第五十六話【悪魔】
ルイズは自室を勢いよく出ると、不安を胸に宿しながら走り回っていた。
彼には前科がある。
いや正確に言えば彼が何かしたのではなくされたのだが。
しかしルイズにとってはどちらかというとそっちの方が問題だった。
また誰かにつかまって酷い目に合っていないか、怪我をしていないか、大変なことになっていないか、不安で小さな胸が気持ち程度膨らむくらいに張り詰めていた。
実際には走り過ぎによる肺運動激化に伴う胸の上下運動によってそう見えるだけなのだがそこはたいした問題ではない。
彼女は文字通り学院を東奔西走する。
サイトがいないか、四方八方へと足を向ける。
彼女の中の不安は膨らむ一方で、サイト分は減っていく一方である。
だが彼女は足を止めない。
もう数時間は歩き、走り回りながら聞き込みをしていた。
と、クンクン。
サイトの残り香を感じ……眉間に皺を寄せた。
正確には“女の匂い”に混じって僅かにサイト臭がするのだ。
ルイズは匂いのする方へ足を急がせた。
匂いはずんずん近づいていく。
見れば、テラスのテーブル付きの椅子に座るブラウンのマントを纏う少女から、サイトの匂いがするではないか。
「ちょっと貴方!!」
ルイズは掴みかからん勢いで少女、ケティに詰め寄る。
「貴方から私のサイトの匂いがするわ!! サイトを何処へやったの!?」
まるで犯人は貴方ねと言わんばかりにルイズはケティに詰問した。
「へ……? ああ、ミス・ヴァリエール。使い魔さんですか? 今朝はただちょっとお話を聞いただけですけど」
「話? 貴方がサイトに一体何の用があるというの? まさかサイトの趣味とか好みとか性癖とか聞き出したの!? どうなの!? 死ぬの!?」
ルイズは目をギラギラ光らせてケティにこれでもかと血走った目で近づく。
近い、顔がめちゃくちゃ近い。
「ひぃ!? い、いえ私は別に使い魔さんにはそんな……」
「じゃあ何? 何を聞いたっての!? 言ってごらんなさい!! 事と次第によっては……」
そこまで言ってルイズの瞳の光が、少しずつ失われていき……、
「そ、そんなこと言われても……好きな「好き!?」ひぇっ!?」
ルイズが身を乗り出しケティの肩を鷲づかみにする。
「きゃあ!?」
「貴方、サイトに気があるのね? そうなのね? 誘惑したのね? 命いらないのね?」
「そ、そんな!? ち、違います!! 私そんなんじゃ……!!」
ケティはガクガク震えながら涙目で訴える。
「じゃあサイトは何処にいるの!?」
ルイズはよっぽど余裕が無いのか、彼女の肩を離さない。
「え……? さぁ、ギーシュ様とトリスタニアへ行くって言ってすぐにいなくなられてしまいましたし、今頃はトリスタニアではないでしょうか」
「ギーシュ!? トリスタニアですって!?」
ルイズはそれだけ聞き出すともう用は無いとケティを離し、一直線に馬小屋まで駆け出した。
ケティは突然のルイズの奇行に先ほどまでの恐怖も忘れ、ポカンとしながらルイズを見送る。
ルイズは今までの疲れなどなんのその。
ようやっと得られたサイトの情報に胸を躍らせるとともに不安を滾らせる。
ギーシュと一緒、それはルイズにとって最悪の事態に直結しかねない。
サイトの貞操……それを護れるのはもはや自分しかいないのだ。
何せそれをもらうのは自分のつもりだし、ついでに自分のを捧げるのはサイト以外選択肢すら無い。
だが、ルイズが馬小屋について知ったことは……絶望だった。
珍しいことに馬が全頭貸し出し中。
まずめったに無い事態。
たまたま大口の貸し出しが数回あって、まだ馬が帰りきっていないのだとか。
ルイズはサイト達を追う手段を奪われた。
これは由々しき事態である。
まるで運命という名のキューピットがサイトとギーシュをくっつけようとしているようではないか。
そんなの認めない。
キューピットは自分とサイトだけに微笑んでいれば良いのだとルイズは怒る。
頭の中にこないだ想像した二人の世界と薔薇がよぎり、歯を噛み締める。
そんな、そんなことがあってはならない!!
