第九十三話【眠姫】
「何故貴方がここにいるのかしら?」
苛立ちを含み、敵意を隠さない声でルイズは声を発した。
「お久しぶりですわ、ミス・ヴァリエール」
ルイズの刺々しい声色にも物怖じせず、シエスタはニッコリと微笑む。
ウィンプフェンに言われ、すぐにもサイトに会いたい感情を断腸の思いで我慢し、さっさと会ってさっさとオサラバしようと足を運んだアンリエッタからの特使とは、学院の“メイドだった”少女、シエスタだった。
既にサイトと引き離されて十分以上が経過しようとしている。
そんな禁サイト欲を圧せられている中だからこそ、サイトとの邂逅が未だ見えない状況でここに“サイトの残り香”があるのが彼女を苛立たせた。
サイトの匂いに罪は無い。
むしろサイトの匂いを嗅いだ鼻腔は体全体にその匂いを巡廻させ微量なサイト分として補給される。
問題なのは“何故シエスタの居るここにサイトの残り香があるのか”という疑問。
「ミス・ヴァリエール、私達はとても仲良くなれると、そう思いませんか?私は思います。そう、この戦争が終わる頃にはきっと」
だがシエスタはそんなルイズの質問に答える気は無いのか、はぐらかすように問いを問いで返した。
結局、シエスタは「言いたかったのはそれだけです」とそれ以上語らなかった。
ただその作ったような微笑みが、酷くルイズを不快にさせた。
***
サイトはルイズと入れ違うようにシエスタの場を離れ、ウィンプフェンの所に連れてこられた。
情勢から鑑みて、本当は早くルイズと合流したいところだったが、総司令官が戦死し、自分に重大な話があるとまで言われては、無視するわけにもいかない。
「降服も撤退も認めない」
ウィンプフェンからの通達。
それは殿役の命令だった。
いや、正確には全ての撤退準備が整い、撤退するまでの間は降服も撤退も認めないというものであって、殿役という名目ではない。
ただ、それは言葉の上に殿と出ないだけであって、殿として死ねと言っているも同義だった。
それがわからぬほどサイトは馬鹿でも道化でも無く、義理も無い。
即座に断ろうと、最悪無視しようかとそう思った。
ウィンプフェンから“その言葉”を聞くまでは。
「このままでは我々は逃げられない。そうなれば死ぬのは我々だけではない。“ミス・ヴァリエールとて命を落とすことになる”が」
「っ!?」
ルイズの名前にサイトの体が強ばる。
「当然だろう? 逃げられなければ我々は全滅だ。私とて犠牲無くして逃げられるのならそうする。が、現状それは不可能なのだ。情勢が、敵の応援部隊がそれを許してくれそうにもない」
サイトの体が震える。
ここで断れば、たくさんの人間が死ぬ。
そのたくさんの中には……ルイズが含まれる。
それだけで、先程即断しようと思った心が揺れる。
なんていう卑怯者。
その他大勢の死にはほとんど無関心なのに、親しい人のこととなるとすぐに決断できない。
名前も知らぬ人の事は見捨てられるのに、そうでない人は見捨てられない。
ましてやその対象が、好きな人ならばそれも一入だった。
人一人の命の重みなどそう変わらない筈なのに、サイトはどうしても“たくさん”の中に“ルイズ”の名前があるだけで即断できない。
ウィンプフェンは、目の前の体を震わせ悩んでいる少年に対してもさほど良い感情を持っていなかった。
いや、それを言えばこの戦争で前線に出ている者で、この少年や虚無の少女に好印象を持っているやつなど極少数と言って良い。
安全を約束されたような戦いで大きな手柄を立てて帰ってくる。
危ない仕事はしない。
それが、前線兵を含めたウィンプフェンのこの二人に対する認識だった。
