夕闇が支配しているツェルニの街角で、正確には自分の寮の部屋で、一仕事終えたレイフォンは、ズボンを履こうと中腰になっていた。
一仕事終えたために、かなりからだがだるい。
そのだるさから来る脱力感のために、明かりを点けるのが面倒だったので、部屋の中は暗いのだが活剄を使っているので別段不自由はしていない。
ちなみに、活剄のお陰で電気代の節約が出来ているかと聞かれると否と答えるしかない。
剄脈を使っているせいで消費エネルギーが多くなり、最終的に食費がうなぎ登りになってしまうのだ。
と言う訳で、今活剄を使っているのは短い時間だからと言うのと、かなり面倒だからでしかない。
手間暇を惜しむつもりはなかったのだが、それでもかなり疲れていたのもまた事実だ。
そして、まさにその瞬間。
「おらレイフォン! 飯の支度をしろ!」
「え?」
ベルトを持ち上げ膝付近まで来た瞬間、扉が蹴破られて誰かが入って来た。
それはもう、これ以上ないくらいに完璧なタイミングだった。
中腰になり、ズボンを膝まで上げた状態で固まる。
これ以上間抜けな姿はないと思えるほど、間抜けな状態で恐る恐る扉の方を見る。
この時間やって来るのはウォリアスだけなので、扉に鍵を閉めるという選択はしていなかった。
だと言うのに、そこにいたのはどう見てもウォリアスではない。
金髪を後ろで束ねた少女にしか見えない。
ぶっちゃけリーリンだ。
「・・・・・・・」
「え、えっと」
嫌な沈黙が辺りを支配する。
そのリーリンの後から入って来たのは、なんとウォリアスだった。
呆れたと言うよりは呆れ果てたと言った雰囲気を出しつつ、軽く頬なんかかいている。
その情景を認識したのは、しかし一瞬でしかなかった。
「レイフォン?」
「は、はい?」
なにやら凄まじい殺気を感じているような気がする。
それはもうサヴァリスとかリンテンスとかなみに、危険極まりない生き物が目の前にいるような。
いや。むしろアルシェイラ並みだと表現できてしまうのではないだろうか?
そして、恐らくその殺気を放つ生き物が一歩こちらに近付く。
後ずさろうとして、ズボンが邪魔で上手く動けないことに気が付いたが、すでに終わった出来事でしかない。
今日リーリンが刀を持っていないのは幸運なのだろうか?
現実逃避気味にそんな事を考えることしかできない。
「何をやっているの?」
「あ、あう」
思わず言葉に詰まる。
何かやましいことをしているというわけではないのだが、それでも言葉に詰まってしまう。
男としても武芸者としても何ら恥じるような事はしていない。と思う。
だが、リーリンの殺気があまりにも強烈過ぎて思うように唇が動かないのだ。
「灯り点けて良いかい?」
「あ、あう。どうぞ」
そんな一種異様な状況に動揺する事もなく、ウォリアスが扉の側のスイッチを軽く叩いて灯りを点けてくれた。
活剄を使ったままだったので、明るくなったためにホワイトアウトした視界だったが、すぐに見えるようになった。
状況はリーリンも同じはずだが、一般人である彼女はもう暫く目が慣れるのに時間が掛かるだろう。
取り敢えず何に対して怒っているか分からないが、状況を認識してくれさえすれば落ち着いてくれるはずだと信じている。
そして、中腰のままだったのを思い出して、急いでズボンを上げてベルトを締める。
よろめいた拍子に足に何か絡み付くのを感じて視線を下に落とす。
ベッドの側にあり、足で引っかけてしまったのは、脱ぎ散らかされた都市外戦装備一式。
今夜も就労があるので仮眠した直後に一度着て、点検を終えて私服に着替えようとしていたのだ。
そうでなければ間抜けな格好などと言う物はしていない。
「何やっていたの?」
明るくなったために状況を認識出来るようになったせいか、リーリンの殺気がいきなり消失して通常モードに復帰したようだ。
今日も取り敢えず生きていられる事に、安堵する。
