第六十一話【抜殻】
窓から太陽の日が差し、ハルケギニア大陸が一国、トリステイン王国の魔法学院にも朝を告げる。
差した日は明るく部屋内を照らし、天蓋の付いたベッドに腰掛ける少女の顔を照らした。
少女は桃色の髪を元気なく垂れ下げて微動だにせず、ただ虚空だけを見つめ、さながらその様は、まるで“抜け殻”と呼ぶのに相応しい。
その鷲色の瞳の下には黒い隈が出来ていて、彼女が殆ど眠っていないことが窺える。
よく見れば、彼女の頬は若干痩せこけてもいた。
それも無理の無い話だった。
彼女は元々よく食事を摂る方では無かった。
“目の前のとある事象”、すなわち“ある人物の食事する様”を見るだけで胸もお腹も一杯になって普段からそんなに食事を多く摂っていない体であるのに、既にもう三日はまともに食事を摂っていない。
それでも、彼女の身なりが一応の水準を保っているのは、
……コンコン。
「……入るわよ」
返事を待たずにして入室してきた隣室の同級生である彼女、褐色肌に長く情熱的な赤髪のキュルケのおかげだった。
「おはようルイズ」
声をかけてもルイズは返事もしない。
彼女はただベッドに座ってずっと壁……虚空を見つめていた。
生きる気力など微塵も感じられず、ただ無気力に時が流れることに身を任せ、“死”を待っているかのようでさえあった。
「ほら、今日こそはちゃんとご飯食べない?」
初日から似たようなやり取りをしているが、ルイズはあの日からまだまともに自分から行動……いや思考するということすらしていない。
あの日、あのラグドリアン湖の一件があってから、彼女と彼女の使い魔の関係は明らかにおかしかった。
釈然としないまま学院へと戻った後、ルイズの使い魔に何があったのか問い詰めてみると、
『あいつは、俺を俺じゃない俺……“別人”と重ねて見ていたんだ。俺がそいつに“似ていた”から。でも俺はそいつじゃない。俺はそいつのことも知らない。だから、“お前が見てるのは俺じゃない”って言ったんだ』
それから早三日。
ルイズの使い魔は一度も主人の元には戻っていない。
いや、どうにも学院にすらいないらしい。
今のルイズを見て、張り合いの無くなったつまらない相手だと思う一方、少なくとも一年以上共に過ごした友人としてどうにか元気に戻って欲しいと思う気持ちがある。
その気持ちから彼女が“こう”なった原因であるような彼に怨み言の一つでも言いたくなるが、彼の気持ちもわからないでもない。
真偽の程はともかく、彼は彼女の好意が別人というフィルターを通してのものだと知ったと言っている。
キュルケの目から見て、彼はきっとルイズに惹かれていただろう。
だからこそ、その事実は辛い。
無論事実なら、という枕詞が付くが、キュルケにも思い当たる節が無いワケでは無かった。
ルイズは、一言で言えば異常だった。
その情熱的な愛は羨ましく思える一方、突然すぎた。
彼女とは一年時を一緒に過ごしたが、彼女はやや高飛車なところがあって扱いにくい少女だった。
無論自分とてその点はあるが、彼女は富に殿方に一歩引くという性格では無かった。
ところが、彼女が彼を召喚して以降、彼女は人が変わったように彼を溺愛していた。
その時は羨むほどの灼熱の愛を手に入れたんだと思ったものだが、こうなってから鑑みれば、それは確かにおかしな、妙な出来事でもあったのだ。
そう思うと彼を責める気にもなれず、かと言ってもう友人と言っても差し支えない彼女を放っても置けず、キュルケは毎日無反応の友人の面倒を見る、というやや鬱屈した日々を送るハメになっていた。
だが、ルイズは悲しいまでに手がかからない。
よく言えば為されるがままだが、悪く言えば自分からは一切合切何もしないのだ。
それは食事や湯浴みでさえも。
毎晩湯浴みこそ無理矢理連れて行っているキュルケだが、食事はどうしようも無かった。
置いておいても食べないし、無理矢理口に押し込んでも咀嚼しない。
