どれだけ壊れても、この原風景だけは消えないらしい。
―――ノイズ。
朦朧とした意識で、意味もなく手を伸ばした。
助けを求めて手を伸ばしたのではない。
ただ、空が遠いなあ、と。
最後に、そんな事を思っただけ。
―――ノイズ。
その自分の手を、ぼんやりと見つめながら。
救ってくれる、ナツカシイヒトの面影を、待っている。
喪失懐古 / 五
「フォフォフォ。皆にも一応紹介しておこう―――。
新年度から正式に本校の英語科教員となる、ネギ・スプリングフィールド先生じゃ。
ネギ先生には4月から『3-A』を担任してもらう予定じゃ」
おお~、というどよめきと拍手。
三学期、学年終了式。この場で初めてネギ君は公式に麻帆良学園生に認知され、同時に彼が目指すユメへの第一歩を踏み出した事になる。
「というわけで2-Aの皆さん、3年になってからもよろしくお願いしまーす!!」
「よろしくネギ先生――っ」
「先生こっち向いてこっち――っ」
「ほら見てみて~~っ。学年トップのトロフィー!」
「おお~~~っ、みんなネギ先生のおかげだね―――っ」
「ネギ先生がいれば中間テストもトップ確実だ――っ」
ノリにノってみんな騒ぐさわぐ。ネギ君の写真撮影に余念の無い朝倉、学年総合クラス平均成績トップの証明トロフィーを掲げる佐々木。それは良いけど、何故そんな結論に走れるんだ明石、そして鳴滝姉。君らの発言には根拠が無いぞ。
「―――そのとおりですわ先生そして皆さん、万年ビリの2-Aがネギ先生を中心に固い団結でまとまったのが期末の勝因! クラス委員長としても鼻が高いですわ。
今後とも私たちクラス一同よろしくお願いします、ネギ先生」
……まあ、実質の功労者である委員長がああ言うのならば異論を挟むのも無粋ではあるけれども。
何といっても、期末前二日間にかけてクラスの成績を上げるべくカリキュラムを組んだのは委員長と超・葉加瀬の三人、クラスの中心となって纏め上げたのは事実上、委員長一人なのだ。
図書館島深部に落とされ、そこでネギ君と勉強したというバカレンジャー達の成績向上は驚異的ではあっても、それだけで元万年ビリのクラスが学年総合のクラス平均成績トップは奪えない。ならば、クラス“全員の”成績向上が理由となり、バカレンジャー以外の成績が良くなった最大の功績は間違いなく委員長にあるのである。
故に。
「は、はい、こちらこそ」
と答えるネギ君に微妙な視線を投げざるを得ないというか、投げずにはいられないといおうか。……やめよう。不毛な考えだ。
「ハイッ。先生ちょっと意見が!」
「はい、鳴滝さん」
「先生は10歳なのに先生だなんてやっぱり普通じゃないと思います!」
クラスの空気がざわめく。非常に今さらな意見だが確かにその通りなので誰も否定は出来ない。が、何故今それを持ち出すのか。
「えーと……」
「それで文伽と考えたんですけど―――……今日これから全員で『学年トップおめでとうパーティー』やりませんか!?」
関係ない。それはネギ君が十歳である事と何も関係ないぞ鳴滝姉妹。この脈絡の無い話の展開はちょっとついて行くのが難しいので出来れば控えて欲しいのだが、
「おーそりゃいいねえ!」
「やろーやろー!!」
「じゃ、ヒマな人寮の芝生に集合ー」
ごく自然に流れていくのが2-A、いやさ麻帆良クオリティなのか。誰か俺にこの展開についていける技能を授けてくれないものか。
ほら、長谷川なんて何でか頭を机にぶつけてるし。あれ、俺と同じに展開についていけないからだよな。
「―――ん? どーしたんですか長谷川さん、寒気でも……?」
「…………。いえ、別に……」
―――体をプルプル震わせて取り繕っても説得力は皆無だよ、長谷川。素直に鬱憤を晴らしてしまえばいいのに。……いや、やらないよな、やったらそれこそこのクラスの餌食にしか成り得ないから。
「――ちょっとおなかが痛いので帰宅します」
「え……あ、ちょっ……」
ネギ君の制止を振り切り一人引き上げる長谷川。……珍しい。いかにこのクラスと積極的に関わろうとしない長谷川でも、ここまで明確な離脱行為は初めてではなかろうか。
「ああ、千雨さんですか。いつもああですから放っといていいです、ネギ先生」
「それより寮行ってパーティー始めよネギ君!」
綾瀬や椎名が声をかけるが、長谷川の去った教室の扉を見続けるネギ君は心此処にあらず。……ここで下手に追いかけると長谷川も余計強硬になってしまうだろうから、綾瀬の言う事は間違ってない、んだが……分からないだろうな。ネギ君には。
「……さて、となると準備が必要だよな」
振り向くと、丁度委員長と超が俺を手招きしている。
「準備はそのまま調理役、か。具体的にどうする?」
「せっかく寮の近場でやるのですから、そういった事はそちらで済ませてしまえばいいのでは?」
