それは何時もの光景だった。
いや。恐ろしく何時も通りの光景だったはずだ。
「何考えてんのよあのヘタレは!! 顔は悪くないけれど武芸しかできない武芸莫迦の分際で!! リーちゃんの好意を独り占めした上に、巨乳で従順そうな現地妻まで作って!! 更に何? 優秀な優秀な、超優秀な念威繰者の愛人までいるって!! 巫山戯てんの? もしかして巨乳には飽きたから貧乳が欲しくなったとか言うつもり? それともやっぱり巨乳なの? その念威繰者も巨乳なの? もしかして死にたいの? それとも殺して欲しいの? いいえ!! 私が殺してやるわ!! むしろあいつを殺して私が成り代わってやるわ!! そうすれば私の野望は成就されるし、女の子達もあのヘタレの毒牙にかからずに済むわ!!」
更にヒートアップして、ムキィィィと言葉にならなくなる。
そんな訳の分からないことを絶叫しつつ、猛烈な勢いで昼食を掻き込んでいる何処かの女王陛下を眺めつつ、夕食のメニューを考えることが日常となっている我が身を、ほんの少しだけ不思議だと認識していた。
そう。これだけならば全くもって日常の出来事であるはずだった。
焼き魚と味噌汁、漬け物に野菜の煮物、炊いた米という昼食が片付き、女王陛下が更になにやら絶叫しつつ羨ましがっているのを眺めつつ、リチャードは首を捻って現状を確認する。
まず視界に飛び込んでくるのは、髪も髭も真っ白になった好々爺である。
その隣には、カイゼル髭を蓄えた厳格そうな中年もいる。
女王陛下そっくりな女性は、まあ、何時ものことだから良いとして。
黒髪をサイドポニーにした、同年代の少女が、何故かリチャードの隣で緑茶をすすっていたりもする。
そして、最も異様な物を視界に納めることとなる。
それは、移動式の完全介護対応のベッドだった。
当然そのベッドの中には、齢百になろうかと言われているグレンダン最高の念威繰者が横たわり、他の連中とは一線を画する速度で、昼食を租借している最中だ。
夕食までに食べ終わるのか疑問なほど、ゆっくりと召し上がっている。
眠りながら食事をしている女性を介護している若い男性は、既に食事を終わらせているのか、彼の分は用意しなくて良いと言われた。
王族と天剣授受者で狭さを感じるのは、当然のことサイハーデンの道場に併設された居住区画、その食堂である。
そして、そしてデルクを視界に納める。
驚いたことに、割と平静を保っていた。
昔なじみのティグリスがいるために、何とか意識を繋ぐことが出来ているのだと思うが、それがいつまで持つかリチャードには分からない。
だからこそ、取り敢えず関係なさそうな、あるいは軽い会話で済みそうな話題を口にすることとした。
「で、ですねクラリーベル様?」
「わたくしのことはクララとお呼び下さい。昼食をご馳走になっていますから」
「ではクララ」
そんな名前の風邪薬があったのではなかったかと、一瞬だけ思ったが深くは考えない。
考えるべき事は別にあるのだし、現実は直視しなければならない。
いや。直視したくないからこその行動である。
「なんでこんな大勢が家で食事をしているんでしょうかね?」
これが最も問題であると、そう結論付けているわけではない。
これは前振りに過ぎない。
本命はこの後である。
「それは簡単ですわ」
「理由とは?」
「焼き魚です」
「は?」
本命ではない話題だったが、それでもリチャードの想像を絶する返答に一瞬以上凍り付く。
焼き魚など、何処のご家庭でも作って食べているはずだと思うのだが、もしかしたら王族は違うのかも知れない。
もしかしたら、王族の言う焼き魚とは想像を絶するほど奥深く、そして複雑な方法で形作られる料理かも知れない。
だが、リチャードの発想は的外れであったことが視覚情報から明らかになった。
「・・・・・・・・・・・・」
そう。焼き魚と言われて、思わずクラリーベルの皿に視線を飛ばしてみたのだが、そこには僅かな残骸が残っているだけだった。
魚自体はカナリスがもってきた。
変に量が多いなとは思ったのだが、武芸者がいるのだから問題無いかと軽く考えて調理をした。
魚焼きコンロだけでは足りなかったので、倉庫の奥から引っ張り出した七輪まで使って焼いた。