無論、安全と言っても戦争である以上確約された安全は無いし、実際に手柄を立てるのはそれなりの力が必要な事もわかっている。
あの“鉄の竜”を駆る技術はこの少年にしか無いし、伝説の使い魔というだけあって腕も立つのは知っている。
それでも、数多くの兵が犠牲になって、出来るかどうかわからない足止めをするのと、この“つまはじき者”を足止めにするのでは、消費される数が違う。
人が生活を営んでいくには数多くの人が必要になる。
たとえ戦争が終わっても、生き残ったのが少数では国は疲弊してから立ち直るのに時間がかかる。
そうした場合、司令官に求められるのはいかに被害を小さくして利を得るかだった。
さらにウィンプフェンの本音を言えば、多くの兵を失ってそれらの家族や周りからのやっかみをもらうことを思えば、一人の平民を犠牲にした方が遥かに心象が良い。
部隊内であまり良い印象が無い者を切り捨てた方が後々もウィンプフェンとしては楽だという思惑があった。
それは感情論によるものであるが、客観的な現状分析から言っても、それがベストだとウィンプフェンの脳は言っていた。
汚いと言われようと、どれだけこの手を汚そうと、ウィンプフェンは亡きポワチエの為に被害を最小限に抑えての撤退を完了させたかった。
だから、
「このままでは彼女も死ぬ」
彼は、
「ミス・ヴァリエールは死ぬ」
その唇に、
「君がやらなければ」
多くの、
「彼女が救われる事はない」
責言を、
「やってくれるね……? 『ミスタ・ヒラガ』」
乗せる。
「俺は、俺は──────────────────」
サイトの言葉に、ウィンプフェンは口端を歪めた。
***
「サイト!!」
ようやくとルイズはサイトと再会出来た。
すぐに彼の腕にしがみつき、今日はもう離さないとばかりに力を込めた。
「………………」
「……サイト?」
だが、サイトからの反応は無い。
いや、一拍間があってから抱きしめられた。
それは、普段恥ずかしがるサイトにしては珍しく、誰憚る事のない力一杯の抱擁だった。
「……ルイズ」
ルイズの耳朶にサイトの声が、吐かれる息が触れる。
それはとてもとても深い声で。
サイトの中に居たルイズは思わず腰が砕けてしまった。
それほどまでに甘美でいて快感を伴うサイトの甘い吐息。
耳朶を振動させる声が、それを加速度的に快感へと変換する。
「ルイズ……ッ」
今までに無い、サイトから無限とも感じられる求愛を感じる。
ああ、ああ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
なんて、なんてッ!!なんて素晴らしいんだろう!?
サイトから無限に求められる。
これ以上の幸せなど、この世界に存在しない。
ルイズは一瞬意識が飛ぶんじゃないかと思えるほどの快感に支配され、喜びに満ちあふれた。
理由などいらない。
サイトが自分を求めて抱きすくめている、それだけが事実。
それ以外の事実など取るに足らない些事。
背中に回されていたサイトの手が、ゆっくりと上ってルイズの桃色の髪触れる。
ふんわりとしたしなやかな髪にサイトの手が埋もれ、ややサイトが体を離して……また近づいてくる。
サイトの顔が離れたと思ったらまた接近してくる。
ルイズにそれを拒む意志は微塵もない。
理由などいらない。
サイトに求められている。
それが全て。
ゆっくりと二人の距離が、顔が近づき……唇を合わせ、ゼロになる。
……。
…………。
………………ゴクン。
「!?」
ルイズがその鳶色の目を見開く。
今、口移しで何かを飲まされた。
思い出したくない過去が脳裏を駆けめぐる。
まさか、まさか、まさか……!?
何故? どうして?どうやって……!?