「俺はそれでもいいが、超は?」
「ン、私もそれでOKネ」
「じゃあ、みんな一度寮に帰って、パーティーの準備役と場所を見繕う役で分かれよう」
「あの」
「ん?」
「あら。どうかしましたか、ネギ先生?」
「僕、ちょっと先に行っていいですか?」
「……俺達は構わない。ネギ君の教師としての仕事に融通が効くなら良いんじゃないか」
◆
「……で、そのままどこ行っちゃったんだろうねー」
「私たちより早く来たハズなんだけどなー」
「その内来るだろう。彼は簡単に約束を反故にする子じゃないのだし」
明石達の疑問を打ち消すが、気になるのは俺も同じだった。
何をやっているのか、先に寮に来たはずのネギ君は準備が整ってパーティーが始まってしまっても一向に姿を見せないのである。
「ん。大河内、ジュース要るか」
「あ、はい。ありがとうございます」
「……思うんだけどな。大河内、何で俺にはですます調なんだ」
「そう言えばそうだねー。アキラ始めっからずっとアルトにていねい語使うけど。なんで?」
「え、え?」
「委員長や綾瀬はまだ分かる。誰に対してもそうだからな。あれは二人の教育が良いからなんだろう。でも大河内は他の連中には砕けてるだろう? まあ、それを言うと和泉もだが」
「ふぇ!? そ、それは、えっと……ねぇ、アキラ?」
「……うん」
いや、そこで二人だけ納得されても判らない。
「何ていうか…………年上って言うか、大人? な雰囲気があるから、かな」
「…………それは、俺が老けている、と言う事か」
軽くショックだ。確か精神とは肉体の影響を受けるのだから、今現在外見的に和泉や佐々木と大差ない俺の精神も少なからず引き摺られている筈なのだが。
「ち、違うよ!? ええとホラ、衛宮さんの口調って男性的って言うかそんな感じだし何か困った事があると大抵助けになってくれるしお料理も上手で羨ましいなーっていうかそうじゃなくって、こう、並べてみると年上っぽいトコが多いから!!」
「そうそう!! 敢えて言うなら老けてるんじゃないからお母さんじゃなくってお兄……じゃない!!! 違う、そう、お姉ちゃんっていうカンジ!?」
「うんうん。でもそうじゃないから自然と、尊敬というかそういう意味で敬語って言うかそんなコトになっちゃうんです! ……ね!」
周囲に同意を求める二人。話を振られたクラスメイトは、うーん、まあそう言われると確かに、と概ね理解を示しているようだ。
……と、いう事は。今の二人の評価は、そのままクラスメイト達の評価でもあるという事か。
「……………………、そうか。納得する」
「納得する、ってコトは今は納得していないんだな、衛宮さん」
「あう…………」
「ん? いや、そういう意味じゃないよ」
うん。まあ、精神年齢は確かに上なのだし。
ネギ君が姿を見せたのはその後のコトだった。
何故かバニーガール姿の長谷川を強引に引っ張ってくるあたり、何を考えているのかちょっと良く分からない。長谷川の抵抗が羞恥心から来る物だと想像すらしないのか。
後の展開はお決まりである。今までとの違いは、犠牲者が神楽坂ではなく長谷川であるという事だけか。哀れバニーガールはネギ君の毒牙(魔力暴走)にかかり、その衣装(かわ)を剥かれてしまうのであった。いい加減学ばないのかな、彼は…………。
◇
紆余曲折は経たものの、課せられた試練も無事に乗り越えた子供先生とその生徒達は、終了式の後に束の間の安息、すなわち春休みを迎える。
その過ごし方は人によって違うが、概ね一時の休息を存分に謳歌する事に終始する。無論例外はいるが。
その例外の最右翼が衛宮アルトであり。
今日も今日とて彼女は舞い込む依頼をこなす為に麻帆良学園都市を駆け回っているのだった。
そんな短い春休みの初め、早朝のコトである。
◇
「ああーっ!! いっけない、寝過ごしたー!!」
焦燥感満ち溢れる台詞と共に慌しく身支度を整えるのは神楽坂明日菜である。周知の通り彼女は早朝に新聞配達のアルバイトをしており、それは例え春休み中でも休みになる事はない。
「……んー、アスナ朝ごはんは―――」
「ゴメンこのか、帰ってから食べるから! 行ってきまーす!!」
「あ、気をつけてくださいねアスナさーん!!」
目覚め直後の胡乱な頭でもしっかりと相手を気遣う言葉が出るのは少年の美徳といえるだろう。どたばたと部屋を出て行く同居人の姿を寝ぼけ眼で見送って、欠伸を一つ。
「おかしいなあ。目覚ましの音は聞かんかったと思うんやけど…………」
もう一人の同居人の声に振り返れば、目覚ましを片手に首を傾げるはんなり少女。手に持つ時計を見ると、秒針が動いていないようだ。
「電池が切れちゃったんでしょうか」
「ほうか。試してみよか」