そして、焼き終わって気が付いたら、王族と天剣授受者に食堂を占拠されていた。
もちろん、接近には気が付いていた。
超高速移動をしていたというわけではなく、普通に歩いてきていたのだが、アルシェイラの剄の気配に惑わされ、他の三人とデルボネの接近を至近距離になるまで察知することが出来なかった。
魚の量が多いのもこれで説明が付いたが、だからと言って納得できるという話では無いし、魚の丸焼きを作ったはずだというのに、クラリーベルの皿の上に、頭も骨も皮も残さずに、小さな残骸しか残らないというのも納得が行かない。
「家で焼き魚を食べますと、身以外を食べると怒られますので」
「・・・。誰に?」
「ばあやにですわ」
「・・・。成る程」
しつけ云々を言うのだったらティグリスが五月蠅いのかと思ったのだが、よく見れば好々爺の皿にも魚の小さな残骸しか残っていない。
しつけは他の誰か、おそらく、ばあやが担当しているのだろう事が分かった。
その結論に達した直後、恐るべき想像に狩られてカルヴァーンに視線を向けてみれば、こちらは普通に身だけを綺麗により分けて、骨も頭も残った状態である。
皮が好きな人もいるので、そこは気にしないこととするが、それでも、少し安心してしまった。
「わたくしは、焼き魚を骨の髄まで愛しておりますの」
「焼き魚と結婚しますか?」
「それは無理ですわね。夫となったその夜にわたくしに食べられてしまいますから。それこそ骨まで」
「ですよねぇ」
おほほほ。
上品にそう笑うクラリーベルは可愛らしいと思うのだが、生憎と王族であるので要注意だ。
中身はアルシェイラ並かも知れない。
と、ここまでやって来たところで前座は終わりだ。
本題へと視線を向けて、そして、左手でクラリーベルの前に置かれていた使用済みの箸を持ち上げる。
右手で、自分の箸も持ち上げる。
サイハーデンの修行のお陰で、左手で厚焼き卵が食べられるようになったリチャードにとって、両手で箸を操ることなど造作もない。
準備が整ったので、立ち上がり、冷蔵庫の方へと足を向ける。
そう。冷蔵庫を開けて、取って置きの羊羹を引っ張り出しているアルシェイラに向かって。
「え? あ、あのリチャード?」
ただ立って歩いているだけだというのに、アルシェイラが恐れ戦いて、羊羹を抱えつつ後ずさる。
冷蔵庫の扉を開けたまま、羊羹をもったまま。
二つの事実を前に、リチャードは歩みを進める。
「なあ、アルシェイラさん?」
「な、なんでしょうか?」
そっと冷蔵庫の扉を閉めつつ、羊羹をもったままの女王へと進む足は止めない。
両手に持った箸の調子を確認するために、開閉作業を繰り返しつつ。
「その羊羹なんだがな?」
「は、はひ?」
「どうするつもりなのかと気になって気になって、箸で眼球をつまみ出せるだろうかとか言う下らない疑問を持っちまってるんだ」
「ひぃ?」
左右に持った箸で、同時に二つの眼球をつまみ出せるだろうかと、そんな事を考えている。
大事そうに抱えた羊羹を、更に守るようにするアルシェイラの眼球をだ。
己の眼球よりも羊羹が大事だというのならば仕方がない。
その望みを叶えてやろうと、前へと進む。
「その羊羹、お茶の時間に出そうかと思っていたんだけれどな。大勢になったんでまたの機会にとか考えていたんだ」
そう。予定よりも四人多いためにお茶菓子に用意しておいた羊羹が、物理的に足らなくなってしまったのだ。
であるならば、今日のところは安めの焼き菓子でお茶を濁しておいて、然るべき時に羊羹を出そうというのはおかしな考えではないはずだ。
であるのにもかかわらず、昼食が終わった直後に、独り占めしようとしているかに見えるアルシェイラが出現した。
もう、制裁するしかない。
「その羊羹、どうするんだ?」
「え、えっと、あ、あのね、うんとね」
要領を得ない答えしか返ってこない。
有罪確定である。
壁際まで後ずさったアルシェイラの前に立ちはだかり、そして箸をゆっくりと差し出す。
「ど、どうぞお納め下さい」
「・・・・・・・・」
その、指し出した箸に向かって献上される羊羹。
思わずそのまま受け取ってしまった。
