第七十二話【五感】
彼女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの朝はサイトから始まる。
そうでなくてはならない。
そうでなくてはおかしい。
「……ん……う、ん……」
もぞもぞと細い腕を伸ばしてさわさわと彼を触り、幸福感を充足させる。
彼女がサイトに触れる主な理由は彼をより感じこうして幸福感を得る為で、ただ彼がそこにいるかどうかなどを知りたいのであれば、彼女は触れずともある程度近くに居ればそれを理解することが出来る。
それは使い魔とか主人とかそんなチャチなものでは断じてない。
もっと感度の良い、彼女だけが持つサイトセンサーの片鱗が、それを可能たらしめ……最近益々その性能を上げている。
それでも彼女が彼にこうして触れるのには、もう一つ重要な理由がある。
それは彼がそこにいるのを触覚でも確かめ、彼を存分に感じ、それらから分泌される“目には見えない成分”を補充する為であった。
その成分は栄養並にやっかいで、ほうっておけばどんどん減っていき、自己生成は出来ない。
『サイト分』
彼女はそれを存分に補給しなければとても正気でいられなかった。
いや、それを補給しなければならない時点で、正気では無いのかもしれない。
とにもかくにも、彼女は一日の要所要所で特にサイトと居る事を望み、サイト分の補給吸収を重要視している時間帯がいくつかあった。
朝もその一つである。
「ん……るいずぅ……すぅ、すぅ……」
「……!!」
サイトは意外に寝言が多い……と言っても普段は唸るような声やむにゃむにゃと言ったどれも“言葉”としてはさほど認識されないものが大半であるが。
だが、サイトは今日のように時々人の名前を呼ぶことがあった。
だいたい週に1~2回は何か名詞を口走っていて、うち確率的に三割くらいはルイズの名前だった。
決して確率的に高くは無いが、他の寝言の内容はほとんど統一性が無く、三割もの確率を誇るワードは無い事からルイズはそれに満足していた。
彼の声はどんなものであろうと美声である。
彼女の耳奥に入り込んで、春のせせらぎよりも彼女を癒してくれる。
今日は朝からサイトが自身を呼ぶ声を聞けたので良いことがありそうだとルイズは幸福に満ち足りていた。
未だ起き抜けの彼女は目を閉じたまま、スンスンと鼻を彼の首に持って行く。
彼のうなじですぅっと鼻で息を吸うと一緒に鼻から彼の匂いが吸収される。
これは鼻から補給できる大変貴重なサイト分だった。
彼の匂いはいつもルイズの胸を高鳴らせてくれる。
彼の濃厚な匂いを嗅いだルイズは頬を緩ませ彼の胸に鼻をこすりつけながらここでようやくとゆっくり瞼を開いた。
振動と鼓動が頬を通して伝わり、視界が小さく上下して彼の呼吸間隔がわかる。
ルイズはそれに合わせて自分も呼吸を整えて行き、ピッタリと合わせた。
「……サイトと同じ呼吸……ふふっ」
彼と同じだという何者にも代え難い幸福感。
頭を上げるとぐいっとサイトの顔に近づき、視界一杯に彼の顔を納める。
小さく静かに呼吸するサイトの唇が僅かに開いては閉じる。
ゾクゾクとルイズは背中を震わせながら、ルイズは再び彼の首に鼻を近づけ……通り過ぎて唇を当てた。
ペロリと舐めると、少しサイトがくすぐったそうに動く。
これがなかなか面白く、さらに満たされるというのだから止められない。
舌先にはクックベリーパイの味など及びもつかない味わいと、どんな瑞々しい果物も勝てない食感がある。
「……ん、サイト」
恍惚とした表情でルイズはサイトを抱きしめ、再び目を閉じる。
