昨晩図書館で不慮の事故にあったウォリアスだったが、いきなりとんでもないことに巻き込まれてしまった。
自室に帰った直後、かかってきた電話はレイフォンからだった。
いきなり汚染獣戦についての資料を持っているかと問われて、持っていると即答してしまった。
そしてしばらく受話器の向こうで何かやっていると思ったら、カリアンが話の続きを始めてしまった。
最終的にありったけの汚染獣戦の資料を鞄に詰め込み、やって来たのはカリアンが住んでいる寮だ。
なにやら非常事態らしいのは間違いないので、滅多に使わない活剄を総動員して走ってきて、かなり息が切れているところに、かなり問題ある光景を認識してしまった。
非常事態なのは間違いないはずだが、いくら広いと言ってもカリアンの部屋に十人を超える人間が集まっては、少々狭いと感じてしまう。
集まっているのは、生徒会長に武芸長を始めとする、ツェルニを実質的に運営している人物ばかりだ。
そして異彩を放っているのはやはりレイフォンだ。
ヴァンゼも含めて頭脳派で占められている中で、レイフォンは完璧に肉体派なのだ。
実はウォリアスも完璧に頭脳派なので、この異質さはどんどん加速されて行くことだろう。
だが、実際の問題としてはもっと違うところにあるのだ。
「あ、あのぉぉぉ。フェリ先輩?」
「・・・・。何でしょうか?」
フェリが展開した念威端子が耀いてウォリアスの周りを取り囲んでいるのだ。
いわゆる念威爆雷だ。
一瞬でウォリアスを殺すことが出来るほどに、高密度で高エネルギーな念威端子を見詰めつつ、少々困惑しているのも事実だ。
いきなりなんでこんな対応されているのか、さっぱり分からないのだ。
メイシェンのお仕置きがまだ続いているのならば、それはそれで何となく分かるのではあるのだが、既にお菓子は十分供給されているはずなのだ。
「湿布薬の匂いがきついので、外に出ていて下さい」
「ああ。そう言う事ね」
本の下敷きになったために、骨折は免れたが、それでもかなり酷い打ち身を多数作ってしまった。
それの対策として体中に湿布が貼られているのだが、当然かなりきつい匂いを周りに放ち続けているに違いない。
ウォリアス自身は既に慣れてしまっているので全く感じないのだが。
「ああフェリ」
「何ですか?」
殺意を込めた視線がカリアンを捉える。
何処か他でやれと言う、無言のプレッシャーだ。
出来ればウォリアスもこう言う豪華な部屋には長居したくはないのだ。
レノスにいた時間を思い出してしまうから。
「移動しますか?」
「・・・・。いや。慣れてもらおう」
「不愉快です」
「ごわ!」
と、何故かレイフォンの脛を蹴り飛ばすフェリ。
全く意味不明だが、ウォリアスに被害が出なければそれで良いと割り切ることにした。
「それで、汚染獣の資料を出来るだけと言われたんですけれど」
状況から考えると、ツェルニに汚染獣が接近しているという結論に達したのだが、もしそうだったらのんびりと作戦会議をしている暇はないはずだとも思う。
ならば相当な異常事態を覚悟していたウォリアスに告げられたのは、やはり相当の異常事態だった。
そして呼ばれた理由も理解出来た。
「それで勝率を上げるために、僕にお呼びが掛かったと?」
「そうだ。事が事だけに公には出来ないのでね」
汚染獣に向かって突き進んでいると分かったら、ツェルニは制御不能の混乱に見舞われるに違いない。
ならば、出来るだけ極秘の内に全てを終わらせるべきだという判断は支持することが出来る。
そして、最大の戦力であるレイフォンも、天剣がない今は全力を出すことが出来ない。
