なにやら挙動不審だったフェリに連れられて、ウォリアスが買い出しに行くのを見送りつつも、リーリンは何か胸の中のもやもやが急速に大きくなるのを感じていた。
もしかしたら、もやもやの原因は、隠し通せていなかったフェリの態度だったかも知れない。
だが、それではないという変な確信が何処かに存在していた。
メイシェンとミィフィのたわいない会話を装ったやりとりを聞きつつ、深く考えに沈む。
この胸の内のもやもやは、暫く前から有ったような気がしたのだ。
一月とか言う話では無い。
もっと最近。
この何日か。
(ああ。あのときだ)
そして、思い至った。
シャーニッドに連れられて屋上に行き、そして、あれを見た時から何か変化が起こり始めていたのだ。
そして、それがここに来て急速に大きくなり、リーリンに自覚を促したのだ。
あの、喋ることが出来る偉そうな汚染獣と、何処かで会った事があるような、そんな感じがしてならないのだ。
いや。もっとこう、懐かしささえ覚えていると言っても、そんなに間違いではないはずだ。
何故、そんな事を思っているのか全く分からないが、それでも、リーリンの中の何かは確実にあの喋る汚染獣を知っているのだ。
だが、武芸者でもないリーリンに、汚染獣との知り合いなどいるはずもなく、万が一に武芸者だったとしても、二度も三度も戦うなどと言うことはそう滅多に起こらないはずだ。
滅多に起こらないからこそ、グレンダンには天剣授受者が取り逃がした老性体に、名前を付けるという習慣があるのだ。
頻繁に起こることだったら、こんな習慣は意味をなさなくなってしまうだろうから。
(じゃあ、何で懐かしいなんて思うのよ?)
懐かしいと思う以上、それは過去において一度以上は会っている証拠である。
そこに矛盾が存在している。
この疑問を解くことは、おそらくリーリン以外には出来ないだろう。
何処の誰だろうと、リーリンの記憶の中を探すことなど出来はしないのだ。
この結論に達したリーリンは、更に深く自分の中へと意識を向ける。
こんな感じの、矛盾や不条理を感じたことがなかっただろうかと。
(有る)
理不尽や不条理は時々感じるし、レイフォンから見ればリーリンこそが理不尽の塊であると映る行動を取ったことは多かった。
だが、今感じているようなもやもやを伴う矛盾を感じたことは一度しかない。
そう。一度だけ有った。
それは、シノーラと遭遇した時に感じた。
あの時リーリンは、シノーラを見ただけで何故か涙を流していた。
会ったこともない人を見て、突如として悲しくなってしまったのだ。
それは、今この瞬間と同質の矛盾、あるいは違和感であるように思う。
あの変な人と会った瞬間のことを、ゆっくりと呼吸を整えて思い出す。
レイフォンがいなくなってしまってから、半年ほど経った頃だったと思う。
穏やかな日差しが降り注いでいた公園で、その人物は木陰に身体を投げ出して昼寝をしていた。
別段珍しい光景と言う事はなかったのだが、それでも、その時の何かがリーリンを昼寝をしている人物へと引き寄せた。
既に、この時点で何かが違っていたのだ。
そして、シノーラを明確にその視界に納めた瞬間、突如として言いようのない悲しみに胸が締め付けられ、涙を流していた。
その瞬間の映像をリーリンは驚くほど明確に記憶している。
その明確な記憶の中、一部分が何故か拡大して行く。
普通ならそんな事出来るはずがないのだが、何かに導かれるようにやれてしまった。
そして、その引き寄せられた先は、シノーラの瞳だった。
普通に考えるならば、そこに映っているのは視線の先にいるリーリンであるはずだった。
だが、違った。
その瞳の中には、四本足の獣の姿が映り込んでいた。
柔らかそうな毛並みに覆われた、人に似た四肢をした、猛々しい獣の姿だ。
その獣の姿に、見覚えが有る。
だが、それを確認するよりも先に、獣の後ろに何かいることに気が付いた。
それは、黒い少女だった。