ただし今度は眠るのでは無い。
いまだ浅いであろう眠りにいる彼に、ただ引っ付いている幸せを享受する。
ルイズは毎朝毎晩これをやらないと落ち着かない。
髪の毛の先から足のつま先まで彼女は体全体でサイトを感じるのだ。
彼女にとって体……感覚器官である五感とは生活を営む為にあるもの……ではない。
触覚……でサイトの肌を感じ、
聴覚……でサイトの声を堪能し、
嗅覚……でサイトの匂いを満喫し、
視覚……でサイトの容姿を焼き付け、
味覚……でサイトの体の味をあじわう。
五感とは、全てサイトを感じる為の器官に外ならない。
「サイトォ♪」
実家といえど今朝もルイズは絶好調だった。
***
るったるったる~ん♪
そんな擬音が聞こえてきそうな程軽やかなステップで歩く初老に差し掛かる半歩手前くらいの男性が居た。
その歩きは既にスキップとも呼べる程嬉しそうに軽やかだ。
頭はサラッサラの金砂の髪を肩まで伸ばし、左目にはモノクルを付け、髪と同じ色の髭を鼻下に少し伸ばして子供のように歩くその様は、とても威厳があるようには見えない。
だが、彼こそこの屋敷と広大な領地の主にして、この屋敷の三姉妹の父、流布こそされていないもののトリステインにその人有りと恐れられた“烈風”の夫、ラ・ヴァリエール公爵その人だった。
「フッフッフ、今日は私の小さなルイズが帰って来ている日だったな。どれだけこの日を待っていたことか。学院に行ってから変な虫が付きやしないかと冷や冷やしていたが……」
公爵は足を止める。
目の前にはルイズの部屋があった。
「さぞ寂しい思いをしてたことだろう、私の小さなルイズ、父が寂しがりやなお前を慰めに来てやったぞ」
まずは紳士らしくノック。
コンコン。
「………………」
コンコンコンコン。
「………………………………」
コンコンコンコンコンコン!!!!!!!!
「………………………………………………」
公爵は段々顔に苛立ちを含み、背中には汗を流し始めていた。
ノックの音は回を増す事に多くうるさくなっている。
何故娘が出てこないのだ?
まさか、まさかまさか!?
反抗期!? それとも部屋ではルイズがカトレアのように何か病気で苦しんでいるのでは!?
公爵の頭に嫌な考えばかりが浮かび……突然ニヤけた。
(わかった、わかったぞ!!)
そう、公爵は自分なりの解答を生み出したのだ。
その解答とは、
「私の小さなルイズめ、お前の寝起きが悪いことは昔からわかっておる。だがこれだけノックをされて起きないということもあるまい。中から何も音がしないことから……」
公爵はフフフ、と不敵に笑いモノクルをキラリと光らせ真実のルイズはいつも一人とばかりに、
「寝たふりをして私が来るのを待っておるな!! うむ間違いない!!」
自信満々にその解答に辿り着いた。
それが間違いだなどとは露程も思わない。
「全くいくつになっても父離れできん娘だな、わっはっは」
頬を緩ませ公爵は戸に手をかける。
鍵は……開いていた。
「しょうがないルイズだ、どれ、私が添い寝してやろうではないか」
既に威厳も何も無い公爵は、かつて王宮でモットを相手に話していた時とは別人のようだった。
いそいそと娘のベッドに近づき……首を傾げた。
「ぬ……ルイズ?」
そこはもぬけの殻だった。
ここで眠っていた形跡も無い。
公爵は部屋を飛び出した。
その表情はさっきとは打って変わり父親の表情となっている。
娘は寝起きが悪い。
このような朝早くにはめったに起きない。
可能性があるとすれば……誘拐か!?
