トマス達の鍛練を終えたレイフォンは、今の自分の状況に、かなり戸惑っていた。
なぜかと聞かれると、武芸を続ける事が楽しく思えているからに他ならない。
グレンダンでの失敗が元で目的を見失い、情熱を無くしたと思っていたのだが、ヨルテムに来てからの生活で、徐々に、しかし確実に、レイフォンの中の何かが変化していた。
今まで覚えてきた技を、誰かに教えるために、レイフォン自身が改めて学習しているのだ。
剄の流れや体の使い方を、ゆっくり一つずつ、再確認しつつ、技を発動させる。
それを何度も繰り返し、どう説明したらナルキ達に素直に伝わるかを考える。
それは、今までにない体験で、覚えた技の違う一面を発見する事さえ珍しくない。
それらの事が、なんだか楽しいのだ。
「でも」
武芸を続けることが良い事なのか、悪い事なのか、判断が付かないのだ。
サイハーデンの技を使う事は、自らに禁じている。
それを説くつもりはないが、ナルキやトマス達への鍛練も止める事も出来なくなっている。
二律背反という物かも知れないと考えつつ、良く冷えた強力活性剤をすする。
「でも」
デルクの事をまだ大切に思うのならば、サイハーデンの技を伝えるべきだというトマスの言葉も、十分に理解出来るし、納得出来るような気もしている。
問題は、本当にレイフォンが教えても良い物かどうかと言う事で、基礎訓練に終始している今の内に、何とか答えを出しておかなければいけないのもまた事実だ。
「どうしたものだろう?」
呟きつつ、もう一口すする。
「何考えてるんだ?」
いつも通りに、机の上でへたばっているトマスが、気だるげな声で思考に割り込んできた。
他の四人も多かれ少なかれ、レイフォンの独り言と思考に興味があるようだ。
「個人的な事なんですが」
「うむ。私たちで良ければ相談に乗るが」
大儀そうに身体を起こしつつ、レイフォンの方を向く。
「鍛練、そんなにきつかったですか?」
あまりのトマス達の状態に、少々やり過ぎたかと思っての質問だ。
ナルキ達に自分の常識を当てはめる事は大変危険だと学習したが、トマス達ならもう少し大丈夫だろうと考え、若干きつめのメニューを用意したのだが。
「この歳で、あんな事をするとは思わなかったのでな」
今日の鍛練は、良く滑る油を引き詰めた床の上での組み手だった。
硬球とはまた違った滑り方に全員が戸惑い、終わる頃には足腰ガタガタになっていた。
「まあ、訓練が実戦よりも優しいなんて事は考えただけでも恐ろしいから、このくらいでちょうど良いんじゃないか?」
若いやつは元気で良いなと、トマスの愚痴が聞こえるが、レイフォンは少し違う所に思いをはせていた。
「僕の鍛練は、少し厳しかったんだ」
「ああ? まだ、誰も血反吐を吐いていないから、全然平気だろう」
先ほどの若い武芸者がそう言うのを聞いて、言葉の使い方が間違っていた事を知った。
「あ。いえ。僕の受けた鍛練が厳しかったんだと、思い返したんですよ」
「受けた鍛練が、どう厳しかったんだ?」
非常に怖々とトマスが聞いてきたので、思わず本当の事を口にしてしまった。
「えっと。小さい頃は、年に二回くらいは死ぬような体験をしました」
「小さいって、八歳で汚染獣戦に参加したよな、お前さん」
あきれたように、中年の武芸者が呟いたが。
「その前からですよ。五歳くらいから九歳くらいまでの四年間で、八回は死にかけました」
デルクの鍛練は、それはもう厳しい物だった。
鍛練の最後で満足に立っていられる者などごく少数だった事が、そのすさまじさを如実に表している。
「そ、それは、凄まじいな」
全員が引いているようだ。
「まあ、そのおかげで、きちんと納めた人たちの死亡率は、結構低かったんですけれどね」
不死身と呼ばれた使い手さえ居たサイハーデンだ。
その原動力というか原因のかなりの所は、デルクの鍛練のすさまじさにあったのだと、レイフォンは思っている。
「そ、そうなのか」
全員が、かなり引いてしまっている。
「それで、レイフォンは今何を考えていた?」
