訓練室に到着したニーナは、かなり怒り狂っていた。
ハジマと名乗った青年とレイフォンが話したのは既に五日前の事だ。
そして、それから五日の間、レイフォンは何か考え込んでいた。
刀についてだと言う事は間違いないが、話し合いの内容を把握していない上にカリアンからも止められていたために、出来るだけ関わらないようにしてきたのだが、今日という今日は我慢の限界を突破していた。
何故刀を使わないのか、一応の説明は聞いて知っている。
だが、それでもレイフォンは刀を持つべきだという結論に達している。
この世界は死に満ちあふれている。
そして、武芸者とは戦うべき存在だ。
戦いたくないといくらレイフォンが主張したとしても、何時かは戦う事になるかも知れない。
ならば、最も自分の得意な武器を持つ事が生還するためには必要だ。
そして何よりも問題なのは、実はリーリンの存在だ。
一時滞在していた場所からニーナのいる寮へと移動してきたリーリンは、レイフォンと刀について一言も喋らなかった。
それは良い。
レイフォンとの関わりがまだ浅いニーナに話す事自体が、問題有る行為だと言えるからだ。
それに、一月くらいしか一緒ではなかったが、何時も明るく活発だった。
そう。昨日までは全く問題無く影を引きずる事もなく、五人分の食事を作ったりしていたのだ。
昨日までは。
正確には昨晩帰りが遅かった。
何か犯罪に巻き込まれたと考えなかった訳ではないのだが、すぐにその確率を否定した。
一人で帰って来た訳ではなかったというのも一つの理由だが、何か違うのだ。
ウォリアスに抱えられるように歩くリーリンは、なんだか精神的なショックを受けたというか、衝撃的な事があった後のように見えたのだ。
それは今朝まで尾を引いていた。
最も顕著な変化と言えるのが、溜息が多かったことだ。
朝食を作る時にも、片付けをする時にも登校をする時にも、溜息ばかりついていた。
そして、その溜息が非常に重かったのだ。
それは周りの人間の気分を重くして、沈み込ませるに十分な質量を持っていた。
ニーナ自身は経験無いのだが、同じ寮に住んでいるレウの言い方を借りるのならば、まるで失恋した後のような溜息の付き方だそうだ。
本当に失恋かどうかは分からないが、最近の話題の中心と言えばレイフォンが刀を持つかどうか。
リーリンの状況から明確に拒否されたのだと判断した。
それは許されない事柄なのだ。
グレンダンからツェルニまではかなり遠いと聞く。
その遠く困難で危険に満ちあふれた旅路を乗り越え、リーリンはやって来たのだ。
それ自体は学園都市という場所に来る生徒全員に言える事だが、最終的には他の生徒達は自分のために来ているのだ。
だが、リーリンは違う。
完全に違うという訳ではないだろうが、それでも、レイフォンに刀を届けるという目的があったからこそツェルニに来たのだ。
そのリーリンの気持ちを無視してまで、刀を持たないというのは、どんな事情があろうと選択すべきではないのだ。
だからニーナは訓練室の中央に立ち、腕を組みつつイライラとレイフォンを待ち受ける。
徹底的に話し合い刀を持たせるために。
「おはよう御座います」
ニーナがその決意を固め終わるのを待っていたかのように、レイフォンがやってきた。
珍しくフェリやシャーニッドにハーレイと、第十七小隊のメンバーが全てそろっている。
これは珍しい事だ。
そろう事がでは無い。
レイフォンが一番遅いと言う事がだ。
なにやら用事があるとかで、少し遅れるという連絡はもらっていた。
だからこそ、ニーナは限界ギリギリで待つ事が出来たのだ。
だが、それも文字通りギリギリだった。
「レイフォン!」
「は、はい?」
腹の探り合いのような事はニーナには出来ない。
ならば真っ向勝負をして活路を見いだす。
そうやって生きてきたし、これからもそれを改めるつもりはない。
そして一気にレイフォンの前に進み出る。
「刀を持て」
「? は?」
「刀を持てと言っている!」
言うが速いか、レイフォンの剣帯から錬金鋼を引き抜いた。