いそいそと常備してある電池を取りに行く近衛木乃香を視界の端に着替えを済ませる。最近ようやく抜け出さずに朝を迎えられるようになってきた布団をたたんでロフトから降りる。その先には、件の目覚まし時計を持って困り顔の木乃香。
「違うみたいや。電池変えても動かんから」
「じゃあ、壊れちゃったんでしょうか」
「んー、かもなぁ。コレ、アスナのお気に入りみたいで今まで大切に使ってたのに」
「ええっ!? じゃあ、壊れちゃったら大変じゃないですか!! 何とか直さないと……」
「? ネギ君、コレ直せるん?」
「え、……いえあの、僕はちょっと出来ません」
「ほうかー。じゃあ、アスナ帰って来たら後でアルトん所に行ってみよか」
「え……、衛宮さんですか?」
なぜ担任の少女の一人、彼女の名が出てくるのか。首をかしげる少年に何も言わず、ほんわか微笑む少女は朝食の準備に取り掛かった。
◆
「別にお気に入りってワケじゃないわよ。単に、長く使ってきたから思い入れはあるってだけで」
「まあええやん。目覚ましは携帯で代用できても、だからいらないってワケでもないんやし」
「それはそうだけどね」
そんなやり取りをしながら寮の廊下を行く二人について行くネギにある疑問はいまだ解決されず、「ま、行ってみれば分かるわよ」とだけ言われてそのままである。朝の八時。明日菜が新聞配達から帰宅してからすぐでは未だ朝早すぎて、この時間まで待ってから出てきたのだ。
―――ピンポーン、と呼び鈴を鳴らして待つ事一分。
「はい、衛宮だが」
そんな、電話にでも出るような言葉で出迎える部屋の主。パリッとノリの効いたワイシャツにジーンズ。奇妙な取り合わせである。
「オハヨ、衛宮さん」
「アルト、早よ~」
「おはようございます、衛宮さん」
対する訪問団は三者三様のあいさつを返す。
「……珍しいな。近衛と神楽坂に、ネギ君か」
実際、珍しい事だ。既に桜咲刹那との関係について相談を持ち込んでいる近衛木乃香はともかく、既に寮内でもブラウニーと名高い衛宮アルトの所に神楽坂明日菜が来る事は今までなかった。
ネギの方はなおさら、そもそも衛宮アルトが寮内、ひいては麻帆良内でそんな評価を受けていると知らなかったのだから。
「アルト、この目覚ましなんだけどな~」
「ああもう、良いわよこのか。あたしの物なんだからあたしからお願いするのがホントでしょ」
「……素直に驚きだ。神楽坂は物持ちが良いと思ってたんだが」
「実際ええよ? 今回のはまあ、年季が入ってるからやないかな」
「ほう。思い出のある品なのか神楽坂」
「そ、そんなんじゃないってば!! 単に、長く使ってたから何となく愛着が湧いちゃっただけで!」
「それをお気に入りって言うと思うんやけど」
「……同意」
「あ、あの~……?」
そしてポンポンと交わされる話に置いてきぼりを食らう少年一人。
◆
取り敢えず玄関(?)で立ち話もなんだ、中に入れ、と促されて入室した三人を待っていたのは、部屋の三分の一を占めるヨクワカラナイモノの山である。
「こ、コレって一体何なんですか衛宮さん?」
「ああ、それは半導体。そっちのは工具入れ。その隣は……不具合のでたミシンだな。下に転がっているのは自転車のライト。奥にあるのは葉加瀬から譲ってもらったセグウェイの電子部品だ。ま、それはいいとして。三人はコーヒーと紅茶、どっちがいい? いや、緑茶も用意はしてあるが」
あ、どうもおかまいなく。咄嗟にそう返しながらも呆然と不理解の山を見つめる。
なんだろう、この混沌。部屋の一角、壁際にくの字を書くように集めて整理してあるから“散らかっている”という印象はないのだが、それが逆に意味不明さと違和感に拍車をかけていた。
「あたしコーヒー。でもいいの、すぐ終わる用件よ?」
「ネギ君は紅茶派、うちはお茶がええけど。バラバラやから手伝おか?」
「いいよ、客人を手伝わせるほどの手間じゃない。それに滅多に人が上がらない部屋だから、たまに引っ張り出して使わないとな。腐らせるのはもったいない」
じゃ、遠慮なく。座り込む二人はあの山は気にならないのだろうか。
「お待たせした。それではモノを見てみよう」
「ハイこれ」
「ほう。かなり古いな……シンプルだが味がある。動かないんだな?」
「うん。昨日は鳴ったんだけど、今朝はもう止まってて、電池入れ替えたりしたんだけど」
「ふむ。無いと朝キツイか?」
「携帯のアラームが使えるから平気、だと思う。多分」
「でもコレ、高畑先生と一緒にいた時から使っててん」
「ちょっと止めてよこのか!!」
「―――ほう。そうか成程。それは大事だ、急いでキチンと直さないとな」
「衛宮さん!! 二人してあたしおちょくって楽しい!?」
「アスナの反応がなー」
「楽しいからおちょくるんじゃないか」
くそう、覚えてなさいよあんた達!! と拳を握る明日菜と笑う二人。一人疎外感に襲われて黄昏る少年一人。手持ち無沙汰なので小さく「いただきます」と呟き紅茶を啜る。