怒ってもぼうっと虚空を見つめているのみで、こちらに意識すら割こうとしていない。
水程度なら水差しで無理矢理飲ませられるが、精々それが今できる限界だった。
見れば彼女はあの日からほぼ眠ってもいないことを目下の隈が物語っている。
そろそろ睡眠薬か魔法で強制的にでも眠らせるべきか、とキュルケは思案していた。
そんな時だった。
「失礼、こちらがヴァリエール公爵家が三女のご令嬢、ルイズ殿のお部屋だろうか」
一人の女性が部屋を尋ねてきた。
キュルケには見たことも無い女性で、それが恐らく学院関係者では無い事を悟らせた。
「どなたかしら?」
「友人がいたか。これは重ねて失礼。私はこの度アンリエッタ姫殿下により建設された“銃士隊”の隊長、アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランと言う。以降お見知りおきを。アンリエッタ姫殿下の命によりルイズ殿にお目通りを願いたいのだが」
アニエスと名乗ったやや年配の女性(二十歳前半、だろうか)は、鎧を身に纏い、剣を腰から下げ、銃もいくつかぶら下げていた。
スレンダーボディの女性のようでありながら、それを難なく着こなしているあたり、相当な人物なのだろう。
だがはて?
“銃士隊”などという隊がこのトリステインにあっただろうか。
「首を傾げるのも無理は無い。銃士隊はほぼ平民出身者で形成されている上まだ建設されて日が浅い。一般への情報の流浪はまだ時間がかかるだろう。しかしながら私は正真正銘姫殿下の命により参った次第。これを見て頂ければわかるかと思う」
そう言ってアニエスが取り出したのは、確かに王宮の印がある羊皮紙だった。
それは確かな証拠ではあるが、得体の知れない人物に違いは無い。
そんな人物に今のルイズを見せても良い物かと迷ったが、
「おや? ルイズ殿は何かあったのか?」
既に部屋に入ってこられている時点で、それが遅い杞憂だと気付く。
アニエスはルイズの様子を見て、若干訝しがるものの、すぐにこれも任務だと開き直り、
「お初にお目にかかります、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール殿。アニエス・シュヴァリエ・ド・ミランと申します。姫殿下の命により、貴方をお迎えに上がりました。何でも、信用の置ける者のみを早急に集めたいそうなのです」
相手は公爵家の令嬢とあって、いくら年長とはいえアニエスはルイズに頭を垂れる。
しかし、ルイズは反応しない。
「無駄よ。今ちょっとあって彼女ここ三日くらいずっとそうなの」
キュルケが肩を竦めて見せると、
「ではやむをえん。このままお連れしよう」
アニエスは無理矢理、しかし丁寧にルイズを担いだ。
華奢に見えるが、これだけの重装備でケロリとしているあたり、かなり鍛えられていることが窺える。
「なっ!? ちょっと!?」
「学院長に姫殿下からの書状は提出してある。それでは失礼する」
有無を言わさずアニエスは出て行き、ただ為されるがまま、ルイズは振られながら連れて行かれる。
キュルケはそのアニエスの勢いに、呆然としながら見送るしかなかった。
***
「美味い……ってか懐かしい味がするなこれ」
サイトは、渡された取り皿にどんどん目の前の鍋の中身を入れていく。
「そうですか? これは私の生まれたこの村の名物『ヨシェナヴェ』って料理なんですけど、気に入って頂けて良かったです」
ニッコリと笑う艶のある短めの漆黒の髪の少女、シエスタは微笑む。
三日前、サイトは学院内を一人でうろついていた。
どうしていいのかわからず、かといってルイズには頼りたくないし、あの部屋に戻りたくもない。
そうしていると“偶然”学院付きのメイド、シエスタに呼び止められた。
シエスタの「どうしたんですか?」という質問に、サイトはどう説明していいかもわからず、幾分悩んでからとりあえず無難にルイズと喧嘩した、と答えをはぐらかした。