本来ならこんな簡単には行かないはずだが、あまりにも唐突な展開だったので全く反応出来ないようだ。
反応出来ていないのはレイフォンだけではない。
訓練場にいるニーナ以外の全員が、何が起こっているのか理解していない。
イライラとレイフォンを待っていたから、何かあるのだろうという程度の認識だったようだ。
呆気に取られた空気に支配された訓練場を感じつつ、ニーナは吠える。
「あ、あの」
「刀を持たずに戦って勝てるかも知れんが、それでは駄目なんだ! お前はもっと強くなって都市を守らなければならない!」
ニーナがとうてい辿り着く事が出来ない領域にいるレイフォンだが、それでも絶対に負けないという訳ではない。
実戦経験こそ無いが、ニーナだって知っているのだ。
汚染物質が充満する都市外での戦闘では、遮断スーツに出来た微かな傷でさえ命取りになると。
ならば、全力を出すためにレイフォンは刀を持つべきなのだ。
「あ、あの、せんぱい?」
呆然としつつニーナを見るレイフォンの口が動く。
なにやら言いたそうだが、かまわず続ける。
「良いかレイフォン。お前が刀を使いたくない本当の気持ちは分からないが、恐らく私達ではお前の背中を守る事は難しい」
鍛錬に鍛練を重ねて、何時かはレイフォンと並んで戦うつもりではあるが、今はまだ無理なのは理解している。
だからこそレイフォンは強くならなければならない。
ほんの僅かでも強くならなければならないのだ。
「だからこそお前は強くならなければならない」
「もしもぉし」
手をパタパタと振って、居る事をアピールするレイフォン。
なにやら言いたそうだが更に続ける。
「そのためには刀を持つ事が第一歩だ」
武器を持ち替えたからと言って飛躍的に戦力が上がるとは思えないが、何もしないなどと言う事はあってはならないのだ。
リーリンのためにも今のままではいけないのだ。
「あのぉぉ」
「何だ!」
だと言うのに、気の抜けた声しか出さないレイフォンに腹が立った。
そしてそのレイフォンが手を出す。
「錬金鋼返して欲しいのですけれど?」
「貴様! 戦わないために刀を持たないなどと言うのはかなえられない願いだ! そしてそれは未練だ。未練など捨ててしまえ!」
さほど意味はないだろうが、レイフォンから奪った黒鋼錬金鋼をゴミ箱に放り込もうとして、いきなり手首を捕まれた。
激高していて気が付かなかったが、すぐそばに誰かが来ていたのだ。
「ニーナ」
「なんだ? シャーニッド?」
何時も飄々としているシャーニッドが、珍しく厳しい表情でニーナを見下ろしている。
軽薄そうな瞳の色もなりを潜め、真剣そのものだ。
「お前。俺がそう言ったらどうするつもりだ?」
「何の事だ?」
邪魔されてかなり腹が立っている。
ニーナ自身の問題でもあるが、本来これはレイフォンのための行動なのだ。
それを邪魔するのならば、いくら仲間だと言えど容赦する事は出来ない。
「ニーナが強くなろうとする事など無理だ」
「!」
「そんなかなえられない願いは未練だ。捨ててしまえ」
無理矢理腕を引き抜こうとしたニーナの動きが完全に止まった。
今シャーニッドに言われた事を、ついさっきニーナはレイフォンに向かって言ったのだ。
それはレイフォンのためになればと思っていった事だが、それでも言われて見て始めて、それがかなりの衝撃を受ける内容である事が分かった。
戦わないと言う事を選択しようとしているレイフォンと、戦う事を常に選び続けているニーナでは色々違うのだろうが、それでも受けた衝撃は大きかった。
精神的な衝撃が身体を支配し、膝が震える。
「わ、わたしは」
「ああ。分かっているつもりだが、もう少しだけ考えてくれよ」
手から力が抜ける。
そしてその手から錬金鋼が抜き取られ、シャーニッドがレイフォンに向かってそれを差し出す。
「済まなかったな。騒がしくて」
「いえ。それは良いんですけれど」
まだ何か言いたそうだ。
絶対に刀を持たないと決意を新たにするのか、それとも小隊から抜けるというのか。
どちらにしてもニーナにとって不本意な結論である事は間違いない。
