一対多数の戦いは初めてだった。
汚染獣との戦いも、犯罪者との戦いも、常に少数を多数で包囲殲滅するという前提があったために、一対多数の戦いの訓練などしてこなかったのが大きい。
レイフォンやイージェ、ハイアとの戦いは、当然のこと一対一だったために、今回が初めてだったのだ。
「はあはあはあはあ」
同じ格好、同じ体格、同じ声、同じ錬金鋼、そして完璧と言って良い連携を駆使して襲いかかってきたお面集団だが、その全てを返り討ちにすることが出来た。
だが、本当に倒す事が出来たのかはかなり疑問である。
何しろ、致命的な一撃を入れる度に、溶けるようにその個体が消えて行ってしまったのだ。
最初の一人を倒した瞬間には、流石に驚いて動きが止まりかけたのだが、止まる事を許さないレイフォンの訓練を受けていたお陰で何とか切り抜ける事が出来た。
ナルキの体感時間では、とても長いあいだ戦っていたような気がしたのだが、汚染獣戦がまだ始まっていないところを見ると、せいぜいが十分程度の時間だったのだろうと思える。
馴れないことをすると、とても疲れると言う事を再認識したナルキは、内ポケットに避難させていたマイアスの安否を確認する。
ナルキ自身も、あちこちに傷を負ってしまっているが、幸いにして既に血は止まっているし、戦闘能力の低下につながるような物もない。
そして、マイアスはと見れば、こちらは全くの無傷で、相変わらず感情の読めないまん丸な瞳でナルキを見返すだけである。
だが、これで良いのだ。
今、ナルキの手にあるのはこの都市そのものと言える電子精霊だ。
怪我をしてしまったら、それこそ大事になる。
「と、それどころじゃないな。兎に角機関部へ行って、どうにかしてマイアスを元の場所に返さないと」
問題はそこである。
都市の心臓部である機関部に、よそ者を入れてくれる訳がない。
汚染獣戦で混乱しているだろうが、それでも、警備が全く無いと言う事は考えられない。
乱れ気味だった剄息も整ったことだし、最悪の場合強行突破かと思った、まさにその瞬間、後ろから人の気配が近付いていることに気が付いた。
「っち!」
お面集団の生き残りかと思い、切っ先をそちらに向けたナルキだったが、そこで動きが止まる。
斜めに降り注ぐ日差しが暖かいなとか、そんな現実逃避をしたくなるような人物を視界に納めてしまったからだ。
もちろんサヴァリスではない。
サヴァリスだったら、もっと接近されても気が付かなかっただろうし、気付かせるつもりだったらもっと遠くから分かったはずだ。
そう。殺剄をしているはずだというのに、近付いただけで分かる程度の技量しか持たないのは、マイアスの武芸者であり都市警に所属しているロイだ。
嫌な空気が辺りに充満するのを感じながら、それでも切っ先をロイから外すことはしない。
マイアスの武芸者だから、敵ではないと思うのだが、残念ながら味方でもないのだ。
「僕は敵ではありませんよ?」
「だと思うが、味方である保証はないんでな」
ナルキにとって、味方と呼べる存在はマイアスにはいない。
いや。ある意味サヴァリスは味方かも知れないが、今ここにはいない。
だから、出来るだけ慎重になるのだ。
刀の切っ先を突きつけたまま、ゆっくりと後ずさる。
一瞬の気の迷いや油断が、即座に死につながることを身体は理解している。
レイフォンが身体に刻んでくれた。
その身体を使って、マイアスを本来いるべき場所へと返さなければならない。
「そう警戒しないで下さい」
無理な注文を付けつつも、両手を挙げているにもかかわらず、ある程度以上近付かないロイの冷静さを確認出来た。
取り乱した人間は、時として恐ろしいほど愚かなことをするのだ。
それが、今のロイにないことは非常に有難い。
そのロイの行動を確認して尚、ナルキはゆっくりと遠ざかる。
今、この瞬間にここに居ると言う事は、さっきまでの戦闘を物陰から見ていたと言う事。
その行為一つで、警戒するのには十分だ。
