日が沈んでずいぶん経ちだいぶ暗くなった部屋の奥、見所の壁に作り付けられた台座の上に乗った木製の小さな家らしき物をじっと見つめていた。
何をするでもなく、ただそれを見つめている。
高さ六メルトル。縦横三十メルトルの大きさの部屋には、今は一人しかいない。
三十分ほど前まではかなり激しく打ち合っていたのだが、その熱も今は冷めつつある。
孤児院の運転資金を稼ぐために再開したサイハーデンの道場だが、あまり遅い時間まで稽古をしていると言う事はない。
これでもしレイフォンが居たのならば、かなり激しい稽古を長時間やっていたのだろうと思うと、少し寂しくもあるが、こればかりはどうしようもない。
やや涼しい風が体を冷やすのにまかせつつ、カミダナを見つめる。
「何やってるんだよ親父?」
いきなり背後から道場の静寂を破らないほどの、声変わりが済んでいないやや高い声がかけられた。
思わず身体が少し浮いてしまう。
全く気配を感じなかった。
いや。声をかけられた今でも細心の注意を払わなければ気が付かない。
デルクに対してこんな事が出来る人間は限られている。
そして、実際にやる人間はこのグレンダンに一人しかいない。
「リチャードか」
振り返らずに確認する。
武芸一筋の生き方しかできなかったデルクにとって、息子と呼べる十五歳の少年へ向けて。
「ああ」
小さく返事をしたリチャード・フィッシャーが横に並ぶ。
身長はすでにデルクと並ぶほどになり、無駄をそぎ落としたその身体は美しいほどにしなやかだ。
幸か不幸か剄脈はないが、その身のこなしはレイフォンには及ばないが十分賞賛に値する。
そうでなければ、熟練の武芸者であるデルクの後ろを取るなどと言う事は、とうてい出来ない。
「また、兄貴の事とか考えていたんだろう?」
「そうだな。考えていたかも知れないな」
カミダナと呼ばれる物に向かう時、デルクはあまり何かを考えているという意識はない。
だが、旅立ったリーリンの事や、もう二度と会う事がないかも知れないレイフォンの事を考えていなかったかと聞かれれば、それは違うような気もするのだ。
「まったく。兄貴はヨルテムで女作っているんだろ? だったら元気だろうよ」
「そうだな。あれは武芸馬鹿でお人好しで鈍感だが、それだけに人に好かれるからな」
デルクが育てていてなんなのだが、レイフォンの育て方を間違ってしまったかも知れないとは思っている。
武芸と孤児院以外に世界がある事を、レイフォンは知らないかも知れない。
いや。ヨルテムでの時間がレイフォンの世界を変えたはずだ。
その新しい世界で生きていって欲しいと思う。
本当は戦場に出る前に教えなければならない事だったはずだが、レイフォンの才能ばかりに目が行ってしまって教えられなかった。
デルク以上に武芸一筋で育ってしまった息子の事を思うと、居ても立っても居られない気持ちにはなる。
「トマス殿を始めとする、ヨルテムの方々に頼る事は心苦しいが」
トマスとレイフォンが出会えたのは、せめてもの救いだと思う。
デルクにとってもレイフォンにとっても、違う尺度で物を考えてそれを示す事が出来る知人というのは、どんな宝石よりも貴重だ。
レイフォンがそれを理解して、大切にしてくれればいいと思う。
「姉貴も行ってるんだ。生きていれば色々と変わるだろう」
「そうだな」
明らかにレイフォンに並々ならぬ好意を抱いているリーリンが、現地妻の存在を知ったのは出発直前だったそうだ。
リーリンが混乱したままツェルニに向かった事は、容易に想像できる。
それを証明するかのように、ヨルテムから出された手紙に現地妻の事が書かれていたのだが、リーリンのその混乱ぶりを理解する以上の事がデルクには出来なかった。
これはデルクの理解能力が低いのか、それともリーリンの混乱が想像を絶するほど酷いのか。
今の状況では恐らく混乱が酷いのだろうと思われる。
「いや。現地妻とは言わんのか?」
その混乱した原因を突き詰めて行くと、ヨルテムで出会った女性に到着するのだが、その女性をどう呼んだらいいのかが分からないのだ。