「もうすぐ誕生日だからスーツの点検を」
「・・・・。ああ。そう言えばそうだったわね」
生まれた時からの付き合いであるリーリンには、今の短い台詞で十分に理解してもらえたようだが、当然ウォリアスは何が何だか分からないと言った雰囲気でありながら、冷蔵庫を開けて食材の確認をしている。
今日もここで食べて行くつもりのようだ。
食費はもらっているし、どうせ作りすぎてしまうから良いのだけれど、リーリンが一緒に食べるとなると、少々量に気をつけなければいけないかも知れない。
作りすぎて制裁を食らってはたまらないのだ。
「誕生日って?」
「うん。僕の誕生日の近くになると汚染獣が来るんだ」
「何故か狙い澄ましたかのように来るのよねぇ」
老成六期のベヒモトの時もそうだった。
とは言え、グレンダンは年中汚染獣と戦っているような都市だから、ただの偶然と言えない事はないのだが。
「ここは一応学園都市だけれど?」
「ヨルテムでも有ったんだよ。誕生日の少し後に」
あの時までまさかと思っていたが、普通の都市でさえレイフォンの誕生を祝うかのように汚染獣がやってきたのだ。
これはもはや何かに呪われているとしか思えない。
と言う訳で、学園都市と言う事を全く無視して都市外戦装備の点検をしていたのだ。
備えあれば憂い無しと言うし、準備が無駄になる事の方が準備無しで災難に合うよりも増しなのだ。
だが、ここで一つ疑問がわいてきてしまう。
何でリーリンはあんなに怒っていたのかと言う事だ。
別段何か悪いことをしていたわけではない。
男としても武芸者としても何ら恥じる事はしていないはずなのに、いきなり猛烈に怒ったのだ。
「ねえリーリン?」
「なに?」
何故か視線がそれる。
これはリーリンにとっても突発自体だったようだが、似たような事態にならないように何に怒ったのか是非とも聞いておきたい。
なので、いつもよりも積極的に事情を聴取してみる。
「何に怒ったの?」
「・・・・・・」
黙秘権を行使されてしまった。
更に視線がウォリアスの方を向く。
勝手に人の部屋のキッチンを使って何か料理を始めている、細目と黒髪の少年に向かって助けを求めるというか、何か話を誤魔化せと主張しているのか。
「うぅぅん? 鍵をかけないで着替えていたからじゃない?」
「それはないよ。僕達が着替えているところにぃぃ!」
グレンダンにいた頃、着替えているレイフォン達の部屋に突入してきたことを言おうとしたら、いきなりリーリンに脛を蹴られてしまった。
結構いたい。
何処でそんな技を覚えてきたのかは分からないが、今日のリーリンは非常にご機嫌斜めなのは理解出来た。
触らぬ神にたたり無しと言うから、取り敢えずウォリアスが何を作っているかという方向に話を持って行く事にした。
「夕飯だよ。三人分作るんだったら下ごしらえくらいはやらないとね」
平然と答えを返されてしまった。
だが、やや作っている物に違和感を覚えてもいた。
ウォリアスもレイフォンと同じで、好き嫌い無くあらゆる物を食べられるので、適当に食材を鍋に突っ込む事も珍しくない。
マヨネーズだけは例外で、レイフォンの所にも実は在庫がないのだ。
だが、今日使っているのは殆ど野菜ばかりだ。
油は極力使わないようにしているし、味付けも薄目に設定されているようだ。
これは何かの異常事態であると予測出来る。
「どうしたの?」
「うん? 男の子の日だから」
「男の子の日って何?」
「うん? スポンサー以外からの突っ込みは却下です」
どうも要領を得ない会話が進行している間に、リーリンは本格的に落ち着いてきたようだ。
そしてふと気が付く。
なにやら何時もと様子がおかしい。
いや。機嫌が悪いと言う事は分かっていたのだが、それ以外に何か体調も悪いように見えるのだ。
そして気が付いたのだが、目の前の少女と同じ症状を何度か見た事があるのだ。