「あの戦いに参加しなかった訳を知りたいのだったら簡単ですよ。僕ごときではあっと言う間に細切れになってしまうと思ったからですよ」
「だろうな」
ナルキ自身、胸の中にいる何かの力がなければ、あのお面集団には勝てなかった。
それを理解しているから、ロイの判断を批判するつもりはない。
だが、それでも、やはり味方だと思うことに躊躇してしまう。
異常な事態を連続で経験しているからかも知れないし、もしかしたら、都市警の人間と言うことで、無意識な警戒が働いているからかも知れない。
だが、もし、ロイが味方でいてくれたならばとも思う。
そうなってくれたならば、機関部への侵入が非常に楽になるからだ。
だが、それを望んでしまっては隙を生む事になるのも事実だ。
「それで、ナルキさんでしたか? 貴方の目的は何ですか? 機関部へ行くとか言っていたようですけれど」
「ああ。機関部へ行かなければならない。何も聞かずに案内してくれないか?」
無理な注文をする。
もし、逆の立場だったら、間違いなく錬金鋼を抜いて周り中に警戒を呼びかけているだろう。
だが、驚いた事に、ロイの行動は少し違った。
「何も聞かないという事は、流石に無理ですね。大雑把でも良いので、目的を言ってもらえませんか? もしかしたら、協力できるかも知れませんし」
「・・・・・・」
これは少し困る提案だ。
出来れば強力を取り付けたいところだが、それでも、ナルキの手にあるのは大勢の命を左右する存在なのだ。
思考が堂々巡りを始めようとした、その瞬間。
内力系活剄の変化 旋剄
突如、ロイの姿が目の前に現れた。
何かを考える暇はなかった。
「ぐわ!」
都市警の正式装備であるらしい打棒を振りかぶっていたロイの、足の間を思いっきり蹴り上げていた。
勢いのまま、何の容赦もなく、手加減などと言う物がこの世に存在している事さえ知らないとばかりに、渾身の力を込めて蹴り上げた。
そして気が付いた時には、ロイは泡を吹いて昏倒しているという事実だけが目の前に存在していた。
「・・・・・・・・・・・・・。あ」
咄嗟だったと、言えるかも知れない。
反射的にと、言い訳をする事が出来るかも知れない。
だが、事実としてナルキの目の前に存在しているのは、マイアスの都市警に所属する武芸者を、必殺の威力の蹴りで鎧袖一触にしてしまったという、動かしがたい現実なのだ。
それは、マイアスへの敵対行為だと、そう言い換える事が出来る現象に他ならない。
これはかなり困った事になった。
ロイが目を覚まして、事実を正直に報告してくれたのならば、あるいは間違いであったと証明できるかも知れないが、唯一の証人は当分目覚めないだろう事は疑いない。
ならば、ナルキに出来る事と言えばただ一つ。
「お前の犠牲は無駄にしない」
懐をまさぐり、通行に使うだろうカードキーを拝借する。
これで、機関部への侵入が楽になったと、心の何処かでそんな邪な考えが蠢いているが、それを意識的に無視する。
全ては、危機的状況に陥ったマイアスを助けるための、尊い行為なのだと、自分に暗示をかける。
ついでに身ぐるみはいて、もっと話を楽にしようかという悪魔のささやきもついでに無視する。
そこまで落ちる事は、ナルキには出来なかったのだ。
そして、必要最小限の収穫を得たナルキは、貴い犠牲に軽く敬礼をしてから、踵を返して機関部へと向かった。
ナルキがしてしまった事を遠くから見ていたサヴァリスだったが、内心少々複雑な思いで一杯だった。
ロイに同情してしまっている、男という生き物という共通点を持ったサヴァリス。
不意を突いたにもかかわらず、ナルキに瞬殺されてしまった情けない武芸者を見ているサヴァリス。
不意を突かれたにもかかわらず、一瞬の迷いもなく、容赦などせずに始末したナルキを賞賛しているサヴァリス。
その他色々なサヴァリスを内包しつつ、情けなくも昏倒している武芸者から視線をそらせる。
その先には、こちらも情けなくも、よたよたと飛んでくる汚染獣の姿があった。
ロイが、どんな意図があってナルキに攻撃を仕掛けたのか少しだけ疑問ではあるが、それを今考えるつもりにはなれない。