そこで白羽の矢が立ったのが、悪事を働いてレイフォンから勝利をもぎ取ったウォリアスと言う事になる。
だが、レイフォン相手に策略を巡らせるのと汚染獣では明らかに難易度が違う。
まずはそれを認識してもらわなければならないので、持ってきた情報を開示する。
「取り敢えずこれを再生して下さい」
持ってきた映像記憶素子をカリアンに渡して、再生する項目を指定する。
それは、十年ほど前にレノスが遭遇した、雄性体との戦闘記録映像だ。
この間ツェルニを襲った幼生体とは、明らかに違う巨体と戦力を目の当たりにして、レイフォン以外の全員の顔から血の気が引いて行く。
レイフォンから見ればそれ程強力な敵ではないのだろうが、それは天剣授受者という想像を絶する怪生物故の認識だ。
「これは、凄いね」
どんな物を想像していたのか非常に不明だが、映像を見つめ続けているカリアンは今ツェルニが向かっている事態を認識してくれたようだ。
だが、それも実は少し違うのだろうと言うことがレイフォンを見ていて分かった。
「ちなみに、どれくらいの戦力を予測している?」
汚染獣戦のエキスパートであるレイフォンが、どんな事態を想像しているかを知っておくのは非常に有意義だと判断して聞いたのだが、とおのレイフォンは一瞬以上考え込んでしまっている。
これはもしかしたら極めつけというか、想像を絶する最悪の状態かも知れないと思ったのだが、正直聞かなければ良かったと思えてしまった。
「今映っているのは、雄性体三期か四期だよね?」
「ああ。三期だと推定されているね」
十年前の戦闘に参加した武芸者は、三百二十三名。
戦死行方不明再起不能合わせて、八十五名。
再起可能な負傷者が三十二名という、恐るべき被害をレノスに刻んでいったのが、今映像として流れている雄性体四期の戦闘能力だ。
今のツェルニにこれが来たとしたら、はっきり言ってレイフォン以外は戦力としてあてになるのはほんの数名だけだ。
だからこそ藁をも掴む感覚で、ウォリアスが呼ばれたのだろうが、レイフォンの表情を見る限りにおいてもっと悪いことを想像しなければならないようだ。
「第二波の偵察機が帰ってくるとはっきり言えると思うんだけれど」
「ああ」
「最低限雄性体五期」
最低限で、雄性体五期と言われてしまった。
上限の設定ではなく下限の設定だ。
だからと言う訳ではないが、溜息をつきつつもう一つの映像記憶素子をカリアンに渡す。
映し出されたのは、もはや戦闘とは呼べない恐るべき虐殺シーンの連続だった。
巨大な蛇に、巨大な翅が生えた様に見える汚染獣が、レノスの武芸者の上に自らの身体を叩きつけ、叩き潰し磨りつぶし薙ぎ払うという悪夢の光景。
レイフォンを除いた全員の顔から表情が一気に消えて行く。
あえて表題を付けるならば、絶望だろうか?
凍り付いた空気をその精神力で振り払ったのは、陰険眼鏡の腹黒生徒会長だった。
だが、それでも完全に振り払えたとはとても言えないようだ。
「出来れば良くできた特撮だと言って欲しいのだがね」
ある種の期待を込めてレイフォンを見るカリアンの視線は、とても真剣で真摯だった。
こんな化け物が接近していると思っただけで、生きた心地がしないのは当然なので、特撮である事を望むカリアンの気持ちは分かる。
それを受けたレイフォンはニッコリと微笑み、そして。
「特撮ですよ」
「ほ、本当かい?」
突然のレイフォンの一言に、その場に安堵の雰囲気が沸き上がった。
だが、続いたレイフォンの台詞は、それを木っ端みじんに打ち砕くのに十分だった。
いや。打ち砕くための前振りだったと言うべきだろうか?