だが。
「刀に持ち替える事にしたので、それをみんなに伝えようとしていたのですが」
レイフォンの言葉を理解するのに暫く時間が掛かった。
そして、それを理解した身体が凍り付くのを実感した。
これ以上ないくらいに凍り付いている。
もしかしたら、これが噂に聞いたことがある絶対零度というやつなのかも知れないと思うくらいには凍り付いている。
目の前のシャーニッドの背中も同じように凍り付いているのだから、ほぼ間違いない。
「リーリンのところによって鋼鉄錬金鋼を受け取ってきたので遅くなったのですが」
訓練場を嫌な沈黙が支配する。
これでは、はっきりとニーナは道化だ。
それを止めに入ったシャーニッドも道化かも知れない。
何故かフェリの小さな笑い声が聞こえたような気がする。
気のせいであって欲しいところだ。
「ハーレイ先輩に設定の変更とかを頼みたくて、みんな持ってきたんですが」
いまさら気が付いたのだが、レイフォンは鞄を持っている。
肩からかけた見るからに安い作りの鞄から、次々に取り出される錬金鋼。
その数三本。
剣帯に収まっていたのを含めて合計四本。
何でそんなに持っているのかとか疑問は尽きないが、取り敢えず凍り付いた身体を何とかしなければならない。
「お願い出来ますか?」
「う、うん。それはへいきなんだけれど」
ハーレイの視線があちこち彷徨っている事が分かったが、ニーナにどうこうする事は出来ない。
まだ凍り付いているから。
「これは子供の頃使っていたやつなんで、少し弄らないと駄目だと思うんですけれど」
「同じ研究室に詳しいやつがいるから平気だと思うよ」
「よろしくお願いします」
二人の会話は順調に進んでいる。
ニーナもシャーニッドもまだ凍り付いたままだけれど。
練武館に設置された十七小隊用の訓練場で、爆笑したいのをこらえていた。
あちこちに仕掛けた念威端子が受信した映像やデーターを、全て記録しておきたいくらいに爆笑したい。
だが、それはフェリという個性上出来ない相談なのだ。
念威繰者なので、感情を外に出す事が下手だというのはあるのだが、それ以上にキャラクターとして爆笑は出来ない。
寮に帰ってカリアンが帰っていなかったら、死ぬほど笑ってやろうと考えつつも、念威端子経由のデーターは記録し続けている。
残念ながら、時間的な余裕が無くて全てを記録出来る体制は整えていなかったが、それでもこれで一月は笑えるだろう事は予測している。
昨日ナルキに拉致られて、メイシェンの働いている喫茶店に連れ込まれたのが事の始まりだった。
時間を潰すために、散々色々なお菓子を食べて満足したのはよい思い出だ。
何か起こるような予感がしたので閉店まで粘っていたのだ。
閉店になれば当然の現象として、メイシェンを迎えにきたレイフォンを認識したのだが、それは普段の腑抜けた表情とは違って決意の色も堅く必死の形相であった。
何でそんな顔をしなければならないのかと考えるよりも速く、好奇心旺盛なミィフィに先導されてその場を見てしまった。
メイシェンに向かい、刀を持つと決めた事を詫びるレイフォンの姿を。
その距離僅かに十メルトル。
普段なら間違いなく気が付くはずの距離だが、流石に昨日は無理だったようだ。
だが、問題は実はレイフォン達の方ではなかった。
フェリのすぐ側にいたリーリン。
彼女の挙動が著しくおかしくなってしまった。
それを心配したナルキとウォリアスに抱えられるようにその場を離れた。
当然ミィフィは覗き続けたそうだったが、フェリがそれを制止した。
流石にあれ以上は踏み込んではいけないと判断したのだ。
そして、リーリンはウォリアスによって寮へと送られた。
鈍感な事では間違いなくツェルニ最強のレイフォンは気が付いていないようだが、他の人達はおおかた分かっている事だが、リーリンはレイフォンに対して並々ならぬ好意を持っている。
だからこそグレンダンからツェルニまで来たのだ。
そして、その目的の一つだったはずの刀をレイフォンが持つ事に同意した。