問題なのは、このもやもやした何かをどう処理するかだ。
出来ればナルキと心ゆくまで殺し合いたいが、廃貴族が本気を出さないのではつまらないし、そもそも、ナルキ自身の気が散っていては楽しさも半減という物だ。
「消去法で君と戦う事にしたんだけれどねぇ」
汚染獣を見る。
エアフィルターの中で戦うとなれば、瞬殺間違い無しの弱敵である。
もちろん、油断をすればサヴァリスと言えど危険ではあるが、天剣授受者が戦いに赴く時に、油断をするなどと言う事の方が考えられない。
戦ってもつまらない事請け合いなのだ。
だが、それでも、このまま何もしないで見ているだけと言うのも、サヴァリスの中の何かが許してくれないのだ。
と言う事で、活剄を総動員して跳躍。
砲撃を物ともせずに、エアフィルターの中に突っ込んできた雄性体の直上へと移動。
ついでのように、マイアスからの砲撃を軽く回避する。
外力系衝剄の変化 流滴。
極限まで浸透力を高めた衝剄を、汚染獣の頭部へと放つ。
表面で爆発することなく、その衝剄は細胞内の奥深くまで浸透して行き、脳のある付近でその猛威を振るう。
即座に汚染獣の甲殻を蹴り、距離を取りつつ、やはりマイアスの砲撃を避ける。
少し離れた建物にサヴァリスが着床したところで、力を失った汚染獣が外縁部へと落下する。
こんな好機を逃すほど、マイアス武芸者は間抜けではなかったようで、渾身の総攻撃をかけて甲殻を破壊し、肉を引きちぎり内蔵をズタズタにした。
「やれやれ。僕の天使は今どこで何をしているのかな?」
始末した汚染獣などへの興味は放り出し、ナルキの方へと視線を向ける。
丁度、機関部への入口を発見したようで、ロイから奪ったカードを使って進入を図っているところだった。
その動作は慎重であったが、それでも流れるように美しく、まるで泥棒をするために生を受けたような、そんな印象を受けるほどだった。
思わずサヴァリスの鼓動が跳ね上がってしまった。
「ああ。ナルキ。早く君と心ゆくまで殺し合いたいよ。そうか。これが恋焦がれるという感情なんだね」
頬を染めたサヴァリスは、建物の床を蹴り、ナルキが侵入した機関部を目指して飛んだ。
その行動に迷いはない。
リーリンを伴って屋上へやって来たシャーニッドは、来るべき時が来た事を実感してしまっていた。
今ツェルニは暴走状態にあり、武芸科生徒を含めた全員が何時死ぬか分からない状況なのだ。
だからこそ、思い残す事がないように誰も彼もが色々と活動的になっている。
例えば、久しぶりに日の光を浴びに出てきたディンが、金髪を盾ロールにした女性に拉致されたりと言う事も起こりうるのだ。
遙か下方、建物の一階にしつらえられた出入り口から、強引に連れ去られている旧友を見送りつつも、シャーニッドはやらなければならないのだ。
「諦めきれないか?」
「・・・・・・・。無理ですよ、そんな事」
韜晦することなくリーリンが、溜息と共にその心情を吐き出した。
レイフォンになみなみならない好意、いや。
はっきりと恋愛感情を持っているリーリンのその溜息は、シャーニッドも付きたい類の物だった。
二人で一緒に溜息をついてしまえれば、それはそれで安らぎを得られるのかも知れないが、どう考えても一時的な物で長続きはしない。
シャーニッドの中にダルシェナに対する思いが、決定的に叶わない事が分かった今でも残っているように、リーリンの中にもあり続けているのだ。
それを消す事は出来るかも知れないが、今ではない。
もしかしたら、一生付き合わなければならないかも知れないその思いと共に、リーリンは今ここに居る。
だからこそ、同じような思いを持ったシャーニッドがいれば、気を紛らわせる事ぐらいは出来るかも知れない。
いや。それは傲慢なのかも知れない。
もしかしたら、全く役に立たないどころか、再び歩き出すための邪魔になるかも知れない。
女は強いのだ。
「これから、どうする?」
「これからですか?」
「ああ。この暴走が収まったら、さ」