今まで感じたことのない重さを箸で感じつつ、これをどうするか一瞬だけ考える。
アルシェイラが出してしまった以上、このまま冷蔵庫へ仕舞い込むことは憚られる。
と言う事で、仕方なくまな板のところへ箸で支えたまま持って行く。
予定が全て狂ってしまったが、仕方がない。
包丁を取り出し、薄く切り分ける。
ついでに、少し濃いめに淹れたお茶の容易も同時進行する。
「ひっく、うっく。でぃぐじい、りちゃーどがこあかったよぉぉ」
「おお。よしよし」
などと言う会話が背中越しに聞こえるが気にしてはいけない。
グレンダンの女王に泣くほど怖がられているが気にしない。
そんなに恐くねえやと思うが、突っ込んで考えない。
今は何よりも、羊羹を切り分けつつお茶の用意をすることに専念する。
その作業中にもかかわらず、熱い視線が背中に突き刺さっていることは認識している。
最低四対の視線だ。
もしかしたら五対かも知れない。
これはかなり拙いことになったかも知れないと、羊羹の激情が去った頭で考える。
そして、大きめの急須二つで淹れたお茶と、予定よりも薄く切ることになった羊羹を盆にのせ、振り返り、当然展開されている光景を向き合う。
「あのな」
ティグリスとカルヴァーン、カナリスの視線が痛い。
クラリーベルの視線が熱い。
デルボネの視線は、こちらを見ているのかどうか分からない。
だが、自分のまいた種である以上刈り取らなければならないのだ。
「リチャード殿」
「まってください」
「もし宜しかったら」
「勘違いです」
「王宮に出仕して頂けないだろうか?」
「俺を殺したいんですか?」
代表したカルヴァーンの、恐ろしい提案を出来うる限りやんわりと断る。
王宮に出仕と言っても、事務仕事をやらせるというわけではない。
アルシェイラのしつけ役としての仕事が待っているのだ。
そんな仕事をさせられた暁には、三日以内にストレスで死ねる。
しかも、三人の視線は明らかに縋り付いてきている。
ティグリスの胸で泣いているアルシェイラなど、恐怖の視線でリチャードを見上げてきている。
勘違いも甚だしい。
リチャードは、ただ単に、羊羹のことで怒っただけなのだ。
食べ物の恨みは恐ろしいと言うだけでしかない。
それ以上でも、それ以下でもない。
そして、唯一違う意味合いで見詰めるクラリーベルへと視線を向ける。
おかしな圧力を感じ取ったからである。
「・・・・・?」
何故か剄脈が躍動的になり、手には錬金鋼など握りしめている。
まだ復元していないのは、せめてもの救いだろうか?
その光景を認識して、リチャードはクラリーベルに問いを発する。
「クラリーベル様?」
「わたくしのことはクララとお呼び下さい。陛下をあれほど追い詰められるリチャード様を、わたくしは尊敬申し上げております」
「待って下さい!!」
様が付き、更に尊敬されてしまっているというのに、何故これほど嬉しくないのだろうかと自問する。
サヴァリスと同じ類の生き物であるらしいと、風の噂に聞いた。
さっきも、中身はアルシェイラ並かも知れないと疑った。
噂も予測も、少し違った。
この子も駄目な人なのだと言う事は間違いないが、他の連中とは一味違う。
違ったからと言って嬉しくはない。
「そ、そもそも俺は一般人ですから」
「かまいません。わたくしにとって強者こそが全て。剄脈という増幅器官がない状況にもかかわらず、陛下を追い詰められる実力は、もはやこの世の物とは思えません」
「い、いやですね」
「その通りですな」
「い?」
突如割って入ってきたカルヴァーンの声で心も身体も凍り付く。
そこには、既に何かを確信した人物特有の、他の誰かを説得するのに必要な自信がみなぎっていた。
とても嫌な予感しかしない。
「剄脈があるが故に、我らでは陛下をお諫めすることが叶わなかった。ならば、剄脈のない一般人に頼るべきであった物を、我らは一般人の実力をあまりにも過小評価しすぎていた」
「ま、まって」
既に話が進んでしまっているが、何とか停止させるために努力をする。
確かに、剄脈がない一般人相手では、いくらアルシェイラだとは言え好き勝手出来ないはずだ。