これは喜ばしい事のはずなのだが、リーリンにとっては非常に酷な話になってしまった
「それで、もう少し長くして重くして」
「これって、今のレイフォンに合っていると思うんだけれど?」
「鍛錬を始めた頃から重い武器に慣れているので、もう少し重くないと」
ハーレイとレイフォンは凍り付いた二人を視界に納めないように、細心の注意を払いつつ新しい設定について話し合っている。
それとは逆にフェリは凍り付いて未だに動く事の出来ないニーナとシャーニッドを眺め続ける。
ナルキに送られながら、フェリは考えていたのだ。
この後どうなるかを。
間違いなくリーリンは落ち込む。
それを見たニーナは間違いなく行動を起こす。
ならばそれを直に見るために、何時もよりも早く訓練場にいなければならない。
と言う訳で、誰よりも速く練武館に到着したのだ。
次に現れたニーナに、この世の終わりを予感したような瞳で見られたが、収支は著しく黒字だ。
カリアンがヴァンゼから返却されてきたが、まあ、この騒動でずいぶん気分が良くなったので当分生かしておいても良いだろうと考えている。
「でも、なんだかリーリンの機嫌が悪かったんですよ」
「リーリンって言ったら、幼なじみの子だよね?」
「はい。鋼鉄錬金鋼を受け取りに行ったら、寝不足みたいに充血した目で見られて、思わず後ずさっちゃいました」
フェリの聴覚は、最強鈍感王決定戦で間違いなく優勝出来るような会話が進んでいる。
話を聞いているハーレイの方はきっちりとリーリンの事を理解しているようで、大きく溜息をついたり呆れたりしている。
フェリもかなり同感だ。
「何か拙い事しましたか?」
「い、いや。別にそう言う訳じゃないよ」
何をどう言えばいいのか分からないのか、それとも彼女がいないせいでひがんでいるのか、ハーレイは言葉を濁した。
「それにしても、そろそろ復帰して欲しいですね」
「ああ。多分今日の練習はないと思うよ」
「そうなんですか?」
「レイフォンだってあんな事になったら、再起動するのに時間が掛かると思うけれど?」
「それは、確かにそうですね」
この辺が分からないほど致命的ではなかったようだ。
だがふと思う。
今回はリーリンが相手だったが、メイシェンが相手だったとしたら、話は今以上にややこしく面白い事になるに違いない。
その時には是非とも居合わせたい物だと思いつつ、帰り支度を始めた。
今日の訓練はないらしいとなれば、早く帰って爆笑したいので。
レイフォンから練武館での顛末を聞き終えてから、ウォリアスは大きく溜息をついた。
これほど真摯でいて馬鹿馬鹿しい展開はそう転がっていないと確信出来る。
それと同時にニーナという人物が持っている特色も多く理解出来た。
基本的には善人なのだ。
ただ、空回りが過ぎるだけだ。
もっと他の人から情報を集めたりすれば、この惨事というか喜劇というかは避けられた。
特にリーリンからほんの少しでも話を聞いてから行動すれば、全く事態は違っていただろうと想像出来る。
端から見ている分には面白いと言えない事はないのだが、ほんの少しでもニーナに関わっている人から見ると非常に危なっかしい。
非常に評価に苦しむ展開と相まって、ウォリアスはどういう表情を作ればいいか、その判断に困っていた。
「なんて言うか」
「うん。もう少し人の話を聞いて欲しいよね」
夕闇に支配されたツェルニの町を寮へと帰る最中、レイフォンからそんな台詞が聞こえてきた。
事もあろうにレイフォンに言われたのだ。
これはどんな虐めだろうかと考えたくなるほどの仕打ちだが、言った人間は極めて本気なのだ。
もう一度溜息が出てしまった。
ニーナは全く考慮していないようだが、はっきり言ってリーリンは失恋したのだ。
昨晩決定的に。
だからこそ今日は昼食の時にバイトを理由に来なかった。
レイフォンはそんな事もあるだろうと気楽に考えていたようだが、メイシェンははっきりと心配していた。
ナルキに至ってはどうやったら元気付けられるかと考えていた。
ミィフィは、まあ、彼女の性格からして楽しみ半分心配半分と言ったところだろうか?