現地妻は違う気もするし、本妻はもっと違う気がする。
レイフォンの事だから女友達というのも違うだろうし。
武芸一筋だったデルクには、的確な言葉が見つからないのだ。
「言うんじゃねぇ? あるいは愛人?」
黒に近い茶色の髪をゆらしつつ、武芸者になり損ねてしまったリチャードも考える。
小首をかしげても可愛いと言う事はないのだが、レイフォンと一緒に悪戯をしていた頃からの癖が抜けないのだ。
「まあ、それは良いとしてもだ」
仕切り直しとばかりにリチャードが大きく手を横に振る。
話が変わるというジェスチャーだ。
次の話題はおおよそ見当がついているのだが、デルクにはどうする事も出来ないのがかなり苦しい。
「ツェルニで姉貴がどう出るかだ」
「・・・・。ああ」
レイフォンは女性と一緒にツェルニに行ったらしい。
もし、仲睦まじい姿をリーリンが見たのならば。
「レイフォンは生きていられぬかも知れん」
天剣授受者という超絶の武芸者ではあるが、リーリンとレイフォンの関係はそれ以前だ。
明らかにレイフォンの方が弱い。
黙って居なくなってしまったという負い目が有る事を考えると、実力差というか立場の差は更に決定的に広がったと推測できてしまう。
「ああ。怒ると恐ろしいからな」
リチャードとも意見の一致を見たが、デルクの不安は膨らむ一方だ。
リーリンならば理性的に怒れると思うのだが、レイフォンが何かしでかせばその限りではなくなってしまう。
「それよりも今の問題はだ」
「これ以上問題が有るのか?」
身体を使う事は得意だが、頭を使う事は苦手なデルクにとって、これ以上問題が山積するのはあまりありがたくない。
リチャードの方は、成績優秀というわけではないのだが、それなりの成績を取っている。
剄脈が無い分、レイフォンよりも武芸に割く時間が短かったためかも知れないし、戦いに出ていた間にリーリンの手伝いをしていたからかも知れない。
「ああ。重大な問題だ」
まじめな表情でリチャードがデルクを見る。
吸い込まれそうな漆黒の瞳が、しっかりとデルクを捉え放さない。
「夕飯は何にする?」
「・・・・・・・・・・・。まかせる」
家事の一切合切はリチャードに任せている。
リーリンとレイフォンが居なくなり、デルク自身も孤児院を出たために、一時期日常生活は酷い状態になった。
それを救ってくれたのがリチャードだ。
孤児院からデルクの面倒を見るために引っ越してきてくれたのだ。
もしリチャードがいなかったのならば、お客が来てもお茶を出す事さえ苦労したに違いない。
そう考えると、家事の出来るレイフォンはデルクの子供としては良くできていると言う事になるのかも知れない。
まあ、人それぞれの価値観があるから、断言は出来ないが。
「あいよ」
出来れば何か要望を伝えた方が良いのだろうが、生憎デルクは何でも食べてしまうのだ。
この辺もレイフォンに受け継がれた悪しき習慣かも知れない。
「じゃあ用意するから風呂でも入ってこいよ」
「ああ。済まないな」
家事を担当する人に頭が上がらないという現象も、レイフォンに受け継がれてしまったのかも知れない。
もし、レイフォンが誰かと結婚するとしたのならば、明らかに妻の尻に敷かれる人生が待っているだろう。
家事が出来るはずなのに少々理解不能だが、それはデルクの想像するレイフォンの人生だった。
ツェルニで迎えた三日目の朝。
それは入学式が行われる事を意味していた。
だが、レイフォンにとっては生まれて始めてのその入学式は延期となってしまった。
リーリンだって楽しみにしていたのだ。
殆ど学生だけで組織された学園都市の入学式。
それがどれほどの物かという期待が大きかっただけに、この延期という処置はかなりショックだ。
いや。むしろ中止になってしまうかも知れない。
おかげで、正面にいるレイフォンを見つめる視線は始めからかなり厳しい物となってしまっている。
「あ、あう」