「! おいしい……」
「む、そうか。ありがとう」
「ネギ君は自分で淹れて飲むくらい紅茶好きなんよ」
「ほう。本場イギリス出身のネギ君に気に入られるなら、俺の腕もまんざらじゃなさそうだ」
「僕なんかよりもずっと上手です。凄いなあ、どこでこんなおいしい淹れ方を覚えたんですか?」
――――その問いで、空気が凍った。
否、正確には明日菜と木乃香の二人が凝固した。
それも当然。
それは、いままで三ヶ月、いや、もうすぐ四ヶ月になるか。それだけの付き合いのある二人―――引いてはクラスメイト全員―――が努めて触れないようにして来た話題だ。
転入初日。皆が興味本位で抉った、衛宮アルトの傷口そのもの。
それを、
「……ぬ。あまり思い出したくない過去だから黙秘する。アレは俺の精神衛生上非常に良くない」
真説、苦虫を噛み潰した表情でさらりと流す衛宮アルト。
「はい? えっと、教えられた時厳しかったとか……?」
「ああ。今ちょっと思い出してもぞっとする。いや、厳しかった、って言うレベルじゃないな。アレは指導などではなく、調教だった」
「ちょ、調教…………!?」
「気をつけろネギ君。行き過ぎた拘りは押し付けられた他人を不幸のドン底に突き落とすぞ」
その台詞があまりにも真に迫っているものだから、ネギも真に受けてコクコクと頷いていた。……ていうか、何で泣いてる。
「さて、それではこの目覚ましは預かろう。別の懸案もあるし、バイトも入っているからな。今日の夜までには結果が出るから、……そうだな。七時頃にそちらにお邪魔しよう」
「うん、ありがとう。じゃあ、お礼は……」
「いや、今回は不要だ。なにしろもう貰っているからな。本質から壊れているのでなければ、必ず直すと約束しよう」
「む。ヤな予感するけど、もうもらったお礼って、なに」
「それはもちろん、神楽坂が未だ高畑との思い出をだな」
「ギャ―――!! それ以上言うなバカブラウニー!!」
「ははははは」
◆
「あの~、さっきのアスナさんのバカブラウニーって」
「ん? ああ、アレな。アルトは学生寮のブラウニーって有名なんよ」
「私は今回が初めてだけどね。パソコンとか携帯とかそういう精密機械が壊れたっていうのは無理だけど、単に埃が溜まったとか、ちょっとした故障ならパパパッて直しちゃうのよ衛宮さんって。それに料理も上手でお裁縫も出来て、っていうか家事に関しちゃ何でも出来る。その上頼まれ事は大抵引き受けてくれるから。で、ついたアダ名が麻帆良ブラウニー。
結構有名よ? 放課後は大抵部活動の備品修理してたりするし。何気に職員室の給湯器とかコーヒーメーカーも直した事あるハズだし」
「へえー。凄い人なんですねー」
となると、あのヨクワカラナイモノの山はそういった修理修繕を頼まれた物とか必要な工具とか、そういう物の集まりなんだろう。
ブラウニー、とは西洋の家事お手伝いを家主に隠れて行う妖精の一種だ。隠れてではなく、依頼されて、という差異こそあるが、衛宮アルトがそう呼ばれるのは確かな理由があるからなのだ。
「アルトは何でも出来るからなー。ウチは手品も見せてもらったえ」
「手品ですか?」
「うん。占い研の部室にあるストーブのボタンの接触が悪くなった時な。こう、両手振るだけで制服の袖口からポンポンドライバーやらスパナやら色々出てくるんよ」
…………。明日菜と二人、顔を見合わせる。なんともコメントに困る“手品”だった。
その夜、約束通りに明日菜と木乃香の部屋を訪れた衛宮アルトの手には、
やはり、約束通りに直された目覚まし時計があったとさ。
◇
その数日後。
麻帆良学園本校付属の各部活動用施設を回る三人組の姿があった。
一人は子供先生、ネギ・スプリングフィールド。
あとの二人はその生徒、鳴滝風香と鳴滝史伽の双子姉妹である。
「もうー。なんでああいう案内しかしてくれないんですかー」
「しょーがないだろ、女子校なんだからー」
「次は多分大丈夫ですよ、先生」
ネギは鳴滝姉妹による案内で、2-A生徒が所属している運動系の部活動を回って歩いている最中だった。
赴任して二月が経とうとしているネギだが、それきりの時間で全体像を把握出来るほど麻帆良は狭くない。なので、改めて本校周りを見よう、と繰り出してきたのだが、その案内役であるはずの明日菜と木乃香は学園長に呼び出されてしまい、その役を通りがかりの“さんぽ部”に所属する鳴滝姉妹が請け負ったのだ。
が、この二人、案内する先のチョイスが少々問題だった。
最初の中等部専用総合体育館はまだいい。が、そこで女子更衣室に誘うのは十歳のネギをしてどうかと思う案内だし、その後は室内プールで水着姿の女の子に囲まれ、さらに次のチアリーディング部の練習場所に行けばクラスメイトの柿崎、釘宮、椎名にからかわれる。ネギが怒るのも無理はなかった。