と言うか自身の体験としても記憶があるような気がする。
記憶をさかのぼって行く。
答えはすぐに出てきた。
「リーリン」
「な、なによ?」
何か逃げ腰のリーリンに一歩近づき、ゆっくりと息を吸い込む。
間違いなくアセトアルデヒドという化学物質の匂いを感知出来た。
化学物質などと言う言葉を知ったのは、つい最近なのだが間違った使い方ではないはずだ。
「お酒はほどほどにね」
「・・・・。何で気が付くのよ?」
グレンダンを出るまで、二日酔いになった大人という物に会った事はなかった。
デルクはそもそも呑まないし、活剄を行使出来る武芸者は殆ど酒が残ると言う事がなかったからだ。
レイフォンの生涯の関係上、一般人との付き合いは限定的だった。
身近にいたのは孤児院の関係者で、二日酔いになるほど呑むなどと言う事がなかったのだ。
だが、状況はやはりヨルテムで大きく変わった。
アイリとトマスは武芸者だったが、その他の大人達は一般人だった。
三家族の大人達は何か理由を付けて宴会を開くのが大好きだった。
何故かメイシェンとレイフォンも巻き込まれて、危ない橋を渡る事もしばしばだった。
二日酔いになった事も実は一度ではない。
驚愕の真実なのだが、レイフォンが活剄を使えないほど酔わされたことが、一度以上有ったと言う事だ。
その経験から考えても、間違いなくリーリンは二日酔いだし、ウォリアスの料理もそれに見合った物になっている。
「誰のせいだと思っているのよ?」
「だれのって?」
いわれのない言いがかりを付けられているような気もするが、逆らうという選択肢はない。
体調が悪いというのもそうだが、何かもっと重いというか真剣というか、そんな雰囲気がリーリンから流れてきているからだ。
こう言う時、レイフォンには分からない何かが起こった事を経験上知っているから、言い返す事はしない。
ちょうど出来上がった夕食を三人で食べたのだが、かなり美味しくなかった。
別段作り手が手を抜いた訳ではないはずだから、きっとレイフォンの味を感じる能力に問題が出たのだろう。
実に現実に即した見解であると、レイフォンは自画自賛してしまった。
「そう言えば誕生日って、二人とも確定していたんだっけ?」
沈黙の食事に耐えられなくなったのか、いきなり口火を切るウォリアス。
レイフォンもいささか沈黙が痛かったので、これ幸いと話に乗る。
恐らくリーリンも同じ心境なのだろう、何時もよりも積極的に会話に加わるつもりのようだ。
「五歳くらいの時に父さんがカレンダーを持ってきてね」
「お前達の誕生日を決めるから好きな日を選べって」
あの時はいきなりの展開で少々では済まない驚きと困惑を覚えた。
毎年年始の宴会の時にまとめて祝っていたから、固有の誕生日などと言う物が存在する事さえ知らなかったと思う。
そんな訳で戸惑いはしたが、当時は凄まじく切り替えが早かったようで、リーリンに促されるまま適当な日を指さした。
それがただいま現在まで続くレイフォンの誕生日になっているのだ。
「でも今から考えると不思議だよね。あの時リーリンが先に決めろって言ったんだけれど」
「ああ。後から決めたリーリンがレイフォンよりも前の日を選んだんだね」
「良く分かるわね」
呆れ半分のリーリンの単語が空気を振るわせる。
本当にウォリアスは色々な事を正確に予測出来てしまうと感心する。
しかし、何故そう言う結論を出したのかは知っておきたいと視線で訴えたところ、あっさりと答えてくれた。
「レイフォンは自分の弟だとか思ったんでしょう」
「ま、まあ、これがお兄さんじゃ私の人生真っ暗だったから」
「酷いよりーリン」
そう言う裏事情があったなんて今の今まで全然知らなかった。
かなり衝撃を受けてしまったのだが、ふと思う。
確かにリーリンが妹だとはとても思えない。
しっかり者だし積極的だし人付き合いは上手いし、欠点と言えば少々押しが強すぎるところだろうか?