「本物と見間違えるくらいに良くできていますけれど特撮ですよ。何処から見ても老性体一期としか見えないくらい良くできていますね」
カリアンの希望通りに特撮だとは言っているが、本物と見間違えると言っている。
明らかにカリアンに対する嫌がらせだ。
どうもツェルニに来てからレイフォンは、明らかに人が悪くなったようだ。
誰の影響を受けたのか、その候補に心当たりがありすぎるために、あえて追求は控えることにした。
カリアンも同じように判断したらしく、ウォリアスへと視線の刃を突き刺す。
ある意味同じ穴の狢なので、深く追求することはせずにカリアンの質問が発せられた。
「これは?」
「百年以上前にレノスが遭遇した、老性体一期と思われる汚染獣との戦闘記録です」
その時、レノスに在住する武芸者は千八十五人。
戦線参加は八百九十七人。
内、死亡行方不明再起不能者は実に五百九十二人。
戦力の半数以上が失われた上に、質量兵器もあらかた使い尽くしてしまっていたという。
ただ一度の汚染獣戦での話だ。
その後、傭兵団を雇って戦争を乗り切ったり、鉱山でいろんな金属を掘り出したりと、復興作業が大変だったと聞いている。
ある意味、ウォリアスの人生にとっても、百年前の老性体戦は人ごとではないのだが、今は取り敢えずツェルニが置かれた状況に集中することにした。
「これが老性体か」
ヴァンゼが絶望的な一言を呟く。
雄性体三期までだったら、レイフォン抜きでも被害を覚悟すれば何とか勝てるだろう。
イージェやヴァンゼ、ゴルネオと言った打撃力のある技を持った武芸者を有効活用するために、ある意味生け贄として他の武芸者を差し出すつもりが有ればだが。
だが、老性体となるとはっきり言って全く別次元だ。
レイフォン抜きでは勝てない。
「勝てるのかね?」
誰かがそう呟くのを聞きつつ、ウォリアスの頭の中では既に計画が出来上がっていた。
誰だって死にたくはないのだ。
ならば出来るだけのことをして足掻かなければならない。
「情報が欲しいのですが?」
「ああ。必要な物は何でも言ってくれ。出来るだけ用意しよう」
カリアンの確約を得たので、本の下敷きになってしまって本調子ではないが、それでも全力を出すことを心に決めた。
ウォリアスが役員何名かと打ち合わせをしている横で、カリアンはいきなり降って湧いた不幸に心の中で散々悪態をついていた。
ツェルニの滅びを避けるためにレイフォンを武芸科に転科させたというのに、次々とやってくる汚染獣に当然の殺意が湧いてしまう。
その殺意の内の何割かは、メイシェンに睨まれる事への恐怖の裏返しだが。
それにしても、老性体という汚染獣の戦闘能力が異常だと言うことははっきりしている。
そんな異常な汚染獣を専門に倒していた、天剣授受者がツェルニに居るという幸運に喜びを見いだして良いのかと、そんな埒もない事を数分考えてしまっていたのだが。
「お願いというか提案があるのですが」
「? 何かね? 前にも言ったがツェルニのためになることだったら、いくらでも協力するよ」
突如として、何かを決意したらしいレイフォンが、真剣そのものと言った表情でカリアンに話しかけてきた。
もしカリアンが乙女だったら、思わず恋してしまうくらいに凛々しく力強いその表情から出てきた提案は、ある意味今のレイフォンにとって当然の内容だった。
「ふむ。小隊員に対して実戦で得た経験を伝えたい」
「はい。僕が帰ってこなくても最低限戦力の上昇になると思いますから」
レイフォンの一言で、カリアンの思考が一瞬だけ硬直する。
帰ってこないと言う事はつまり、レイフォンが死ぬと言う事に他ならない。
そして同時に、汚染獣も倒されてツェルニが生き延びたと言う状況を想定している。
あり得ない予想ではない。
そして恐るべき人物に命を削られ続けるカリアン。
想像しただけで胃に穴が空きそうだ。
「もちろん帰ってきますけれど、外で戦う時には命を都市に置いて行くことにしているので」
都市に命を置いて行くという表現が、実際にどんな意味を持っているのかカリアンには分からないが、それでも、レイフォンほどの実力者が死を覚悟しなければならないという事は理解出来た。