リーリンよりも少し年下に見える、長い黒髪を持ち、黒いドレスに身を包んだ、とても美しい少女だった。
その、少女と、視線が合う。
「ああ」
何かが、リーリンの中で動き出した。
それは、リーリン・マーフェスという人間の中に眠っていた、誰か、あるいは何かだった。
その何かが、黒い少女へと信号を送る。
言葉でもなく、合図でもなく、それは、リーリンには信号としか受け止められないような何かだった。
そして、ほんの少しだけ、世界のあり方が変わったような気がした。
いや。世界のあり方がでは無い。
リーリンのあり方が、少しだけ変わった。
リーリンが変わったからこそ、世界が変わったのだと、そう理解した。
そして、何かが遠くで起こっていることを認識した。
その次の瞬間、リーリンの意識は闇に落ちていったのだった。
何か悪いことでも起こったらしく、フェリの強引な誘いを受けたウォリアスが連れ去られるのを認識しつつ、ミィフィは必死に二人の行動からメイシェンの注意をそらせ続けた。
ナルキが居なくなり、そしてレイフォンまで死地に赴いてしまっている現状は、既にメイシェンの精神の限界に迫りつつあるはずだ。
いや。あるいは既に限界を超えてしまっているかも知れない。
もし、限界を超えてしまっているのだとしても、ミィフィのやることは変わらない。
なんとしても、二人が帰ってくるまでメイシェンをきちんと支える。
それ以外にすることはなく、そして、それをやっているからこそミィフィは比較的平常心を保てているのだ。
だが、それも既に過去の出来事となりつつあった。
「リンちゃん!!」
「しっかりして!!」
突如としてリーリンが倒れたのだ。
フェリとウォリアスが居なくなって、僅かに数分での出来事だった。
直前に、溜息に似た息をつくのを確認しているが、関連性があるかどうか全く分からない。
あまりの展開に、メイシェンまで声を荒げて取り乱してしまっているほどだ。
そして、現状で最も心配しなければならないのは、メイシェンとレイフォンが深い仲になったことを原因にしている、精神的な緊張や不安が限界を超えてしまったという危険性だ。
当然のことだが、こんな現象に対応する術をミィフィは持っていない。
兎に角呼吸と脈拍を確認しながら、救急車を呼ぶことを考える。
フェリがいれば話は簡単だったのだが、生憎と今は買い出しに出掛けつつ深刻な話し合いをしているはずだ。
と言う事で、携帯端末に手を伸ばす。
呼吸も脈拍も何ら問題無いのだが、素人の判断は危険であるのも事実だ。
念のために病院に運び込んだ方が良いに決まっている。
そう決断して行動しようとした矢先、そのリーリンがいきなり覚醒した。
よく眠った後のような、満足げな表情でだ。
「お早うミィフィ」
「お、お早うリンちゃん?」
「メイシェンもお早う」
「あ、あう。お、お早う」
取り乱し気味の二人にお構いなく、きちんと焦点が定まった視線が空中の一点を見詰めるリーリン。
そこに何かあるのだろかと疑問に思い、二人してリーリンの見ているらしい場所に視線を向ける。
だが、そこにはただエアフィルターを通して空が広がっているだけで、目立つほどの何かは存在していない。
そう思ったのは、しかしただの一瞬だった。
リーリンの行動を疑問に思うまもなく、それは起こった。
突如として、エアフィルターの内側にシミが現れたのだ。
「う、うわ!」
「!!」
思わず上げてしまったミィフィの悲鳴と、声を出すことさえ出来ないメイシェンが、見詰める先にシミがある。
それは、数日前に現れたあの汚染獣と同じ存在だと、そう思ったからだ。
それはつまり、カリアンの交渉が失敗に終わり、今頃はレイフォンと二人で汚染獣のお腹の中で消化されているという事実を物語っている。
そう思ったのはしかし、数秒の出来事だった。
落ちてきたのだ。
自由落下という奴をやっているのだ。
それは、人一人分程度の大きさだった。
黒っぽいつなぎを着た、褐色の肌をした赤毛の人間に見えた。