そう考えると、最低限姉だろうし、もしかしたらお母さんかも知れないとさえ思える。
実際問題として、孤児院ではお母さん役だったから、これ以上の適任はいないだろうと思えるほどだ。
だからその気持ちを正直に正確にリーリンに伝える事にした。
「成る程。僕の母親なんだリーリンは」
「・・・・・・」
何故か硬直する二人を不思議な面持ちで眺める。
何か拙い事を言ってしまったのだろうかと振り返るが、冗談半分の戯言以外は言った覚えがない。
だが、空気は瞬間的に凍り付き重さを増している。
更にリーリンから何か恐ろしい気配が立ち上っているように思える。
「あ、あのぉ?」
「気にするなレイフォン。骨は拾ってやる」
何かとても不吉な事を言うウォリアス。
そして、恐ろしい波動が流れ出るリーリン。
誕生日を迎える前に命日になるかも知れない。
そんな予感がレイフォンを支配し始めた。
このところ全く付いていないというか、空回りが多いニーナではあるのだが、機関清掃の仕事を休む訳には行かないので夜間の作業に精を出す。
そして最近にしては珍しくレイフォンと鉢合わせしてしまった。
刀の問題が出る前から、何故かレイフォンと機関部で会う事が少なかったのだが、誰かの陰謀だとか言うのではない事がはっきりと分かったので良しとしよう。
だが、全く問題がない訳ではないのだ。
「どうしたのだレイフォン?」
何故か顔中にアザが出来ている十七小隊の新人に向かって話しかける。
あのレイフォンが為す術無くこれほどの傷を負わされたと言う事は、相手は相当の強者に違いない。
そこまで考えて、それ以上は止めた。
どう考えてもツェルニにそんな強者はいない。
イージェという青年ならばあり得るだろうが、それならば殴られた跡だけと言う事はないはずだ。確実に刀剣による傷が出来ているはず。
ならば残る選択肢はただ一つしかないではないか。
昨夜リーリンは何処かに泊まるとか言う連絡があり、今日ニーナが寮を出るまで帰ってこなかった。
そして、リーリンに対してあまり強く出られないレイフォンがこのような姿である。
途中経過は不明だが、何が有ったかはおおよそ理解出来ようという物だ。
「まあ、色々ありまして。ahahahahahaha」
喋るのにも苦労しそうな状況ながら、何とか返事は返ってくる。
この律儀さは賞賛に値するかも知れない。
濡らしたタオルで顔を冷やしつつもモップを動かし続けているというのも、かなり賞賛されるべき事柄だと思う。
手が四本ある事には目を瞑って。
そして、それ以上の会話が無くなり黙々と作業をこなして行くレイフォンを眺めつつ、ニーナ自身もモップを動かし続ける。
機関清掃中に喋っている者は初心者だけだ。
そんな体力があるならば昼間の勉学に使うべきだし、そもそも、清掃の仕事というのは寡黙に行う物だとニーナは信じている。
とは言え、リーリンがどうなったのかとか聞きたい気持ちはある。
何しろレイフォンが刀を持つと決めた前後辺りから、延々と機嫌が悪いというかふさぎ込んでいるのだ。
同じ寮に住む以上、その空気にさらされ続けるのはかなり胃に悪い。
ニーナでさえそうなのだから、他の二人はきっとおちおち眠れないほど疲労しているに違いない。
その内の一人、レウなどはリーリンが失恋したのだと言って退かないが、ニーナには良く分からない。
本来ならばリーリンの方に直接聞くべきなのだろうが、ニーナが行動を起こせないほど酷い落ち込みかたなのだ。
ならば、あまり普段と変わらないレイフォンに聞くべきだとは思う。
思うのだが、何故か後一歩を踏み出す事が出来ない。
それでも、ちょうど休憩時間にさしかかった頃合いに話しかけようとした。
夜食を摂るために手を休めるのならば、きっと話しやすいだろうと判断したのだ。
だが。
「うを!」
「!!」
何故かいきなり床が揺れた。
いや。揺れたなんて生やさしいものでは無い。
底が抜けたように垂直に落ちたかと思うと、そのすぐ後に斜面を滑るように斜めに落ちる感覚があった。
機関部中で何かが落ちる音や悲鳴が錯綜する。
これはただ事ではない。
何が起こったか不明だが、緊急事態である事だけは確かだ。
ならば武芸者の緊急招集が掛かるかも知れない。
戦闘衣と錬金鋼は量に置いてあるが、予備の物が練武館にも置いてあったはずだ。
ここからならば練武館の方が近い。
当面の行動方針を定めたニーナは、レイフォンに視線を向けた。
当然レイフォンも練武館に装備一式を置いてあるはずだから、一緒に行動するために声をかけようとしたのだが、何故かあらぬ方向を向いているのに気が付いた。