壁際に追い詰められた冷や汗を流す生け贄に、責任は無いと分かっていても八つ当たりしなければ気が済まない。
昨日から普通に接する事を決意したリーリンは、入学式に続く諸々の事が終わったのならば、孤児院の弟や妹たちの事をレイフォンに話そうと決意していたのだ。
だというのに、いきなりその諸々が何時終わるのか分からなくなってしまったのだ。
別段、レイフォンが暴れたというわけではないのだが、全く無関係というわけではないのだ。
武芸者二名が探知したところによると、発端は些細な口論だったと言う事だ。
その他の生徒の証言を照らし合わせると、敵対する都市の武芸者が近くに並んだ事で、視線の応酬から口論となった。
それが過激化して武力闘争となるのに、それほど長い時間はかからなかった。
剄脈が発動したらしく、何故か朝からぼうっとしていたレイフォンが起動。
二人の雰囲気に呑まれたのか、他の武芸者の間にも騒然とした雰囲気が蔓延。
一触即発の周囲から逃げる生徒に巻き込まれて、メイシェンが転倒。
それをレイフォンが助けたところまでは良かった。
そのまま、あと少し待っていれば、警備に着いていたらしい上級生の武芸者が駆けつけ鎮圧するはずだった。
だが、何を思ったのかレイフォンが騒ぎの中心に移動。
盛大に二人を投げ飛ばして鎮圧するという暴挙に出てしまった。
確かに、レイフォンが激しく二人を打ち付けたために、騒ぎは一瞬で収まった。
被害らしい被害は出なかったのはまさにレイフォンの功績として称えるべきだろうが。
「言い訳があるかしら?」
これでは、武芸以外で生計を立てるという当初の目的が達成できない危険性が増えてしまった。
今朝聞いた、ウォリアスの予測の内でも最悪の事態が現実として起こってしまった以上、すでに手遅れだが同じ過ちを犯さないためにも、ここは徹底的に検証しなければならない。
何故かぼうっとしていた事も含めて。
別に虐めていると面白いとかそう言う事はないのだ。たぶん。
「あ、あう」
騒動がまだ完全に収まらない内に現場から逃げ出して、今ここに居る。
レイフォンの背中は壁でふさがれ、リーリンを中心に五人で半包囲している状況だ。
背水の陣という物かも知れない。
逃げ場はない。
もちろんレイフォンの逃げ場だ。
「何であんな盛大な方法を使ったんだ? レイフォンだったらもっと静かに誰にも気が付かれずに、事を終わらせられるじゃないか?」
何時も一番冷静なウォリアスが静かに問いただす。
大雑把な質問ではレイフォンが答えられないと考えたためか、一つずつ解決して行くつもりのようだ。
むしろレイフォンの事を最も良く知っているリーリンがやるべきだったのだが、もしかしたらレイフォン並みには混乱しているのかも知れない。
「え、えっと」
狭い範囲の質問が功を奏したのか、答え始めるレイフォン。
何を言うべきか考えつつ、ゆっくりと口を開く。
「寝不足でぼうっとしていた」
「普通の寝不足じゃないな」
汚染獣と一週間戦い続ける事が出来るレイフォンだ。
一晩寝ないだけでどうにかなるとは思えない。
五人の視線が交差され、取り敢えず質問役はウォリアスに絞る事にした。
そうしないとレイフォンが混乱してしまうからだ。
「リーリンが」
「うん?」
いきなりの人名に驚く面々。
そして全員の視線がリーリンを捉える。
「わ、私?」
「うん。一昨日はあんなに怖かったのに、昨日は普通だったから、何が有ったんだろうって気になって、眠れないというか落ち着かないというか考え込んじゃったというか」
ミィフィやナルキの助言に従って、昨日からグレンダンの時と同じように振る舞っていたのが、逆にレイフォンを追い詰めてしまっていたらしい。
結果としてリーリンにも責任の一端がある事が判明した。
この結論には、非常に納得がいかない。
「ああ。それで、半分寝ている頭で条件反射的にやっちまったのか」
「うん。気が付いたら身体が勝手に動いていた」
やはりレイフォンの頭蓋骨の中には、脳細胞が入っていないのではないだろうか?