「ああ。武芸に関しての事を、つらつらと」
トマスが本来の話に戻したので、レイフォンもそれに従って、昔話を終わりにした。
「まだ、続ける気にはなれないかね?」
「続けても良いのか、それで悩んでいます」
グレンダンでの事を知るトマス達には、案外気楽に話す事が出来るので、もしかしたら、もっとも強力な相談相手かも知れないと、ふと思った。
「ああ。レイフォンの気持ちは分からなくはないが、剄脈を使わないという状態は、きついのじゃないかい?」
「それはありますね」
グレンダンを出るまでの時間と、放浪バス内で過ごした時間。
ごく短いはずだったのだが、それでも、剄脈を使えないという状態が非常にもどかしかったのは間違いない。
何か、腰の付近がムズムズするようなのだ。
「そうだね。レイフォンに必要なのは、目的意識かも知れないね」
「それはありますね。今の僕はただ流されているだけですからね」
自分の状況をある程度客観的に見る事が出来るようになっただけでも、ヨルテムに来てトマス達と関わった甲斐はあったという物だ。
「だが、こればかりは私達にはどうする事も出来ないね」
「ええ。僕自身が何とかしなければならないですから」
その事は理解しているのだ。
レイフォンが自分で見付けなければならないと言う事は。
「そうそう。誕生日おめでとう」
唐突に、トマスがそんな事を言ったので、部屋中を見回してしまった。
「誰かの、誕生日なんですか?」
個人データなど見ているはずもなく、そう聞き返してみたのだが。
「え、えっと?」
全員の視線が、レイフォンに突き刺さっている。
それはもう、これ以上ないくらいに、変な生き物を見るような、冷たい視線が。
「君の誕生日だよ、レイフォン」
あきれがちな疲れ切った声が、トマスの口から漏れた。
「僕の誕生日?」
壁に掛かっているカレンダーを眺める。
そこでふと、自分の誕生日を覚えていない事に気が付いた。
いくらカレンダーがあっても、全く無意味だ。
「ヨルテムの法律だと、昨日が終了した時点で、君は十五歳だよ」
「ああ。そう言えば、そんなイベントもありましたね」
自分の誕生日などという物に、あまり興味がないレイフォンは、すっかり忘れていたのだ。
誕生日というイベントを。
「おいおい。自分の誕生日だろうに」
トマス班唯一の女性武芸者の太い指が、レイフォンの眉間をつつく。
「いや。僕の誕生日の前後って、なぜか汚染獣の襲来が多くて、たいがい戦っている間に終わっている物だったという事情も、少しありまして」
サヴァリスやリンテンスと共に戦った、老性体六期の時もそうだったが、誕生日というのは戦場で過ごす物だというのが、ここ何年かのレイフォンの常識だった。
「そうすると、ここにも汚染獣がやってくるかな?」
「いやいや。そう言う縁起でもない事を言わないでくれよ」
トマスが疲れ切った声を出した次の瞬間。
警察署内に警報が鳴り響いた。
「お、汚染獣か!!」
「落ち着け、馬鹿者!!」
話の流れで慌てた若い武芸者が、トマスの鉄拳で落ち着きを取り戻した。
「これは、ただの出撃警報だ。我々にも要請が来るかも知れんから、念のために準備をしておくぞ!」
今までのだらけた雰囲気は一気に霧散し、五人全員が戦闘態勢に移行した。
「と言うわけでレイフォン。今日もありがとう」
「いえ。それじゃあ僕は家に帰っていますね」
トマス達が戦闘状態に入ったら、レイフォンに仕事はない。
メイシェンの買い物に付合う約束はあるのだが、まだ時間はありそうだ。
適当にふらふらしつつ、学校の側で待とうとそう計画したレイフォンは、やや騒然とし始めた警察署を後にした。
ミィフィが調査を開始して一月半。当然の事だが、難航を極めている。
この世界において、情報が都市間を移動すると言う事は、非常な困難を伴う。
それでも、交通都市という立地条件は、情報を集めるという行為には割と有利に働く。
だが、レイフォン個人の情報となると、途端に難しくなるのもまた事実だ。