ツェルニを辞めてグレンダンに帰るか、それとも、二人の破局などを期待してこのまま残るか、あるいは、ヨルテムにまで着いて行って愛人の座を狙うか。
まあ、後半二つはないと思うが、選択肢としては考えられる。
「そうですね。取り敢えずレイフォンを死なない程度に殴ってみても良いかもしれませんね」
「ああ。そいつはなかなかのアイデアだ」
既に散々、殴ったり怖がらせたりしていると思うのだが、けじめを付けるためには必要な行為だろうとも思う。
シャーニッドには被害は来ないだろうし、レイフォンも死なないのだったらそれはそれで問題無い。
そしてやはり思う。
リーリンに限った事ではないが、女は強いのだと。
グレンダンに君臨する女王も、おそらくこれほどまでに強いのだろうと思うと、思わずレイフォンに同情してしまいたくなる。
だが、それもこれもレイフォンという人間を通して見た場合でしかないことは、きちんと理解しているつもりだ。
そこから離れてしまえば、シャーニッドはそれ程リーリンという少女のことを知っている訳ではない。
「ところでシャーニッド先輩?」
「あん?」
ふと、リーリンの雰囲気が変わった。
鋭くなったと言うよりは強固になった。
何かを警戒するように、何かに備えるように、何かに立ち向かうように。
「私のこと軟派しようとしています?」
「・・・・。そう言う誤解をしたんだね。そんなつもりはない」
そう言いつつ、既に活剄で強化しなければ捉えられない場所まで移動してしまった二人を見る。
シャーニッドには、もう届かない場所へと行ってしまった二人へ。
もしかしたら、届いたかも知れない人を思って。
「・・・・・・・・・・・」
だが、何故かリーリンの雰囲気が更に強固になった。
いや。むしろ拒絶しているかのように刺々しい物となったと言っても良いかもしれない。
何かを避けるように、何かの接近を阻むように、絶対に関わらないように。
この誤解の方向は、おおよそ分かろうという物だ。
「・・・。言っとくが」
「伺いましょう」
「タコじゃないからな」
「・・・・。縦ロールの人ですか」
「そうなんだ」
似たような思いを持っているリーリンには、そのまま素直に言うことが出来た。
もう少し甲斐性があれば、もしかしたらダルシェナにも言えたかも知れないことを、言葉にすることが出来た。
レイフォンの事をヘタレだと散々言ってきたシャーニッドだが、自分もさほど変わらないのだと言う事はきちんと認識している。
それを認識していて尚、変わることが出来なかった。
だから、今のこの結果があるのだ。
全てを受け入れて、そして、また何処かへと向かわなければならない。
男という生き物は、この切り替えが非常に下手なのだとそう思う。
女の方が強いのは、きっとこの切り替えの上手さなのだろうとも思う。
溜息をついたその瞬間、空気が変わった。
「っく! 建物に入れリーリン!!」
「え?」
今まで感じたことのない、危険な空気がシャーニッドを貫く。
そして、空間が揺らめいた。
エアフィルターの外側ではない。
気流のコントロールが行き届いているはずの、内側の空間が渦を巻くように揺らめいて、そしてそれが現れた。
何の予兆もなく、突如としてその巨大な質量は現れた。
「やべえ」
リーリンを避難させることさえままならないほどに、唐突に現れたのは汚染獣と呼ぶことさえが間違いだと思えるほどに、圧倒的な力を秘めていることが分かる生き物だった。
いや。生き物と呼ぶことさえ間違いかも知れない。
あまりにも巨大なトカゲのような体幹。
太く強靱な後ろ足と、それとは対照的に細く短い前足。
長い頚が支える頭部は攻撃的に鋭角を描き、空を突き刺すように生えた一本の角がまるで王冠のように聳え立っている。
そして、その巨大な質量を支える力強い翼をはためかせ、それはそこに君臨していた。
全てが圧倒的だった。
以前倒した、老成二期の汚染獣など、今目の前に現れた何かと比べたら、まるで子供の玩具のように思えるほどの、圧倒的な存在感を持って空中にとどまっている。