そのレイフォンの経験を伝えると言う事は、確かに今現在のツェルニ武芸者には必要なのだろう事が分かった。
「帰ってきてもらわないと、私は胃潰瘍で死んでしまうからね」
メイシェンに睨まれると言う事は、それは睨まれている時間だけの問題ではないのだ。
いまだに悪夢を見るのだ。
幼生体戦からこちら、たまに見るその悪夢のためにカリアンの体重は二キルグラムル程減ってしまっているほどだ。
汚染獣という敵以上の驚異と言える。
「今ひとつ理解に苦しみますが、万が一に備えるのが武芸者だそうですから」
当然だが、レイフォン自身も死ぬつもりはないのだ。
だが、万が一のための準備をしておくこともまた必要だと言う事は、カリアンにもきちんと理解出来ている。
その万が一の状況が、今目の前に存在しているのだし。
「それと、野戦グラウンドを借りたいのですが」
「あそこで何をするのだい?」
実戦を想定した訓練をするのかとも思ったが、それは少し違ったようだ。
そして気が付いた。
フェリの冷たい視線が延々とカリアンに向けられていると言う事に。
話の外に置いておかれて不機嫌なのか、それともレイフォンを独占されて不機嫌なのか。
もし後者だったら、これは非常に嬉しい誤算と言えるかも知れない。
今のところ確率は高くはないが、思春期の恋愛感情など数年でなくなってしまうことも珍しくない。
ならば、フェリがツェルニを卒業するまでにレイフォンのハートを確保しておけば、サントブルグは強力な戦力を格安で手に入れることが出来る。
だがまあ、それはかなり先の話だ。
兎に角、老性体かも知れない汚染獣の脅威を取り払い、無事に武芸大会で勝利を収めてから全てが始まるのだ。
「技の錆を落としたいんです」
「錆びているのかい?」
錆と言われて、機関部の防錆用塗料を思い浮かべてしまった。
もちろんレイフォンが言った錆とは何の関係もない。
「何年も本来の技を封印していたので、上手く使える自信がないんです」
「成る程ね。一人でやれるのかい?」
「いえ。イージェに相手を頼もうかと」
イージェと言えば、レイフォンと同じサイハーデンの技を受け継ぐ武芸者だ。
そして、ツェルニの武芸者とは比べものにならないほど、強力な武芸者だ。
ならば、レイフォンがイージェと戦うことで技の錆を落とそうとするのは正しい判断だと思う。
「無論かまわないよ。ついでに小隊員達にも見せてみたらどうだね?」
「それは恐らく危険です」
何が危険かは良く分からないが、レイフォンがそう判断しているのならばカリアンにそれを覆すつもりはない。
現場を知らない人間がしゃしゃり出て、事が上手く運んだ試しがないからだ。
それよりも、野戦グラウンドのスケジュールを調整した方が良いかもしれない。
何しろレイフォンとイージェの戦いだ。
普通に考えて、グラウンドはかなりの被害を被るだろうし、最悪フルリニューアルと言う事まで視野に入れなければならない。
「何時やるつもりだね?」
「出来れば」
「うん?」
「今夜」
レイフォンから出てきた単語に、かなりの違和感を覚えた。
今夜と言えば、今からだ。
既に日は暮れて眠りについている生徒も多いはずだ。
いや。そろそろ殆どの生徒が眠りについていてもおかしくない時間だ。
これから始めようというレイフォンの神経がまず信じられない。
武芸者だからと言う事で納得したとしても、実戦でもないのに暗い中で戦うと言う事は、あまり好ましい展開ではないと思うのだが。
「今からなら確かにグラウンドは空いているだろうが、手元足元が暗いのは少々問題ではないかね?」
「汚染獣戦に昼夜の区別はありませんから」
当然の返答とばかりに返された。
汚染獣が夜行性だというはっきりした証拠はないが、それでも昼夜問わずに襲ってくると言う話は聞いたことがある。
ならば、レイフォンの意見こそが正しいのだろう。
「うぅぅむ。それは許可出来ないね。明日か明後日でどうだろうか」
「そうですね。それで何とか間に合わせます」
流石に今からでは少々困るのだ。
明日は試合の予定は入っていないが、それでもあまりにも急激な展開は管理者として少々困るのだ。