そんな危機感がリーリンの中で再認識された。
「お前は、脳剄脈置換症患者かい?」
ウォリアスも同じ疑念にたどり着いたのだろう、今まで聞いた事はないがレイフォンに最もふさわしい症状名を口にした。
「あう」
一声呻いたレイフォンだが、すでに事は起こってしまっているのだ。
何とか誤魔化さなければならない。
「で、どうするんだ、これから?」
代表してナルキが話を進めるが、残念な事にリーリン達に持ち札があるとは思えない。
「取り敢えず幸運を祈る。レイフォンの事を知っている人間が上級生にいない事を」
ウォリアスが絶望的な可能性を示すが、リーリンが気になっているのは少し違うところだ。
それを確認するために、レイフォンから視線を外して一同を見渡す。
「金髪の女性見た?」
「ああ。第十七小隊の人だって」
「ニーナ・アントークって隊長さんだって」
リーリンがした質問にウォリアスとミィフィが答えてくれた。
二人とも僅かだが面識があるそうだ。
問題なのは、彼女が鎮圧部隊の先頭になっていた事と、レイフォンの行動の一部始終を見てしまっていた事だ。
メイシェンを助けるところは見ていないかも知れないが、手際よく二人を叩きのめすところはしっかりと目撃していたはずだ。
「レイフォンに熱い視線送っていたような気がしたんだけれど?」
「即戦力を探していたからね。レイフォンならまさに即戦力。それと熱い視線と言うよりは獲物を見つけたと言った感じ?」
「しかも隊員は訓練サボりがち。レイとんは真面目だから引き込めれば隊長さんの精神は安定。きっと誰にも渡さんぞって感じで、すでに売約決定?」
二人からは絶望的な未来予想図しか得られない。
話が一段落したところで、レイフォンを見る。
はっきり言って顔色が悪い。
自分が何をやってしまったかと言う事と、これからの予測が否応なく認識できてしまったのだろう。
「転科させられるのか?」
「恐らくね。ツェルニに余裕はないよ」
ナルキも顔色が悪い。
そして、ニーナがレイフォンの事を知ってしまった以上、本人に転科するように要請する事は間違いない。
もし、生徒会関係者に知人がいたのならば、強制的と言う事さえ覚悟しなければならない。
ある意味原因であるリーリンが悩んでも仕方が無いのかも知れないが、それでも、せめてもう少しレイフォンには落ち着いて考える時間が必要なのだ。
そうでなくても頭が悪いのだから。
だが。
「申し訳ありません」
いきなり背後から声がかかった。
とっさに五人で反転。
レイフォンを庇うようにして声に対する。
何処かおっとりとした感じの声だったのは幸いかも知れないが、問題は声では無く内容だ。
「何かご用でしょうか?」
営業用スマイルを張り付かせたウォリアスが、目の前の女性に対応している。
ウォリアスのこの切り替えの早さは賞賛に値すると思うのだ。
商人でもやればきっと成功するだろうと思うほどに。
と現実逃避気味の感想は置いておいて。
目の前に現れた女性を観察する。
黒に近い髪を肩当たりまで伸ばした、声から推察した通りにおっとりとした感じの女性だ。
いきなりニーナがやってこなくて良かったと胸をなで下ろす。
「い、いえ。貴方達の後ろにいる方にお話が」
そう言いつつレイフォンを指さすのが分かった。
敵愾心のような物を感じないので、まだ冷静な反応が出来ているのだが、それでも危機感は募る一方だ。
「えっと。都市警にはこちらで突きだしておきますので」
相手のペースで話しては駄目だと言わんばかりに、ウォリアスが速攻でレイフォンの襟首を引っ掴み引きずって行こうとする。
この際犯罪者の方が幾分ましだと判断したようだ。
「いえ。叱責のたぐいではありません。生徒会長がお礼を述べたいと」
「生徒会長がですか?」