レイフォンでさえ勝てないことは間違いないと思えるほどに、圧倒的な存在を前にして、しかしシャーニッドは考える。
リーリンが目の前で死ぬことだけは避けなければならないと。
だが、具体的な方策が浮かび上がるよりも早く、それは起こった。
「人よ。・・・。境界を破ろうとする愚かな人よ。何故ここに現れた」
全身を覆う、コケの生えた鉄のような色をした鱗を振るわせて、それは言葉という音を迸らせた。
それは、愚かな人間に対して恐怖のあまりに死を忘れさせるように、天から振り下ろされた鉄槌だった。
「お、汚染獣が喋っている?」
あまりにも異常な事態のせいか、シャーニッドは返って冷静になれた。
現実味がないのだ。
今感じている恐怖でさえも、本物だとは思えない。
「足を止め、群れの長は我が前に来るが良い。さもなくば即座に我らの晩餐に供されると思うが良い」
だが、もはやどれほど生きたか分からない汚染獣の声は、確かにそこに存在していた。
それは深い知性と溢れる怒りを内包しつつも、威厳を持ってツェルニという箱庭に振り下ろされた。
その振り下ろされた鉄槌に恐れをなしたかのように、金属のきしみを上げつつツェルニが止まる。
その光景を眺めて頷いたように見えた汚染獣は、少し満足した様子で続ける。
「それでよい。使いは、既に向かわせた」
その言葉を最後に、始めからそんな物など居なかったかのように汚染獣の姿がかき消えた。
後に残されたのは、都市が移動する音が完全に無くなった、まさに死のような静寂だけだった。
「な、何だったんでしょうね、あれ?」
「お、俺に聞かれても困るぞ。レイフォンなら分からないかな?」
「む、無理じゃないかと思うんですが」
あまりにも唐突な展開で、目の前で起こったことをどう処理して良いか分からない人間のことなど、きっと汚染獣はかまってくれないだろう。
だが、目の前にいたあれと戦ったら、確実に負けることだけは理解している。
それだけは、ツェルニの全生徒の共通見解だろう。
外縁部に置かれた専用放浪バスの屋根に座り込んだハイアは、あまりにも唐突な展開に付いていけない自分を呆然と眺めていた。
この展開に付いて行ける人間がいるとしたら、それはもう何か違う生き物であると断言できるくらいに、唐突で何の脈絡もない展開だった。
ふと、自分の側を浮遊している念威端子を視界に納めた。
フェルマウスの物ではない。
「フォルテアリ」
『何でしょうか団長?』
最近になって、やっとの事で聞き馴れた返答を認識しつつ、何をどうやって質問すべきかを考える。
適切な質問などと言う物があるのかどうかさえ怪しい今回の展開を前に、考えることを諦めた。
「あれって、何だったさぁ?」
『さあ。いきなりでろくに調べられませんでしたし、そもそも、念威が恐ろしく通らない奴でしたので、じっくり調べても分からないかも知れません』
「成る程さぁ」
フェルマウスが抜けた穴を埋めるべくグレンダンからやって来た念威繰者は、個人的な能力からすればそれなりに優秀だった。
ただ、傭兵団という特殊な組織を理解するのに時間がかかってしまったのだ。
それが終了していることが、唯一この異常事態においては吉報だったかも知れない。
ツェルニがあれと戦うと言うのだったら、全力で逃げる事を選択する。
そのためには、どうしても念威繰者の補助が必要なのだ。
まあ、フェルマウスとリュホウを総動員しても、逃げ切れるとはとうてい思えないほどに恐ろしい奴だったのは、直感として理解できているから、本当に気休め程度の吉報だろうが。
『ただ、はっきりしている事があります』
「それは何さぁ?」
フォルテアリが、とても確信を持った声を念威端子に乗せてくる。
付き合いの短いハイアでも分かるほどなのだから、これは相当に確実な事だろうと腹をくくった。
『あれは、女王が倒すべき汚染獣です』
「さぁ?」
フォルテアリの言う事が一瞬分からなかった。
武芸者でも天剣授受者でもなく、女王が倒すべき汚染獣だとそう言ったのだ。