疑問と焦りがルイズの中で暴れ回る。
が、すぐにその焦躁は消える事になった。
「……どうし……サイ……」
力なくルイズの手がサイトのパーカーから落ちる。
……ルイズの意識と共に。
「……ごめんなルイズ」
眠ったルイズを抱きしめながら、サイトは涙を零す。
ポツリポツリと、ルイズの頬をそれが濡らしていく。
「ごめんな、か。ふぅん」
「!? ……誰だお前?」
そこに、ギーシュとは違う金髪の、気障ったらしい少年が居た。
瞳が左右で違う、いわゆる月目の美形少年だ。
「やあ、君とは一度会ってるんだけど君は気付いてなかったみたいだし、はじめましてと言っておこうか。僕はジュリオ、ジュリオ・チェザーレ」
ジュリオと名乗った少年は体のあちこちに怪我を負っているようで、要所要所に包帯を巻いていた。
「君、サイトだっけ? “彼女”を眠らせてどうする気だい?」
「……こうでもしないとルイズは俺が行くところにはついてきちゃうからな」
サイトのややぼかすような言い方で、ジュリオは納得した。
それにこうなるだろう大方の予想は付いていた。
「それじゃ彼女は……」
「ああ、置いていく」
「悲しまれるんじゃないのかい?」
「……まあ、な。きっとすっげー泣かれる。でも、こうしなきゃいけないんだ。俺はこうしないとその先へはきっといけない」
「……? よくわからないな、君も逃げちゃえばいいじゃないか。死ぬのが恐いんだろ?そんなに震えているじゃないか。なのに何でそうしなきゃいけないんだい?」
言われて気付く。
サイトはルイズを抱きしめながら震えていた。
心の底から震え上がっていた。
でも、逃げるつもりは無かった。
「それは……ここで逃げたら、きっと俺は“ルイズの中の俺”を越えられないからさ」
***
サイトはジュリオにルイズを託し、一人地平線から見える軍勢を見つめていた。
ジュリオは完全には納得しなかったものの、ルイズを安全なところへ、という頼みは聞いてくれた。
『相棒よぉ、本当にこれでいいのかよ?』
背中に背負う剣……デルフが、自分から鞘を抜け出て語りだす。
「ああ、いいんだ。なんか、足止めの話をされたときピンと来るものがあったんだ。きっと、“前の俺はここで死んだ”。命をかけてルイズを護ったんだって。ハハッ、そりゃ命をかけた相手にはそうそう勝てねーわな。さっきは“助言”助かったよデルフ。俺は最初、“そのへんの酒でもかっぱらって乾杯しよう”って切り出すつもりだったから。確かに、もしそれが前の俺と同じ行動ならバレるとこだった。あ~もっとちゃんとルイズから前の俺のこと聞いとくんだったかな」
『へっ、“同じだったら”じゃなくて“まんま”じゃねーか。それに昔のお前さんの話は相棒が比べられそうで聞きたくないって娘っ子に言ったんだぜ?』
「あ?まぁ、そうだけど……ん?」
───────何か、今“会話”の中に違和感を感じた。
『しっかし同じ道を歩むたぁ相棒も物好きだなおい』
「物好きっていうより、ただ負けたくないんだ。ルイズの中に居続ける俺に」
『そういうもんかね』
「ああ、悪いなデルフ。付き合わせて」
『俺様はデルフリンガー様だぜ? ガンダールヴの居るところになら何処にでもついていくさ。“また”こうなっちまった以上、今度娘っ子に会った時に溶かされないよう祈るだけなこった……でもよ相棒』
「うん?」
『……今なら、まだ間に合うかもしれないぜ? ここで逃げちまうのは弱さじゃねぇぞ?』
思い出される友人……いや親友の「間違えるなよ」という台詞。
この場合、ルイズもろとも死ぬのが正解なのか、はたまた今の自分の行動が正解なのか、それはわからないが後悔はしていない。
だから……、
「ありがとうデルフ。最後に、お前と一緒でよかった」
『チッ、結局心変わりは無しか。ああわかったよ、“また”付き合ってやるさ。ふんばれよ、相棒』
スラリと片手でサイトはデルフを引き抜く。
地平線からは数え切れぬほど軍勢が所狭しと蟻の大群のように押し寄せてきている。
「……好きだよ、ルイズ」
───────一人の少年が、この舞台に再び駆け出した。