「レイフォン」
「最悪だ」
ニーナの声が聞こえないのか、視線を動かさずに小さく呟いた。
不審に思いレイフォンの視線の先を追ってみると、そこには見慣れた電子精霊のツェルニがいた。
だが、明らかに何時もとは雰囲気が違う。
何時も好奇心に満ちあふれている瞳は、恐る恐ると下を見詰めて小さく震えているように見える。
これはただ事ではないと認識するのには十分な情報だ。
「レイフォン! え?」
一刻も早く戦闘準備を整えるために、レイフォンに向かって声をかけようとしたのだが、何故かいない。
つい今し方までニーナのすぐ側で斜めになった床で滑らないように、手摺りに掴まっていたはずだというのに、その姿を見つける事は出来なかった。
そして、慌ててツェルニの方に視線を戻してみると、その視線は斜め上の方を向いていた。
両手を握り合わせて何かに対して祈るように、徐々に視線の角度を変えて行く。
自分ではどうする事も出来ない運命に立ち向かうために、神へ祈っているというのが一番近いのかも知れない。
生憎とニーナに信じる神はいないけれど、それでもその気持ちだけは十分に伝わってきた。
「安心しろツェルニ! 何が起こっているかは分からないがきっとお前は私が守る!」
決めたのだ。
ここに来て出会ったツェルニを守ろうと。
そのためにあちこちに無理に頼み込んで、自分の小隊を作り上げたのだ。
そして鍛錬も欠かさず、今年度になってレイフォンという強力な助っ人も得た。
未だに何が起こっているか分からないけれど、それでもツェルニだけは守りたい。
決意を新たにしたニーナは活剄を最大限に使って機関部の出口を目指した。
都震を感じた次の瞬間、ゴルネオは慌ただしく戦闘準備を終えていた。
別段、汚染獣の襲来を予感した訳ではない。
ただ、どうせ何かするのだったら戦闘衣で居た方が都合が良かったし、眠っている最中だったから二度着替えるのが面倒だったのだ。
錬金鋼の準備をしたのはついででしかない。
レイフォンのように、剄技で土木作業をするつもりはないのだが、本当についでのつもりで準備してしまったのだ。
だが、着替え終わり隣の部屋に住んでいるシャンテを迎えに行った時、異常な事態を経験してしまった。
フリフリの侍女服を着せられたシャンテが、ソファーで丸まって眠っているという異常事態をだ。
都震があったことなど知らぬげに、とても幸せそうに寝息を立ててよだれまで垂らしている。
きっと着替えさせられたことさえ気が付いていないだろう。
何故そんな事をしたのかと聞いてみたのだが、同室の女生徒曰く。
「可愛かったからつい」
と言う事なので、まあ、これはこれで見なかったことにした。
だが、そうこうしている間に鳴り響いた汚染獣の襲撃警報は、そのゴルネオを慌てさせるのに十分だった。
何しろシャンテは脱ぐのが面倒そうな服を着せられて、まだ寝ぼけた状態だ。
着替えるのには数分を要すること請け合い。
と言う事で、ゴルネオは着替えを同室の女生徒に任せて廊下に出た訳なのだが。
「!!」
何かが目の前に現れた。
とっさの防御反応で手加減抜きの拳と蹴りを繰り出すが、全てが避けられてしまう。
防御することさえ必要ないと言わんばかりに、綺麗さっぱりと完璧にだ。
こんな事が出来る武芸者がツェルニに何人いるかと聞かれたのならば、ゴルネオは自信を持って答える。
ただ一人だと。
「アルセイフか」
「こんばんは」
何故か汚染物質遮断スーツらしい物を着込み、ヘルメットを首の後ろのフックに引っかけたレイフォンが、平然とゴルネオの方を見詰めている。
都震が起こった瞬間何処にいたかは不明だが、直後に汚染獣の襲撃を予測して準備を整え終わったのだろう事は理解出来た。
ならば、何故ここにいなければならないかが分からない。
カリアンやヴァンゼの所だったらまだ話は分かるのだが、ゴルネオのところに来る意味が分からないのだ。
「何をしに来たんだ?」
ガハルド絡みで戦いを挑んで見事に負けた以上、あまり引きずるのは性に合わないのだが、何しろ相手はレイフォンだ。
思わずつっけんどんな言い回しになってしまう。
それを気にした様子もなく、レイフォンの視線はシャンテのいる部屋を捉える。
何故一人なのか疑問なのだろう。
「シャンテは今着替え中だ。もう暫く掛かる」
余計な言葉を省いて端的にそう言う。
だが、これこそが余計な言葉なのかも知れないと思ったが、既に後の祭りだ。
それを誤魔化すためにやや強めに詰問した。
「用件は何だ?」
「ああ。その事なんですが」