力で天剣授受者を統べる女王以外に、あれと戦う事が出来ないと、そう言い換えてもかまわないのだろう。
それは、傭兵として、サイハーデンの継承者として生きてきたハイアにとっては、放っておけない認識であるように思えるのだが、それでもあれを実際に見てしまった後だと、納得してしまうのも事実なのだ。
「本当に、この世界はやってられないさぁ」
色々な都市を回り、学園都市の周りには何故か有力な武芸者を揃えた都市が有ったりと、そんな不思議な経験を重ねてきたハイアはやけ気味の独り言を叫んでから、屋根に横になった。
今はまだ、戦う時でも逃げる時でもないことが分かっていたから。
突如起こった事態に、ニーナは何か行動を取ることが出来なかった。
数日前に汚染獣との戦闘を終え、新たに発見された個体については、今は第二中隊と二個小隊が戦場へ向かっているはずだが、それが外の現実であるとするならば、今ツェルニで起こったのは一体何だったのだろうかとそう考えている。
咄嗟だったので、一緒にいたレウを避難させることさえ出来なかった。
いや。そもそもそんな余裕はなかった。
言いたいことだけを言って、さっさといなくなってしまった何かに対応することなど誰にも出来なかっただろう。
だからこそ、今のツェルニは驚愕に支配されつつも何とか存在を続けていられるのだろうという直感もあるのだ。
だが、問題となるのはこれからのことだ。
何かは、群れの長をよこせと言っていた。
このツェルニでその地位にいるのは、当然のこと生徒会長であるカリアンである。
危険極まりない場所へと向かうカリアンが、最低限の護衛を付けるとするならば、それは間違いなくレイフォンである。
レイフォンが勝てるとは思えないが、それでも最大限の努力をするとなれば、間違いなく連れて行くことになるだろう。
ヴァンゼやオスカー、ゴルネオにはツェルニを守るという責務がある以上、選択する訳には行かない。
それはニーナについても言えることだ。
フェリとレイフォンを欠いているとは言え、第十七小隊は遊撃戦力として期待されていて、そして結果を出せたのだ。
汚染獣対策戦力として、唯一単独行動をしているレイフォン以外にいない。
「ニーナ?」
「・・・・・・。私は、無力だな」
レウの声が聞こえたので、思わず言ってしまった。
そして思い直す。
無力なのではない。
二人が帰ってくるべき場所を守ることを期待されているのだ。
それは、決して無力などではない。
何度も経験してきた。
老性体戦の際には、手痛い失敗をした。
その後も、理性では理解しているつもりだったが、身体がどうしても前へと出たがってしまった。
ツェルニの暴走が始まってから、リュホウに散々打ちのめされた。
そしてやっとの事で、指揮官がやるべき事を身体が理解できたのだ。
また、前の自分に戻ることは許されない。
今度こそ、役目を果たさなければならない。
潔い生き方を尊いと思うが、今のニーナがそれを目指したところで、自己満足にしかならない。
守るべきなのはツェルニと、そこに住む六万人の人達なのだ。
ニーナの個人的な願いや誇りではない。
「ああ。そう言うことだったのか」
思い至った。
レイフォンが、孤児院のために戦い、どんな卑怯なことをしてでも生き延びてきた、その根底にあった思いを。
カリアンやヴァンゼ、オスカーが必死に足掻き続けてきた理由を。
やっとの事で理解することが出来た。
守るべきは、ニーナの矜持ではないのだと。
いや。ツェルニとそこに住む人達を守ることが出来るならば、それこそがニーナが誇るべき実績なのだと。
「なんだ。そうだったのか」
「ニーナ?」
突如として独り言を呟き、そして笑い出しそうなニーナを心配してレウが声をかけてくれたが、それがとても嬉しい。
誇り高い武芸者と人は言う。
レイフォンに誇りを持って欲しいと、ニーナ自身も思っていたし、本人に対してではないが何度か発言している。
だが、その誇りについてニーナはきちんと考えたことがあっただろうか?