地表十数メルトル付近まで、ただ落ちてくるだけだったが、突如として姿勢を制御。
見事な身のこなしで足から着地してのけたそれは、何処からどう見ても人間にしか見えなかった。
いや。もっと、良く知っている人にそっくりだった。
「ええい!! 今度は何処だ!! グレンダンだとか言ったら怒るからな!!」
そう絶叫する声にも、聞き覚えがある。
呼吸のしかたも、視線の動かし方も、全ての動きに見覚えが有る。
ふらりと、メイシェンが立ち上がった。
少しだけ遅れて、ミィフィも立ち上がる。
それを見届けたように、リーリンも立ち上がった。
そして、空から落ちてきた少女がこちらをはっきりと認識。
その瞳が大きく見開かれた。
理解できないという表情をしていることに気が付いたが、おそらくミィフィ達も同じような顔をしていることだろうと、変な納得があった。
そっと、メイシェンが一歩を踏み出した。
大きくミィフィも踏み出す。
次の瞬間、目の前にしなやかな筋肉に包まれた胸が迫り、三人を一緒くたに抱きしめる腕を確認出来た。
「ミィ、メイ、リンちゃん? 本物だよな? グレンダンとか言うオチじゃないよな!! ちゃんとツェルニで良いんだよな? 帰ってきたんだよな、私は!!」
「あ、ぅ」
絶叫しながら涙を流すナルキに抱きしめられながら、ミィフィもメイシェンもリーリンも、声を出すことは出来なかった。
ナルキが帰ってきたのだ。
今は、その事実だけで十分だ。
他のことは、もっと落ち着いてから考えればいいし、答えが出る必要さえない。
ナルキが帰ってきたのだから、全てはそれで良いのだ。
大量のお菓子を詰め込んだ籠を持ったウォリアスは、突如としてその歩行を止めた。
カリアンが出掛けてからこちら、恐怖に落ちることも出来ずに張り詰めたままの空気が、少しだけ動いたことを感じ取ったからだ。
悪い方向へ進んだという訳ではない。
それだけは何故か確信できた。
では、この空気の変化は何に由来するのだろうかと立ち止まったまま思考をしている最中、足の裏から何かの振動が伝わってきていることに気が付いた。
「フェリ先輩?」
「当然感知しています。ツェルニの動力が息を吹き返しました」
動力が息を吹き返したという表現をとっているが、正確を期すならば、ツェルニが移動するための準備を始めたと言う事になる。
これ自体は望ましい事かどうか判断が難しい現象だが、この行き場のない現状が動くというのは良いことのように思う。
ここに留まっていては、何時かセルニウムが底を突いて都市の機能が止まってしまう以上、補給のために移動しなければならないのだ。
それだけは間違いのない事実だから、何時かは動くと思っていたが、それがこのタイミングでやって来るとは全く思っても見なかった。
だが、事態は更に予想を超えた展開を迎えてしまったようだ。
「それと」
「何かありましたか?」
「ゲルニを発見しました」
「? ナルキを? 何処でですか?」
ナルキを発見できないからこそ、メイシェンもレイフォンも追い詰められていたはずだというのに、その前提条件がいきなり打ち砕かれてしまったのだ。
テイルに渡した医療データや、何時破壊行動に訴えるか分からないリーリンの相手とか、ウォリアスのやって来たことが全て水の泡となって消えてしまったことを意味しているのだ。
しかも、あまりにも唐突な展開で。
とは言え、見付かったという現実を受け入れることが嫌という訳ではない。
むしろとても嬉しいのだが、あまりにも唐突すぎる展開に付いて行けていないのだ。
質問したのも、実は精神状態を立て直すための時間稼ぎでしかないのだが、返ってきた答えは更なる混乱をもたらす物だった。
「それが」
「それが?」
「トリンデン達のすぐ側に、唐突に現れました」
「・・・・・・・・」
世の中は非常に驚きに満ちている。
予測してそれに対応するために、ウォリアスは色々な権限を持っているのだが、そんな物は何の役にも立たないのがこの世界なのだとそう認めざるおえない。