……なので、今度はそれほど“刺激”の少ない場所を案内しようと提案されたのである。
「……ホントに大丈夫ですかー?」
ここまでさんざんからかわれたネギは警戒心丸出しである。
「ホントに大丈夫だってば! まあ、会えるかどうかは分からないけど」
「ちょくちょく顔は出すけど絶対じゃないらしいですからー」
「はあ……?」
何を言っているのかネギにはさっぱり分からない。
最近、こんな場面がなかったか、と記憶をひっくり返すネギが連れて来られたのは、高校や大学と一括されて活動する弓道部の活動場所、弓道場だった。
「お。ナルタキ姉妹じゃないか。今日は衛宮、一緒じゃないのか」
弓道場に近付く三人を目ざとく発見したのは、成熟した女性の体躯を持つ部の纏め役だった。白木綿着に胸当て、袴を履いた姿は確かに今まで回ったクラブとは異なっている。
「こんにちは、主将さん」
「あれ、じゃあやっぱりエミヤン来てないの?」
「ああ。春休みになってからこっち、さっぱり顔を出さないよ」
「……あれ? 衛宮って、衛宮アルトさんのコトですか?」
「? そっちの子は」
「私たちの担任のネギ先生ですー」
「子供先生って、聞いた事ない?」
「あー、そうかこの子が例の! あんた達と衛宮の担任ってこの子かあ!!」
「???」
……事情を飲み込めない子供先生の為に、取り敢えず自己紹介から始まった。
弓道部主将は高階という大学の3年生と名乗った。
「衛宮さん、弓道部なんですか?」
しずな先生からもらった名簿にはそうは書いてなかった筈だけど、と思い出しながら訊いてみると、
「うんにゃ。アイツは確か部活には所属してなかったと思うけど」
「してないよね」
「ねー」
と三人から否定された。
「でも、さっきは衛宮さんが来てないかって……」
「うん。アイツくらい射の上手いヤツはウチの連中にもいないからさ。たまーにふらっと来ては思い出すように射って行くから、来ないのかなーって待ってるんだよ」
「上手いんだよー。エミヤンの部活巡りは皆で行ったり来たりしたんだけどさ、ここでは伝説を作ったんだからー!!」
「ホントに凄いんです。射る矢射る矢ぜーんぶ的の中心から外れないんですから!」
今度は手放しの賞賛である。アイツくらい射の上手いヤツはいない。伝説を作った。的から外れない。
「そんなに凄いのに、弓道部には入ってないんですか」
「……、そうだね。アイツにはアイツなりの考えがあるんだろうからな」
◆
その後、160もある文化部の紹介は控えておやつにする事になった。
学園校舎近くの食堂棟に入った三人を出迎えたのは、
「……これはまた、珍しい取り合わせだな」
丁度アルバイトの最中だった、ついさっき弓道場で話題に上った衛宮アルトだった。ウェイトレスとしてフロアに立っていたアルトは、店の制服なのであろうメイド服を着ている。
「あれ、アルトだ。バイト中ー?」
「こんにちはですー」
「こ、こんにちは」
「――いらっしゃいませ。三名様ですね?」
顔見知り、ましてクラスメイトである為に自然と普段通りの接し方になる鳴滝姉妹。
対するアルトは、型通りの接客対応をしながらも小さく頷く事で鳴滝風香の問いに答えた。
「そ、三人。ねーアルト、今日のオススメなにー?」
「お、お姉ちゃん。そういうの、席についてから訊く事だよー」
「席にご案内しますので、少々お待ちください」
台詞だけでは突き放すような印象を受けるが、苦笑しつつも片手を伏せて“落ち着け”とジェスチャーし、かつさり気なく、素早く店内を見渡し空席を探し出す。
「では、こちらにどうぞ。――今月はマンゴープリンココパルフェが新作で出ていまして……」
笑顔を保って席に誘導していく衛宮アルト。その姿が、ネギには新鮮に映る。
今まで、彼女の笑顔というものを見た事がないからだ。
「……えっと。全くない訳じゃないと思うけど」
確か、数回くらいは見たはずだ。でもそれは、もっとナナメに構えたというか、違う感じの―――
「ネギ先生、何してるのー?」
「置いてかれちゃいますよー」
鳴滝姉妹の声で我に帰る。客やウェイトレスが忙しく行きかう店内で、自分を待つ三人の姿。
「あ、す、すみません――!」
慌てて走り出そうとして、
「―――お客様、他の皆様のご迷惑になりますので、駆け足はご遠慮ください」
「――あ、ハイ、ごめんなさい……」
アルトの注意によって、大きく踏み出した足の速さをセーブする事になった。
◆
「んぇ? アルトが弓道部に入らないワケ?」
浮かんだ疑問は積極的に訊く事が出来るのがネギの美点、長所と言える所だ。
この時も彼は、その疑問をすぐに目前の鳴滝姉妹に向けた。
「う~ん。アルトが入ろうと思わないからじゃないの? 放課後あちこちに動いてるけど」
「聞いた事あります。衛宮さんは部活の備品とか、直して回ってるって。でも衛宮さんもやりたい事があるハズなのに」