いくらツェルニの存亡が掛かっているとは言え、残り少ないが時間はまだあるのだ。
二日続けて訓練に遅れてしまったニーナが、第十七小隊に割り当てられた部屋に入ってみると、意味不明な現象が展開している真っ最中だった。
具体的に言うと、水を一杯に張った洗面器を頭の上に乗せたレイフォンとイージェが、猛烈な速度で斬撃の応酬をしているという、全く意味不明な現象だ。
レイフォンが青い洗面器で、イージェが赤い洗面器だ。
全く意味不明なので、取り敢えず視線を横にずらせてみる。
部屋の隅には、何時も通りにやる気なさげにシャーニッドが寝転がり、脇でフェリが雑誌を読んでいる。
そこまでは何時も通りだ。
だが、もう一つ決定的に違うことがある。
二メルトルに及ぶ巨大な剣のような物を台車に乗せたハーレイが、なにやら熱い視線で斬撃の応酬をしている二人を見詰めている。
そして、ハーレイの持ってきたらしい剣もかなりおかしい。
大きさを無視すれば明らかに剣なのだが、それは木で出来ていて鉛のおもりがあちこちにくくりつけられているのだ。
ハーレイ自身は錬金鋼の調整をすることを喜びとしているが、開発の片棒を担ぐこともあると前に聞いたことがあるし、相方の変人とも少しだけ面識がある。
恐らくその変人が何か作り、ハーレイがレイフォンに試させて意見を聞くためにあれを持ってきたのだろうと推測を立てたところで、現実逃避のネタが尽きた。
「レイフォン? 何をやっている?」
取り敢えず、真剣に打ち合っている内の一人へと声をかける。
他の誰かに聞いて、満足行く答えが返ってくるとは思えなかったし、イージェに話しかけるのは少々敷居が高かったのだ。
「技の錆落としを少々」
「錆落としだと?」
一瞬何を言っているのか分からなかった。
レイフォンの技が錆び付いているなどとは思えなかったのだ。
ニーナを始めとする、ツェルニ武芸者を圧倒する技量を持つレイフォンの、技が錆び付いているなどとはとうてい思えなかったのだ。
だが、それが勘違いであることをすぐに思い出せた。
本来刀を使うはずだったレイフォンが、剣を使っていたために、本来の技を封印していたのは知っている。
刀に持ち替えて時間が経っていないから、ブランクを埋めるために色々やるのは当然の行動だ。
だが、だからと言って洗面器に水を張って打ち合うなどと言うのは、かなり訳の分からない訓練内容だ。
「無駄な動きをすると、洗面器に張った水がこぼれるんですよ」
「溢さないように動こうとすると確実に力負けするから」
「力の流し方とか重心の取り方とか結構良い鍛錬になりますよ」
イージェと二人で答えてくれた。
そしてやっと気が付いた。
激しく打ち合っているはずなのに、確かに二人の頭の上に乗せた洗面器の水面は殆ど動いていない。
素人目から見たら芸だろうが、ニーナから見るとそれは間違いなく技だ。
第一小隊と共に戦ったイージェの戦闘能力が凄いらしいことは分かっていた。
都市外へ出て母体を倒してきたというレイフォンの戦闘力も、相当凄いのだろうと言う事は予測していた。
だが、まさかこれほどとは思わなかった。
そして、この鍛錬方法はニーナにとってもマイナスではないと判断する。
ならば実行有るのみだ。
「外でやって下さい」
だが、ニーナが動こうとしたまさにその瞬間、猛烈に冷たいフェリの声が掛かった。
動こうとしていたからだが急に止まったために、思わず蹈鞴を踏んでしまった。
「な、なに?」
何故外でやれと言われたのか分からず、フェリを凝視する。
そして気が付いた。
シャーニッドがずぶ濡れで寝転がっていることと、横に置いてあるバケツに張った水が結構汚れていると言う事に。
既にシャーニッドがやって派手に溢してしまったのだろう。
ニーナは違うと言えればいいのだが、生憎と今やっている二人ほどの洗練された動きが出来るとは思えない。
ここはフェリに言われた通りに、外でやって被害を最小限に抑えるべきかも知れないと思考したところで。
「そうだ。今日は野戦グラウンドの使用許可が下りたんでそちらで連携の訓練をやるぞ」