何故そんな事になったかと聞かれると困るのだが、恐らく運が悪かったのだ。
前日の夜に、いきなりレイフォンが決意の色も堅くメイシェンのバイト先に現れたのだ。
護衛を兼ねて帰宅する事が多かったので、レイフォンが来る事自体はどうでも良いのだが、決意の色も堅くと言う事は初めてだった。
そして、フェリを捕縛したナルキとミィフィに引きずられてリーリンとウォリアスもその店にいてしまった事が、悲劇の始まりだった。
何か決断して選んだ事は理解した。
その決意を見届けようとしたのは、問題が有る行動だったと思うのだが、決定的に拙かったと言う事ではない。
こっそりと五人で後を付けた。
余裕がないのか、レイフォンは全く尾行に気が付かなかったようだ。
そして、結果的にリーリンは自分の気持ちが届かない事を理解してしまった。
足元が危ないリーリンを抱えるように寮へと届けたのだが、その時ニーナに説明するという選択肢はなかった。
それは恐らくリーリンが望まないだろうし、練武館での展開を予測もしていなかった以上、取るべき選択肢だとも思えない。
「でも、リーリンどうしたんだろう? なんだか酷く落ち込んでいたというか、イライラしていたというか、憔悴していたというかしていたけれど? ウォリアスは何か知っている?」
「・・・・・・・・・・・・。いや。何も言うまい」
思わぬレイフォンのボケに、渾身の突っ込みを撃ち出したくなったが必死にこらえた。
ここで何か言ってもきっとレイフォンは理解してくれないから。
三発目の溜息を吐き出しつつ、昨晩のリーリンの震えを思い出していた。
大丈夫だとは思うのだが、何かフォローをしておいた方が良いだろうとも思う。
ツェルニに来てから、刺激的な人生を続けている事を自覚しつつ、これはこれで良いかもしれないとも思うのだ。
あの閉塞した世界に戻るよりは、多分良いのだと。
そして思う。
この先もレイフォンは波瀾万丈な人生を送るだろう。
そして、そのいくつかにウォリアスは巻き込まれるだろうと。
そして、少しでも結果が良くなるように悪足掻きするだろうと。
少しでも幸福な未来が訪れるように。
失敗するかも知れないが、それもまた人生。
思い通りになる事など無いのだと知っているのならば、何とか許容出来るかも知れない。
レイフォンもメイシェンもリーリンもニーナも。
もちろんウォリアス自身にしても。
今日もバイトのあるレイフォンは、何時もよりも軽い足取りで機関部へと向かった。
よほど刀を持てる事が嬉しいのだろう事は分かる。
何故それが嬉しいのか本人はきちんと理解しているだろうか?
ヨルテムからの使者は、レイフォンにとって最も望ましい選択肢を持ってきてくれた。
それがあるからこそ、今日レイフォンは非常に穏やかに軽やかに過ごせる。
誰かの犠牲の上に成り立った幸福だったのならば、こうはならなかった。
見送ったウォリアスは少しだけ空を見上げた。
出来ればこれから先、レイフォンの先にあまり重い選択が現れない事を誰かに願いつつ。
「さて」
問題はむしろリーリンだ。
何とかしなければならない。
とは言え、恋愛経験なんて物がないウォリアスには、何をやったらいいかさっぱり分からない。
だが、何もやらないという選択肢は存在していないのだ。
だから、取り敢えずいくつかの買い物を始めとする準備をしなければならない。
褒められた方法ではないのだが、他に何も思いつけなかったから。
絶対に年齢を誤魔化しているとしか思えない武芸長という大男を前にして、イージェは笑いが止まらない事に気が付いていた。
正確を期すならば、笑いを止めようという気が全く起こらないのだ。
端から見ていると非常に危ない人に見えるかも知れないが、そんな事今のイージェにはどうだって良い事だ。
「くくくくくく。レイフォンが刀を持つ事にしただと」
一歩後ずさったヴァンゼを前にして、イージェは更に笑いの衝動が強くなるのを感じていた。
そして、この件に関して衝動を抑えるなどと言う行為に全く意味は無い。
「ぷくくくく! はぁぁはっはっはっはっはっは」
これが笑わずにいられようか?
あのレイフォンが、刀を持つのだ。
戦わなくても食って行ける技量を身につけるために、ツェルニに来たはずのレイフォンが刀を持つのだ。
本来学園都市が持つはずだった機能を失うと言う事はどうでも良い。
そもそもそうし向けたのはイージェ自身なのだ。何の文句もない。
色々と揺さぶりをかけたのは事実だが、それでもまさか本当にこうなるとは思わなかった。
いざとなったら赤毛猿にはイージェがサイハーデンを伝えるつもりだったが、こちらの方が断然良い。
一応ではあるのだが、選択肢を用意はした。
刀を持ってサイハーデンを使い続けるか、剣を使ったサイハーデンを興すか、無様に戦い続けるか、そして武芸者を止めるか。
どの選択肢をとってもかまわないと思ってはいた。