故にサイトはこの時、シエスタの表情をよく見ていなかった。
この時のシエスタの表情を、もしその言葉の意味を知る者が居たならこう呼んでいただろう。
目と口が、三日月になっていた、と。
丁度学院から休暇を貰って帰郷の予定があったシエスタは、これも何かの縁とサイトを帰郷に誘った。
サイトはしばし悩んだものの、このまま学院には居づらいのとシエスタが妙にしつこく誘ってくるのもあって頷き、シエスタの故郷、タルブ村のシエスタの家にお邪魔していた。
「小さな村ですけど、食べ物も空気も美味しいし、いいところなんですよ、ここは」
シエスタは自慢気に胸を張る。
ポヨンポヨヨンとたわわな胸が揺れて目のやり場にも困る。
ルイズには一生出来そうに無い真似だな、そう思ってから自己嫌悪する。
また、気がつけば彼女の事を考えていた。
そんなサイトの心境を敏感に感じ取ったのか、シエスタはサイトの手を急に握りしめた。
「サイトさん、サイトさんさえ良かったらずっとここに居ても良いんですよ?そうしたら、その、私も学院を辞めてこっちで一緒に……」
「っ!! シ、シエスタ、まだその冗談引っ張ってるのか……?」
シエスタの態度の急変に、サイトは焦りを感じる。
どうにも、タルブの村に来てからこっち、彼女ははっちゃけている……というより恥じらいが感じられない。
良くも悪くも積極的過ぎる。
それが、少し必死なルイズと被って、また自己嫌悪した。
先ほども、シエスタは自分の両親の前でサイトは凄い人だと散々褒めちぎった後、サイトさんになら嫁いでもいいなぁなどと言って、両親をややその気にさせていた。
今日連れて行かれた寺院にあった、“シエスタの曾祖父が残した物と文字”がわかったのも原因の一旦ではあるだろう。
寺院にあったのは驚くべきことに第二次世界大戦中に使われていたと思われる“ゼロ戦”だった。
残念ながらガス欠で飛べなかったが、固定化の魔法によって、一切衰えることなく時を越えたかのようにそれは新品同然でそこにあった。
日本の学者やミリタリーマニアが知ったら泣いて喜び欲しがるに違い無い。
ちなみに、そのゼロ戦の横には石碑があり、『佐々木武雄異界ニ眠ル』と書かれていた。
この文字を読める人間にこれを譲ると言い残していたらしく、縁起を担いだシエスタの両親はサイトの事を気に入ってしまっていたのだ。
ちなみに後でシエスタに何故あんな事を言ったのか問い詰めると、以前また明日という約束したのに、いなくなっていたからその仕返しだ、と言われた。
その時シエスタが持っていた皿にヒビが入ったように見えたのは見間違いだと思いたい。
その件については、この国の姫の頼みごとだったことを打ち明けたが、関係ありません、約束不履行は約束不履行です、と可愛らしく逃げられてしまった。
約束不履行、それでサイトはまたもルイズとの毎晩の契約更新を思い出してしまう。
しばらく、していなかったから契約不履行分として……そんな会話をしたのはもうどれだけ前のことだったのか。
まだそんなに日は経っていないはずだが、もうずっと前のことのような気さえする。
サイトはやんわりとシエスタの手を振りほどくと、散歩に行って来ると言い一人で家を出た。
いろいろ、一人で考えたかったのだ。
これからのこと、ルイズのこと、自分のこと。
サイトは一人、ゼロ戦のある場所で優しくゼロ戦を撫でながら、故郷に思いを馳せる。
もし、この佐々木武雄という人と同じように、自分もここから帰れなかったらこちらで暮らす覚悟を決めなくてはならないのだろうか。
そうなった時、自分の居るべき場所は……。
サイトが悩み、一瞬、何故か桃色の髪が浮かび上がった瞬間、
「おや? 君は確か、サイト君、でしたかな? いやはや、ここに伝説の竜の羽衣なるものがあると聞いて来たのですが、どうしてこちらに?」
見たことのある、学院の教諭がそこに居た。