おそらく無かった。
そして、考えた訳でもないのに、突如として答えが降ってきたのだ。
誇りとは、自らの行いによってもたらされた結果に対して持つ物だと。
何をしたいかでも、どの様にやったかでもなく、何をやったかについて持つべき物が誇りなのだと。
ならば、レイフォンはやはり誇りを持つことが出来ないのかも知れないとも思う。
孤児院のために働いたが、それは途中で放り出さざるおえなかった。
ガハルドに脅されたことを発端とした事件で、グレンダンを追放されてしまった以上、もはや家族のために出来ることが無くなってしまったのだから。
「いや。それは違う」
自分の結論に対して、反抗を試みる。
確かに途中で投げ出すことになってしまったが、全く無駄だったという訳ではない。
貧しかった孤児院に、多少なりとは言え蓄えが出来ただろうし、もしかしたら、都市中の人達に孤児院の問題を思い出させることが出来たかも知れない。
無駄ではなかったのだ。
贔屓の引き倒しかも知れないが、ツェルニに着いてからのことは確実に誇ることが出来るはずだ。
幼生体に襲われた時も、老性体に近付いてしまった時も、そして暴走している今でも、レイフォンがいなかったらツェルニは滅んでいた。
そして何よりも、ツェルニ武芸者にとって目標となることで、実力の底上げを図ってくれているのだ。
この実績を誇っていけないというのならば、この世界に誇り高い武芸者など一人もいないだろう。
「そうか。お前は誇りを持っていないのじゃなく、知らないだけなんだな」
誇りなどと言う物がこの世に存在していることは知っていても、それがどんな物か知らないから自分の手の中にあっても気が付かない。
ならば、ニーナがやるべき事は、それをレイフォンに教えることだ。
そのためには、ニーナ自身が誇りを持たなければならない。
カリアンとレイフォンが帰るべきこの都市を、きちんと守って出迎えなければならないのだ。
そこまで考えたニーナは、とても身体が軽くなっていることに気が付いた。
これならば、きちんと役目を果たすことが出来る。
そう確信できる身体の軽さだった。
ツェルニ全土を襲った異常事態はしかし、既に過去の物となった。
テイルにどうこうできる話ではなかったことだし、この騒動で怪我をした人間が運び込まれたという連絡も無い以上、このまま全てを他の誰かに投げてしまっても良いのかもしれない。
その誰かというのは、取り敢えずカリアンとレイフォンだろうと思うが、まあ、そちらはそちらで何とかしてもらうしかないと割り切る。
今は、テイルの中にある情報記憶素子をどうにかすることの方が重要だ。
「なんだこれ?」
渡してきた細目の変人に問い質す。
いきなり呼び出されて、座った瞬間に手渡されてしまって、戸惑っているのだ。
何の変哲もない情報記憶素子だが、外見などどうでも良いのがこの手のブツの恐ろしいところだ。
「一般人が武芸者を産んだ際に、体調を崩した時の症状とそれに対応した治療記録です。千三百件」
そう言われて、改めて手の中の記憶素子を確認する。
今、手の中にある物はツェルニでは殆ど手に入らない情報だ。
そもそも、学園都市で出産することは極めて希だ。
そして、一般人が武芸者を産んで身体を壊すことも、かなり希だ。
つまり、ツェルニ限定ではあるのだが、これ一つでかなりの財産になるのだ。
いや。医療情報というのは、どの都市に行ってもかなりの価値を持つから、全く無駄になると言う事はない。
「レノスを出る時に散々悩んで持ってきたんですが、結果だけを言えば幸運でしたね」
「・・・。ヴォルフシュテインにとってはな」
メイシェンとレイフォンが深い関係になったらしいと言う事は、風の噂に聞いた。
この手の噂は、何時の間にかどこからか流れてくる物だ。
二人の関係をとやかく言うつもりはない。
これが一般都市だったならば、それ程問題はなかった。
だが、学園都市である以上、万が一のことを常に心配しなければならない。
ここには、経験を積んだ産婦人科医はいないのだ。
だが、今、テイルの手の中にある情報記憶素子は、二人に降りかかる危険性をかなり減らしてくれるはずだ。