「ぬぅぅぅぅぅぅぅ!! 私の小さなルイズを誘拐するなど、何処の不届き者だ!! 打ち首にして一ヶ月は晒してくれる!!」
公爵は急ぎ足を進め……こっくりこっくりと通路で首を上下させ、もとい器用に立ったまま眠っている妻を見つけた。
「カリーヌ!! こんなところで何をしておるのだ!?」
「……ふぇ? あ、あらあなた、もう帰ってらしたのね。お昼になると聞いていたのだけど。もう、私に会いたくて急いで来たのね? いけない人♪」
「そんなことを言っている場合では無い!! ルイズが部屋におらんぞ!! あの子が朝に弱いことはお前も知っていよう!! 誘拐されたのではないか!?」
公爵は慌てる。
娘の一大事かもしれないのだ。
だが、彼は娘の事を“父親”として心配する余り、妻への配慮が欠けていた。
……そんなことをすればどうなるか知っていた筈なのに。
「あなた……?」
桃色の長い髪をゆらゆらと揺らし、目を細め、瞳の奥にギラリと肉食獣のような輝きを灯して、カリーヌは口を開く。
「“そんなこと”とはどういうことですか? 今私と会う事が“そんなこと”と言いましたね?」
「……へ? あ、ああいやそんなつもりでは……」
公爵はここでようやく自分の失言に気付くが時既に遅し。
「それに帰って来て私より先にあの子の所に行ったのですか? そうなのですか? 私も子供は大事です、それでもまさか私より先に娘の寝室に行こうとは……!!」
「い、いや落ち着けカリーヌ!! あの子は昔のお前に良く似ているだろう? それでだな……」
「つまり私のようなオバサンはもういらないと?」
「ち、違うぞカリーヌ、それは違う!!」
「それに、二人の時の呼び名は“ああ”してっていつも言っているのに……」
「!! ……悪かったよ、“カリン”」
優しげな笑みで、公爵は申し訳なさそうに彼女をそう愛称で呼ぶ。
「あ、あなた……」
ほわほわした空気が辺りを包む。
公爵がその雰囲気に押され両の腕でカリーヌ……いやカリンを抱きしめようとしたところで、
「さて、それじゃあの子を早く探しましょ」
ぱっと気持ちを切り替えたカリーヌが子供のような口調でスタスタと歩いて行ってしまった。
公爵は空気を掻き抱き……しばし心の涙を流すのだった。
***
「ところでカリー……カリン、何故あんな所で寝ていたんだ?」
公爵は、妻と二人きりの時、彼女の前でのみ、若かりし日の言葉使いで会話する。
それが、カリンはお気に入りだった。
「ルイズがね、自分の使い魔と離れたがらなくて。その使い魔と同室で寝ようとしていたから諫めたのだけど、どうにも素直過ぎたからきっと夜中にこっそり忍び込むつもりだろうと思って見張っていたの」
相手がそうなると、カリンもまた、他人にも娘達にも見せない、生娘のような口調になる。
彼女たちはお互いだけで居る時のみ、色褪せる事の無い、月日の経過を思わせない二人になる。
「使い魔? どんな使い魔なんだ?」
「男よ、人間の。それも平民」
「……………………NANI?」
「オ・ト・コ。それも平民」
「何かの冗談か?」
「いいえ、私も驚いたけど……ってまさかあの子」
「? ……お、おい!! お前見張っていたんだろう!? ルイズがその使い魔の所に行ける筈無いよな?」
「ちゃんと起きていたつもりだけど……念のため見に行こうかしら」
「そ、そうか。そうだな。飽くまで念のためだが。まぁ私の小さなルイズがそんな何処の馬の骨とも知れん男にいでででででで!? 痛い!! 悪かったカリン!! “私達の”小さなルイズ!! そうだな?」
「そうよ」
不満そうなカリンは一つの客室の前で足を止めた。
「この部屋か?」
「ええ」
ゴクリと二人は息を呑み、ゆっくりと扉を開ける。
公爵はどうかルイズは居ませんようにとブリミルに祈りながら部屋を覗くのだが……どうやら彼の信仰対象はその信仰に報いてくれなかったらしい。
もし彼が祈る対象がブリミルでなくブリ■ミルだったなら違う結末があっただろうか。
だが、今更そんなIFの仮定話は意味が無い。
何故なら二人が見た物は、嬉しそうにサイトにすり付く“下着姿の愛娘”だったのだから。
「あら」
カリーヌは意外そうな顔をし、少ない驚きを見せている。
公爵は……、
「あ、お、お、お、お……おおおおおおお!? ルイズが、私、いや私達のルイズが男と!? おおおおおおお男と!?」
見た物が信じられず、取り乱し、
「BU、BUCHIKOROSeeeeeEEEEE!!!!!!!」
もはやおかしな殺意を込めて叫んでいた。