小隊員の誰かに会ったら伝えてもらおうとしたのだが、生憎とここまで誰とも顔を合わせることがなかったために、ずっと言えずにいたのだ。
訓練室に入ったらすぐに行動に移すつもりだったのだが、いきなり意味不明な光景と出くわしてしまい忘れていたのだ。
やっと話が前に進んでほっとしたニーナだったが、現実は更に異常な事態へと突き進んでいたようだ。
「すぅぅぅ。ぴぃぃぃぃ」
「zzzzzzzz」
刀を使い激しく打ち合っているはずの二人から、なにやら寝息らしき物が聞こえてきているのだ。
思わずそちらへ視線を向けて、そして絶望してしまいそうになった。
活剄を使わなければ、ろくに見ることも出来ないほどの斬撃の応酬を繰り返しつつ、実際に打ち合っている二人は居眠りを始めてしまっていたのだ。
しかも洗面器の水は相変わらず微かに揺れる程度。
どれほどの技量差があるのかを思うと、絶望に胸が締め付けられそうになるけれど、立ち止まることは出来ないと自らに言い聞かせる。
ツェルニを守るために少しでも強くならなければならないのだ。
ならば、指を咥えてみているなどと言う事は出来ない。
全力を持って今二人のいる領域へと到達して、そして追い越さなければならない。
新たな目標を見いだしたニーナは、そこで困ってしまった。
「どうしたら良いと思う?」
激しく打ち合っていながらも、居眠りをしている二人をどうやってこちら側に呼び戻すか。
それは非常な難題だ。
下手なことをすれば、二人分の斬撃がこちらに飛んでくる。
それを防げる自信は当然ニーナにはない。
ふと視界に水の入ったバケツが映った。
あれを使えば、安全に二人を起こせるのではないだろうかと。
あるいはフライパンとお玉が有れば。
「却下です」
だが、再び動こうとしたニーナに待ったが掛かった。
シャーニッドも先に動いてバケツを確保している。
これでは手出しは出来ない。
ならば、やはりフライパンとお玉で。
「! おっと」
「! いけない」
何か代わりになりそうな物がないか、ロッカールームをあさりに行こうとしたニーナだったが、ここで三度行動を停止せざるおえなくなった。
何の前触れもなくレイフォンとイージェが起きたのだ。
そして今まで激しく打ち合っていたのが嘘のように、急激に動きが止まり一瞬だけ静寂が訓練室を支配する。
すぐに隣の部屋からの騒音が聞こえ出したが、それもすぐに気にならなくなった。
「これは良い鍛錬なんだけど」
「長い間やっていると眠くなるのが欠点かな」
そんな事を平然という二人。
今のニーナにはとうてい真似出来ないことをやっておいて、眠くなると言うのだ。
確かに動き自体は単調だったから、慣れれば眠れるのかも知れないが、そこまで熟達するまでにどれだけの時間が掛かるのか。
絶望的な気分で二人が洗面器を頭から降ろすのを見ながら、思わず突っ込んでしまった。
「お前らは芸人か?」
さっきは技だと思ったが、今はもう芸にしか見えない。
それ程異常なレベルの動きだったのだ。
だが、二人から返ってきた答えは、更に異常を極めていた。
いや。それが当然なのかも知れない。
「武」
「芸者」
何の躊躇もなく言い切られてしまった。
そして納得してしまった。
更に納得した自分に自己嫌悪を覚えた。
「本当の達人になると、汚染獣と戦っても水は殆どこぼれないらしいぞ」
「ああ。それは嘘ですよ」
「そうなのか?」
「一度やってみましたけれど半分くらいこぼれましたから」
更に信じられない話に進んでいるようだ。
多少目眩がしてきたので、その場をぶち壊して取り敢えず野戦グラウンドに移動することにした。
訓練の時間は有限なのだと、自分に言い聞かせて。
「そうそうレイフォン」
「はい?」
野戦グラウンドに出ようとしたまさにその瞬間、何やらやたらに元気いっぱいのハーレイが台車を押して部屋の中央へと出てきた。
当然、二メルトルを超えるという非常識な木製の剣が乗せられている。
「これを使って見て感想が欲しいんだけれど」
「良いですけれど、もっと小さくなりませんか?」
「うぅぅぅん? 計算上これが限界なんだ。完成してしまえばもう少し小さく軽くできると思うんだけれどね」
やはりあの変人がなにやら暗躍しているらしい。