グレンダンという、なぜか放浪バスが寄りつかない都市出身だというのも、大きな原因だろうが、とにかく集められる情報が少ない。
そんな愚痴を言いつつ、ミィフィはおおよその所は理解しているのだ。
調べ始めてからこちら、なぜかトマスの視線が厳しい。
無言のプレッシャーを与えられている感じだ。
そして、調査している間中視線を感じる。
思いっきり監視している事を知らせてきている辺り、トマスの内心にも迷いがあるのかも知れないとは思うが、それでも止めるつもりにはなれない。
「負けない」
権力に対するマスメディアの存在意義とか言う以前に、ミィフィの個人的な資質が、調査の中止を認めないのだ。
とは言え、そもそも、女学生であるミィフィに出来る事など、あまり多くない。
レイフォンを追い詰めて白状させるという手も考えたが、それは最終手段にしておきたいし、出来れば使いたくない。
「となると、グレンダン出身者に聞き回るしかないんだけれど」
公開されている情報をいくら探しても、そんな都合の良い人物は見あたらない。
個人情報を気楽に公開する事の方が不思議なので、これも当然の結果だ。
お風呂上がりで、濡れた髪をそのままにして、調査ノートを開く。
「とは言え、これはねぇ」
だが、今までレイフォン自身の話した情報を整理し、単語を並べたページを眺める。
「サイハーデンか」
ナルキとシリアに教えている流派の名前だ。
電話帳でその名前の武門を探してみると、一軒だけその名前の道場があった。
都市の最外縁近くにある、かなりの零細武門らしい事が分かった。
「ここからだと、一日仕事になるよなぁ」
ミィフィの住んでいる場所から考えると、ほとんど都市の反対側になってしまう。
交通費を含めると、かなり痛い出費だ。
こちらの選択肢も、なかなかとれない。
「手詰まりか」
トマスに聞いても話してくれるとは思えないし、他の大人達も同じだろう。
メイシェンとレイフォンの結婚までは、まだかなり時間があるはずだ。
ここに来て二月半が経つが、未だに手をつなぐだけで蒸気を発生させ、頬をつついて違う世界に旅立つという、想像を絶するバカップルぶりを発揮しているのだ。
二人供がこんな状況では、結婚など夢のまた夢。
これは確率の問題でしかないのだが、メイシェンにとっても、男の子は謎の生命体なのだ。
そう仮定するのならば、それほど急ぐ必要はないのかも知れないと、自分に言い訳をしつつ、ノートを閉じる。
ヘタレ気味のレイフォンが、自分から犯罪歴を話すという確率はきわめて少ないが、信頼関係を築く事が出来れば、全く無いわけではない。
そちらからのアプローチの方が、実際には早いかも知れないと思うが、計算尽くで誰かと仲良くするなどという芸は、今のミィフィにはとても出来ない相談だ。
「まあ、じっくりと時間をかけて、ネチネチと調べようか」
自分の台詞にきわめて不本意な内容を感じつつ、ベッドに身体を投げ出した。
「どわ!」
投げ出した次の瞬間、いきなり猛烈な勢いでシェイクされた。
「と、都震?」
ここしばらく感じていなかったので、一瞬驚いてしまったが、ミィフィにとってこの感覚は慣れ親しんだものだ。
「全く。どうしてヨルテムってこう、揺れるのが好きなんだろう?」
別段、好きこのんで地盤の悪い場所を歩いているわけではないのだろうが、しょっちゅう体験している身としては、愚痴の一つくらいは言いたくなるというものだ。
「う、うわぁ」
そんな愚痴からの連想が災いしたのか、ロックに乗ってステップを踏むレギオスなんてものを想像してしまった。
カクテルライトに照らし出され、サングラスでアフロヘアーのレギオスが踊り狂うという、光景をだ。
どこに顔があるかという疑問は、無視して。
「そ、それはないよね。いくらなんでも」
うんうんと頷きつつ、念のために避難の準備をする。
パジャマから私服に着替え、サバイバルキットを取り出し、一階に下りる。
降りてみれば、すでに全員が避難の準備を終わらせている所だったが、お茶など飲んでいる所を見ると、たいしたことにはなっていないのかも知れない。