所詮他人の人生だし、学園都市などと言うのは一時滞在が基本だから、滅ぶのならば出て行けば良いだけの事だ。
もしかしたら避難が間に合わないかも知れないが、それもまた人生だ。全てを満足させる方法など無いのだから、ある程度頑張ったら結果を受け止めるしかない。
当然刀を持ったレイフォンと戦いたいというイージェ自身の希望はある。
だが、それを押しつけるつもりはなかった。
あれはあれでなかなか面白いからだ。
だが、更に面白い事態になってきたではないか。
「良いぞ良いぞ! これでこそツェルニくんだりまで来た甲斐が有ったってもんだ!」
若干十歳でグレンダン最強の武芸者に数えられ、そしてサイハーデンの生き方を実践したために追放された天才。
父を圧倒しヨルテム最強の武芸者でさえ、瞬殺されてしまう色ボケ暴走糞餓鬼。
そして、イージェが戦いたくて仕方のない至高の対戦者。
天剣授受者という化け物だと言うことは知っているが、実際に戦っているところを見たことがないので、グレンダンの取った行動はさっぱり理解できない。
だが、どう下方修正してもイージェを圧倒する実力を持っているはずなのだ。
その実力を遺憾なく発揮したレイフォンと戦えるのだ。
技の錆落としという名目でも良いし、何だったらイージェが黒髪の少女を誘拐して強制的に戦っても良い。
いや。もしかしたらこの方法こそが一番楽しいかも知れない。一考の価値はある。
これほど楽しい気分になったのは何時以来だろうと思えるほど、とても良い気分だ。
「それで、一つ頼みたい事があるのですが?」
「ああ? なんだ?」
頼みの一つや二つ聞いてやっても良い。
今は非常に気分が良いのだ。
「ツェルニの武芸者を鍛えて欲しいのですが?」
「ああ? お前らをか?」
少しだけ考える。
話通りの実力をレイフォンが持っているのならば、別段イージェが何かする必要はない。
戦争も汚染獣もレイフォン一人に任せてしまっても良いくらいだ。
だが、本当にそうなってしまったのならば、都市に優遇されている武芸者としては居心地が悪いのも事実だ。
教えると言う事が苦手らしいレイフォンと違い、ある程度道場で教えた経験もあるイージェならば上達も早いだろう。
基準を満たすまではイージェが面倒を見て、それ以上になったらレイフォンに任せる。
そうする事で教える人間の負担がかなり軽くなる。
傭兵業で稼いだ金があるとは言え、無限ではない。
授業料という名目で金を稼ぐのも悪くはない。
「良いだろう。どの程度の実力があるか分からねえから、取り敢えずお前から相手しろ」
「い、いきなりですか?」
なにやら意表を突かれたと言った表情をしている。
善は急げと言う言葉を知らないのか、もしかしたら契約書などと言う物に何か書かなければならないのか。
その辺何か事情があるのかも知れないが、問答無用で襲いかかってみてもおもしろいかも知れない。
そんな事を考えている間に、ヴァンゼが体勢を立て直してしまった。
「取り敢えず契約書を作りたいのですが」
「ああ? めんどくせぇな」
懸念が的中したようで、役人による役人のための役人の政治に関わらなければならないようだ。
まあ、武芸長というのは半分は政治家だから仕方が無いのだし、そもそも、契約書を作らないと満足に金をもらう事も出来ないのだから嫌という訳ではない。
面倒なのでやりたくないだけだ。
「わかった。さっさと作ろうぜ」
巨大な背中を叩きつつ、事務所のある方向へと歩き出す。
殴って解決出来る揉め事は大好きだが、そうでない揉め事は大嫌いなので偉い人が側にいるというのは歓迎だ。
字が間違った程度だったら何とかフォローしてくれるだろうと思いつつ、事務所に向かって歩く。
そして更に一つ良い事を思いついた。
いざとなったらヴァンゼを人質にして契約を有利に出来るかも知れないとか、邪な事を考えつつも、イージェは非常に上機嫌だった。
「っとちょっと待て」
「はい?」
いきなりだが、今の自分が危険極まりないことをイージェは認識してしまった。
あまりにも機嫌が良すぎるのだ。
これはもう浮ついていると言って良いくらいに、非常に機嫌がよい。
このまま契約書に挑んだら敗北してしまうかも知れないことに気が付いた。
たとえば、驚くほど安い金額で教える羽目になってしまうとか。
それは非常に問題だ。
「と言う事でやっぱり俺と一戦しろ」
「どう言うことか分からないのですが?」
イージェの脳内で全てが終わっていたので、流石にヴァンゼには理解できていないようだ。
それを認識しつつもそれ以上何か言う気にはなれずに、その巨体を力任せに引きずって行く。
もちろん邪魔が入らない外縁部に向かってだ。
ヴァンゼの抗議が聞こえるような気もするのだが、武芸者とは戦うことが最も重要な仕事だから特に問題はない。
とは言え、雇い主になるかも知れないのだから半殺しくらいに止めておいた方が良いだろう事も理解している。