そうルイズが思った時、
彼女は自然に……そう自分でもわからないほど自然に、手に持っていた“始祖の祈祷書”を開いていた。
指には、すでにアンリエッタより賜った水のルビーが嵌っている。
かつて、前世でのデルフリンガーに言われたことがあった。
『必要になったら内容が読めるようになる』
彼女の扱う魔法は今まで全て爆発を伴ってきた。
前世でも、彼女は最初にこの始祖の祈祷書を開いて、大きな爆発の呪文を唱えた。
始祖の祈祷書が光り輝く。
「──、──、──」
唇が、勝手にルーンを口ずさんでいく。
だが今の彼女に必要なのはそんな爆発などでは無い。
今の彼女に必要にして、今後も彼女にとっては絶対必要になるであろう魔法は、一つだった。
かつてこれほど集中してルーンを唱えたことがあっただろうかというほど、ルイズは集中してルーンを口ずさみ、
「私は、サイトの元へ行くの」
ルイズがそう呟いた時、彼女の姿は既にそこには無かった。
***
「いやぁ助かったよギーシュ」
「なに、このくらいは構わないさ」
サイトは、トリスタニアでギーシュに案内を頼みながら目的地で目的のものを手に入れていた。
その為に彼は財布の中の虎の子の一枚、福沢諭吉を失ったが、所詮ここではそんなに使い道は無い。
財布は閑古鳥が鳴く程スカスカになってしまったが、もともとこの世界では自分のお金は使えないのだから持っていても仕方が無いしサイトに後悔は無い。
「俺の用事はこれで終わりだけど、ギーシュは他に何処か行く予定とかあるのか?」
「僕かい? うぅん、予定はあまり無いね、強いて言えば言ってみたい場所はあるが、酒場だから昼間にやっているかはわからないし」
「酒場?」
「“魅惑の妖精亭”って言ってね、まぁ簡単に言うと可愛い衣装を着た女の子達がお酌をしてくれる酒場さ」
「それってキャバクラじゃん!! お前、まだ未成年だろ?」
「“きゃばくら”? 君が言う“きゃばくら”がどんなとこかは良く知らないけど別にいやらしい所じゃないらしい。まぁ眼福ではあるらしいけど」
それを聞いたサイトがじとりとした横目でギーシュを見る。
「ギーシュって普段は割と真面目だけどさぁ、そういうところ結構エロい趣味あんだな」
「な、何を言うんだ? 僕はただごく普通の一般男子がそうであるという話をしたわけで、別に僕がそうというわけではだね……そうだ、だいたい君はその辺の興味はどうなんだい?」
「え? 俺?」
ギーシュは突然のサイトの攻撃に慌て、矛先をサイトに向け返す。
「話によるとかなり巨乳の看板娘もいると聞く。君こそ興味津々なんじゃないのかい?」
「きょ、巨乳? いや俺は……」
サイトは頭の中で何故かメロンを思い浮かべた。
「何でも時々女の子によってはチップ次第でお触りOKだとか」
「お、お触り? ……それって……」
サイトは、自分の世界であった古いネタ、殿様が侍従の女に「良いではないか良いではないか」と迫るエロシーンを思い出した。
あの続きは規制の為に見られなかったのが未だに悔やまれる。
「おや? 鼻の下が伸びているんじゃないのかいサイト?」
サイトは一瞬息を呑んで鼻を押さえる。
もはや本当にいやらしいお店じゃないのか、などとは言わない。
彼とて夢を追い続ける少年であり、全て遠き理想郷に興味ある一介の少年なのだ。
ギーシュがどこまで本気なのかしらないが、まぁこの世界にも“そういったお店がある”という事を知ったサイトは、それ相応に興味を持つ。
今は無理でも、万一元の世界に帰れなかった時、大人になってから寄ってみてもいいかなぁ、とか。
「えっとギーシュ、なんて言ったっけそのお店?」
「ん? 興味が出てきたのかいサイト? 全く君だって同じ穴の狢じゃないか」
ギーシュはほっと一安心すると、少し底意地の悪そうな笑みを浮かべながらサイトの首に腕を回し、顔を近づけさせる。
普段あまり悪ノリしないギーシュが、それなりに悪ノリしてきたことにサイトは若干驚きながらも、それだけ親しくなったんだと思いニシシと笑みを浮かべた。
「僕らが望む理想郷、その名は“魅惑の妖精亭”さ!!」
「へぇ、魅惑の妖精亭か!!」
サイトもギーシュの首に腕を回し、二人でスクラムを組むように横に並んで歩く。
「ああ、僕らがもう少し大人になったら是非一度は行ってみたい場所だね。一緒にどうだいサイト?」
「おう? いいのか?」
「フッフッフッ、僕ら既に同士じゃないか!!」
「そうか、同士か、ハハッ、そうだな!!」
実に楽しそうに笑いながら歩く二人。
それは……彼らぐらいの仲が良い少年同士なら普通に行うスキンシップであるのだが……、
──────────ズンッ!!
足音。
それは体重など感じさせず、質量も無いとわかりながらも、音を響かせるには十分。
だが、和気藹々としている二人はもちろん、王都で一番広いといえど人がごった返している通りでは、その音に気を取られる者など皆無。
黒い、真っ黒なドス黒いオーラが立ち上る。
通りを歩く人の何割か、“彼女”の傍にいる人達は彼女の異質さに気付き、そそくさと離れていく。
中には「そこの可愛い嬢ちゃん」などと声をかける者もいたが、傍に寄った瞬間彼は通りの敷石と濃厚な接吻をしていた。
彼が目を覚ましたのは半日ほど過ぎてからだったという。
──────────ズンッ!!
静かなる足音は次第に肩を組み合う二人の少年に寄っていく。
それはゆっくりじわじわとした緩慢な動きなのに、この人垣の中、異常な程早いスピードだった。
“彼女”にやられ目を覚ました彼は後にこう言う。
黒いオーラを纏った、長い桃色の髪の悪魔に会ったと。
立ち上る黒いオーラ、その中に、
──────────ゆらゆらと、長い……長い桃色の髪が風に揺られていた。