学園都市での生徒会長とは、グレンダンでの女王とあまり変わらないと思う。
選挙で選ばれるようなので、全く同じというわけではないだろうが、権力者である事には変わりがない。
そんな人が相手では、明確な根拠無しには拒否は出来ない。
責任を問われるというわけではないと、女性が明言してしまっているのも大きい。
どちらにしても、最悪の相手であることも間違いない。
「分かりました。レイフォン行ってこいよ」
「私達は練武間の側の公園で待っているからね」
渋々とウォリアスがレイフォンを押しだし、ミィフィが今後の予定を伝えた。
後出来るのは、本当に幸運を祈る事だけになってしまった。
生徒会長室にやってきたレイフォンは、かなり怯えていた。
怒られるのではないと言われていたのだが、それでも偉い人と会うと言う事はかなりのプレッシャーだ。
壁に並ぶ棚には本や書類が整然と並び、きちんと掃除されている事は、この部屋の持ち主が几帳面な性格である事を物語っているし、踏みしめる絨毯がふかふかなのは明らかに権力者である事を主張している。
レイフォンにとって明らかに長居したくない部屋である。
カリアン・ロスと名乗った人物は、さっそく本題に入ってくれた。
非常にありがたい。
「入学式での君の活躍に感謝するよ」
「はあ」
「一般生徒に被害が出なかったのは君のおかげだ」
目の前の立派な机に座り両手を組み、こちらを見上げているのは、間違いなく生徒会長だ。
銀髪を少し長めにして眼鏡をかけた美青年だ。
その視線に宿る威圧感は武芸者でもないのに、レイフォンの背筋に冷や汗を流させるのに十分な威力を持ち、口元だけの笑顔と相まって非常な恐ろしさを演出してしまっている。
「ここは学園都市だ。多くの都市から生徒がやってくる。その中には敵対するところから来る者もいるだろう」
そんなレイフォンにはお構いなしで話が進んでしまう。
ついでに失礼してはいけないだろうかと考えるのは、駄目な人間の証拠なのだろうか?
「だからこそ、他の都市のもめ事を持ち込んではならないという規則がある」
礼を言われるのはもう終わったのだから、出来るならば早くここを離れたいのだが、偉い人というのは演説が好きな生き物だ。
このまま延々と続けられるか愚痴に発展するか。
かなり微妙なところだが、出来れば結果は知りたくない。
「特に武芸科生徒には誓約書を渡してサインまでさせているのに、入学式の会場でそれを破るとは、毎年有るとは言え腹立たしいね?」
疑問系になっている。
しかもレイフォンに同意を求めているような気がする。
確かに武芸者が暴れたら、その余波だけで一般人は大怪我をしてしまう。
だからこそ、武芸者には必要な時以外は剄脈を使わない事が求められる。
一年前のレイフォンは、その辺の事をしっかり納得していなかった。
だからこそ、ガハルドとの試合で失敗してしまったのだ。
「はあ」
そんな思考を頭の中でやりつつ、取り敢えず曖昧に返事をしておいた。
「それでなのだが、もし良かったら武芸科に転科しないかね? 幸か不幸か席が二つ空いたのだよ。レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ君」
ミドルネーム付きの名前を呼ばれるのは、グレンダンを出て三回目。
いい加減慣れてしまった。
「別人ですよ。僕はヨルテム出身ですし」
「・・。都市名を出したのは失敗だったね」
何がいけなかったのか分からないし、にやりと笑うカリアンが途方もなく怖いが、ここは何とか誤魔化さなければならない。
なのでもう少し言葉をつなげる。
「両親はグレンダン出身ですけれど、僕自身はヨルテムの生まれですから」
「ほう? 私はグレンダンの天剣授受者だとは一言も言っていないが」
「うわ」