愚痴っぽいことを考えつつも、現実に対応するために脳を再稼働させる。
「えっと。じゃあ、しばらくは四人だけにしておいた方が良いかな?」
「そのようです。きちんと録画していますから、フォンフォンが帰ってきたら見せて差し上げましょう」
「・・・・・・・・・・・・。いじめっ子」
見せられたレイフォンがどう反応するか分からないが、残り四人の方は予測できる。
かなりこっぱずかしい思いをすることだろう。
その光景を想像しているらしいフェリに向かって、少しだけ真面目な声で頼み事をする。
「武芸長に連絡をして、外で待機している部隊をツェルニに引き上げさせて下さい。それと、レイフォン達の後を汚染獣が追ってくるかも知れませんから、全部隊の戦闘準備をしておいてくれと」
「分かりました。では、そちらのケースに入っているプレミアムアイスクリームを二つ」
「任務了解」
本来、ヴァンゼに指示を出せる立場にはないのだが、今回はウォリアス達が一番早く事態を認識できたために、このような流れとなっている。
もっとも、指示を出さなかったとしてもきちんと仕事が出来るだろうから、ほんの少しだけ手間を省いたという程度のことになるのだろうと考えつつ、言われた通りのアイスを二つ籠へと放り込む。
ナルキが見付かったことで嬉しいと思う反面、冷静な部分が事態の急変を訝しんでいるのも事実だ。
そう。廃貴族に取り憑かれて誘拐された時には、きちんとした理由があった。
ウォリアス達には理解できないし、共感など以ての外だが、それでもきちんとした理由があり結果があった。
だが今回はどうだろうかと、そう考えてしまう。
結果がある以上、それには原因が有るはずだと考えるのは、ウォリアス的には当然のことなのだが、世間的にはどうだろうかという疑問もある。
人それぞれだとは思うが、それでも考えを続ける。
そして一つだけ、恐ろしい危険性があることに気が付いた。
「フェリ先輩?」
「何でしょうか? 貴方のおごりでもっと買って良いのですか?」
残念なことに、あるいは幸運なことに、この危険性を検討しているのはウォリアスだけだったようだ。
それはそれで何ら問題無い。
こんな事を考える人間ばかりがいたのでは、社会という物はとても住みにくい世界になってしまうから。
だが、兎にも角にも、ウォリアスが思い付いてしまった恐ろしすぎる予測を何とか否定しなければならない。
知らないだけで、何処かの誰かが原因を作り、ナルキの帰還という結果が起こったのだと信じるために。
「そうですね。そちらにあるパーフェクトバームクーヘンをおごりますから」
「もうけました」
話の途中で、一個で二日分の食費が飛んで行ってしまうと言う恐ろしいバームクーヘンを大事そうに抱えるフェリ。
メイシェンのお菓子が欠乏しているために、禁断症状が出てきているのかも知れない。
いや。もしかしたら欠乏症かも知れない。
まあ、今はどっちでも良いので、話を続ける。
「気が付かれないようにナルキを出来るだけ調べて下さい。汚染獣とは言いませんが、何か他の生き物が擬態しているのかも知れませんから」
「・・・・・。貴方の脳は虫が湧いているのですか?」
「その方が良いですよ。違うという証拠が欲しいんですよ。唐突な展開だと不安になるので」
実際にナルキが他の生き物だと思っている訳ではない。
だが、フェリに言った通りに不安なのだ。
原因を探せない結果という物は、それだけでとても不安になるのだ。
この感覚を他の人に強要するつもりはないが、大事そうにバームクーヘンを抱えているフェリには調査をする義務が既に存在している。
そう。パーフェクトバームクーヘンを手放さない限りは、義務が存在しているのだ。
永遠の難題に挑む哲学者のような真剣な瞳をしたフェリが、考えているのを見守りつつ、ウォリアスも思考を進める。
このままだとアイスが溶けてしまうと。
その心配を余所に、ドーナツ型の焼き菓子とウォリアスを見比べること三秒。