「それは違うよー。アルト、やりたくなかったり無理だったりしたらはっきり断るもん。それを引き受けてるのはアルトがやってもいいと思うから、やりたいって思うからじゃないのー?」
「ですよ。最初は部活よりアルバイトがしたいって言ってた位だし、善意っていうより趣味の一環だって言ってましたよー」
「何でですか? あの弓道部の主将さん、えっと、タカシナ? さんなんて、衛宮さん以上に上手い人はいないって言ってましたし」
「さあ? アルトに直接訊いてみたら?」
「だ、ダメですよう。衛宮さん今働いてるんですからー」
「別に今じゃなくてもいいじゃん。結局夜は寮に帰ってるんだからさー」
「――お待たせしました。デラックスデコレートバナナパフェお二つです」
「わ! アリガトアルトー!!」
「うわー! すごーい!」
「ご注文は以上でよろしいですか」
「あ、そーだアルト、アルトの新作はないのー?」
「――――……これ以上食べるというのか、鳴滝姉」
既に四種のスイーツを平らげて、今運んできたパフェで五種類目である。アルトも少々呆れ顔。声こそ潜めたが、訊かずにはいられなかったのだろう。
「だってアルトの考えるメニューもおいしいしー」
「しー」
同調して対抗する姉妹。……小さく首を振った衛宮アルトは、黙って広げられたままにされていたメニューの一角を指し示した。
「……ブルーベリーのティラミス。じゃ、コレ一つ!」
「二つ!」
「……畏まりました。少々お待ちください」
呆れ顔を引っ込めて粛々と注文を取り去っていくウェイトレスの鏡。
「……お店の新しいメニューまで作るんだ…………」
何気に垣間見える衛宮アルトの多才っぷりに驚く少年がここに一人。
◆
「俺の射が見たい?」
と、ネギ君がアルトに突撃したのはその日の夜。
何の作業をしていたのか。今度はツナギ姿で顔を出したアルトに向かって開口一番に自分の要求を突きつけたのだ。
「何故にまた唐突な」
「えっと、今日風香さんと史伽さんに運動部を案内してもらったんですけど、弓道部で衛宮さんの射がとても上手だって聞いたので……」
「ああ成程。だから食堂棟にも鳴滝姉妹と一緒に来たのか」
「はい。……えっと、いいでしょうか」
「見るだけなら別に構わないけど。確かに最近近寄ってないしな。明後日は大丈夫?」
「あ、はい。僕も明日はいいんちょさんのおうちに行かないといけないので……」
「……ツッコミ所だけど別にいいか。じゃあ、明後日の昼一時。高階部長には俺から話を通しておこう。それでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
「ん。じゃあ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
◇
「ところでネギ君。君は弓道のルールって知ってるのか?」
「えっと、分かりません……」
そうだった。射を見せてくれと頼んだのは自分なのだから、せめてそれなりの予習はしておくべきだった、と早々に後悔する子供先生。
翌々日の昼、約束の時間まであと三十分。それだけの余裕がありながら二人は既に弓道場に来ていた。
折角来るのだからついでに備品の方も見てよ、と高階主将に依頼され、その為に早く来たのが衛宮アルト。
一方、約束の時間まで待ちきれずに勇んで飛んできたのがネギ・スプリングフィールドである。
「では、まずはそっちから説明しようか。
―――弓道っていうのは、日本発祥の武道の中で……いや、恐らく世界中から見ても、唯一“相手のいない”武道だ。ここでは近的競技として、この射場から二十八メートル先にある、直径三十六センチメートルの的を狙って矢を放つ。
和弓を用いて矢を射て、的に中てる。その一連の所作を通して心身の鍛錬をするのが目的だ。
矢の射ち方には決まりがある。射法八節、と呼ばれる、動作を八つに分けたアクション、弓矢を持って射を行う場合の“射術の法則”を忠実に守って射る事が求められる。
一に下半身の構え、足踏み。
二に上半身の構え、胴造り。
三に弓矢の持ち方、弓構え。
四に弓を持ち上げ、打起し。
五に弦を引き絞る、引分け。
六、構えの完成形、会。
七に矢を放ち射る、離れ。
最後に八、射の姿勢を元に戻す、残心。
正射必中、という言葉があるが、コレが弓道において求められる境地の一つだ。
的に当てる事を求めるのではなく、誠心誠意を尽くして発せられる矢が結果として的に中たる事を求める。その競技精神から、自然と的に当てる事よりも射る時の八節の型の方が重視されるようになったんだ。実際、大会の採点方法次第では的の的中率よりも型の正確性の方が重要視される。
以上。ここまで何か質問は?」
「えっと、アーチェリーとどう違うんですか?」