それに付き合わされるレイフォンと十七小隊は、少々では済まない迷惑のような気もする。
「取り敢えず使ってみてよ」
「はあ」
「いやぁ。これ使える人がいてくれて本当に良かったよ」
確かに、こんな非常識な剣を使える人間がそうそういるとは思えない。
無理をして使っても、おそらくはさほど意味をなさないだろう事が分かる。
その証拠に、持ち上げようとしたレイフォンが一度諦めて、活剄を使って再挑戦したほどだ。
だが、ニーナの認識はかなり間違っていた。
「ぶわ!」
誰かの悲鳴が聞こえたと思うよりも速く、猛烈な空気の圧力が身体をしたたかに打ち据える。
気を抜いていたら飛ばされてしまいそうな程の圧力は、レイフォンが軽く振ったように見えた巨剣から放たれた物だ。
衝剄ではない。
単に剣が通過したことによって押し広げられた空気の圧力によって、ニーナの身体をしたたかに打ち付ける風が起こったのだ。
「こ、これは洒落にならねぇ」
イージェさえ慌てて部屋の隅へと避難している有様だ。
こんな巨大な剣を軽々と振るレイフォンは、本当に凄いと思うのだが。
「な、なんだ?」
突如として何かが背中を撫でた。
そのあまりの冷たさに思わず振り返ったことを、ニーナは後悔した。
気が付いていないのか、レイフォンはなにやら不満げな表情で巨剣を振っているが、今はそれどころではない。
そしてニーナの視線の先を、惡死惡鬼が通り過ぎて行く。
長く乱れきった銀髪を揺らし、しずしずと足を運びレイフォンの前に立つ。
その視線は絶対零度を遙かに下回り、全てを凍らせるためにだけ存在していた。
だが、その中に宿す魂は、地獄の業火でさえ生温いと思えるほどの高熱を孕み、全てを焼き尽くし破壊するためにそこにあった。
「フェ、フェリ先輩?」
やっとの事で気が付いたのだろうが、既に遅すぎる。
必殺を宣言する必要もない視線がレイフォンを捉えて、ツェルニ最強の武芸者をすくませた。
それはまさに、この世の最悪の全てが宿ったかのような凄まじさだ。
「この髪、毎朝セットするの結構大変なんですよ」
「そ、そうなんですか? な、長いからそうなんですよね」
「ええ。それはもう猛烈に大変なんですよ」
今のフェリが一人いれば、ツェルニはどんな敵と戦っても圧勝出来る。
そう確信出来るほど凄まじい気迫をみなぎらせたフェリが、一歩レイフォンへと近付く。
それと同時に一歩後退するレイフォン。
レイフォンはやはり凄いと思う。
ニーナ自身は一歩も動けないどころか、呼吸さえ困難な状況なのに、レイフォンは一歩後退出来たのだ。
これはある意味賞賛に値する。
「ご、ごめんなさい!」
「許しません」
ピンク色の舌先が、ゆっくりと唇をなぞる。
ぞっとするほど美しいその仕草は、レイフォンに向けられた殺意の表れだ。
「あ、あの」
そしてもう一人勇者がいた。
ハーレイだ。
幼なじみで良く知っていると思っていたのだが、まさかここまでの勇者だとは思いもよらなかった。
今のフェリに話しかけることは、即座に自分の死を意味するという事が分からないとは思えないが、もしかしたらただの蛮勇かも知れないとも思う。
「なんですか?」
「い、いや。レイフォンだって悪気があった訳じゃないんだから、そのえっと。許してあげても良いんじゃないかと」
徐々に言葉が怪しくなっているが、それでも言うべき事を言ったハーレイの顔色は既に死人のそれだ。
そしてもうすぐ、ニーナの幼なじみはこの世から消滅するだろう。
「貴方が持ち込んだ物ですよね?」
「うわぁぁぁん! ごめんなさい」
平身低頭するハーレイとレイフォンを睥睨しつつ、フェリの口の端がゆっくりと持ち上がる。
明らかにどうやって始末を付けてやろうかと、楽しい計画を構築している。
全てはこれで終わってしまった。
そう思ったのだが。
「まあ良いでしょう」
突如としてフェリが踵を返し、野戦グランドへと歩み去る。
一気にその場の空気がゆるみ、男二人が脱力してへたり込んでいる。
これほど恐ろしい体験をするはめになるとは、全く思っていなかったニーナも、一緒にへたり込んでしまった。
今日の運勢とやらは、最悪だったようだ。