諦めの溜息をついた。
そして、念威繰者らしからぬとても嫌そうな表情と共に何かに集中しだしたのを確認。
結果が出るまで暫くかかるかも知れないので、取り敢えずアイスは専用ケースへと戻すこととした。
溶けてしまっては美味しくなくなってしまうからだ。
そして、馬鹿馬鹿しい予測が違っていてくれることを祈りつつ、フェリを引っ張って店の端っこへと移動する。
営業妨害をするのも、ウォリアスの本意ではないからだ。
都市外で待機していたニーナ達は、突如として呼び戻されてから、僅かに時間が経った。
それは食事を終わらせる程度の時間だったと思うのだが、その時間の間に色々なことが知らないうちに起こっていたようだ。
そう。あの喋る汚染獣に命じられて停止していたツェルニが、少々の前触れと共に移動を再開したのだ。
しかも、今まで進んでいた方向とは全く逆の方向へと。
そしてこの方向転換が、ニーナに希望を持たせた。
汚染獣を求めて突き進んでいたツェルニの暴走が、収まったのではないかという希望だ。
この希望が現実の物となるかどうかは、暫く経たないと分からない。
どの程度の時間がかかるか分からないが、それでも、希望と共にあるのだからそれ程の苦痛は感じないだろう。
そして、もう一つの情報を何処かへ行っていたシャーニッドが仕入れてきた。
その手には、なにやら携行食らしい物を三人分持っているところからすると、食事を調達してきてくれたのかも知れないが、何故か感謝することが出来ない。
それは、その表情がとてつもなくにやけていて、とても満足していたからだ。
更に止めとなるのが、調達にかかった時間である。
なんと、一時間少々の長きにわたって行方不明だったのだ。
そして、近くまでやって来て気が付いたのだが、女性物の石けんの匂いがシャーニッドから漂っているのだ。
これは、もしかしたらと勘ぐるのには十分すぎる情報である。
その情報を元に、全力で突っ込みたいところだが、シャーニッドの先制攻撃でそれは不可能となってしまった。
「ナルキが見付かったんだってよ」
「? なに? ナルキが?」
待ちに待った情報だったはずだ。
ニーナ自身も直接知っているし、一度は指揮下に置いていたことだってある後輩の安否が確認されたのだから、とても嬉しい情報のはずだ。
だが、今ひとつ実感が湧かない。
食事のついでのおやつでも持ってきたかのような、シャーニッドの口調や雰囲気のせいかもしれないし、あまりにも唐突な展開のせいかもしれない。
もしかしたら、ニーナ自身がその目で確認していないからかも知れない。
だが、これで一つだけ確実に問題は解決した。
ツェルニの暴走が収まったことを確認出来れば、後は事後処理だけの話になるから、先の見えない現状から脱出することが出来る。
そのためには、カリアンとレイフォンが無事に戻ってくることが絶対だ。
交渉に行った二人を無事に迎えるために、何時戦いになっても良いようにシャーニッドの持ってきた食事を受け取った。
腹が減っては戦は出来ないのだ。
ツェルニが動き出してから二日近い時間が流れて、やっとの事で出張したカリアン達が帰ってきた。
ただし、大量のお土産をつれて。
持って帰ってきたのだったら、あまり問題はなかったのかも知れないが、残念なことに連れてきてしまったのだ。
ヴァンゼの視線の先に、小さなシミのような地上を走ってこちらにやってくる人影と、それを取り囲むように迫る空飛ぶ巨大なお土産がある。
「各隊戦闘準備は終わっているな? これを乗り切れば後は日常生活に復帰できるはずだ。全員奮戦して生き残れよ」
ツェルニ全武芸者を総動員して、カリアン達が連れてきたお土産を迎撃する準備を整える。
そう。十二体に及ぶ汚染獣という願ってもいない迷惑なお土産を、何とか迎撃して逃げ切らなければならないのだ。
本当はもっといたそうだが、途中でレイフォンが何とか数を減らしてくれたそうだ。