ならば、暴虐の限りを尽くすことに歯止めがかかるかも知れない。
その可能性はあるとリチャードだって思う。
だが、だがである。
その役目を、よりにもよってリチャードがと言うのは話が違う。
更にこのまま進めば、クラリーベルの相手もしなければならない。
確実に、二四時間以内に死ぬ。
生き残ることこそサイハーデンの最終目標である。
と言う事で、現在の伝承者であるデルクに、一縷の望みをかけた視線を送ろうとしたのだが。
「おやじ」
四人の内、誰かの剄脈が、一瞬だけ猛烈に活発になった。
そして出現したのは、完璧に意識を刈り取られたデルクが床に伸びているという光景だった。
犯人を特定することは、おそらく出来ない。
強烈な剄脈の持ち主が五人も近くにいるため、リチャードには誰の剄脈が活発になったか判断できなかった。
アルシェイラとクラリーベル以外の三人は、リチャードなど及びも付かない達人揃いである。
彼らの予備動作を見切ることなど不可能であり、事が終わった後で痕跡を探すこともやはり出来ない。
つまり、万事休す。
「ああ。兄貴さえいてくれたのなら」
いたからと言ってどうと言う事はないのかも知れないが、それでも愚痴を言うことくらいは出来るはずだ。
それだけでもリチャードの心は、もう少しだけ明るくなっていただろう。
そして本当の目的がすっかりどうでも良い物になっている事実にも気が付いていた。
そう。アルシェイラの言動からツェルニが近付いているらしいことが分かった。
ならば、それに備える必要がある。
リーリンに託した伝言は伝わっているだろうが、それだけではレイフォンはまだ止まったままかも知れない。
そんな事態になった時の対応を考えつつ、アルシェイラにレイフォンについて少し聞いてみたかったのだ。
あれはまだグレンダンに帰ってくることは出来ないのだろうかと。
だが、それらは全てどうでも良い事となってしまった。
今のリチャードの心情的には、既に吹けば飛ぶような問題なのである。
何故こうも、みんながみんなでリチャードに負担をかけることばかりするのだろうかと、少しだけこの世を呪ってしまった。
それはやって来るべくしてやって来た。
ニーナがカリアンとの話し合いを終えて、ナルキをこの先どうしようかと考え始めた頃合いになり、とうとう汚染獣を詰めたカプセルが割れたのだ。
最後の一つであり、こちらの戦力回復がほぼ終わった状態ならば、それ程の脅威ではないと思われたが現実はそれ程甘くなかった。
「取って置きというところだろうか?」
「冷蔵庫で羊羹でも冷やしておいたのかね?」
おもわずの呟きに答えるのは、当然のことシャーニッド。
あまりにも平和であり、日常的な情景ではあったが、ある意味近いのかも知れない。
最後の最後に放たれ、レイフォンが軌道を大きく狂わせてくれたカプセルから現れたのは、雄性体の一期とおぼしき汚染獣が十五体ほど。
この戦力とやり合うことは出来る。
勝つ自信もある。
質量兵器の残りを使えば楽勝だとは言わないが、それでもかなり優勢に戦い勝つ自信はある。
「ふ、ふふふふふふふふふふ」
ニーナ達武芸者と汚染獣の間に、不気味に笑うナルキさえ居なければ、十分に勝てると断言できる。
ナルキを強制的にこちらに引きずってきて、戦場を確保すればいいことは誰でも分かっている。
分かっているが、誰もそれをやろうとしない。
正確を期すならば出来ない。
ナルキの纏う空気があまりにも黒すぎて、ニーナでさえ近寄ることが出来ていないのだ。
だが、時間はあまり残されていない。
距離があるとは言え、飛び立った汚染獣の移動速度は速く、すぐにでも剄羅砲での迎撃が始まってしまうはずだから。
砲撃で撃墜した汚染獣が、偶然ナルキの上に落ちると言う事を考えると、どうしても攻撃の手が弛んでしまう。
これから先、間違いなく地獄へと行く者に鞭打つことなど出来はしないのだ。
迷っていられる時間はないが、それでもなんとか解決法を探さなければならない。
「な、なるき?」
であるならば、少しでも知っているニーナが何とかすべきであると自分を追い詰め、おっかなびっくり声をかけながら近付く。