「都震、大丈夫だったの?」
「ああ。足の半分くらいが埋もれたけれど、それ以外に被害は無いそうだよ」
父の話を聞いて、少し安心したが。
「でも、しばらく動けないらしい」
続く台詞で、少し怖くなってしまった。
「汚染獣、来るかな?」
汚染獣を避けて移動を続けるレギオスが止まると言う事は、襲われる危険性が高まると言う事に他ならない。
生き物の匂いに引かれてやって来るという、研究結果があるくらいだ。
「ああ。武芸者に非常呼集がかかったよ。お隣さんは総出で出撃みたいだ」
「ナルキとシリア、大丈夫かな?」
「子供を戦場に出す程、家は逼迫していないさ」
父のその言葉に、少しだけ安心した。
「レイフォン君は、出撃するのかな?」
「義務はないだろうが、要請は行っただろうね」
それを聞いて、ミィフィは他の不安に襲われた。
「私、メイッチの所に行ってるね」
レイフォン達が出撃すると聞いたのなら、それだけで不安定になる事が予想出来るだけに、出来るだけ側にいたいと思うのだ。
「ああ。そうした方が良いだろうな」
父の了承を得たので、念のためのサバイバルキットを片手に、トリンデン家へと向かった。
都震を感じた次の瞬間、レイフォンは錬金鋼をひっつかみ戦闘準備を終了させていた。
出産期に入った汚染獣の住みかを、ヨルテムが踏み抜いてしまったのかと思ったのだ。
そうなった場合、幼生体を殲滅しつつ、母体を始末しなければならない。
十分な戦力を持っているはずのヨルテムなら、レイフォンが出撃する必要はないのかも知れないが、武芸者として長年培ってきた反射行動は、おいそれと変える事は出来ないのだ。
「レイフォン? 何やっているの?」
錬金鋼を復元しつつ、リビングに到着したレイフォンが見たのは、戦闘衣に着替えてお茶を楽しんでいるアイリの姿だった。
「え、えっと? 幼生体は?」
「まだ確認されていないわよ。っていうか、揺れ方はいつもの都震だったから、違うと思うけれど」
「そ、そうですか」
グレンダンでの生活が長かったせいか、異常事態イコール汚染獣という公式が出来上がっているレイフォンにとって、今回はまさに想定の範囲外だった。
「まあ、取りあえず落ち着いてお茶でも飲んでいなさい。幼生体が来たのなら、それなりに迎撃命令が来るはずだし、家はそんな無能な武芸者飼っていないわよ」
確かにその通りだと納得したので、錬金鋼を基礎状態に戻すと、三人分のお茶を淹れ始めた。
レイフォン程の瞬間的な反応が出来なかったのか、ナルキとシリアがまだ来ていないのだ。
「流石と言うべきね。くつろいでいた私は兎も角、あの二人よりも格段に早いなんて」
「グレンダンで都震と言えば、たいがい幼生体が来ましたからね」
雌性体を潰すために、真っ先にグレンダンを飛び出した事すら有ったレイフォンにとって、襲撃のない都震という物の方がなれないのだ。
だが、レイフォンの感じている違和感は、実はそれだけではないのだ。
天剣ではないにせよ調整を繰り返し、もはや自分の身体の一部となっているはずの青石錬金鋼。
手に持った、その感触に違和感を感じているのだ。
あり得ない現実を前に、少々混乱してしまいそうだ。
「レイとん。は、はやいな」
「っていっても、錬金鋼以外持ってきていませんね」
そんな、精神の均衡を失いかけたレイフォンを救ったのは、押っ取り刀で駆けつけた二人だ。
そんな二人にお茶を手渡しつつ、装備が充実している事に気が付いた。
「サバイバルキット?」
「ああ。私たちはまだ、戦場に出られないからな」
「出られたとしても、遠くから観戦するだけですよ」
戦場を知らない若い武芸者に、その空気を感じさせるのは重要な事だ。
汚染獣戦に対して余裕があるのならば、それは正しい選択だろうとレイフォンも思う。
今まで気が付かなかったが、ナルキは十四歳で、シリアは十三歳なのだ。
問答無用で戦場にかり出される年齢ではない。
八歳の頃から戦場に出ていたレイフォンに言える義理ではないのだが、積極的に子供が戦う必要はないのだ。