ならば、残りの十二体くらいはツェルニ武芸者で何とか片を付けたい。
無理なことは分かっているが、ヴァンゼの心情的には全てをレイフォン抜きで倒したい。
とは言え、ここで死者を出してしまう訳にも行かないので、外縁部へ有りっ丈の剄羅砲を揃え、一般武芸科生徒を総動員して剄の充填をやらせている。
集中砲火で機動力を奪い、地面に落としたところを十五個の小隊で弱い者虐めをするという作戦だ。
ヴァンゼ自身が指揮する第一小隊は、戦力の足りないところへの補充要員として待機しているが、おそらく今回の戦いでは出番は多くないだろうとも計算している。
カリアンをツェルニに放り込んだレイフォンも、おそらく戦力として計算できるだろうし、何よりもこれが最後だと思うことで全員の士気が上がっている。
これならば、第一小隊の活躍の場はないだろうとさえ思えるほどだ。
(いや。こう言う時こそ慎重に、足下を掬われてしまっては意味がない)
勝っている時こそ慎重に、気をつけて指揮を執らなければならない。
ヴァンゼの判断ミスのせいで、大勢が死んでしまっては意味がない。
何時も通りに、何時でも見殺しにしろと命令できるように心の準備をしつつ、その命令を出さないように指揮を執ることだけを考える。
出来るならば、もっと他の熟練した武芸者や指揮官に丸投げしたいような重圧を背骨に感じつつ、ヴァンゼはカリアンとレイフォンの接近を待つ。
そして、剄羅砲の射程距離に達した瞬間、軽く右手を振り上げて、そして、自然な動作を意識しつつ振り下ろす。
力んでしまったら、剄羅砲部隊の連中に要らないプレッシャーをかけることになり、返って効果が得られなくなるかも知れないから。
何時も通りに、力まないことを意識した動作が功を奏したのか、念威繰者を経由した命令の直後に放たれた、集中砲撃は十分な効果を発揮して、十二体中九体の汚染獣がきりもみしながら地面へと落下した。
残り三体も、全く無傷という訳には行かず、辺りに血液を振りまきつつもツェルニ外縁部へと辿り着いたが、その瞬間、密度を増した剄羅砲の第二撃目が殺到。
かなりの深手を負わせることが出来た上に、ツェルニの外縁部からも叩き落とすことに成功した。
ここから先は、後は小隊員の仕事だ。
瀕死と思われる個体には、一個正体ずつをあてがう。
剄羅砲の第二撃を食らった三個体と、頭部に直撃を受けた不運な一個体。
合計四個体に陽動が主体の第三中隊を振り向ける。
当然のこと、深入りはせずに応援が来るまでの時間稼ぎだ。
残り八個体。
元気そうな三個体に、第一中隊の三個小隊を差し向ける。
出来れば頼りたくないが、レイフォンが戦場にやってくるまでの間戦線を維持させるのだ。
中途半端な五個体は、第二中隊を主力とした残りの小隊を全て投入し、行動不能以上の戦果を目的にする。
おそらく第一小隊が参戦するとすれば、第二中隊の戦闘区域の何処かだろうと予測したヴァンゼは、軽く手を振って部下を適切な位置へと移動させた。
「でだが、俺は何処で何をすれば良いんだ?」
「そうですね。元気な奴と戦いたいですか? それとも、死にかけている奴をなぶり者にしたいですか?」
幼生体戦に続いて、再びヴァンゼの直轄となったイージェが、お祭りが待ちきれない子供と同じように、ワクワクしながら話しかけてきたので、思わず訪ね返してしまった。
ツェルニの暴走が収まったと判断出来たことと、カリアンが無事に帰ってきたことで少々浮ついているらしいことを、これ以上ないくらいに自覚できる出来事だった。
自覚したのならば、それを修正して、出来るだけ冷静に判断し行動しなければならない。
「では、瀕死の奴を片付けてきて下さい。戦力を集中するためには、個体の数が少ない方が都合が良いので」
「あいよ」
返事をするが早いか、第三中隊が嫌がらせをしている付近へと旋剄で移動してしまった。