「む。そう大した違いは、はっきり言ってない。一番の違いは道具だな。アーチェリーは基本、スタビライザーや照準器を使えるが、弓道はそれらを一切使わない事くらいか。技術面やルールで細かな違いはあるが、道具以外は似たような物だと思って良い」
へえぇ、と感心しているらしい声をあげるネギ。
対するアルトは既に弓道の稽古着に着替えており、胸当て、弓懸け(弦を引く右手に着用するグローブ)も付けて準備万端である。ちなみに道具は全て借り物。稽古着は部室に仕舞われていたお古(但し時折アルトが使用するので高階主将が空きロッカーに置いている)だし、弓懸けも主将お古。しかし鹿の皮を使った本格使用の一品。弓なんぞは竹と木を張り合わせる一級の竹弓である。何気にアルトが信用されている事が伺える。もっとも、アルト自身は恐縮しきりなのだが。
「じゃあ一度説明しながら射とう」
「はい。お願いします」
◆
――――射法八節。
足踏み、
的に向かい、両足を踏み開く。
的中への軌道を鑑定し、
胴造り、
上体を安静に置く。
必中の意思を昇華する。
弓構え、
矢を番え、弓の握りを確かに。
正射の工程を複製し、
打起し、
弓矢を上に持ち上げ。
修練の精神に共感し、
引分け、
弓を押し弦を引き、左右に開きつつ引き下ろす。
至誠の想念を再現し、
会。
全動作の静止、我が専心は必中の事象にのみ向けられる。
あらゆる幻想を自身で複製。
離れ、
解放。定められた目的(原因)は定められた過程を経て、
全ての工程が想定を凌駕するならば、
――――残心。
結果は見る間でもなく、当然の帰結へ至る。
この射は、必中の事象を現す――――
◆
そう、結果など見る間でもない。衛宮アルトの射とはそういうモノだ。
己の自意識のみならず、周囲の者達にすら伝播する精神統一。
本来は聞こえるであろう、大気を切り裂く鋭い擦過音すら意識できず。
彼らの意識を覚ますのは、的中を告げる衝突音。
「…………」
呑まれてしまった者は動けない。
それが、初見の者であればなおさらである。
射場の支配者はそんな周囲など気にも留めない。今この瞬間、衛宮アルトにとって有象無象は瑣末であり、意識するまでも無い雑事に過ぎない。
この場に立ったのなら、彼の射手の存在意義は只一つ。
故に。その存在を証明する為に、射手は次の矢を握る。
◆
「……ん、――――君、―――ギ君、おーい、ネギ君?」
「……はい? え、あ。あれ?」
気がつけば、目前にいる衛宮アルトに左肩を揺さぶられていた。
「あれ、えっと、僕……」
「射ち終えてみれば呆然として。ちゃんと見てたか?」
見ていた? 慌てて弓道場の奥、衛宮アルトの狙っていた的を見やる。―――間違いない。二重に描かれた黒い丸の中に、合計八本の矢が寄り添うように突き立っている。記憶を探れば、確かにアルトが射を行う様子が思い出せる。の、だが―――どうにも現実感がない。まるで夢うつつに漂っていたような感覚である。
「あっと、見てました。見てましたけど、ちょっと現実感が無くて」
「分かる。分かるよネギ君。安心しなさい。初めて衛宮の射を見るヤツぁ大抵そうなるから」
「……ちょっと待て高階主将。それは、俺の射が何かアブナイモノみたいじゃないか」
「そうは言わないけどね。何かこう、引き込まれるって言うか引き摺られるって言うか。アンタ本気で異世界作り上げるからねー」
「…………」
幸か不幸か。ネギはその与えられた衝撃を理解できてはいなかった。
ただ。
ただ何となく、“凄い”コトだけは痛感出来た。
「―――凄いです。もうホント凄いんですね衛宮さん!! なんて言っていいのか分かりませんけどとにかくとっても凄かったです!!」
「!? ええー、あーっと。…………ありが、とう?」
いきなり猛然と褒めちぎってくるネギに驚愕するアルト。クツクツと肩を震わせる高階主将。
そして、
「こんなに凄いのに、何で弓道部に入らないんですか!?」
その二人を凍結させる言葉を、吐いてしまうネギ。
「――――俺の弓道は邪弓だからな。見据えているモノ、踏む工程が別モノではそれは弓道とは呼ばない。だから入らない。それだけだよ」
身を離して、道具の片付けに取り掛かる。ネギに背を向けた姿は明確に拒絶の空気を放つが、その理由が少年には判らない。
あちゃあ、と手で顔を覆う女子大生。
「ジャキュウ、ですか? そんな、あんなにキレイな射じゃないですか!!」
そう。キレイなのだ。彼女の射は。その直前と寸分違わず同じ動き、同じ流れ、同じ時間経過。精密機械ともいえるその所作は、しかし驚嘆すら通り越して畏怖を与えるレベルといえる。
―――キレイなモノには魔が宿る。ならば、その射は―――
「だからこそ、だよ。俺の射には、真っ当な弓道を名乗れる要素は存在しない」
アルトの言葉は、ネギには理解不能な単語の羅列だ。……いや、あるいは。