「そう言えば、レイとんは汚染獣との戦いは経験有るんだったな」
「まあ、少しだけれど」
あまり突っ込まれたくない話なので、少し視線が泳いでしまった。
「万が一に来たら、出撃要請があるかな?」
「・・・・。無い方が良いかな」
誰かに教えるという形で再び武芸に関わってしまったレイフォンだが、実際に戦いたいかと聞かれれば、それは残念ながら否だ。
余裕があるのなら、なおさら戦いたくはない。
「まあ、その辺はまた今度ね。そろそろ何かしら連絡があるだろうから」
事情を知っているアイリが、頃合いを見計らって話に割り込んでくれたので、少しほっとした。
「そうだな。念のための待機が都市政府から発令される頃だけれど」
ナルキのその台詞を待っていたかのように、リビングに備え付けられた端末から、武芸者の移動と待機の命令が発せられた。
「それじゃあ、行きましょうか」
念のためにレイフォンも連れて行かれる事になったが、気が重いのはどうしようもなかった。
「サバイバルキットは、無いんですよね?」
「着替え持って行った方が良いかな?」
「必要なら取りに来れば良いんじゃないですか?」
戦闘待機ではなく、念のための待機だ。
それくらいの融通は利くだろうと、シリアと話していたレイフォンも納得した。
だがしかし、移動出来ないレギオスは、容易に汚染獣を引き寄せてしまう。
予感と言うよりも、恐怖に近い不安がレイフォンの胸の中にわだかまっていた。
武芸者の待機所に到着したナルキは、著しく不振な物を見てしまった。
「レイフォン。念のためにこれを渡しておくよ」
そう言いつつトマスが差し出した者は、青石錬金鋼が一本と、汚染物質遮断スーツ一揃い。
「・・・・・。襲撃があると、思いますか?」
「無い事を願っているが、用心するに超した事はない」
ナルキ以上にレイフォンの事を知っているらしいトマスが、彼の戦闘能力や経験を遊ばせておく事はないと思うのだが、それにしてもなんだか表情が異常な気がする。
それは恐らく、戦えば死ぬ事が確定している人間を、戦場に出そうとしている指揮官の表情だろう。
断言は出来ないが、いくら何でも可笑しいと思う。
「いやなら断ったって良いんだぞ? レイとんはここの住人じゃないんだ」
「そうですよ。ヨルテムはそんなに武芸者に困っている訳じゃないですし」
ナルキに続いてシリアもそう言うが、トマスをじっと見つめていたレイフォンは、ゆっくりと手を伸ばし、二つを受け取った。
「済まないな」
「平気ですよ。きっと役には立たないですから」
無駄に終わるというのは、使わずにトマスの元へと返るという意味だ。
「済まないな」
もう一度謝罪の言葉を吐き出したトマスが、自分の班の元へと歩き去って行く。
「でも変ですね」
「なにがだ?」
いきなりシリアが意表を突かれたとばかりに、レイフォンの手元をのぞき込んでいる。
「だって、青石錬金鋼持っているでしょう?」
「そう言えば」
レイフォンの手元には、錬金鋼が二本と遮断スーツが一揃いある。
「形状が違う武器を状況に応じて使い分けているから、二本有った方が便利なんだ」
「へえ。剣以外に何を使うんだ?」
二ヶ月半の鍛練中に、レイフォンが剣以外の武器を使った事はないが、補助的な者があるのかも知れないとは考えた。
「うん。鋼糸だよ」
「こうし? なんだそれは?」
聞いた事のない武器の名前に、少々戸惑ってしまった。
「目に見えない程細い糸に剄を通して、閃断を放てるんだ」
「それって、強力なのか?」
糸で粘土を切る所を見た事があるが、それの延長上で考えてしまったナルキは、鋼糸という武器の能力に非常な不安を覚えてしまった。
「武器としてもそれなりには使えるし、移動手段の補助としてはかなり便利だよ」
「ああ。糸を絡ませてそれを引っ張る事が出来ればかなり速く移動出来るし、空中での足場も確保出来るんですね」
ナルキが想像出来ずに困っている間に、シリアが正解を引き当ててしまったようで、レイフォンが頷いている。