それは、メイシェンにとってもそうだが、残されるかも知れないレイフォンの方が遙かに大きいだろう。
「大切に使わせてもらう」
例え、グレンダンで問題を起こしたとしても、最終的にはテイル達一般人をレイフォンが守ってくれていたのだ。
恩返しという訳ではないが、それでも何か出来るという事実は大きい。
ツェルニの今の事態を考えれば、それは更に大きい事実だ。
「まあ、学生出産というのは流石にないと思いますが」
ウォリアスはそう言うが、若い二人がどうなるかなんて物は、誰にも分からないのだ。
既にお腹に新しい命が宿っていたとしても、何ら不思議はない。
期待している人達もいると聞くし、世の中色々と大変なのだ。
「それはそうと」
「はい?」
「お前さんは、あれ放っておいて良いのか?」
先ほど現れた、喋る汚染獣の話題を持ち出す。
割り切れるとは思うのだが、気にならないと言ったら嘘になる。
だと言うのに、目の前の武芸者は全く気にした様子がないのだ。
「僕が何をやったって何の役にも立ちませんって。だったら、出来ることをやった方がまだ建設的ですよ。それに、交渉はそれほど困難ではないと思っています」
「なんでそうおもうんだ?」
「相手はおそらく人類を長い間観察し続けてきているはずですし」
「何で、そう思うんだ?」
あれについてウォリアスが知っているという訳ではなさそうだが、それでも、何の予測も立てていないという訳でもなさそうだ。
煙草を取り出しつつ、時間潰し程度の興味で訪ねてみる。
「境界を破る愚かな人とか言っていましたよね?」
「・・。ああ」
あの声は、ツェルニの地表部分にいれば誰でも聞くことが出来ただろうし、浅いところならば地下にいてもそうだっただろう。
生徒会本塔の地下で仕事をしていたウォリアスが、知っていても何ら不思議ではない。
「つまり、人がここに入ってこないように何時も見張っていたと言う事でしょう?」
「ああ。成る程な」
観察と言うよりは、むしろ監視対象として人類を見ていたと言う事だと理解する。
理性と知性があるならば、監視対象についての知識を集めようとするのは当然のことだ。
最終的に、あの汚染獣は人類についてかなり詳しいと言う事となる。
そして、境界線に近付かなければそれで良いという考えである事も、おおよそ予測できる以上、交渉はそれほど困難ではないはずだ。
ツェルニの進行方向に干渉できないので、絶対ではないが。
だが、問題として考えなければならないのは、いざ戦うとなった時の事だと思考を進めて、ついでのように呟く。
「厄介だな」
「まったく。ツェルニの全力じゃ、おそらく倒せない」
レイフォンが強いことは間違いないが、あれに勝てるとは思えない。
いや。天剣授受者の総掛かりだろうと、おそらくあれには勝てない。
ならば、あれを倒せるのはグレンダン女王と言う事となる。
そして残念なことなのだが、ツェルニにはグレンダン女王はいないのだ。
もし、カリアンが汚染獣との接触をしくじれば、間違いなくその日の内に汚染獣のお腹の中で消化されてしまっているだろう。
交渉が成功したとしても、ツェルニが行ってはいけない方向に進んでしまってたら、やはり汚染獣の晩餐となってしまう。
目の前の変人やテイル自身を含めた、ツェルニの全生徒が、絶望すればいいのか、希望を持ち続ければいいのか、さっぱり分からない時間が暫く続くだろう事だけははっきりと分かった。
後書きに代えて。
今回もニーナが少し変わりました。誇りについての見解は、俺の体験や考えが大きく反映されているので、あまり信じない方が宜しいでしょう。
さて、何度かニーナの事をあまり好きではないと書いてきましたが、全く評価していないというわけでもありませんでした。
ただ、改造するにしてもこの辺まで話を持ってこないと機会がなかったために、散々苦汁を舐めて貰ったわけです。
この先は、指揮官としてもう少し自然というかましな事をしてくれると思いますので、ファンの方は期待しつつお待ち下さい。
出番が少ないのはどうしようもないかも知れませんが。
ついでではありますが、終わってしまったロイの人生に弔意を表したいと思います。南無阿弥陀仏。