まあ、これで、瀕死の奴が片付くのは時間の問題だから、もしかしたら、本当に第一小隊の出番はないかも知れないと、そんな事を考えている間に、カリアンを背負ったレイフォンがツェルニのゲートへと到着したらしく、行方不明だったナルキの、張り切った声とそれに応じるレイフォンの、嬉しそうな声が念威端子越しに聞こえてきた。
そして、ナルキとレイフォンがこちらへ向かって移動してきていることを剄の動きで感知できた。
だが、まだ安心は出来ない。
最後の個体の殲滅が確認され、全員がツェルニのゲートを潜り寮へと帰るまで、一瞬たりとも気を緩めてはいけないのだと再確認したヴァンゼは、改めて全部隊の状況を確認するのだった。
マイアス都市警のしがない下っ端武芸者は、恐れ戦きつつ目の前の人物を後ろから観察し続けていた。
頼りになる上司であるロイはここにはいない。
股間への打撃は想像を遙かに超える被害をロイへと与えていたようで、未だに入院したままという悲惨な状況である。
医師の意見によれば、このまま女性にしてしまった方が手間がかからないとか何とか。
まあ、それは冗談であると思うのだが、現実問題としてロイはまだ戦線へ復帰していない。
まあ、目の前にいる危険人物を相手にするには、マイアス武芸者の全力でも力不足だと思うのだが、いないと不安になるのだ。
「ああ。これは試練なんだね」
「何の試練ですか」
疑問ではなく、愚痴をこぼす。
放浪バスの停留所に毎日やって来ては、バスが来ないかと辺りを見回すという行為を延々と繰り返しているサヴァリスだが、時々桃色の溜息と共に意味不明なことを口走るのだ。
恐ろしさのあまり引いていたのは、しかし、ずいぶんと前の話になってしまっている。
頻繁ではないにせよ、こんな状況に遭遇し続ければ、誰だって馴れてしまうと言う物だ。
「この僕の愛が試されているんだよ。ナルキやレイフォンに逢えない無為な時間を乗り越えて、二人と殺し合えるその時のためにね」
とても物騒な愛情であるが、巻き込まれなければそれで良いかとそんな事を考える。
警察官としては、何とか止めたいところではあるのだが、生憎とナルキもサヴァリスも下っ端武芸者にどうこうできる相手ではないのだ。
もしかしたら、レイフォンという人物は違うかも知れないが、ナルキと並んで名前が出てきた以上、ほぼ同格の相手だと判断して間違いない。
となれば、出来ることは周りの被害を最小限に抑えることだけである。
ぶっちゃけマイアスでなければそれで良い。
そう考えていたのだが、事態は急変を迎える。
「ひぃぃぃ!!」
突如として、全く何の前触れもなく、それは起こった。
今まで溜息をつきつつ外を眺めていたサヴァリスから、瞬時にして、もはやどれだけ凄まじいのかさえ分からないほどの剄が迸り出たのだ。
どうやら、サヴァリスという武芸者の能力を過小評価していたのだと、この時やっと気が付いた。
もはやマイアス武芸者の全力攻撃が力不足などと言う話では無い。
故郷の武芸者を総動員したとしても、目の前の変人武芸者には全くかなわないと、そう確信できるほどの凄まじい剄の放出だった。
しかも、どことなく余裕のある雰囲気を感じ取ることが出来た。
剄の本流がでは無い。
サヴァリスが、全く平然と座り続けているのだ。
その姿に力みは存在せず、恐るべき事に全くの自然体なのだ。
もはや、どれほどの実力を隠し持っているのかを推し量ることさえ馬鹿馬鹿しい。
「ああ。そう言うことだったんだね。僕の欲望を満たすためにこの世界は作られたのだね」
桃色の溜息をつくように、血の滴るような声が聞こえる。
滴るのは、当然下っ端武芸者の少年から流れ出た血潮である。
その滴る血を舐め取りつつも、闘争を前にして剄を猛らせる超絶の武芸者がゆっくりと立ち上がる。
その視線の先に何が有るのか、全くもって分からないが、サヴァリスが望んでいた光景以上の何かだと言うことは確実だ。
そうでなければ、これほど興奮することはないだろう。
マイアスを振るわせるサヴァリスの哄笑を聞きつつ、地獄の門は開かれたのだと言う事だけは理解できた。