭を受け止めたままヘラヘラと笑うシャーニッドに思わず殺意を覚えるが、問題はそこではない。
いや。時期を見つけてきっちりと制裁を加えるつもりではいるのだが、疑問なのはシャーニッドが手にしている見慣れない武器だ。
「なんだこれは?」
しげしげと打撃武器のような拳銃を眺める。
黒鋼錬金鋼で射撃武器を作ったところで、射程距離は非常に短くなってしまうし、そもそもシャーニッドの武器は軽金錬金鋼製の狙撃銃のはずだ。
十四小隊との試合の時には、こんな物を持っていなかった。
「まあ、それは後回しで良いじゃないか」
だが、ニーナの質問をはぐらかしつつ、鉄鞭を受け止めていた拳銃を引く。
同じ黒鋼錬金鋼製とは言え、鉄鞭と比べるとかなり質量に差があることは明白だ。
だと言うのに、シャーニッドは平然と受け止めているのだ。
それはつまり。
「お前。かなり体調悪いだろう」
「っう!」
図星を刺されて狼狽える。
思わず視線がそれてしまったのがいけなかった。
「オスカーの旦那がなにやら難しい顔でお前さんのこと見ていたぞ」
「そ、それは」
猪突してしまうニーナのことを心配しているのか、それとも被害に遭うかも知れないレイフォンの心配か。
どちらにせよ、かなり拙いことになりかけていたことだけは間違いない。
だが、問題はもう一つあるのだ。
「シャーニッドはどうなのだ? レイフォンのあの話を聞いて平然としている様だが」
あまりにも何時も通りの表情だったのだ。
それはあり得ないのだ。
おおよその内容を知っていたはずのヴァンゼやオスカーでさえ、平静を保つことがやっとだったのに、シャーニッドは全く何時も通りの飄々とした態度を崩していないのだ。
「俺は知っていたからな」
「な、なに?」
あまりにも予想外な展開が連続して起こったせいで、ニーナは再び硬直してしまった。
レイフォンとシャーニッドが割と良く会っているらしいことは、あちこちから話としては聞いている。
曰く。毎日昼食をたかりに行っている。
曰く。レイフォンの回りにいる女の子が目当てだ。
等々。色々な憶測が飛び交っているほどには有名だ。
とは言え、上の二つが有力な仮説だが、ニーナから見てもそれは間違っていないと思っていた。
「良く昼飯を一緒に食っているんだが」
「たかっているのか?」
「その時に相談されたんだよ。実戦がどんな物か話したらみんなどう思うだろうってな」
ニーナの突っ込みは綺麗に無視され、何でもないかのように重要な話は進んでしまった。
そして、シャーニッドこそツェルニ武芸者の中で最もレイフォンから多くを学んでいると気が付いた。
それが身についているかどうか、非常に疑問ではあるのだが、それでも学んでいることは無駄ではないだろう。
それを小隊全体の財産にしなかったのは、少々では済まない憤りを覚えるが、それも今日のために黙っていたと言えるかも知れない。
「まあ、俺達がいくら頑張ってもあそこまで行けるかどうかって疑問はあるけどな」
「・・・・・。そうだな」
レイフォンは異常なのだ。
アントーク家は代々シュナイバルを守護する武芸者の家系だった。
そこに生まれたニーナだから、当然かなり本格的な訓練を受けているはずだ。
ツェルニに来て、一年生の頃から小隊員に抜擢された以上、それはほぼ間違いのない事実のはずだった。
だが、レイフォンのあの技量と比べてしまうとかなりはっきりと見劣りする。
もしそれが、命がけの戦場で磨かれた物だとしたら、これから修羅場を潜ることでニーナもあそこまで行けるかも知れないが、その前に命を落としてしまうかも知れない。
どちらにせよ、実戦の話を聞いてしまった以上、今までのままではいられない。
そして、甘い考えを持っているなら戦場に立つなと言われてしまった。
それを否定することは今のニーナには出来ない。
一人を助けるために百人を危険にさらすような指揮を執ることは、してはならないのだと思い知らされた。
それはさておき。
「ところでシャーニッド」
「ああ?」
少しシャーニッドから距離を取る。
具体的には、ニーナの攻撃が最も強力になる距離にだ。
「いつから見ていた?」
「・・・・・。部屋を出た時から後ろにいた。レイフォンは気が付いていたみたいだけど、他の連中はそうでもなかったみたいだなぁぁ!」
言葉の最後で一気に踏み込んで、渾身の打撃を打ち込んだ。
当然予測されていたので受け止められたが、そんな物は関係ない。
連続して打撃を打ち込み続け、ニーナの息が上がって腕が上がらなくなるまで、延々と攻撃の手を緩めなかった。
このくらいの制裁は是非とも必要だと思うからだ。