腰に差した三本の錬金鋼と汚染物質遮断スーツから、外での戦闘を想定していることは間違いないが、やはりゴルネオのところに来た理由が分からない。
ゆっくりと息を吸い込み、自分の考えを整理するように吐き出す。
「今来ているのは恐らく幼生体です」
「うむ。雌性体のいる穴蔵を踏み抜いたのだな」
繁殖期にさしかかった雌性体は、ギリギリまで幼生体の孵化を待つ。
そして、何か適当な獲物が現れたのならば孵化を行い、その獲物を食べさせるのだ。
今回その獲物はツェルニだった訳だ。
汚染獣という生き物の生態を知っていれば、当然出てくる結論であり、レイフォンの装備の選択の理由でもある。
理由は不明だが、雌性体は幼生体が全滅すると近くにいる仲間を呼ぶ性質があるのだ。
ならば、ある程度幼生体を片付けたら雌性体を始末しに行かなければならない。
エアフィルターを突き抜けて、汚染物質が充満している外の世界で雌性体と戦うのだ。
その場合、汚染物質遮断スーツは是非とも必要な装備だ。
無ければ戦闘時間が極端に短くなり、更に死亡する危険性が極めつけに高くなってしまう。
「ツェルニの武芸者は、何体までならば死者を出さずに防御出来ますか?」
「そう言うことか」
ここに来た理由はそれだ。
グレンダン出身者ならば、おおよそ汚染獣の強さを知っている。
そこから逆算して、安全に倒せる数と言う物を把握出来るだろうと判断したのだ。
そしてその判断は間違っていない。
もしレイフォンがいなかったら、ツェルニの歴史は今日終わると言う事が十分に認識出来るほどには、汚染獣の脅威とツェルニ武芸者の能力を把握しているのだ。
そしてもう一つ。
安全を最大限に考慮した上で、実戦を経験させたいのだ。ツェルニの武芸者に。
だからこそレイフォンはここに来て、この質問をしたのだ。
ならばゴルネオはそれに答えなければならない。
「おおよそ三百だ。それでも時間が経つと危険だと判断する」
「・・・・。たった?」
「・・・・・・・・・。グレンダンと一緒にするな。ここにいる武芸者は元からそれ程才能がある訳じゃないんだ」
ゴルネオ自身も知らなかったのだが、学園都市に来る武芸者の質はあまり高くない者ばかりだ。
グレンダンでは放出しても問題無いと判断されたゴルネオでさえ、ツェルニでは最強の武芸者に数えられるほどなのだ。
ツェルニとグレンダンを一緒にされては酷く迷惑な話だ。
「五百くらいはいけるんじゃ?」
「ああ。みんながみんな小隊クラスとか、ゲルニほどの実力を持っていれば、五百くらいはいけるな」
どうやらグレンダンと一緒にしている訳ではなく、実力の把握がかなり甘かっただけのようだ。
とは言え、ゴルネオの所に確認に来てくれて良かったと言わなければならないのは、どう評価すべきかかなり疑問な展開だ。
「・・。分かりました。取り敢えず三百くらい残しておきます」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。ああ」
本来の意味はかなり違うはずなのだが、おこぼれに預かるという単語が思わず浮かんできてしまった。
取り敢えずレイフォンが近くの窓から外に出るのを見届けてから、ゴルネオはシャンテの準備が終わるのを待つ。
なんだか非常にやりきれない内心をそのままに。
確かに、一対一では幼生体相手だったとしても、ツェルニ武芸者で勝てる人間は少ないのだが、それでもあの言い様は、少々では済まない複雑怪奇な心の動きを呼び起こしてしまう。
そして、その心の動きをぶち壊すかに様に扉が開かれた。
「ゴルゥゥ」
「・・・・。馬鹿馬鹿しくなってきた」
当然のこと開いた扉の向こう側から、着替え終わったシャンテが出てきた。
ただし、戦闘衣を着ているはずだというのにその姿には精彩が無く、はっきりとやる気も感じられない。
寝ているところを起こされたのならば当然だとは思うのだが、それでももう少し何かあって欲しいと思うのだ。
汚染獣の襲撃警報が鳴っているのだし。
「まあいい。行くぞ?」
「おう。お休みぃ」
「寝るな!」
立ったまま寝ようとするシャンテの首根っこを引っ掴み、肩に担いで予め決められている集合場所へと向かう。
到着したらまず始めにヴァンゼを捜して、これから何が起ころうとしているのかを説明しなければならない。
だが、シャンテと良いレイフォンと良い、何故かみんなしてゴルネオのやる気や、気合いを削ぐ行動を取るのだろうと、ほんの少し疑問に思ってしまうのは、ひがみ根性のなせる技なのだろうか?
とりあえず、予定通りの行動をとるために、活剄の密度を急速に上げた。