予防線を張ったつもりがやぶ蛇だったようだ。
もしかしたら、本当に頭蓋骨の中には脳細胞が入っていないのではないかと、自分の事ながら疑ってしまうくらいに間抜けな展開だ。
「それでどうだね?」
「・・・・・」
「奨学金の申請をしていたね。Dランクだが、転科してくれるのならばAランクになる。機関清掃というきつい仕事をする必要はなくなるよ」
かなり前から用意をしていたようで、レイフォンの逃げ道を効率よく潰して行くカリアンを眺めつつ、レイフォンは考える。
五分考えて答えが出なければノリで行動しろとアイリに言われた事がある。
だが同時に出発の少し前に、ダン・ウィルキンソンに言われた事もある。
ここは仕切り直しをして、生徒会長のペースから外れるべきだろうと判断した。
制服の内ポケットから、乾燥させて細かく砕いたお茶とレモンの葉を紙に巻いたという、煙草によく似た嗜好品を取り出し口にくわえる。
そして、指を軽く弾いて化錬剄の火を生み出し、火を点ける。
「!!」
何か驚いたようにカリアンが批難の視線を向けるのに気が付いたが、かまわずに煙を口の中に貯めてゆっくりと転がしてから吐き出す。
好き嫌いがはっきりすると言うよりは、際物の嗜好品だけあってかなり不味いが、その不味さが良いのだと交差騎士団の人が言っていたような気がする。
初めての時は凄まじい嘔吐感ではっきりと覚えていないのだ。
いつの間にか慣れた不味さを感じつつ考える。
状況は悪くはない。
金が無いわけではないが、貧乏性であるレイフォンにとって奨学金のランクが上がる事は、悪い話では無い。
問題だとするのならば。
「武芸大会は知っているかね?」
「はい。ツェルニの鉱山が後一つなのも」
「それは話が早くて助かるよ」
嗜好品は見なかった事にしたのか、カリアンが話を続ける。
ツェルニの事情は全てウォリアスとナルキからの情報だが、時間の節約はお互いにとって好都合だ。
「ここが学園都市である以上、卒業したら二度と来ないのが普通だ。だが、私はこのツェルニを愛しているのだよ」
知っている事を脈ありと思ったのか、カリアンの話は続く。
情報を知っている事と思考に関連性はないのも、おそらく知っているのだろうが、その辺は意識的に無視しているに違いない。
「愛する物が死に瀕している時に、あらゆる手段を講じようとするのは良くある陳腐な結末だとは思わないかい?」
完全にその表情から笑顔の成分が抜け落ちたカリアンからのプレッシャーが、一段と強くなったような気がする。
全然嬉しくないが、レイフォンは反って余裕が出来た。
「良いね?」
机の抽斗から一枚の書類を取り出し、こちらに滑らせる。
転科の書類で、すでにカリアンのサインはしてある。
今更気が付いたのだが、カリアンの机の上には新しい武芸科の制服まで用意してある。
全て予定通りなのだろう。
それに付き合う義理はレイフォンにはない。
「貴方は、僕が武芸を続ける事の意味を理解していませんね」
ダンに言われるまで気が付かなかった。
もし、知らずに今の提案を受けていたのならば、きっと取り返しの付かない事態を呼び込んだに違いない。
そう思いながらレイフォンはカリアンに向かって交渉を開始する。
「うん? どういう意味だね?」
「僕はあまり上手く説明できませんから、知り合いに武芸者がいるのならば聞いてみて下さい。僕の立場を知っていてくれるのなら多分答えてくれますから」
人に伝える事が苦手なのは間違いないが、カリアンに懇切丁寧に説明するのが嫌だという、子供っぽい理由もあるのだ。
ほめられた事ではないのだが、それもレイフォンの一部なのだ。
「ふむ。いいだろう。出来るだけ早く話をしてみるよ」
今はそれで十分だ。
後はレイフォンが提案を受けるかどうかだ。