こちらに向かって噛み付いてくるとは思いたくないが、何が有るか分からないのが人生だそうなので、用心に用心を重ねる。
だが、そんなニーナの思惑など知らぬげに、ゆっくりとナルキが立ち上がる。
その動作に力強さは感じられず、いや。それどころか魂の存在さえ危うい動作で、現実味のない動きで立ち上がる。
ニーナからは背中しか見えないが、その視線の先に汚染獣がいることだけは間違いない。
他に存在するのは、ただツェルニの外縁部と汚染された世界だけ。
もしかしたら、汚染された世界をこそ、ナルキは見ているのかも知れない。
どんな目的があるかは分からないが。
「お前達のせいだ」
凍れる絶望から虚無の刃が迸った。
それは同時に、ナルキという鞘が取り払われた瞬間でもあった。
刃の向かう先には汚染獣。
止めることは誰にも出来はしないだろう。
まだ距離があるにもかかわらず、一歩前へと踏み出された足は、すぐに二歩目へと繋がる。
エアフィルターの向こう側へ向かい、刀が持ち上がり、技が放たれる。
サイハーデン刀争術 逆捻子・長尺。
幼生体を消し飛ばした技はしかし、更なる強化を見せ、百メルトルは離れている雄性体を直撃。
甲殻もろとも細切れにしてしまった。
だがここまでだった。
「っち!」
小さく舌打ちしたナルキが、割と慌てて刀を投げ捨てる。
次の瞬間には、剄の過剰供給に耐えられなかった錬金鋼が爆発。
ナルキ自身は、少しだけ横に移動して爆発の破片から身を守りつつ、虎徹を復元。
だが、復元した直後赤熱化を起こして使い物とならなくなった。
ナルキ自身にもどうすることも出来ないほど、身体の中で剄が暴れ回っているのだ。
そして、残されたのは鋼糸用の紅玉錬金鋼ただ一つ。
更に悪いことに、時間が無い。
空中を高速移動してきた雄性体は、既にナルキの目の前まで迫っているのだ。
ニーナが、慌てて砲撃命令を出そうとした、まさにその瞬間、ナルキの姿が掻き消える。
サイハーデン刀争術 蝕壊。
次に現れたのは、飛行する雄性体の背中だった。
エアフィルターを通り抜けた雄性体の身体に、一瞬だけ触れる。
触れた汚染獣を足場として、次の瞬間には他の雄性体へと移動。
次々と一瞬だけその甲殻に触れて行くという動作を繰り返す。
それだけで十分だった。
結果として残ったのは、頭部だけを破壊され力なく大地へと落ちる雄性体の群れ。
武器破壊の技を力の限り強く撃ち出したと、そう表現することは出来るかも知れないが、それはあまりにも異常な光景だとニーナには思えた。
以前レイフォンが言っていたことを思い出す。
倒すだけだったら、雄性体十体程度は余裕だと。
目の前でナルキがそれをやっただけのことではあるのだが、この事実を前に、ニーナの背筋には戦慄が走っているのだった。
あまりにも容易に事を成し遂げてしまったから。
元の場所に立ったナルキは、しかし、達成したという充足感があるようにはとうてい思えない。
むしろ、物足りなさを感じることが出来る空気を纏っている。
この事実は、即座にナルキが一線を越えてしまったことを物語ってしまっている。
それは、ナルキ自身にとっておそらく最悪の事実なのだろうと、そう思うがどうすることも出来ない。
そして、目の前にいる後輩がもし、破壊衝動に取り憑かれたとしたならば、今のツェルニにそれを止めることが出来る戦力が存在していない事実が、ニーナの背筋に戦慄を走らせるのだった。
「ふ、ふふふふふふふふふふ」
低く呟くような笑い声が聞こえる。
それは後輩の姿をした魔物から発せられている。
その声が聞こえないはずの距離にいる武芸者さえ、武器を構える。
それはニーナも同じだ。
「地獄はこんなもんじゃない!!」
絶叫を放ったナルキが、こちらを向く。
最速且つ最大の剄をニーナは練ろうとして、急停止。
「この程度は平和な戯れだぁぁぁ!!」
ナルキ・ゲルニは泣いていた。
それはもう、滂沱となって涙がこぼれ落ちるほどに。
「わたしの、わたしのじんせいをかえせぇぇぇぇ!!」
放たれるのは、絶望を受け入れて尚希望に縋る魂の叫び。
廃貴族によって、地獄へと誘われてしまった少女の声はしかし、虚しく汚染された大地に消えて行くだけであった。