「? ……勿体無いですよ。こんなに上手なら、それこそ大きな大会に出ても絶対勝てる位なんでしょう?」
子供特有の思い込みの強さが、彼の思うカタチにする為に―――
「―――ん~……。まあ、確かに大会に出れば敵無しだろうけど」
煮え切らない態度で、それでも肯定はしてみせる高階主将。その言葉に力を得て、「なら!」とさらに言い募って、
「――――煩いぞ餓鬼が。お前は、何様の心算で俺に口を出すんだ」
……混じり気のない敵意と憎悪で、否応なく蓋をさせられた。
「――――あ……」
ぞくん、と全身が竦む。
喉奥から吐き気がこみ上げる。
何か、
トテモヨクナイモノが、きちきちと音を立てて―――
「ストーップ衛宮。相手はまだ子供だよ?」
第三者に遮られた。
気がつけば、自分が痛くなるほどの力で杖を握り締めている。
いつも着ているスーツの内側、ワイシャツがじっとりと汗で濡れて不快だ。
さして運動をしていないはずなのに、呼吸が浅くて苦しい。
それでも。
「……こ、子供じゃありません。僕は衛宮さんの担任の先生です!」
そうだ。この一点は譲れない。
先生として頑張る。
これは、立派な魔法使いになる為に、必ず通らなくてはいけない場所なのだから。
―――だが、それは。
「……黙れ。たかが十年も生きていない未熟者が、俺の価値観(みち)に口を出すな」
衛宮アルトに比べれば、あまりに浅く薄い虚飾に過ぎない。
◆
そうして。衛宮アルトは立ち去った。
更衣室に入る前から稽古着を引き千切るような乱暴さで脱ぎ散らかさんばかりの勢いは、つまり、それだけ腹に据えかねるモノがあったのだろう。
前述のとおり、この弓道場でアルトが使用する道具、着衣は全て借り物。だからこそ、今まであんなに乱暴な取り扱いをした事は一度もない。
溜息をついて振り返る。
精一杯の虚勢すら加減なく打ち砕かれた少年は、呆然と俯いたまま動かない。
―――あれ、私ってば今思いっきり損な役?
……まあ、これくらいの愚痴は許されてもいいはずだ。
もう一度だけ溜息をついて、この場で(外見的には)一番成熟した大人として、取り残された少年に語りかける。
「……何で衛宮にあんなコト言っちゃったの? いくら先生相手でもさ、誰だって譲れないものはあるんだよ」
「…………でも……だって……衛宮さん、凄く上手だって…………だから……もったいない……って」
ああもう。とんだ貧乏くじだよ覚えてろ馬鹿衛宮。
コレは少年も重症だ。涙こそ流れていないが、初めて真正面から自分を全否定されたのだ。そりゃあ何かがポッキリ折れちゃっても仕方ないってモノである。
…………まあ。そこに自分から突貫かました辺り、もう少し年齢が上ならフォローの余地なく自業自得で済ませるのだが。
「それはキミの価値観。衛宮は衛宮の価値観を持っていて、その価値観で弓道部には入らないって決めたんだ。それを覆せって言うなら、それは衛宮の価値観、衛宮自身を否定する事なんだから、そりゃあ怒るってもんだよ」
「…………。わかりません。おかしいですよ。なんでみんなが凄いって認めるものを、衛宮さんは認めないんですか」
「それは、アレだ。弓道のコトを知らない人と知ってる人の差かも知れないな」
少年が顔を上げる。
「衛宮の射はさ、異常なんだよ。多分、スタート地点が私達と違うんだ。
私達は雑多な雑念をはらって唯一つに集中する境地を目指す。今この瞬間の、あれやこれやと色んな横道に逸れ易い思考を、たった一つの、矢を射る、ってコトだけに集中させる。でもそれが成功したかどうかは、的への的中と型の正確性でしか判らない。
衛宮は違う。多分、アイツは始めっからその場所に立っている。私達が一生懸命這い上がる先に最初からいて、その場所に立っている事を再確認する為だけに弓を握る。
……でも、だからこそアイツの射は“弓道”じゃないんだよ。その到達点へ至る為の道こそが“弓道”なら、アイツはとっくにその道を踏破してる。いや、実際にそこを歩んだかどうかも判らない。
―――ここまで言えば分かるでしょ、私達と衛宮の違い。憶測の積み重ねだけどさ、だから衛宮は弓道部に入らないんだよ。“弓道”をやっていない、って意味で邪弓って呼ぶんだろうしね。……衛宮にとって弓道っていうのは特別だから」
特別だから、そうではない自分が入るべきではないと考えたのだ。
「――――――――」
故に、少年が口を出せる類の話ではない。
それは、少年の原初に類似する事柄だ。
少年が魔法界の英雄に憧れるように。
少女は、弓道に一種の信仰を懐いているのだ。
◆
一方その頃。
「――――自己嫌悪だ。
子供相手に何を熱くなっている、未熟者め」
呟きながら、自分の額を拳で殴りつけるネガティブスパイラルが発生していた。
◆
その日。
少年は、自らの迂愚と矮小さを思い知る。