だが、その前にレイフォンの心情をしっかりと認識しておいて貰わなければならない。
「先にはっきりさせておきたいのですが」
「うむ。何だね?」
「僕はツェルニがどうなろうと興味ないです」
この一言を言うと同時に、嗜好品を携帯灰皿に放り込んで、最後の煙を吐き出した。
口の中にお茶とレモンの香りが残る。
一瞬の合間を持って、カリアンの表情が厳しい物になりプレッシャーが更に増した。
「・・・・。まあいいだろう。何を愛するかは人それぞれ。君に強要はしないよ」
たっぷり睨んだ後でそんな事を言ったとしても誰も納得はしないが、今は別の問題が有る。
「ツェルニがどうなろうと僕はかまいませんが、僕の知っている人達がそれに巻き込まれるのはごめんです」
メイシェンだけではない。
ナルキもミィフィもリーリンも、もちろんウォリアスも、ツェルニの滅びに巻き込まれて死んで欲しくないのだ。
「ですから、貴方の要請を受けましょう」
出来れば、ツェルニで一般人として錆びて行きたかった。
それが良い事なのかどうかはレイフォンには分からないが、それでも錆び付いて二度と戦えなくなりたかった。
だが、状況はそれを許してくれなかった。
「感謝するよ」
本当に喜んでいるかどうかは不明だが、カリアンは笑顔を浮かべた。
再び戦うと言う事は、メイシェンに心配をかけると言う事だ。
それが嫌だからこそ、武芸以外で生計を立てるためにここに来たのだが、それは全く無意味になってしまったようだ。
何かに操られたのか、はたまたレイフォンの持つ運命なのか、入学式の騒動は切っ掛けにさえなっていなかった。
「条件というか便宜を図って欲しい事があります」
「出来るだけ応じよう」
そんな内心を出来る限り押し込めつつ条件を提示する。
世の中持ちつ持たれつだ。
一方的に利用するだけとか利用されるだけとかでは、その関係はすぐに破綻してしまう。
これはヨルテムにいる間に体験させられた。
お節介な人達が多かったが、それこそが今のレイフォンを作っているのだ。
「まず。錬金鋼の携帯許可。非殺傷設定はかけないで」
「・・・。訓練の時には?」
「そのための錬金鋼の調達が二点目です」
なにも、切れてしまう刀剣で訓練をするつもりはない。
だが、武器を持たないという環境に非常な不安を感じるのだ。
錆び付きたいと思う自分と相反する思考だが、それもレイフォンの一部なのだ。
「・。ふむ。良かろう。他にあるかね?」
カリアンが考え込んだのは一瞬で、すぐに了承された。
「もし、汚染獣の襲撃があった場合、時間が有ったのならば作戦会議なり対策会議なりに、参加させて欲しいです」
「当然だね。君以上の戦闘経験を持つ者はいないからね」
グレンダン以外で、レイフォン以上の戦闘経験を持つ武芸者がいるとは思えない。
だからこそだが、これはすぐに了承された。
「それと」
「うむ?」
「これの喫煙許可」
内ポケットから嗜好品を取り出す。
「煙草ではないようだが?」
「よく似ているので」
交差騎士団の訓練に参加している間に、覚えてしまった良くない習慣の一つだ。
トマスのように煙草に手を出さなかったレイフォンは、自分を褒めたいくらいだ。
いちいち説明するのが面倒だし、許可証があるならそれの方が手間が省ける。
「・・・・・。よかろう。錬金鋼の携帯許可証と一緒にそちらの許可証も出しておこう」
錬金鋼の携帯より少し思考の時間が長かった。
当然かも知れないが。
「他にもいくつかありますが、それは追々」
「ふむ。ツェルニのためになる事ならどんどん要請してくれ給え」
サインをした転科書類と用意されていた武芸科の制服を交換したレイフォンは、陰鬱な気持ちを引きずって生徒会長室を後にした。
もう少し頭を使う癖を付けようと、絶望的な目標を立てつつ。