「こっちの方も鋼糸には出来るんだけれど、移動を考えると二つ有った方が便利だから、トマスさんに頼んで作っておいてもらったんだ」
警察で何かやっている事は知っていたが、思っていたよりも色々やっているようだ。
最近はナルキ達が学校に行っている間、化錬剄の修行をしているらしいし、トマスの班の人たちがヘロヘロになっている所も何度か見た事がある。
もしかしたら、レイフォンの鍛練に巻き込まれているのかも知れないと思うが、すぐにその確率は頭から追い出した。
いくらレイフォンでも、警察という対人戦闘の専門家相手に鍛練しているとは思えないし、そもそも、優秀な武芸者がヘロヘロになるほどのことを出来るとも思えないからだ。
「僕達も、覚えられますか?」
「どうだろうね。こうなるかも知れないよ」
そう言いつつ、レイフォンが右手の袖を大きくめくると、肘から手首にかけて、かなり大きな傷跡が現れた。
「練習中に鋼糸の制御にしくじってね、危なく死ぬ所だった」
「危ないな」
「危険ですね」
ナルキよりもかなり高見にいるはずのレイフォンでさえ、死にかける程の危険な技だと分かったが、移動に使うだけに限定すれば何とか使えるかも知れない。
そんな事を考えつつ二人を追い立てるように、仮眠室へと向かった。
今まで気が付かなかったが、かなり遅い時間になっていたからだ。
美容には興味はないが、睡眠不足で集中力が無くなる事は、出来れば避けたいのだ。
今のところ戦場に出る事はないと思うが、トマスと同じで用心に超した事はないのだ。
シェルターへの避難準備を終えたメイシェンだったが、心穏やかというわけでは決してなかった。
ゲルニ家の人たちが汚染獣の襲来に備えて待機所に詰めている事は、いつもの事ではあるのだが、慣れたからと言って不安が消えるわけではないのだ。
「今からそんなに心配していたら、身が持たないよ?」
こんな事がある旅に、メイシェンの隣にいてくれるミィフィの声で、少しだけ不安が和らいだ。
「で、でも。唇切ったりとか、膝擦りむいたりしないかな?」
「大丈夫だって、二ヶ月半もレイとんのしごきに耐えたんだよ」
胸を張って太鼓判を押してくれたが、ふとその表情が心配気に変わった。
「でも、ナッキがレイとんの子供身ごもっていたりして」
「ひゅぁ」
思わずその状況を想像してしまった。
照れ笑いを浮かべるレイフォンと、大きなおなかをさすりつつ、謝るナルキ。
「あ、ああああああああああああ」
「じょ、冗談だよ。ねぇ」
あまりの取り乱しぶりに、ミィフィがメイシェンの家族へと助けを求めたのだが。
「ふむ。それはそれで有りかも知れんな」
「そうですね。お婿さんは欲しいけれど、ナルキちゃんが幸せになるのだったら」
「でもでも、そうするとメイシェンの彼氏が居なくなっちゃう」
「お兄ちゃんが欲しい」
見事にミィフィの予測を後押しする回答しか帰ってこなかった。
「えっと。メイッチの立場は?」
「あう」
家族の背信行為に言葉が出ないメイシェンと違って、ある程度冷静なミィフィが反論を試みるが。
「いやしかしね。極限の緊張は人を変えるからね」
「ナルキちゃんだって女の子だし、レイフォン君は間違いなく、男の子よね」
「緊張のドキドキが、恋愛のドキドキに変わるのね」
「お兄ちゃんが欲しいよ」
たぶん、メイシェンに何かさせたくて、誘導しているのだろう事が分かったが、それが何かはまだ分からない。
「と言うわけでメイシェン」
「差し入れを持って行きなさい」
「もちろん、レイフォンによ」
「お兄ちゃんを取られちゃ駄目よ」
「あう」
なぜか、すでに弁当が用意されている辺り、メイシェンをのぞくトリンデン家の行動力は、かなりすさまじい。
「もし万が一、ナルキちゃんと出来ていたら」
「そのときはシリア君を狙うのよ」
「大丈夫。シリアならメイシェンの事、きっちり理解しているから」
「この際だから、シリアでもお兄ちゃんと呼べるように努力するね」
「あう」
何か、猛烈に変な方向に話が進んでいるようだが、取りあえずトリンデン家は平和だった。